・・・加減乗除・・・イイ加減にしろ・・・乗って除く・・・嘉元(1303年八月五日~1306年十二月十四日・後二条天皇の年号)・下限(数量枠の最低限)・下弦(下弦の月)・寡言(多言の逆意)・・・こんな溝(どぶ)臭いモンは「嗅げん」・・・
ーー以下、ウイッキペデアより参考参照抜粋、少々改作・・・
嘉元(かげん)
乾元の後、徳治の前
乾元二年八月五日改元
天変(彗星・日照)の
凶事、凶兆を避けるため改元
1303年~1306年
(ユリウス暦
1303年9月16日
~
1307年1月18日)
後二条天皇の期間の年号
鎌倉幕府将軍は久明親王
執権は北条師時
ー
嘉元の乱
鎌倉時代
嘉元三年(1305年)
四月二十二日~五月二日の
鎌倉幕府内の騒乱
北条宗方の乱とも
越訴頭人の
北条宗方らが
連署の・・・・・連署は執権に次ぐ役位
北条時村を討つ
宗方は
執権の
北条師時の館で殺される
ー↑
霜月騒動(しもつきそうどう)
鎌倉時代後期の
弘安八年十一月十七日
(1285年12月14日)
鎌倉幕府の政変
八代執権
北条時宗の死後
ーー↓
「橘守部」は
蒙古襲来は朝廷潰しを意図する北条氏と蒙古が結託して行った自作自演であると仮定して時宗を弾劾・・・守部がかような荒唐無稽な珍説を提唱した背景には、守部の本居宣長に対する反感・・・?・・・
橘守部(たちばな もりべ)
天明元年四月八日(1781年5月1日)
~
嘉永二年五月二十四日(1849年7月13日)
江戸時代後期の国学者
伊勢国朝明郡小向村(朝日町)の庄屋の家に生まれた
通称は飯田元輔・源助
号は池庵・椎本・生薬園
父の飯田元親は
国学者
谷川士清の門人
守部自身は独学で国学を研究
本居宣長を痛烈に批判し、
「古事記」よりも
「日本書紀」を重んじた・・・・?・・・
神話の伝説的な部分と
史実の部分の区分の必要性を説く
晩年は江戸に住んで
肥前国・・・・西海道に属し、
佐賀県と長崎(壱岐・対馬を除く)
にあたる。肥州
火国、後の肥国の分割で七世紀末に成立
肥後国が「続日本紀」に初めて見える
持統天皇十年(696年)までに、
肥前国と肥後国との分割があった
「肥前国風土記」は、全国で五つだけの、
ほぼ完全な形で残る
「風土記」の1つ
室町時代末期にポルトガル、スペインの
宣教師が相次いで来訪
天正少年使節団を出す
↓
豊臣政権時代の肥前の大名
寺沢広高=上松浦郡八万三千石
1600年(関ヶ原の戦い後、唐津藩)
鍋島直茂(主君は龍造寺政家)
松浦鎮信
大村喜前
有馬晴信
五島純玄
豊臣秀吉九州平定後にも本領安堵
江戸時代の藩としても存続
波多親は一旦は本領を安堵されたが、
その後秀吉の不興を買い、
1593年に所領没収
「秦(はた)」氏
平戸藩主・・・・長崎・平戸・出島
松浦氏の知遇を得
「死後安心論」にも関心・・・天国、極楽?
守部独自の国学の説は、
武蔵国北部から
上野国にかけての
機業家などに・・・機織(はたおり)
養蚕(ヨウサン)・桑葉・扶桑
絹(きぬ・布)
綿(わた・棉)・腸(わた)
秦の河勝・・・デキスギデス・・・
↓
秦氏・姓は造・秦丹照、秦国勝の子
冠位は「大花上」
渡来人集団・祖先は秦の始皇帝・・・
聖徳太子の側近として活躍した・・・
↓
本名は厩戸(うまやど・うまやと)
別名は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)
上宮王(かみつみやおう)
上宮太子聖徳皇
厩戸豊聰八耳皇子
「古事記・和銅五年・712年」では
上宮之厩戸豊聡耳命
「日本書紀・養老四年・720年」では
厩戸皇子
豊耳聡聖徳
豊聡耳法大王
法主王
東宮聖徳と記録
「聖徳太子」の記録は
天平勝宝三年(751年)の
「懐風藻」が初出
↓
秦氏は、
平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わった
聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り
広隆寺を建てそれを安置
610年
新羅の使節を迎える任
644年
駿河国富士川周辺で、
大生部多(おおふべのおお)の
「常世神」を崇める集団(宗教)を、
河勝が追討
赤穂の坂越で死没
坂越浦に面して
秦河勝を祭神とした大避神社が鎮座
神域の
生島には秦河勝の墓
本拠地とした京都市右京区
太秦(うずまさ)や、
墓のある大阪府寝屋川市太秦にその名を残す
かつて
川勝寺とよばれる寺があり、
近隣には
「秦河勝終焉之地」の碑がある
この地域は明治の初めまで
川勝寺村(せんじょうじむら)と呼ばた
秦氏の後裔は戦国大名の
土佐国の長宗我部氏
幕臣川勝氏も河勝の子孫を称す
金春流
「大和ノ長谷川党」・・・と
金春禅竹が「明宿集」で記録
長谷川党は大和の
国衆
十市氏を刀禰とする武士団で
薩摩国の島津氏の系譜と密接な関係がある
河勝は猿楽の祖でもあり、
能楽の
観阿弥
世阿弥親子も河勝の子孫を称した
東儀家は河勝の子孫である
・・・らしい・・・?
厩・・・・ク·キュウ・キウ・うまや・まら
厩=厂(がけ・カン・ガン)
+
既(すでに・キ・ケ)
がけ、すでに、キ、ケ
↓
厩戸・・・木戸
豊聰・・・豊臣
八耳・・・八字・野次・埜字
皇子・・・みこ・ミコ
視拠・みどころ・見処・見所
ーーー↓橘守部は
門人を広げた
著書
「神風問答・伊勢物語箋・待門雑記・山彦冊子・稜威道別
稜威言別・神代直語・難古事記伝・湖月抄別記」
などがある。
ーー↓北条時宗
幕末
尊王攘夷の中
北条時宗に対する礼賛は高まる
明治時代
元寇受難者への追贈で
時宗にも
従一位が追贈
湯地丈雄によって元寇記念碑が設立
太平洋戦争の皇国史観で時宗に関する評価があがった
戦後
モンゴルの使節を殺害して対日交渉を決裂させ、
徹底した抗戦の姿勢を
国際情勢の無知とし、非難が起こった・・・?・・・この時代、戦わずして、どうする・・・
ーー↓嘉元の乱
有力御家人
安達泰盛と
内管領
平頼綱の対立
平頼綱に
安達泰盛とその一族・与党が滅ぼされた
弘安合戦、
安達泰盛の乱、
秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱とも
源頼朝没後に繰り返された
北条氏と有力御家人との間の最後の抗争
この騒動の結果、
幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅
平頼綱率いる
得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立
・・・ようは、この事件はハッキリしない「曖昧な事件」であるが・・・明治初期の「事件」と重なる・・・「佐賀の乱」・・・
ー
嘉元百首(嘉元仙洞御百首)
嘉元元年秋~冬(1303年秋~冬)
鎌倉時代の宝治期以降、
勅撰和歌集の撰定に際して、
その資料とするために当代の人々から
百首和歌を召すことが慣例
詠進時の年号により
宝治百首などと称される
冷泉家
「時雨」亭文庫には
「嘉元百首」以下、
その詠者による詠進当時の原本が伝存
嘉元百首は
「新後撰和歌集」の撰定に際して
後宇多上皇が召した百首
正安四年(1302)六月に
百首詠進の命が下り、
翌
嘉元元年(1303)十二月の
「新後撰集」奏覧までに詠進
写本等により
二七名の百首
勅撰集の詞書等により
三名の詠歌が知られ、
実際の出詠者は
三〇名余と考えられている
冷泉家時雨亭文庫
内大臣一条内実
左中将二条為藤の二名の百首の原本
「冬日詠百首應 製和謌」(内実)
「冬日侍 太上皇仙洞同詠百首・應 製倭歌」(為藤)
本文
春二十首(十四題)
夏十首(八題)
秋二十首(十五題)
冬十首(八題)
恋二十首(九題)
雑二十首(十六題)
各一首を上句・下句の
二行に分けて書いている
内実の百首の中に一箇所後筆の押紙で
「続千載」とあるほかは書き入れ等はなく、
内実の巻末には
墨付のない
一紙まで当初のままに存している・・・?・・・漢白・巻白・刊白・・・関白・・・
関白太政大臣の事件・・・豊臣秀吉・豊臣秀次(羽柴秀次)・・・豊臣秀吉の姉(とも・瑞竜院日秀・日秀)の子で、秀吉の養子。通称、「孫七郎」・・・永禄十一年(1568年)~文禄四年七月十五日(1595年8月20日)・・・?
ーー↓
織田信長の北近江浅井攻めに際し、宮部継潤の養子
信長四国攻で
阿波国の三好康長に養子・・・三好信吉と名乗る
天正十(1582年)六月
信長の死後、秀吉の縁者として重用
天正十一年(1583年)
賤ヶ岳の戦いで武功
天正十二年(1584年)
小牧・長久手の戦いで徳川家康軍に惨敗
天正十三年(1585年)
紀伊雑賀攻めで千石堀城を落し
近江国蒲生郡八幡山城(近江八幡市)43万石
領内の統治で善政
近江八幡には「水争い裁きの像」が残る
天正十四年(1586年)
十一月
豊臣の本姓を秀吉から授与
天正十八年(1590年)の小田原征伐で、
山中城攻撃で城を半日で陥落させた
改易された
織田信雄の旧領である
尾張国・伊勢国北部五郡、百万石の大領を与えられた
天正十九年(1591年)奥州に出兵
葛西大崎一揆及び九戸政実の乱を鎮圧
天正十九年(1591年)八月
秀吉の嫡男・鶴松が死去後
十一月に秀吉の養子
十二月に関白就任
文禄二年(1593年)
秀吉に実子・秀頼が生まれ
文禄四年(1595年)
七月八日
秀吉に高野山に追放され、出家
出家した元の関白=禅閤となり、
豊禅閤〈ほうぜんこう〉
七月十五日に切腹を命じられ
青巌寺・柳の間で切腹
享年二十八
辞世の句
「磯かげの・・・記掛解之
松の・・・・・真通之
あらしや・・・亜等詞埜
友ちどり・・・渡摸知怒理
いきて・・・・意記出
なくねの・・・名句音之
すみ・・・・・素視
にしの・・・・似史之
浦」・・・・・裏
八月二日(9月5日)
秀次の首は秀吉によって
京都の三条河原に曝され
三条河原において、
秀次の家族及び女人らも処刑
遺児(四男一女)
側室・侍女(三十九名)
十一番目に処刑されたのは・・・伊達政宗の従妹、駒姫(こまひめ、天正七年(1581年)~文禄四年八月二日(1595年9月5日)は、最上義光と大崎夫人の二女で、羽柴(豊臣)秀次の側室候補。別名、「伊万(いま)」・・・彼女の名は「御駒山」からとられている・・・
辞世の句は、
「罪をきる
弥陀の剣に・・・ 弥陀(ミダ)の「ツルギ」で、
「阿弥陀」ではない
かかる・・・・・
身の
なにか
五つの
障り
ある
べき」
・・・ウエのカイシャク・・・「何の罪もない私なのですが、こうして斬られてあの世にいくのは、弥陀の慈悲の剣で引導をわたしていただく思いです。なぜって、こうしてこの身の業の深い五障の罪も、いっしょに消えていくのですから」・・「いっしょに消えていくのですから」デハ、ないだろう・・・
約5時間の処刑
遺体は一箇所に埋葬
慶長十六年(1611年)
角倉了以によって再建された
秀次に関連した大名は監禁
聚楽第も破却
・・・「この若者(秀次)は伯父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった」、「穏やかで思慮深い性質である(ルイス・フロイス・日本史)」・・・?
ーーーーー
枕草子
(一三二段)・・・百二十三・壱百弐拾参・壱弐参・壱百弐拾参
1+2+3=6=六=陸
1×2×3=6=六=陸
關白殿の
黒戸より出でさせ給ふとて、
女房の廊に隙なくさぶらふを、
「あな
いみじの
御許
だちや
翁をば
いかに
をこなりと
笑ひ
給ふらん」
と分け出でさせ給へば、
戸口に
人々の、
色々の袖口して
御簾を引き上げたるに、
權
大
納
言
殿、
御沓
取りて
はかせ
奉らせ給ふ。
いと
ものものしう
きよげに、
よそほしげに、
下襲の
裾ながく、
所狹くさぶらひ給ふ。
まづ
あな
め
でた、
大
納
言
ばかりの人に
沓をとらせ
給ふよと
見ゆ。
山井の・・・「やまい・病・
サンイ・三位・参位・
賛意・産医・纂意
サンセイ・賛成・参政・酸性
三星・三世・三省」之
大
納
言、
その
つぎづぎ
さらぬ
人々、
くろきもの・・・黒着物・黒装束→喪服・葬儀服・燕尾服
を
ひきちらし
たる
やうに、
藤壺の・・・・・「ふじつぼ・不治都簿
トウコ・問う拠」之
へいの
もとより、
登華殿の・・・・「トウカデン・問う家伝」之
前まで
居竝み
たるに、
いと
ほそやかに
いみじう
なまめかしうて、
御太刀
など
引き
つくろひ
やすら
はせ給ふに、
宮の
大
夫
殿の、
清涼殿の・・・・セイリョウデンの
「声量・星陵・青陵・精良」伝之
前に
たたせ
給へれば、
それは
居させ給ふ
まじき
な
めり
と
見る程に、
少し歩み出でさせ給へば、
ふと居させ給ひしこそ、
猶いかばかりの
昔の
御行の
ほどならんと
見奉りし
こそ
いみじ
かり
しか。
中
納
言
の
君の・・・「くん・訓・汲む・きみ・紀視」之
忌の・・・「いむ・異夢・医務・意務」之
日とて、
くすし
がり
行ひ・・・・おこない・・・お子無い
給ひしを、
「たべ、
その
珠數・・・たまかず・霊数→死霊
シュスウ・シュズ・→数珠
しばし。
行ひて
めでたき身に
ならんとか」
とて
集りて
笑へど、
なほ
いとこ・・・従妹
そ・・・・・措・曾・蘇
めでたけれ。
御前に
聞しめして、
「佛になりたらんこそ、
これよりは
勝らめ」
とて
打ち
笑ませ給へるに、
又
めでたくなりて
ぞ
見まゐらする。
大夫殿の居させ給へるを、
かへすがえす聞ゆれば、
「例の思ふ人」
と笑はせ給ふ。
ましてこの後の御ありさま、
見奉らせ給はましかば、
理と
おぼしめ
され
な
まし。
ーーーーー
・・・
ーー以下、ウイッキペデアより参考参照抜粋、少々改作・・・
嘉元(かげん)
乾元の後、徳治の前
乾元二年八月五日改元
天変(彗星・日照)の
凶事、凶兆を避けるため改元
1303年~1306年
(ユリウス暦
1303年9月16日
~
1307年1月18日)
後二条天皇の期間の年号
鎌倉幕府将軍は久明親王
執権は北条師時
ー
嘉元の乱
鎌倉時代
嘉元三年(1305年)
四月二十二日~五月二日の
鎌倉幕府内の騒乱
北条宗方の乱とも
越訴頭人の
北条宗方らが
連署の・・・・・連署は執権に次ぐ役位
北条時村を討つ
宗方は
執権の
北条師時の館で殺される
ー↑
霜月騒動(しもつきそうどう)
鎌倉時代後期の
弘安八年十一月十七日
(1285年12月14日)
鎌倉幕府の政変
八代執権
北条時宗の死後
ーー↓
「橘守部」は
蒙古襲来は朝廷潰しを意図する北条氏と蒙古が結託して行った自作自演であると仮定して時宗を弾劾・・・守部がかような荒唐無稽な珍説を提唱した背景には、守部の本居宣長に対する反感・・・?・・・
橘守部(たちばな もりべ)
天明元年四月八日(1781年5月1日)
~
嘉永二年五月二十四日(1849年7月13日)
江戸時代後期の国学者
伊勢国朝明郡小向村(朝日町)の庄屋の家に生まれた
通称は飯田元輔・源助
号は池庵・椎本・生薬園
父の飯田元親は
国学者
谷川士清の門人
守部自身は独学で国学を研究
本居宣長を痛烈に批判し、
「古事記」よりも
「日本書紀」を重んじた・・・・?・・・
神話の伝説的な部分と
史実の部分の区分の必要性を説く
晩年は江戸に住んで
肥前国・・・・西海道に属し、
佐賀県と長崎(壱岐・対馬を除く)
にあたる。肥州
火国、後の肥国の分割で七世紀末に成立
肥後国が「続日本紀」に初めて見える
持統天皇十年(696年)までに、
肥前国と肥後国との分割があった
「肥前国風土記」は、全国で五つだけの、
ほぼ完全な形で残る
「風土記」の1つ
室町時代末期にポルトガル、スペインの
宣教師が相次いで来訪
天正少年使節団を出す
↓
豊臣政権時代の肥前の大名
寺沢広高=上松浦郡八万三千石
1600年(関ヶ原の戦い後、唐津藩)
鍋島直茂(主君は龍造寺政家)
松浦鎮信
大村喜前
有馬晴信
五島純玄
豊臣秀吉九州平定後にも本領安堵
江戸時代の藩としても存続
波多親は一旦は本領を安堵されたが、
その後秀吉の不興を買い、
1593年に所領没収
「秦(はた)」氏
平戸藩主・・・・長崎・平戸・出島
松浦氏の知遇を得
「死後安心論」にも関心・・・天国、極楽?
守部独自の国学の説は、
武蔵国北部から
上野国にかけての
機業家などに・・・機織(はたおり)
養蚕(ヨウサン)・桑葉・扶桑
絹(きぬ・布)
綿(わた・棉)・腸(わた)
秦の河勝・・・デキスギデス・・・
↓
秦氏・姓は造・秦丹照、秦国勝の子
冠位は「大花上」
渡来人集団・祖先は秦の始皇帝・・・
聖徳太子の側近として活躍した・・・
↓
本名は厩戸(うまやど・うまやと)
別名は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)
上宮王(かみつみやおう)
上宮太子聖徳皇
厩戸豊聰八耳皇子
「古事記・和銅五年・712年」では
上宮之厩戸豊聡耳命
「日本書紀・養老四年・720年」では
厩戸皇子
豊耳聡聖徳
豊聡耳法大王
法主王
東宮聖徳と記録
「聖徳太子」の記録は
天平勝宝三年(751年)の
「懐風藻」が初出
↓
秦氏は、
平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わった
聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り
広隆寺を建てそれを安置
610年
新羅の使節を迎える任
644年
駿河国富士川周辺で、
大生部多(おおふべのおお)の
「常世神」を崇める集団(宗教)を、
河勝が追討
赤穂の坂越で死没
坂越浦に面して
秦河勝を祭神とした大避神社が鎮座
神域の
生島には秦河勝の墓
本拠地とした京都市右京区
太秦(うずまさ)や、
墓のある大阪府寝屋川市太秦にその名を残す
かつて
川勝寺とよばれる寺があり、
近隣には
「秦河勝終焉之地」の碑がある
この地域は明治の初めまで
川勝寺村(せんじょうじむら)と呼ばた
秦氏の後裔は戦国大名の
土佐国の長宗我部氏
幕臣川勝氏も河勝の子孫を称す
金春流
「大和ノ長谷川党」・・・と
金春禅竹が「明宿集」で記録
長谷川党は大和の
国衆
十市氏を刀禰とする武士団で
薩摩国の島津氏の系譜と密接な関係がある
河勝は猿楽の祖でもあり、
能楽の
観阿弥
世阿弥親子も河勝の子孫を称した
東儀家は河勝の子孫である
・・・らしい・・・?
厩・・・・ク·キュウ・キウ・うまや・まら
厩=厂(がけ・カン・ガン)
+
既(すでに・キ・ケ)
がけ、すでに、キ、ケ
↓
厩戸・・・木戸
豊聰・・・豊臣
八耳・・・八字・野次・埜字
皇子・・・みこ・ミコ
視拠・みどころ・見処・見所
ーーー↓橘守部は
門人を広げた
著書
「神風問答・伊勢物語箋・待門雑記・山彦冊子・稜威道別
稜威言別・神代直語・難古事記伝・湖月抄別記」
などがある。
ーー↓北条時宗
幕末
尊王攘夷の中
北条時宗に対する礼賛は高まる
明治時代
元寇受難者への追贈で
時宗にも
従一位が追贈
湯地丈雄によって元寇記念碑が設立
太平洋戦争の皇国史観で時宗に関する評価があがった
戦後
モンゴルの使節を殺害して対日交渉を決裂させ、
徹底した抗戦の姿勢を
国際情勢の無知とし、非難が起こった・・・?・・・この時代、戦わずして、どうする・・・
ーー↓嘉元の乱
有力御家人
安達泰盛と
内管領
平頼綱の対立
平頼綱に
安達泰盛とその一族・与党が滅ぼされた
弘安合戦、
安達泰盛の乱、
秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱とも
源頼朝没後に繰り返された
北条氏と有力御家人との間の最後の抗争
この騒動の結果、
幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅
平頼綱率いる
得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立
・・・ようは、この事件はハッキリしない「曖昧な事件」であるが・・・明治初期の「事件」と重なる・・・「佐賀の乱」・・・
ー
嘉元百首(嘉元仙洞御百首)
嘉元元年秋~冬(1303年秋~冬)
鎌倉時代の宝治期以降、
勅撰和歌集の撰定に際して、
その資料とするために当代の人々から
百首和歌を召すことが慣例
詠進時の年号により
宝治百首などと称される
冷泉家
「時雨」亭文庫には
「嘉元百首」以下、
その詠者による詠進当時の原本が伝存
嘉元百首は
「新後撰和歌集」の撰定に際して
後宇多上皇が召した百首
正安四年(1302)六月に
百首詠進の命が下り、
翌
嘉元元年(1303)十二月の
「新後撰集」奏覧までに詠進
写本等により
二七名の百首
勅撰集の詞書等により
三名の詠歌が知られ、
実際の出詠者は
三〇名余と考えられている
冷泉家時雨亭文庫
内大臣一条内実
左中将二条為藤の二名の百首の原本
「冬日詠百首應 製和謌」(内実)
「冬日侍 太上皇仙洞同詠百首・應 製倭歌」(為藤)
本文
春二十首(十四題)
夏十首(八題)
秋二十首(十五題)
冬十首(八題)
恋二十首(九題)
雑二十首(十六題)
各一首を上句・下句の
二行に分けて書いている
内実の百首の中に一箇所後筆の押紙で
「続千載」とあるほかは書き入れ等はなく、
内実の巻末には
墨付のない
一紙まで当初のままに存している・・・?・・・漢白・巻白・刊白・・・関白・・・
関白太政大臣の事件・・・豊臣秀吉・豊臣秀次(羽柴秀次)・・・豊臣秀吉の姉(とも・瑞竜院日秀・日秀)の子で、秀吉の養子。通称、「孫七郎」・・・永禄十一年(1568年)~文禄四年七月十五日(1595年8月20日)・・・?
ーー↓
織田信長の北近江浅井攻めに際し、宮部継潤の養子
信長四国攻で
阿波国の三好康長に養子・・・三好信吉と名乗る
天正十(1582年)六月
信長の死後、秀吉の縁者として重用
天正十一年(1583年)
賤ヶ岳の戦いで武功
天正十二年(1584年)
小牧・長久手の戦いで徳川家康軍に惨敗
天正十三年(1585年)
紀伊雑賀攻めで千石堀城を落し
近江国蒲生郡八幡山城(近江八幡市)43万石
領内の統治で善政
近江八幡には「水争い裁きの像」が残る
天正十四年(1586年)
十一月
豊臣の本姓を秀吉から授与
天正十八年(1590年)の小田原征伐で、
山中城攻撃で城を半日で陥落させた
改易された
織田信雄の旧領である
尾張国・伊勢国北部五郡、百万石の大領を与えられた
天正十九年(1591年)奥州に出兵
葛西大崎一揆及び九戸政実の乱を鎮圧
天正十九年(1591年)八月
秀吉の嫡男・鶴松が死去後
十一月に秀吉の養子
十二月に関白就任
文禄二年(1593年)
秀吉に実子・秀頼が生まれ
文禄四年(1595年)
七月八日
秀吉に高野山に追放され、出家
出家した元の関白=禅閤となり、
豊禅閤〈ほうぜんこう〉
七月十五日に切腹を命じられ
青巌寺・柳の間で切腹
享年二十八
辞世の句
「磯かげの・・・記掛解之
松の・・・・・真通之
あらしや・・・亜等詞埜
友ちどり・・・渡摸知怒理
いきて・・・・意記出
なくねの・・・名句音之
すみ・・・・・素視
にしの・・・・似史之
浦」・・・・・裏
八月二日(9月5日)
秀次の首は秀吉によって
京都の三条河原に曝され
三条河原において、
秀次の家族及び女人らも処刑
遺児(四男一女)
側室・侍女(三十九名)
十一番目に処刑されたのは・・・伊達政宗の従妹、駒姫(こまひめ、天正七年(1581年)~文禄四年八月二日(1595年9月5日)は、最上義光と大崎夫人の二女で、羽柴(豊臣)秀次の側室候補。別名、「伊万(いま)」・・・彼女の名は「御駒山」からとられている・・・
辞世の句は、
「罪をきる
弥陀の剣に・・・ 弥陀(ミダ)の「ツルギ」で、
「阿弥陀」ではない
かかる・・・・・
身の
なにか
五つの
障り
ある
べき」
・・・ウエのカイシャク・・・「何の罪もない私なのですが、こうして斬られてあの世にいくのは、弥陀の慈悲の剣で引導をわたしていただく思いです。なぜって、こうしてこの身の業の深い五障の罪も、いっしょに消えていくのですから」・・「いっしょに消えていくのですから」デハ、ないだろう・・・
約5時間の処刑
遺体は一箇所に埋葬
慶長十六年(1611年)
角倉了以によって再建された
秀次に関連した大名は監禁
聚楽第も破却
・・・「この若者(秀次)は伯父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった」、「穏やかで思慮深い性質である(ルイス・フロイス・日本史)」・・・?
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枕草子
(一三二段)・・・百二十三・壱百弐拾参・壱弐参・壱百弐拾参
1+2+3=6=六=陸
1×2×3=6=六=陸
關白殿の
黒戸より出でさせ給ふとて、
女房の廊に隙なくさぶらふを、
「あな
いみじの
御許
だちや
翁をば
いかに
をこなりと
笑ひ
給ふらん」
と分け出でさせ給へば、
戸口に
人々の、
色々の袖口して
御簾を引き上げたるに、
權
大
納
言
殿、
御沓
取りて
はかせ
奉らせ給ふ。
いと
ものものしう
きよげに、
よそほしげに、
下襲の
裾ながく、
所狹くさぶらひ給ふ。
まづ
あな
め
でた、
大
納
言
ばかりの人に
沓をとらせ
給ふよと
見ゆ。
山井の・・・「やまい・病・
サンイ・三位・参位・
賛意・産医・纂意
サンセイ・賛成・参政・酸性
三星・三世・三省」之
大
納
言、
その
つぎづぎ
さらぬ
人々、
くろきもの・・・黒着物・黒装束→喪服・葬儀服・燕尾服
を
ひきちらし
たる
やうに、
藤壺の・・・・・「ふじつぼ・不治都簿
トウコ・問う拠」之
へいの
もとより、
登華殿の・・・・「トウカデン・問う家伝」之
前まで
居竝み
たるに、
いと
ほそやかに
いみじう
なまめかしうて、
御太刀
など
引き
つくろひ
やすら
はせ給ふに、
宮の
大
夫
殿の、
清涼殿の・・・・セイリョウデンの
「声量・星陵・青陵・精良」伝之
前に
たたせ
給へれば、
それは
居させ給ふ
まじき
な
めり
と
見る程に、
少し歩み出でさせ給へば、
ふと居させ給ひしこそ、
猶いかばかりの
昔の
御行の
ほどならんと
見奉りし
こそ
いみじ
かり
しか。
中
納
言
の
君の・・・「くん・訓・汲む・きみ・紀視」之
忌の・・・「いむ・異夢・医務・意務」之
日とて、
くすし
がり
行ひ・・・・おこない・・・お子無い
給ひしを、
「たべ、
その
珠數・・・たまかず・霊数→死霊
シュスウ・シュズ・→数珠
しばし。
行ひて
めでたき身に
ならんとか」
とて
集りて
笑へど、
なほ
いとこ・・・従妹
そ・・・・・措・曾・蘇
めでたけれ。
御前に
聞しめして、
「佛になりたらんこそ、
これよりは
勝らめ」
とて
打ち
笑ませ給へるに、
又
めでたくなりて
ぞ
見まゐらする。
大夫殿の居させ給へるを、
かへすがえす聞ゆれば、
「例の思ふ人」
と笑はせ給ふ。
ましてこの後の御ありさま、
見奉らせ給はましかば、
理と
おぼしめ
され
な
まし。
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・・・