高熱、嘔吐、点滴・・・オフクロ・・・(辛酉・庚子・乙丑)×(癸巳・辛酉・丁亥)・・・
ーーーーー
枕草子
(一三八段)・・・百三十八・壱佰参拾八・壱参八・陌参足捌
1+3+8=12=十二=壱拾弐=足弐
1×3×8=24=二十四=弐拾四=念肆
故殿の御ために、
(古伝の音矯め爾)
月ごとの十日、
(解通語渡の問う可)
御經佛供養せさせ給ひしを、
(音響、譜通、共用、施作是、他真、比詞記)
九月十日、
(句解通、読比)
職の御曹司にてせさせ給ふ。
(私記→史記→子規→死期→指揮の音蔵詞)
上達部、
(漢立ち目・韓絶ち目・定立つ辺)
殿上人いとおほかり。
(伝條比渡、意図、於補仮理)
清範講師にて、
(審判乞うし爾出・新版合史にて・侵犯行使にて)
説く事どもいとかなしければ、
(読異度摸、意図、仮名詞、化例葉)
殊に物のあはれふかかるまじき若き人も、
(言爾、摸之埜、亜葉例譜化掛留、混記、和歌記比渡摸)
皆泣くめり。
(視名、納句目理→拿組めり)
終てて酒のみ詩誦じなどするに、
(尾張出手、作化之視、史、生じ等素留爾)
頭中將齊信の君、
(頭注、将に再審→再診の訓)
月と秋と期して
(解通→通記と、亜記→亜紀→安岐→安芸と記して)
身いづくにか
(実、何処爾化)
といふ事を
(問い符言緒→渡移付言於→賭、委付異於)
うち出し給へりしかば、
(得知出し他真重理詩歌葉→詞花葉→視河馬→視椛)
いみじうめでたし。
(意味、字得、目出、足し)
いかでかは思ひいで給ひけん。
(異化出化葉、尾摸比→緒摸意→重い、出、他真比懸)
おはします所に
(於葉詞、真諏、常呂、爾)
分け參るほどに、
(和気→訳→別け→湧け、真意留保努爾)
立ち出でさせ給ひて、
(他知意出、作施、他真意出)
「めでたしな。
(目出度し→芽出度し→愛でたし)
いみじうけうの事にいひたる事にこそ
(意味字得、稀有の言爾、意比他留言爾、故素)
あれ」
(亜例→亜鈴→阿礼→古事記序文)
ーー↓ーーーーー↓
稗田阿礼(ひえだ の あれ)
「古事記・編纂者の一人」
時有二 舎人一。 姓稗田、名阿礼。
年是廿八。為レ人聡明、度レ目誦レ口、
拂レ耳勒レ心。即、勅_語二阿礼一、
令レ誦_習二帝皇日継及先代旧辞一。
然、運移世異、
未レ行二其事一矣。
↓
「あ(生)れ・有れ・在れ」
賀茂祭の幣帛(へいはく)
榊(さかき)に種々の綾絹(あやぎぬ)や
鈴などをつけたもの
ーー↓
とのたまはすれば、
(と、之他真葉諏例葉→場・羽・馬・婆
歯→尚歯会)
↓
ショウシカイ
老人の敬老会
中国の風習、唐の
白楽天が最初に行ったが
江戸時代の「尚歯会」は
↓
構成員
高野長英・小関三英・渡辺崋山
江川英龍・川路聖謨
シーボルトに学んだ
鳴滝塾の卒業生や
吉田長淑に学んだ者などで結成
天保の大飢饉などの相次ぐ
飢饉対策を講ずるために結成された
主宰者
遠藤泰通(遠藤勝助・遠藤鶴洲)
寛政元年(1789)~嘉永四年(1851)
紀州藩士遠藤新右衛門泰陳の次男
幼名は竹松・勝助から新右衛門と改名
字は子同
号は古愚・鶴洲
↓
泰通は儒学者で「志学問答」の著者
天保八年(1837)の
「救荒便覧」・・・
「尚歯会」の中心メンバー
渡辺崋山
↓
天保七年(1836年)から翌年の
天保の大飢饉の際には、食料備蓄庫(報民倉)を
築き、
「凶荒心得書」という対応手引きを著し
倹約の徹底、領民救済を徹底させ
餓死者を出さなかった
「蘭学にて大施主(と藤田東湖が賞賛)」
紀州藩儒官
遠藤泰通(勝助)が設立した
「尚歯会」に参加
高野長英などと飢饉の対策
長英は
ジャガイモ(馬鈴薯)と
ソバ(早ソバ)を
飢饉対策として提案
「救荒二物考」を上梓し
崋山がその挿絵を担当
モリソン号事件後
海防問題を議論し
「シーボルト事件」に連座
ーー↓
「それを啓しにとて、
(啓→もうす・ひらく
ケイ→啓蒙・啓発・啓示→形而)
↓
拝啓→ハイケイ→背景→敬老
↓ ↓
ケイシ(軽視・刑死)にとて
↓
高橋景保
ーー↓
物も
見さして
參り侍り
(纂理・字理→事理)
つる
(鶴・蔓・弦・都留・津留・吊る・釣る)
なり。
(納裏・名裏・拿理)
猶
(尚・名捕・名保)
いとめでたくこそ思ひはべれ」
(意図芽出度く故措、重い、葉部例)
と聞えさすれば、
「ましてさ覺ゆらん」
(真詞出、於簿喩覧)
と仰せらるる。
(賭、於補施等留瑠)
わざと呼びもいで、
おのづからあふ所にては、
「などかまろを、
まほに近くは語ひ給はぬ。
さすがににくしなど思ひたるさまにはあらずと知りたるを、
いと怪しくなん。
さばかり年ごろになりぬる得意の、
疎くてやむはなし。
殿上などに明暮なきをりもあらば、
何事をかおもひでにせん」
との給へば、
「さらなり。
かたかるべき事にもあらぬを、
さもあらん後には、
え譽め奉らざらんが口惜しきなり。
うへの御前などにて、
役とあつまりて譽め聞ゆるに、
いかでか。
ただおぼせかし。
かたはらいたく、
心の鬼いで來て、
言ひにくく侍りなんものを」
といへば、
笑ひて、
「などさる人しも、
他目より外に、
誉むるたぐひ多かり」
との給ふ。
「それがにくからずばこそあらめ。
男も女も、
けぢかき人をかたひき、
思ふ人のいささかあしき事をいへば、
腹だちなどするが、
わびしう覺ゆるなり」
といへば、
「たのもしげなの事や」
との給ふもをかし。
ーーーーー
猶(なお・ユウ)=犭+酋(おさ・シュウ・ジュウ)
↓ =追加説明・および・そして・アンド
↓ 猶太(ユダヤ人の漢字名)
↓ 「酋」の部首漢字は・・・
↓ 遵(したがう・ジュン)
↓ 鄭(かさねる・テイ・ジョウ)
↓ ↓
周王室と同じ姫姓の国
紀元前806年に周の王の末子である
姫友(桓公)が鄭の地(陝西省華県)に封
桓公の跡を継いだ
武公は、周の東遷後の平王の治世を支え、
新鄭(河南省新鄭市)に国を移した
紀元前375年
幽公の時に韓によって滅亡
↓ ↓
鄭和(1371年~1434年)
永楽帝の宦官
南海への七度の大航海の海軍提督
本姓は馬、初名は三保
イスラム教徒・・・?
通称
宦官最高位の太監・三保太監・三宝太監
1404年に特使として十万人を率い、
日本に派遣され
足利義満に倭寇取締りを要請し、
朝貢形式の勘合貿易に同意・・・
1405年7月11日
永楽帝の命で第一次航海~
蘇州から出発
1431年12月
第七次航海は永楽帝の死後に彼の孫の
宣徳帝の命令で出発
アフリカ東海岸の
マリンディ(ケニアのマリンディ)まで
宝船(ホウセン)
全長は120メートル超の大型船)で航海
↓ ↓
鄭成功(テイセイコウ)
寛永元年
大明の
天啓四年七月十四日(1624年8月27日)
~
永暦十六年五月八日(1662年6月23日)
諱は森
字は明儼
幼名は福松
父、芝龍は福建省の人
平戸老一官と称し、
第二十八代藩主
宋陽隆信の下で川内浦に住む
母は浦人田川マツ
十五歳
院考に合格し、南安県の生員
明の南京で
東林党の
銭謙益に師事
1644年
明国滅亡
清の侵略に明を擁護の抵抗運動をし
1661年に台湾を占拠していた
オランダ人を追放
承天府及び
天興、
万年の二県を、
澎湖島には
安撫司を設置し
台湾の鄭氏政権の祖となった
俗称は国姓爺・鉄人
倭銃隊(日本式の鎧・鉄砲隊・騎馬兵)を指揮
↓ ↓
↓ 奠(まつる・さだめる・テン・デン)
↓ 樽(たる)
↓ 尊(みこと・とうとい・とうとぶ)
↓ ↓
尚(とうとぶ・なほ・なお・ショウ・ジュウ)
歯(は・シ)
会(あう・あい・カイ)
↓
「尚」の類字は
「向」=むく・むける・コウ・キョウ・・・
考史会・後史解・・・視界、美濃、文多・・・
↓
「向」の同音異字は
↓
嚆矢会・・・嚆矢(かぶらや・コウシ)は先端に「鏑=(金+啇)・かぶら・やじり・テキ、チャク」という、矢が飛行中に大きな音響を出す仕組みの矢・会戦の始まりを知らせる用具」で「鏑矢(かぶらや)」は「流鏑馬(やぶさめ)に用いる矢」・・・ものごとの始まり・・・「嚆」は「呼ぶ(さけぶ)・鳴り響く(なりひびく)・ キョウ(ケウ)・コウ(カウ)・かぶら矢・・・「最初」の意味である・・・
↓
尚=なお=猶=直=名緒・・・
異体字、旧字は「尙(小+冋→ケイ)
朝鮮の
尚真王、旧字で「尚眞王」
1465年(成化元年)
~
1527年1月12日(嘉靖五年十二月十一日)
↓
琉球王国の
第二
尚氏王統の
第三代国王(在位1477年(成化十三年)
~
1526年(嘉靖五年)
童名は真加戸樽金(まかとたるかね)
神号は於義也嘉茂慧(おぎやかもけい)
尚氏(しょうし)は、琉球国・琉球藩の王家およびその姓
途中、金丸(後の尚円王)の王位簒奪により王家交替
第一尚氏・第二尚氏として区別している
↓
第一尚氏は「尚思紹王・尚巴志王」を始祖とし
七代六十三年間続いた
1406年(永楽四年)~1469年( 成 ...第二尚氏 -
↓
第二尚氏は「尚円王」を始祖とし
尚円王即位の
1469年(成化六年)
~
1879年(光緒五年)までの
410年間、沖縄の琉球王国を統治した王家
↓
尚寧王(しょうねいおう)
1564年(嘉靖四十三年)
~
1620年10月14日(万暦四十八年、泰昌元年九月十九日)
琉球王国
第二尚氏王統
第七代目の国王
在位1599年~1620年
ーーーーー
・・・関連アルや、ナシや・・・
ーーーーー
枕草子
(一三八段)・・・百三十八・壱佰参拾八・壱参八・陌参足捌
1+3+8=12=十二=壱拾弐=足弐
1×3×8=24=二十四=弐拾四=念肆
故殿の御ために、
(古伝の音矯め爾)
月ごとの十日、
(解通語渡の問う可)
御經佛供養せさせ給ひしを、
(音響、譜通、共用、施作是、他真、比詞記)
九月十日、
(句解通、読比)
職の御曹司にてせさせ給ふ。
(私記→史記→子規→死期→指揮の音蔵詞)
上達部、
(漢立ち目・韓絶ち目・定立つ辺)
殿上人いとおほかり。
(伝條比渡、意図、於補仮理)
清範講師にて、
(審判乞うし爾出・新版合史にて・侵犯行使にて)
説く事どもいとかなしければ、
(読異度摸、意図、仮名詞、化例葉)
殊に物のあはれふかかるまじき若き人も、
(言爾、摸之埜、亜葉例譜化掛留、混記、和歌記比渡摸)
皆泣くめり。
(視名、納句目理→拿組めり)
終てて酒のみ詩誦じなどするに、
(尾張出手、作化之視、史、生じ等素留爾)
頭中將齊信の君、
(頭注、将に再審→再診の訓)
月と秋と期して
(解通→通記と、亜記→亜紀→安岐→安芸と記して)
身いづくにか
(実、何処爾化)
といふ事を
(問い符言緒→渡移付言於→賭、委付異於)
うち出し給へりしかば、
(得知出し他真重理詩歌葉→詞花葉→視河馬→視椛)
いみじうめでたし。
(意味、字得、目出、足し)
いかでかは思ひいで給ひけん。
(異化出化葉、尾摸比→緒摸意→重い、出、他真比懸)
おはします所に
(於葉詞、真諏、常呂、爾)
分け參るほどに、
(和気→訳→別け→湧け、真意留保努爾)
立ち出でさせ給ひて、
(他知意出、作施、他真意出)
「めでたしな。
(目出度し→芽出度し→愛でたし)
いみじうけうの事にいひたる事にこそ
(意味字得、稀有の言爾、意比他留言爾、故素)
あれ」
(亜例→亜鈴→阿礼→古事記序文)
ーー↓ーーーーー↓
稗田阿礼(ひえだ の あれ)
「古事記・編纂者の一人」
時有二 舎人一。 姓稗田、名阿礼。
年是廿八。為レ人聡明、度レ目誦レ口、
拂レ耳勒レ心。即、勅_語二阿礼一、
令レ誦_習二帝皇日継及先代旧辞一。
然、運移世異、
未レ行二其事一矣。
↓
「あ(生)れ・有れ・在れ」
賀茂祭の幣帛(へいはく)
榊(さかき)に種々の綾絹(あやぎぬ)や
鈴などをつけたもの
ーー↓
とのたまはすれば、
(と、之他真葉諏例葉→場・羽・馬・婆
歯→尚歯会)
↓
ショウシカイ
老人の敬老会
中国の風習、唐の
白楽天が最初に行ったが
江戸時代の「尚歯会」は
↓
構成員
高野長英・小関三英・渡辺崋山
江川英龍・川路聖謨
シーボルトに学んだ
鳴滝塾の卒業生や
吉田長淑に学んだ者などで結成
天保の大飢饉などの相次ぐ
飢饉対策を講ずるために結成された
主宰者
遠藤泰通(遠藤勝助・遠藤鶴洲)
寛政元年(1789)~嘉永四年(1851)
紀州藩士遠藤新右衛門泰陳の次男
幼名は竹松・勝助から新右衛門と改名
字は子同
号は古愚・鶴洲
↓
泰通は儒学者で「志学問答」の著者
天保八年(1837)の
「救荒便覧」・・・
「尚歯会」の中心メンバー
渡辺崋山
↓
天保七年(1836年)から翌年の
天保の大飢饉の際には、食料備蓄庫(報民倉)を
築き、
「凶荒心得書」という対応手引きを著し
倹約の徹底、領民救済を徹底させ
餓死者を出さなかった
「蘭学にて大施主(と藤田東湖が賞賛)」
紀州藩儒官
遠藤泰通(勝助)が設立した
「尚歯会」に参加
高野長英などと飢饉の対策
長英は
ジャガイモ(馬鈴薯)と
ソバ(早ソバ)を
飢饉対策として提案
「救荒二物考」を上梓し
崋山がその挿絵を担当
モリソン号事件後
海防問題を議論し
「シーボルト事件」に連座
ーー↓
「それを啓しにとて、
(啓→もうす・ひらく
ケイ→啓蒙・啓発・啓示→形而)
↓
拝啓→ハイケイ→背景→敬老
↓ ↓
ケイシ(軽視・刑死)にとて
↓
高橋景保
ーー↓
物も
見さして
參り侍り
(纂理・字理→事理)
つる
(鶴・蔓・弦・都留・津留・吊る・釣る)
なり。
(納裏・名裏・拿理)
猶
(尚・名捕・名保)
いとめでたくこそ思ひはべれ」
(意図芽出度く故措、重い、葉部例)
と聞えさすれば、
「ましてさ覺ゆらん」
(真詞出、於簿喩覧)
と仰せらるる。
(賭、於補施等留瑠)
わざと呼びもいで、
おのづからあふ所にては、
「などかまろを、
まほに近くは語ひ給はぬ。
さすがににくしなど思ひたるさまにはあらずと知りたるを、
いと怪しくなん。
さばかり年ごろになりぬる得意の、
疎くてやむはなし。
殿上などに明暮なきをりもあらば、
何事をかおもひでにせん」
との給へば、
「さらなり。
かたかるべき事にもあらぬを、
さもあらん後には、
え譽め奉らざらんが口惜しきなり。
うへの御前などにて、
役とあつまりて譽め聞ゆるに、
いかでか。
ただおぼせかし。
かたはらいたく、
心の鬼いで來て、
言ひにくく侍りなんものを」
といへば、
笑ひて、
「などさる人しも、
他目より外に、
誉むるたぐひ多かり」
との給ふ。
「それがにくからずばこそあらめ。
男も女も、
けぢかき人をかたひき、
思ふ人のいささかあしき事をいへば、
腹だちなどするが、
わびしう覺ゆるなり」
といへば、
「たのもしげなの事や」
との給ふもをかし。
ーーーーー
猶(なお・ユウ)=犭+酋(おさ・シュウ・ジュウ)
↓ =追加説明・および・そして・アンド
↓ 猶太(ユダヤ人の漢字名)
↓ 「酋」の部首漢字は・・・
↓ 遵(したがう・ジュン)
↓ 鄭(かさねる・テイ・ジョウ)
↓ ↓
周王室と同じ姫姓の国
紀元前806年に周の王の末子である
姫友(桓公)が鄭の地(陝西省華県)に封
桓公の跡を継いだ
武公は、周の東遷後の平王の治世を支え、
新鄭(河南省新鄭市)に国を移した
紀元前375年
幽公の時に韓によって滅亡
↓ ↓
鄭和(1371年~1434年)
永楽帝の宦官
南海への七度の大航海の海軍提督
本姓は馬、初名は三保
イスラム教徒・・・?
通称
宦官最高位の太監・三保太監・三宝太監
1404年に特使として十万人を率い、
日本に派遣され
足利義満に倭寇取締りを要請し、
朝貢形式の勘合貿易に同意・・・
1405年7月11日
永楽帝の命で第一次航海~
蘇州から出発
1431年12月
第七次航海は永楽帝の死後に彼の孫の
宣徳帝の命令で出発
アフリカ東海岸の
マリンディ(ケニアのマリンディ)まで
宝船(ホウセン)
全長は120メートル超の大型船)で航海
↓ ↓
鄭成功(テイセイコウ)
寛永元年
大明の
天啓四年七月十四日(1624年8月27日)
~
永暦十六年五月八日(1662年6月23日)
諱は森
字は明儼
幼名は福松
父、芝龍は福建省の人
平戸老一官と称し、
第二十八代藩主
宋陽隆信の下で川内浦に住む
母は浦人田川マツ
十五歳
院考に合格し、南安県の生員
明の南京で
東林党の
銭謙益に師事
1644年
明国滅亡
清の侵略に明を擁護の抵抗運動をし
1661年に台湾を占拠していた
オランダ人を追放
承天府及び
天興、
万年の二県を、
澎湖島には
安撫司を設置し
台湾の鄭氏政権の祖となった
俗称は国姓爺・鉄人
倭銃隊(日本式の鎧・鉄砲隊・騎馬兵)を指揮
↓ ↓
↓ 奠(まつる・さだめる・テン・デン)
↓ 樽(たる)
↓ 尊(みこと・とうとい・とうとぶ)
↓ ↓
尚(とうとぶ・なほ・なお・ショウ・ジュウ)
歯(は・シ)
会(あう・あい・カイ)
↓
「尚」の類字は
「向」=むく・むける・コウ・キョウ・・・
考史会・後史解・・・視界、美濃、文多・・・
↓
「向」の同音異字は
↓
嚆矢会・・・嚆矢(かぶらや・コウシ)は先端に「鏑=(金+啇)・かぶら・やじり・テキ、チャク」という、矢が飛行中に大きな音響を出す仕組みの矢・会戦の始まりを知らせる用具」で「鏑矢(かぶらや)」は「流鏑馬(やぶさめ)に用いる矢」・・・ものごとの始まり・・・「嚆」は「呼ぶ(さけぶ)・鳴り響く(なりひびく)・ キョウ(ケウ)・コウ(カウ)・かぶら矢・・・「最初」の意味である・・・
↓
尚=なお=猶=直=名緒・・・
異体字、旧字は「尙(小+冋→ケイ)
朝鮮の
尚真王、旧字で「尚眞王」
1465年(成化元年)
~
1527年1月12日(嘉靖五年十二月十一日)
↓
琉球王国の
第二
尚氏王統の
第三代国王(在位1477年(成化十三年)
~
1526年(嘉靖五年)
童名は真加戸樽金(まかとたるかね)
神号は於義也嘉茂慧(おぎやかもけい)
尚氏(しょうし)は、琉球国・琉球藩の王家およびその姓
途中、金丸(後の尚円王)の王位簒奪により王家交替
第一尚氏・第二尚氏として区別している
↓
第一尚氏は「尚思紹王・尚巴志王」を始祖とし
七代六十三年間続いた
1406年(永楽四年)~1469年( 成 ...第二尚氏 -
↓
第二尚氏は「尚円王」を始祖とし
尚円王即位の
1469年(成化六年)
~
1879年(光緒五年)までの
410年間、沖縄の琉球王国を統治した王家
↓
尚寧王(しょうねいおう)
1564年(嘉靖四十三年)
~
1620年10月14日(万暦四十八年、泰昌元年九月十九日)
琉球王国
第二尚氏王統
第七代目の国王
在位1599年~1620年
ーーーーー
・・・関連アルや、ナシや・・・