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コジキジゲン

寡言常序・・・古事記序文の加減乗除

2013-09-09 21:35:02 | 古事記字源
 ・・・加減乗除・・・イイ加減にしろ・・・乗って除く・・・嘉元(1303年八月五日~1306年十二月十四日・後二条天皇の年号)・下限(数量枠の最低限)・下弦(下弦の月)・寡言(多言の逆意)・・・こんな溝(どぶ)臭いモンは「嗅げん」・・・
ーー以下、ウイッキペデアより参考参照抜粋、少々改作・・・

 嘉元(かげん)

 乾元の後、徳治の前

 乾元二年八月五日改元

 天変(彗星・日照)の

 凶事、凶兆を避けるため改元

 1303年~1306年

(ユリウス暦

 1303年9月16日

   ~

 1307年1月18日)

 後二条天皇の期間の年号

 鎌倉幕府将軍は久明親王

 執権は北条師時



 嘉元の乱

 鎌倉時代

 嘉元三年(1305年)

 四月二十二日~五月二日の

 鎌倉幕府内の騒乱

 北条宗方の乱とも

 越訴頭人の

 北条宗方らが

 連署の・・・・・連署は執権に次ぐ役位

 北条時村を討つ

 宗方は

 執権の

 北条師時の館で殺される

ー↑

 霜月騒動(しもつきそうどう)

 鎌倉時代後期の

 弘安八年十一月十七日

 (1285年12月14日)

 鎌倉幕府の政変

 八代執権

 北条時宗の死後

ーー↓

 「橘守部」は

 蒙古襲来は朝廷潰しを意図する北条氏と蒙古が結託して行った自作自演であると仮定して時宗を弾劾・・・守部がかような荒唐無稽な珍説を提唱した背景には、守部の本居宣長に対する反感・・・?・・・

 橘守部(たちばな もりべ)

 天明元年四月八日(1781年5月1日)

   ~

 嘉永二年五月二十四日(1849年7月13日)

 江戸時代後期の国学者

 伊勢国朝明郡小向村(朝日町)の庄屋の家に生まれた

 通称は飯田元輔・源助

 号は池庵・椎本・生薬園

 父の飯田元親は

 国学者

 谷川士清の門人

 守部自身は独学で国学を研究

 本居宣長を痛烈に批判し、

 「古事記」よりも

 「日本書紀」を重んじた・・・・?・・・

 神話の伝説的な部分と

 史実の部分の区分の必要性を説く

 晩年は江戸に住んで

 肥前国・・・・西海道に属し、

        佐賀県と長崎(壱岐・対馬を除く)

        にあたる。肥州

        火国、後の肥国の分割で七世紀末に成立

        肥後国が「続日本紀」に初めて見える

        持統天皇十年(696年)までに、

        肥前国と肥後国との分割があった

       「肥前国風土記」は、全国で五つだけの、

        ほぼ完全な形で残る

       「風土記」の1つ

        室町時代末期にポルトガル、スペインの

        宣教師が相次いで来訪

        天正少年使節団を出す

         ↓

        豊臣政権時代の肥前の大名

        寺沢広高=上松浦郡八万三千石

             1600年(関ヶ原の戦い後、唐津藩)

        鍋島直茂(主君は龍造寺政家)

        松浦鎮信

        大村喜前

        有馬晴信

        五島純玄

        豊臣秀吉九州平定後にも本領安堵

        江戸時代の藩としても存続

        波多親は一旦は本領を安堵されたが、

        その後秀吉の不興を買い、

        1593年に所領没収

       「秦(はた)」氏

 平戸藩主・・・・長崎・平戸・出島

 松浦氏の知遇を得

 「死後安心論」にも関心・・・天国、極楽?

 守部独自の国学の説は、

 武蔵国北部から

 上野国にかけての

 機業家などに・・・機織(はたおり)

          養蚕(ヨウサン)・桑葉・扶桑

          絹(きぬ・布)

          綿(わた・棉)・腸(わた)

          秦の河勝・・・デキスギデス・・・

          ↓

          秦氏・姓は造・秦丹照、秦国勝の子

          冠位は「大花上」

          渡来人集団・祖先は秦の始皇帝・・・

          聖徳太子の側近として活躍した・・・

          ↓

          本名は厩戸(うまやど・うまやと)

          別名は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)

          上宮王(かみつみやおう)

          上宮太子聖徳皇

          厩戸豊聰八耳皇子

         「古事記・和銅五年・712年」では

          上宮之厩戸豊聡耳命

         「日本書紀・養老四年・720年」では

          厩戸皇子

          豊耳聡聖徳

          豊聡耳法大王

          法主王

          東宮聖徳と記録

         「聖徳太子」の記録は

          天平勝宝三年(751年)の

         「懐風藻」が初出

           ↓

          秦氏は、

          平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わった

          聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り

          広隆寺を建てそれを安置

          610年

          新羅の使節を迎える任

          644年

          駿河国富士川周辺で、

          大生部多(おおふべのおお)の

         「常世神」を崇める集団(宗教)を、

          河勝が追討

          赤穂の坂越で死没

          坂越浦に面して

          秦河勝を祭神とした大避神社が鎮座

          神域の

          生島には秦河勝の墓

          本拠地とした京都市右京区

          太秦(うずまさ)や、

          墓のある大阪府寝屋川市太秦にその名を残す

          かつて

          川勝寺とよばれる寺があり、

          近隣には

         「秦河勝終焉之地」の碑がある

          この地域は明治の初めまで

          川勝寺村(せんじょうじむら)と呼ばた

          秦氏の後裔は戦国大名の

          土佐国の長宗我部氏

          幕臣川勝氏も河勝の子孫を称す

          金春流

          「大和ノ長谷川党」・・・と

          金春禅竹が「明宿集」で記録

          長谷川党は大和の

          国衆

          十市氏を刀禰とする武士団で

          薩摩国の島津氏の系譜と密接な関係がある

          河勝は猿楽の祖でもあり、

          能楽の

          観阿弥

          世阿弥親子も河勝の子孫を称した

          東儀家は河勝の子孫である

          ・・・らしい・・・?

          厩・・・・ク·キュウ・キウ・うまや・まら

          厩=厂(がけ・カン・ガン)

            +

            既(すでに・キ・ケ)

          がけ、すでに、キ、ケ

               ↓   

          厩戸・・・木戸

          豊聰・・・豊臣

          八耳・・・八字・野次・埜字

          皇子・・・みこ・ミコ

               視拠・みどころ・見処・見所

ーーー↓橘守部は

 門人を広げた

 著書

 「神風問答・伊勢物語箋・待門雑記・山彦冊子・稜威道別

  稜威言別・神代直語・難古事記伝・湖月抄別記」

 などがある。

ーー↓北条時宗

 幕末

 尊王攘夷の中

 北条時宗に対する礼賛は高まる

 明治時代

 元寇受難者への追贈で

 時宗にも

 従一位が追贈

 湯地丈雄によって元寇記念碑が設立

 太平洋戦争の皇国史観で時宗に関する評価があがった

 戦後

 モンゴルの使節を殺害して対日交渉を決裂させ、

 徹底した抗戦の姿勢を

 国際情勢の無知とし、非難が起こった・・・?・・・この時代、戦わずして、どうする・・・

ーー↓嘉元の乱

 有力御家人

 安達泰盛と

 内管領

 平頼綱の対立

 平頼綱に

 安達泰盛とその一族・与党が滅ぼされた

 弘安合戦、

 安達泰盛の乱、

 秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱とも

 源頼朝没後に繰り返された

 北条氏と有力御家人との間の最後の抗争

 この騒動の結果、

 幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅

 平頼綱率いる

 得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立

 ・・・ようは、この事件はハッキリしない「曖昧な事件」であるが・・・明治初期の「事件」と重なる・・・「佐賀の乱」・・・



 嘉元百首(嘉元仙洞御百首)

 嘉元元年秋~冬(1303年秋~冬)

 鎌倉時代の宝治期以降、

 勅撰和歌集の撰定に際して、

 その資料とするために当代の人々から

 百首和歌を召すことが慣例

 詠進時の年号により

 宝治百首などと称される

 冷泉家

 「時雨」亭文庫には

 「嘉元百首」以下、

 その詠者による詠進当時の原本が伝存

 嘉元百首は

 「新後撰和歌集」の撰定に際して

 後宇多上皇が召した百首

 正安四年(1302)六月に

 百首詠進の命が下り、

 翌

 嘉元元年(1303)十二月の

 「新後撰集」奏覧までに詠進

 写本等により

 二七名の百首

 勅撰集の詞書等により

 三名の詠歌が知られ、

 実際の出詠者は

 三〇名余と考えられている

 冷泉家時雨亭文庫

 内大臣一条内実

 左中将二条為藤の二名の百首の原本

 「冬日詠百首應 製和謌」(内実)

 「冬日侍 太上皇仙洞同詠百首・應 製倭歌」(為藤)

 本文

 春二十首(十四題)

 夏十首(八題)

 秋二十首(十五題)

 冬十首(八題)

 恋二十首(九題)

 雑二十首(十六題)

 各一首を上句・下句の

 二行に分けて書いている

 内実の百首の中に一箇所後筆の押紙で

 「続千載」とあるほかは書き入れ等はなく、

 内実の巻末には

 墨付のない

 一紙まで当初のままに存している・・・?・・・漢白・巻白・刊白・・・関白・・・

 関白太政大臣の事件・・・豊臣秀吉・豊臣秀次(羽柴秀次)・・・豊臣秀吉の姉(とも・瑞竜院日秀・日秀)の子で、秀吉の養子。通称、「孫七郎」・・・永禄十一年(1568年)~文禄四年七月十五日(1595年8月20日)・・・?

ーー↓

 織田信長の北近江浅井攻めに際し、宮部継潤の養子

 信長四国攻で

 阿波国の三好康長に養子・・・三好信吉と名乗る

 天正十(1582年)六月

 信長の死後、秀吉の縁者として重用

 天正十一年(1583年)

 賤ヶ岳の戦いで武功

 天正十二年(1584年)

 小牧・長久手の戦いで徳川家康軍に惨敗

 天正十三年(1585年)

 紀伊雑賀攻めで千石堀城を落し

 近江国蒲生郡八幡山城(近江八幡市)43万石

 領内の統治で善政

 近江八幡には「水争い裁きの像」が残る

 天正十四年(1586年)

 十一月

 豊臣の本姓を秀吉から授与

 天正十八年(1590年)の小田原征伐で、

 山中城攻撃で城を半日で陥落させた

 改易された

 織田信雄の旧領である

 尾張国・伊勢国北部五郡、百万石の大領を与えられた

 天正十九年(1591年)奥州に出兵

 葛西大崎一揆及び九戸政実の乱を鎮圧

 天正十九年(1591年)八月

 秀吉の嫡男・鶴松が死去後

 十一月に秀吉の養子

 十二月に関白就任

 文禄二年(1593年)

 秀吉に実子・秀頼が生まれ

 文禄四年(1595年)

 七月八日

 秀吉に高野山に追放され、出家

 出家した元の関白=禅閤となり、

 豊禅閤〈ほうぜんこう〉

 七月十五日に切腹を命じられ

 青巌寺・柳の間で切腹

 享年二十八

 辞世の句

 「磯かげの・・・記掛解之

  松の・・・・・真通之

  あらしや・・・亜等詞埜

  友ちどり・・・渡摸知怒理

  いきて・・・・意記出

  なくねの・・・名句音之

  すみ・・・・・素視

  にしの・・・・似史之

  浦」・・・・・裏

 八月二日(9月5日)

 秀次の首は秀吉によって

 京都の三条河原に曝され

 三条河原において、

 秀次の家族及び女人らも処刑

 遺児(四男一女)

 側室・侍女(三十九名)

 十一番目に処刑されたのは・・・伊達政宗の従妹、駒姫(こまひめ、天正七年(1581年)~文禄四年八月二日(1595年9月5日)は、最上義光と大崎夫人の二女で、羽柴(豊臣)秀次の側室候補。別名、「伊万(いま)」・・・彼女の名は「御駒山」からとられている・・・

 辞世の句は、

 「罪をきる

 弥陀の剣に・・・ 弥陀(ミダ)の「ツルギ」で、

        「阿弥陀」ではない

 かかる・・・・・

 身の

 なにか

 五つの

 障り

 ある

 べき」

 ・・・ウエのカイシャク・・・「何の罪もない私なのですが、こうして斬られてあの世にいくのは、弥陀の慈悲の剣で引導をわたしていただく思いです。なぜって、こうしてこの身の業の深い五障の罪も、いっしょに消えていくのですから」・・「いっしょに消えていくのですから」デハ、ないだろう・・・

 約5時間の処刑

 遺体は一箇所に埋葬

 慶長十六年(1611年)

 角倉了以によって再建された

 秀次に関連した大名は監禁

 聚楽第も破却

 ・・・「この若者(秀次)は伯父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった」、「穏やかで思慮深い性質である(ルイス・フロイス・日本史)」・・・?

ーーーーー

 枕草子

 (一三二段)・・・百二十三・壱百弐拾参・壱弐参・壱百弐拾参

          1+2+3=6=六=陸

          1×2×3=6=六=陸

 關白殿の

 黒戸より出でさせ給ふとて、

 女房の廊に隙なくさぶらふを、

 「あな

  いみじの

  御許

  だちや

  翁をば

  いかに

  をこなりと

  笑ひ

  給ふらん」

 と分け出でさせ給へば、

 戸口に

 人々の、

 色々の袖口して

 御簾を引き上げたるに、

 權

 大

 納

 言

 殿、

 御沓

 取りて

 はかせ

 奉らせ給ふ。

 いと

 ものものしう

 きよげに、

 よそほしげに、

 下襲の

 裾ながく、

 所狹くさぶらひ給ふ。

 まづ

 あな

 め

 でた、

 大

 納

 言

 ばかりの人に

 沓をとらせ

 給ふよと

 見ゆ。

 山井の・・・「やまい・病・

        サンイ・三位・参位・

            賛意・産医・纂意

        サンセイ・賛成・参政・酸性

             三星・三世・三省」之

 大

 納

 言、

 その

 つぎづぎ

 さらぬ

 人々、

 くろきもの・・・黒着物・黒装束→喪服・葬儀服・燕尾服

 を

 ひきちらし

 たる

 やうに、

 藤壺の・・・・・「ふじつぼ・不治都簿

          トウコ・問う拠」之

 へいの

 もとより、

 登華殿の・・・・「トウカデン・問う家伝」之

 前まで

 居竝み

 たるに、

 いと

 ほそやかに

 いみじう

 なまめかしうて、

 御太刀

 など

 引き

 つくろひ

 やすら

 はせ給ふに、

 宮の

 大

 夫

 殿の、

 清涼殿の・・・・セイリョウデンの

        「声量・星陵・青陵・精良」伝之

 前に

 たたせ

 給へれば、

 それは

 居させ給ふ

 まじき

 な

 めり

 と

 見る程に、

 少し歩み出でさせ給へば、

 ふと居させ給ひしこそ、

 猶いかばかりの

 昔の

 御行の

 ほどならんと

 見奉りし

 こそ

 いみじ

 かり

 しか。

 中

 納

 言

 の

 君の・・・「くん・訓・汲む・きみ・紀視」之

 忌の・・・「いむ・異夢・医務・意務」之

 日とて、

 くすし

 がり

 行ひ・・・・おこない・・・お子無い

 給ひしを、

 「たべ、

  その

  珠數・・・たまかず・霊数→死霊

       シュスウ・シュズ・→数珠    

  しばし。

  行ひて

  めでたき身に

  ならんとか」

 とて

 集りて

 笑へど、

 なほ

 いとこ・・・従妹

 そ・・・・・措・曾・蘇

 めでたけれ。

 御前に

 聞しめして、

 「佛になりたらんこそ、

  これよりは

  勝らめ」

 とて

 打ち

 笑ませ給へるに、

 又

 めでたくなりて

 ぞ

 見まゐらする。

 大夫殿の居させ給へるを、

 かへすがえす聞ゆれば、

 「例の思ふ人」

 と笑はせ給ふ。

 ましてこの後の御ありさま、

 見奉らせ給はましかば、

 理と

 おぼしめ

 され

 な

 まし。

ーーーーー

 ・・・

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童夢・アキラ

2013-09-09 11:34:22 | 古事記字源
 ・・・「童夢」の子供たちは育っているのかな・・・「アキラ」も「カネの枠組みの復興」か・・・世の中、毎年自然災害があってもナンのソの ・・・被害甚大でも・・・懲りずに戦争・・・戦争と人災のない時期はない・・・「参・參」・・・如何なる時代も惨状参加に参上で御座る・・・「慘(みじめ・サン・ザン)」=「忄+参」は「心に参」なのに熟語は・・・「惨酷」・・・「惨・慘」=「サン・ザン・ソン・みじめ・むごい・いたましい」である・・・「惨禍・惨苦・惨憺(サンタン)・惨落・悲惨・惨劇・惨烈・陰惨・凄惨(セイサン)」・・・「三」・・・
 数学では「≡」=「合同」で、八卦、易の「≡」=「乾」で「いぬい・ 天・健・父・首・西北・戌亥」である・・・訓で読めば「乾(かわ)く」であり、漢字分解すれば「乾」=「十+早+乞」で、更に分解すれば「十+日+十+乞」である。更に「乞」は「ノ一」+「乙」である。

 「乾く」とは漢字から「乾季・乾期」であろう・・・時期は「雨量が少ない夏」で、年間の「作物状況」ならば「飢饉」である・・・

ーー

 丙寅1986年壬辰4月庚子26日丁丑1時23分

        傷官

 チェルノブイリ原子力発電所事故



 己亥11月己巳21日壬申午後4時15分頃

 劫財

 三原山で噴火・全島民一時島外避難

 ハレー彗星が76年ぶりに大接近

ーー

 丁卯1987年

 壬寅2月癸卯23日

 傷官

 超新星 SN 1987A が観測



 壬子12月庚子17日

 食傷

 千葉県東方沖地震(M6.7)

ーー

 戊辰1988年

 乙卯3月庚午16日

 正財

 イラン・イラク戦争ハラブジャ事件

 サッダーム・フセインが、クルド人住民を化学兵器で

 殺害した

 癸亥12月丙申7日

 偏官

 アルメニア地震・1万5000人以上死亡



 甲子12月乙巳16日

 印綬・偏印

 北海道十勝岳噴火

ーー

 己巳1989年

 丙寅2月庚子9日

 偏官

 手塚治虫が死去



 己巳6月乙未4日

 正財

 北京で天安門事件



 辛未7月甲戌13日

 正財・傷官

 伊東市沖で手石海丘海底噴火



 辛未7月丁丑16日

 沖食

 阿蘇山が噴火。



 甲戌10月庚戌17日

 偏印

 サンフランシスコ大地震(ロマ・プリータ地震)

 死者200人超



 乙亥11月甲戌10日

 沖偏財

 ベルリンの壁崩壊

ーー

 庚午1990年

 丁亥11月丙戌17日

 偏印・偏官

 雲仙普賢岳が噴火

ーー

 戊子12月庚戌11日

 沖食・傷

 千葉県茂原市でF3スケールの竜巻が発生

ーー

 辛未1991年

 癸巳6月甲辰3日

 偏官

 雲仙普賢岳で大火砕流発生・死者行方不明43人



 甲午6月戊申7日

 偏印

 フィリピンのピナトゥボ山が大噴火

ーー

 壬申1992年

ーー

 癸酉1993年

 1月15日

 北海道釧路沖地震



 2月7日

 能登半島沖地震



 7月12日

 北海道南西沖地震、奥尻島で死者176人

 記録的な冷夏の影響で戦後最大の米不作



 12月14日

 米騒動

 日本政府は各国からの米輸入決定

ーー

 甲戌1994年

 1月17日

 ノースリッジ地震

 死者57名、負傷者約5,400人



 7月16日~22日

 シューメーカー・レヴィ

 第9彗星分裂核が木星に衝突



 10月4日

 北海道東方沖地震



 12月28日

 三陸はるか沖地震発生

ーー

 乙亥1995年

 甲戌年

 丁丑1月戊申17日乙卯午前5時46分

 傷官・劫財

 兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)

 6434人死亡



 9月5日

 フランス、南太平洋で核実験



 10月11日

 九重山(大分県)噴火

ーー

 丙子1996年

 3月下旬

 百武彗星が地球接近

 8月11日

 秋田県内陸南部・宮城県北部で地震

 11月21日

 雌阿寒岳(北海道)噴火

ーー

 丁丑1997年

 3月下旬~4月上旬

 ヘール・ボップ彗星が観測

 4月1日

 消費税増税実施(3%~5%に)

 8月16日

 秋田焼山(秋田県)噴火

ーー

 戊寅1998年

ーー

 己卯1999年

 1月25日

 コロンビア大地震・死者1000超

 4月1日

 米(コメ)を関税化(市場開放)

 8月17日

 トルコ北西部大地震(イズミット地震)

 1万7000人超死亡

 9月21日

 台湾大地震2000人超死亡

ーー

 庚辰2000年

 3月31日

 有珠山噴火

 7月8日

 三宅島雄山噴火

 7月30日

 三宅島近海で火山噴火の地震

 9月4日

 駒ヶ岳(北海道)噴火

 10月6日

 鳥取県西部地震

 12月

 太陽活動の黒点極大期

ーー

 辛巳2001年

 1月13日

 エルサルバドル大地震

 1月26日

 インド西部地震・約2万人死亡

 3月24日

 芸予地震

 9月11日

 アメリカ同時多発テロ事件

ーー

 壬午2002年

 8月11日

 伊豆鳥島が噴火

 8月29日

 東京電力が原発の損傷隠蔽

 11月3日

 宮城県沖地震

 11月4日

 日向灘地震

ーー

 癸未2003年

 3月19日

 アメリカ・イギリスによるイラクイラク戦争開戦

 5月26日

 宮城県沖で地震

 7月26日

 宮城県北部地震

 8月27日

 火星大接近

 8月29日

 フランス全土の猛暑で死者11000人超

 9月26日

 北海道釧路沖地震(十勝沖地震)

 死者1人、重軽傷者200人以上

ーーー↓ 

 「震=辛卯(2011)」・・・偏官辛卯 東北地震津波

                偏官辛卯3月劫財・比肩

                  乙丑11日

                   沖偏財

                偏印癸未13時

    ↓           ↓

                辛卯1771年4月24日

                明和八年三月十日

                明和の大津波

                沖縄・琉球

                八重山地震発生

                津波により

                12,000人の死者・行方不明

                 ↓

            石垣島の白保村の大地震伝説

            白保の漁師達が漁で人魚を捕獲し

            人魚を放すお礼に人魚から

            大津波が来ることを教えられた。

            信じる人々は於茂登岳に避難し、

            信じない人々は村に残る

            津波は起こり、村は津波に飲み込まれた

            生き残った人々で白保村を再興した・・・

            下地島の通り池にも大地震伝説が残る

ーー以下のウイッキペデアから参照、参考・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29

 地震の年表 (日本) - Wikipedia

地震の年表 (日本) - Wikipedia

ーー

 「巽=壬辰(2012)

   ・癸巳(2013)」・・・・・・・・1773年癸巳

 「離=甲午(2014)」

ーー

 ・・・天明の大飢饉

 「艮=壬寅=1782年(天明二年)」

 「震=癸卯=1783年(天明三年)・・・1773年癸巳

  巽=甲辰=84・乙巳=85

  離=丙午=1786年(天明六年)

  坤=丁未=1787年(天明七年)」

  を経て

 「戊申年・1788年(天明八年)」・・・

 「清国の高宗」は「乾隆帝・五十三年」

ーー↓

 「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」の八。

     南

   巽 離 坤

 東 震 ? 兌 西

   艮 坎 乾

     北

 八卦の順序には

 伏羲八卦次序

 「太極→両儀→四象→八卦」の宇宙、森羅万象成過程

 「乾→兌→離→震→巽→坎→艮→坤」

 と

 文王八卦次序

 陰(母)陽(父)二気を交合して

 長男長女・中男中女・少男少女を生む

 「乾→坤→震→巽→坎→離→艮→兌」

 がある。

ーー↓・・・「辛」、「癸」か?、「卯」か?・・・

 庚申1800年

 辛酉1801年

 壬戌1802年

 癸亥1803年

 甲子1804年

 乙丑1805年

 丙寅1806年

 丁卯1807年

   1807年+12

        ・・・己卯1819

ーー         庚寅1830年七月二日

                  京都大地震

                  死者約280人

                  負傷者約1300人を記録

                  天保元年十二月十日改元

           辛卯1831・11月14日

                  天保二年十月十一日

                  旧十月肥前大地震

           癸卯1843

           乙卯1855

           丁卯1867

           己卯1879

           辛卯1891・明治二十四年

             10月28日濃尾地震発生

                  (死者7,273名)

           癸卯1903・明治三十三年

           乙卯1915・大正四年

             甲寅年

             1月13日イタリア王国

             アヴェッツァーノ大地震(死者約三万人)

           癸亥1923・大正十二年

             9月1日11時58分32秒

             関東大震災

             死者・行方不明者十万五千余

             家屋の全壊十万九千、焼失21万2千

ーー           ↓

 年干支・・・癸 亥(戊・甲・壬)

 年天干変通 偏官・・↓地支蔵干変通    12運

 年蔵干・・・・・亥(傷官・印綬・正官)・・胎

         ↓

 年月支関係・・・害

         ↑

 月干支・・・庚 申(己・壬・庚)

 月天干変通 偏財・・↓地支蔵干変通    12運

 月蔵干・・・・・申(食神・正官・正財)・・沐浴

         ・

 日干支・・・丁 丑(癸・辛・己)申酉←空亡

 日天干変通 比肩・・↓地支蔵干変通    12運

 日蔵干・・・・・丑(偏官・偏財・食神)・・墓

         ↓

 日時支関係・・・害

         ↑

 時干支・・・丙 午(丙・ ・丁)

 時天干変通 劫財・・↓地支蔵干変通    12運

 時蔵干・・・・・午(劫財・  ・比肩)・・建録

ーー

           乙丑1925年大正十二年

             5月23日

             北但馬地震

             兵庫県但馬地方北部で発生

             「北但大震災」とも呼ぶ

           丁卯1927・昭和二年

             3月7日

             北丹後地震

             北近畿を中心に中国・四国地方まで被害

             丹後半島のつけ根

             家屋倒壊率は70%~90%

             地震発生時刻が夕食時と重なり、

             合わせて8,287戸が焼失

             豊岡市城崎町は火災で2,300戸以上が焼失

             死者2,925人(京都府内・2,898人)

             負傷者7,806人、全壊1万2,584棟

             半壊9,443戸、焼失8,287戸、

             全焼6,459戸、半焼96戸

           己卯1939・昭和十四年

             1月24日チリで大地震(死者約8万名)

             5月1日男鹿半島地震

                (死者27名、全壊604戸)

             7月8日・国民徴用令公布

             8月30日阿部内閣成立

             11月6日米穀強制買上げ制公布実施

             12月26日トルコで大地震

ーー                (死者3万3千名)

 戊辰1808年

 己巳1809年

 庚午1810年

 辛未1811年

ーー

           庚辰1940・昭和十五年

             8月2日積丹半島沖地震(神威岬沖地震)

           辛巳1941・昭和十六年

             7月15日長野地震

             11月19日日向灘地震

           癸未1943・昭和十八年

             6月13日青森県東方沖で地震

             9月10日鳥取地震

                  死者1,083人

             10月13日長野県北部地震

           甲申1944・昭和十九年

             12月7日東南海地震

                  死者行方不明者1,223人

           乙酉1945・昭和二十年

             甲申年

             1月13日三河地震

                  死者行方不明者2,306人

             2月10日青森県東方沖地震

           丙戌1946・昭和二十一年南海地震

           己子1948・昭和二十三年福井地震

           丁酉1993・平成五年

             7月12日午後10時17分12秒

             奥尻島地震死者202人、行方不明者28人

           乙亥1995・平成七年

             甲戌年

             1月17日

             阪神・淡路大震災

           甲申2004・平成十六年

             9月5日紀伊半島南東沖地震

             10月23日17時56分

             新潟県中越地震死者68人

           戊子2008年・平成二十年

             5月12日

             中国・四川省大地震

             死者は6万人

ーーーーー

 枕草子

 (一三一段)・・・百三十一・壱佰参拾壱・壱参壱・陌参足壱

          1+3+1=5=五=伍

          1×3×1=3=三=参=參

 はしたなきもの

 他人を呼ぶに、我もとてさし出でたるもの。

 まして物とらするをりはいとど。

 おのづから人のうへなどうち言ひ謗りなどもしたるを、

 幼き人の聞き取りて、

 その人のあるまへにいひ出でたる。

 あはれなる事など人のいひてうち泣くに、

 實にいとあはれとは聞きながら、

 涙のふつと出でこぬ、いとはしたなし。

 泣顏つくり、けしきことになせど、いとかひなし。

 めでたき事を聞くには、

 又すずろに唯いできにこそ出でくれ。

 八幡の行幸のかへらせ給ふに、

 女院御棧敷のあなたに御輿を留めて、

 御消息申させ給ひしなど、

 いみじくめでたく、

 さばかりの御有樣にて、

 かしこまり申させ給ふが、

 世に知らずいみじきに、

 誠にこぼるれば、

 化粧したる顏も皆あらはれて、

 いかに見苦しかるらん。

 宣旨の御使にて、

 齋信の宰相中將の御棧敷に參り給ひしこそ、

 いとをかしう見えしか。

 ただ隨身四人、

 いみじうさうぞきたる、

 馬ぞひのほそうしたてたるばかりして、

 二條の大路、

 廣うきよらにめでたきに、

 馬をうちはやして急ぎ參りて、

 少し遠くよりおりて、

 そばの御簾の前に侍ひ給ひし、

 院の別當ぞ申し給ひし。

 御返し承りて、

 又はしらせ歸り參り給ひて、

 御輿のもとにて奏し給ひし程、

 いふも愚なりや。

 さてうち渡らせ給ふを見奉らせ給ふらん女院の御心、

 思ひやりまゐらするは、

 飛び立ちぬべくこそ覺えしか。

 それには長泣をして笑はるるぞかし。

 よろしききはの人だに、

 なほこの世にはめでたきものを、

 かうだに思ひまゐらするもかしこしや。

ーーーーー

 ・・・

コメント
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