gooブログはじめました!キリヤ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
コジキジゲン

密かに潜(潛・ひそまれ)ているモノ

2016-03-20 23:33:58 | 古事記字源

 ・・・「念壱拾壱・弐千壱拾壱」日目です。「2016年3月20日」デス・・・ガンガンの御天気で、「雪解(ゆきどけ・セッカイ)」・・・「春(はる・シュン)」・・・ここ、蝦夷地もナントナク、「はる=葉留・張る・貼る・逴・明・温」の「兆(きざ・チョウ・萌)し」です・・・ハぁルョ、コイ、ハァヤク、コイ・・・アルキはじめたミイ(ミヨ?・相馬御風の長女、文子?)ちゃんが・・・作曲、弘田 龍太郎(1892~1952)。作詞、新潟県糸魚川市出身の詩人、相馬御風(1883~1950)・・・
ーーーーー
 大正十二年三月に発表
 春よ来い 早く来い
 あるきはじめた ミイちゃんが・・・・・・視意・未意
 赤い鼻緒の ジョジョ(草鞋・鞋)はいて・・・・序助
 オンモへ(外)出たいと 待っている・・・・・・音摸
 ↓
 春よ来い 早く来い
 おうちのまえの 桃(もも)の木の
 蕾(つぼみ)もみんな ふくらんで・・・・通模視・蔀・莟
 ハヨ咲(さき)きたいと 待っている・・・葉与差記他意訳
 ↓↑
 大正十二年一月二十日
 御風の詩に
 弘田龍太郎が作曲
 曲と詩が
 大正十二年三月一日発行
 仏教童話雑誌
 『金の鳥(金の鳥社)』三月号で発表
 相馬御風著『相馬御風歌謡集(厚生閣)』に
 昭和十二年五月発行の「童謡の部」に収録
 戦後は毎年春にNHKラジオで放送された
ーーーーー
 そうですか・・・で、
 『歌語例歌事典(鳥居正博・聖文社・1988)』
 ↓↑
 ・・・この「鳥居正博」氏とはなにものか?・・・ボクの使用して居る「エッセンシャル英和辞典」の発行者でもあるんだけれど・・・「怪しい人物?」ではあるかな・・・以下は
 「レファレンス事例詳細(Detail of reference example)」
 ↓↑
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000099002
 ↓↑
 を参照、参考にし、少々改作して一部分を添付したモノに対するボクの「?」です・・・
 ↓↑
 「一年に春が二度来た」
 という主旨の歌
 「古くて有名な歌らしいが、何を調べたらよいだろうか(?)」とは、
 ・・・「一年に春が二度来た」とは
 旧歴(陰暦)と新暦(太陽暦)に混乱していた
 「明治以後のコト」だろう・・・
 そして、
 「江戸時代」であるならば、
 蘭学者にとっては
 「オランダ正月を祝うグレゴリオ暦の行事」だった・・・
 更に、空海の時代であるならば、
 ネストリア(景教・キリスト教異端)派の人物が
 密(ひそか)かに
 「太陰、太陽暦のハル(春)」としたカモ・・・
 ↓↑
 明治五年(1872)11月9日、
 太陰暦を廃し、
 太陽暦を採用することの詔書が発せられ、
 太政官布告
 第337号により公布
 1年を365日とし、
 それを
 12ケ月に分け、
 4年毎に
 閏年をおき、
 1日を24時間としたモノで
 旧暦の
 明治五年十二月三日を
 新暦の
 明治六年1月1月とした
ーーーーー
 ↓↑
 「密教=秘密・秘蜜→秘充=ひみつ=日満=斐視通→比観通」
 かも・・・密(ひそか・ミツ)かに・・・
 「前島密
  天保六年一月七日(1835年2月4日)
   ~
  大正八年(1919年)4月 27日)
  日本の官僚、政治家
  号は「鴻爪(コウソウ)」
  近代郵便制度の創設者
  1円切手の肖像人物
  郵便や、切手、葉書
  という名称を定めた」
 「1866年(慶応二年)
  「漢字御廃止之議」という建議書を
  将軍徳川慶喜に提出
  漢字使用の廃止と云う趣旨内容
  国語「国字問題」について
  言文一致を提言した人物である・・・
 ・・・秘密仏教は「真言」だが・・・確かに「法事=ホウジ=邦字・補得字」で聴く者には坊主の「読経は馬の耳に念仏」であるナッ・・・
 ↓↑
折口信夫(おりくち しのぶ)
1887年(明治二十年)2月11日
  ~
 1953年(昭和二十八年)9月3日 )
 民俗学者、国文学者、国語学者
 号は
 「釈迢空(シャクチョウクウ)」
 詩人・歌人
 ・・・この人物は「柳田国男」の弟子であったらしいが、彼にとっても「ニホンゴ」は難解であった・・・?・・・一旦、形成された「権威」とは怪しいのである・・・「一般人」にとってはアリガタイ存在になってしまうのは「日常言語の意味付与の権威者」だからであろう・・・まさに、
 「釈(解釈)」
 「迢(はるか・とおい
    ジョウ・デウ・チョウ・テウ
    遙遠・迢遠・迢遙・迢遞・千里迢迢)」
 「逓=遞・だんだん・しだいにダイ・テイ
    かわる・たがいに
    横へ横 へと次々に伝え送る
    遞信=郵便、電信などを
       順次に送り伝えて、届けること
       逓信・逓送・駅逓・伝逓」
 「空(そら・から・クウ)」
 であるかな・・・まったく、曖昧で混乱を「迢遞」である・・・「迢=辶+召(刀+口)」、「遞(辶+厂+虎)」の「虎=とら=訳等=彪・寅・勾」は崖っぷちの虎の道(辶=シンニュウ)である・・・
 ↓↑
http://www.shin-araragi.jp/zakki_bn/bn_08/zakki0809.htm
 ひそけし、かそけし
 釈迢空の
 『海やまのあひだ』から引く。
 沢なかの木地屋(キヂヤ)の家に
 ゆく
 われの
 ひそけき
 歩みは
 誰知らめやも
 ↓
 邑(むら・ユウ)山の
 松の木むらに
 日はあたり
 ひそけき
 かもよ
 旅びとの墓
 ↓
 かの子らや
 われに知らえぬ妻とりて
 生きの
 ひそけさに
 わびつゝをゐむ
 ↓
 谷々に
 家居ちりぼひ
 ひそけさよ
 山の木の間に
 息づくわれは
 ↓↑
 迢空流の表記法を廃して
 普通の書き方に改めた。
 『海やまのあひだ』の巻頭から数頁のところにある
 「ひそけき」、
 「ひそけさ」
 を含んだ作を並べてみたが、
 この迢空が好んだと見える用語は
 まだまだ見えるけれど以上にとどめる。
 言うまでもなく
 「ひそけき」は、
 形容詞
 「ひそけし」の連体形。
 「ひそけさ」は、
 その名詞の形である。
 この「ひそけし」が、
 一般の国語辞典に
 収録されていないということを、
 安田純生氏の
 『現代短歌のことば』によって教えられた。
 なるほど
 日本国語大辞典や
 広辞苑などには見えない。
 ↓
 ここで
 (斎藤)茂吉の使用例を挙げよう。
 ↓↑
 号外は「死刑」報ぜりしかれども
 行く
 もろ-つびと・・・多くの人・諸人?
「つび」は「つみなり」
          軍法会議で死刑を宣告された軍人
         「つび」の字は「また」、
          この意味は各人の検索自由・・・
 ただに
 ひそけし『暁紅』
 ↓↑
 清涼寺は
 ひそけく
 ありき
 をとめご(乙女児)の・・・・音目語之
 尼(あま・ニ)も
 居りつつ
 悲しからねど『連山』
 ↓↑
 秋づくといへば
 光もしづかにて
 胡麻(ごま)の
 こぼるる
 ひそけさにあり『白き山』
 ↓
 なお
 (北原)白秋にも
 「ひそけさよ
  小さき目白の枝越しに
  揺りつつきをり
  まんまろき
  柿(かき・シ)を(『風隠集』)」
 などがあり、近代歌人の歌集から
 「ひそけし」を捜すのは、困難ではないだろう。
 一般の国語辞典には確かに収録されていないが、
 不可解なのは、
 大言海が
 「ひそけき」という
 連体形のみを見出し語に出して、
 「ヒソカナリ。」として
 何の用例も示していないことだ。
 安田氏は、
 『短歌文法辞典・新版(飯塚書店)』に、
 この
 「ひそけし」・・・・・・・密かに卦詞?
 を取り上げていると言われる。
 それは手許にないが、
 同じ発行所の
 司代隆三編著
 『短歌用語辞典・新版』を見ると
 「ひそか」はあっても、
 「ひそけし」は、やはり見当らない。
 ただ飯塚書店編集部の
 『短歌常用語辞典(形容詞・形容動詞編)』
 にはこれを取り上げて、
 「鎚音に
  はたと
  やみたる
  蟋蟀(こほろぎ)の
  また
  鳴きつぐを待てばひそけし(終止)
  (塚原 嘉重)」
  ↓
 「ひそけくも
  女人唐俑の背丈ほどに
  花株埋めし
  雪は恥ぢらふ(連用)
  (大滝 貞一)」
  ↓
 「朝食の人らを待ちて
  ビルの中
  ひそけき店を
  人は清むる(連体)
  (田谷 鋭)」
  ↓
 の三例を示している。
 また
 鳥居正博編著の
 『歌語例歌事典』には
 「かそけし・ひそけし」を並べて
 「二語とも
  中古中世の古歌にはほとんど見えない。」とし
 「ひそけし」は
 「ひそか」の形容詞化と説いて
 「ひそけき
  吾が世帯を
  書き入るるかな
  昼寝より覚め
  裸となりて」
 という吉田正俊(『天沼』)の
 一首を挙げたのが目に止まった。
 木俣修編の
 『現代作歌用語辞典』には
 「ひそけし」は見えない。
 要するに
 一般の辞書には殆ど見られず、
 短歌用語辞典の類には
 載せたり載せなかったりの状態なのである。
 もう簡単に書くこととして、
 角川の
 『新編国歌大観』の索引を見ても
 「ひそけし」の用例はない。
 ただ
 江戸時代までの使用例に
 「ひそかなりける」
 「ひそかにそでの」
 「ひそかにひらく」
 というようなものが、少ないながら見つかる。
 「ひそかに」はあっても
 「ひそけし」の形容詞は、
 江戸時代までは発生せず
 明治以後の近代になって、
 ぼつぼつ使用されるようになったものか。
 しかし、
 「ヒソカ・ヒソヒソ・ヒソマル
  ヒソム・ヒソメク・ヒソヤカ」という
 同源の語があり、
 特にヒソカがあれば
 ヒソケシが導き出されるのは、
 ノドカ・ノドケシ、ハルカ・ハルケシ
 の関係と同様であって不自然ではない。
 古典に例がなくても、
 近代現代の短歌に
 普通に用いられているのであるから、
 広辞苑などで採用しないのは、
 編集者の怠慢である
 と言ってもいいのではあるまいか。
  ↓
 「かそけし」
 についても書く予定だったが余白がなくなった。
 この
 「かそけし」は
 万葉の家持作に二例あり
 「吹く風の音の
  かそけきこの夕べかも」
 が有名だがもうひとつ
 「夕月夜
  かそけき野辺に」
 という使用もある。
 「かそけし」があれば、
 上代にはそれに対応する
 「かそか」も存在したのだろう。
 しかし文献の記載はないようだ。
 平安以後は
 「かすか」が使われるようになる。
 すると
 「かすけし」も派生されそうであるが、
 この出現は、やはり
 明治以後であるらしい。
 明治三十九年発行の
 薄田泣菫の詩集『白羊宮』には
 「おもひでの吐息
  かすけき
  面(おもて)やつれ」
 とか
 「今宵
  かすけき囁(ささや)きに」
 とか、
 「かすけき」がしきりに出て来る。
 すると明治の詩人どもが使い始めであろうか。
 ここで現代短歌の
 「かすけし」の例を挙げたいが、
 もう書く場所がなくなった。
 筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
ーーーーー
 面白いね、だが、「密(ひそ)か」を明らかにするのはダレかにとって「タブー(taboo)」なのであるから、「言語屋」にとっては当然である・・・
 ↓
http://blog.goo.ne.jp/mearikutiari/e/42dc7e9546a6fdf526e90d3bbde065f7
 ↓↑
 で、問題にしたい
 「鳥居=とりい=訳理意」の「姓」だが、
 「江戸時代初期の
  朱子学派儒学
  林家祖の
  林 羅山、
  諱は信勝、
  号が羅山
  通称は又三郎。
  やっと
  又三郎が出てきた。
  林家十一世
  復斎の通称が
  又三郎、
  十世
  壮軒の通称が
  又三郎、
  九世
  檉宇も通称は
  又三郎。
  林家十一世
  復斎の次男で
  林家十二世を継いだ
  林学斎(昇)が
  又三郎を
  通称名としても不自然ではない。
  ↓
  林述斎の系図をみていて思い出した。
  述斎の三男はあの妖怪こと
  鳥居耀蔵
 (名は忠耀、
  通称は甲斐
  のち
  胖庵)
  学斎とは
  伯父甥の関係になる。
  ↓
  鳥居甲斐から数えて
  四代目子孫の
 「鳥居正博」氏が、・・・鳥居甲斐の家筋である
  この
  鳥居甲斐が晩年に
  残した日録というか日記を整理し、
  頭注・補注を加え
 「鳥居甲斐 晩年日録」
  として刊行している。
  ↓
  晩年日録の
  慶応四年十二月廿五日に
  林又三、
  林右近へ書通とあり、
  頭注に
  林又三(林又三郎学斎・甥)、
  林右近(復斎)
  とあったが、
  林復斎は
  安政六年九月に亡くなっている。
  明治二年七月十日項に
  右近妻
  幸女とありこの頭注に
  林右近・鶯渓とあった。
  明治初期には、
  林学斎は
  又三郎、
  兄の
  林鶯渓は
  右近を
  通称名として使っていたと思われる。
  ↓
  新宿区市谷山伏町に
  初代
  林羅山以下
  累代徳川幕府に朱子学をもって
  仕えた学者とその一族の墓地が残っている。
  ここに林学斎の墓碑がある。
  ↓
  幕府大学頭従五位下文
  靖林先生墓銘
 「先生
  諱昇
  字平仲
  号学斎林氏
  徳川幕府儒宗
  羅山先生
  十二世嫡孫也
  考
  諱韑
  号復斎妣
  津田氏
  嘉永中
  先生以
  次男為
  嗣子始謁温恭公
  安政四年
  命助父
  学識別給
  廩米参百苞
  六年襲世職
  大学頭家禄
  三千五百石
  叙従五位下班諸大夫
  文久三年
  従照徳公入朝
  明治維新後徳川氏
  更命
  為
  寺社奉行、、」
 と碑文を撰んだのは
 東宮侍講でのち
 二松學舍を創立した
 三島毅。
 この市ヶ谷の林墓地の中に
 紀年銘が
 昭和十二年十二月とある
 「林又三郎之墓」がある。
 学斎が亡くなったのは
 明治三十九年。
 そうすると
 この
 林又三郎は誰のお墓なのだろう。
 市ヶ谷の林氏墓地は
 大正のとき国史跡に指定され、
 いまは新宿区で管理、
 毎年11月の
 初めの
 土日2日間だけ公開
ーーーーー
 ・・・「鳥居耀蔵」とは蘭学者の「目の仇」だった・・・「明治」になっても、この両派の「怨念」みたいなモノが「文字・文章」の中に密かに潜(潛・ひそまれ)ているようであるカナ・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇津保(うつぼ)蔓(かずら)・・・卯通模モノガタリ

2016-03-20 00:20:20 | 古事記字源

 ・・・先日、「ガリバーの時代のラピュタ(天空の岩島)」と「古事記・日本書紀」との関連を書き込んだが・・・・古代九州の「岩井の乱」とは何であったのか?・・・「岩戸開き・磐余彦=神武天皇」・・・「神武(神倭伊波礼琵古命(古事記)=神日本磐余彦尊(日本書紀)景気」の由来とは・・・「磐の余り」と「伊の波の礼(禮)」である・・・ラピュタの時代は「ガリバー旅行記」が「初版 (1726年)~完全版(1735年)」であるから、執筆は「トーリー党(Tory Party)=(後のジェームズ2世)の即位を認める立場をとった人達をさしてToryと言った)」の政論家でもあった、スウィフト(蘇兎亥附訳?)が生存した「1667年11月30日~1745年10月19日」の半の時代(1720年代)であろう・・・「トーリー党(Tory Party)」の語源はアイルランド語のtoraidhe」で、意味は「ならず者・盗賊」・・・「ホイッグ党(Whig Party)」はスコットランド語で「謀反人・馬泥棒」と言うあだ名・・・日本語では「トーリー、ホイッグ」の発音では・・・「訳於理意・・・鳥→鳥居」、「補意継ぐ・補遺(本意)接具(愚)」かも・・・「コンサイス英和辞典の編集者」・・・?・・・ではなく、調べ直したら「エッセンシャル英和辞典(旺文社(昭和10年10月初版~昭和42年3月15日重版発行)」の「発行者」が「鳥居正博」氏であった・・・ゴメン・・・

 で、時代は「1800年代の日本」だが・・・

 「兎園會(トエンカイ)1825年・文政八年」なるものが「曲亭(滝沢)馬琴=曲亭陳人(かわら版記者・南総里見八犬伝、兎園小説の作家」が開催して
 「1803年享和三年春二月二十二(廿二・廾二)日午刻」
 に
 「うつろ(虚・空洞)舟と蛮女(去る亥の年=1803年)」
 の報告したらしい・・・ナゼか、「兎(うさぎ・卯・月・菟・莵・兔)の園(その)の會(あい)」・・・?・・・問えんかい、訳宛繪(絵)・・・

ーーーーー

  ↓↑

 1803年
 享和三年春二月二十二(廿二・廾二)日午刻・・・
 ↓↑
 癸亥年
 甲寅月
 丁亥日・・・・ユリウス 暦西暦1803年4月1日
        グレゴリオ暦西暦1803年4月13日
 丙午時
 水曜日
 ↓↑
 1807、8、9年・・・
 ↓↑
 https://www.youtube.com/watch?v=TMPUH28NCbA&ebc=ANyPxKqKZCZEp2O7hDYQJHcL2MQG6sB-NgbMIZL5gNhyLh-yyapgAmAcKGm5krYbjLEdDIFv2Y9ihLU-NCbfFo7rQMk2Y_MeXg
 ↓↑
 事件の場所
 常陸国
 はらやどり
 茨城県
 大洗町(北茨城市?)付近の
 海岸「はらやどりの」の浜
 鹿嶋灘(鹿島郡京舎ケ浜)の
 原舎ケ浜
 ↓↑
 舎利浜(伊能忠敬の絵図に記録)
 ↓↑
 うつろ舟の漂着した舟と女性の情報
 釜状の舟
 上部にガラス状の窓・鉄制の釜状の下部に縦縞の襞
 女性の状態
 赤毛・つけ髪・西洋風衣服・長靴
 ↓↑
 1825年後の「兎園會」で
 「滝沢馬琴」が報告
 前年の
 享保二年(1824年)5月28日に
 大津浜事件
 水戸藩領の
 大津(北茨城市大津町)の浜に、
 イギリス人
 12人が上陸
 水戸藩が尋問
 後
 彼らを船に帰した
 この年
 異国船打ち払い令が出された・・・
  ↓↑
 情報
 かわら版で類似したものが
 愛知・京都などで発売
  ↓↑
 研究
 1926年大正15年
 柳田国男
 「うつぼ(空洞)舟の話」を発表
 ・・・うつぼカズラ(ウツボカズラ(靫葛)
    打保・笂・簳・宇津保

  ↓↑
 金色姫(星福寺)本尊
 茨城県神栖市・・・神栖(すむ・セイ・サイ)
          栗栖・来栖(クルス)
 養蚕・・・箱の中には蚕(1807~8)
 曲亭馬琴=曲亭陳人・・・かわら版記者の署名
      「兎園小説」の作者
  ↓↑
 蘭文字(△○・王・○十○・○△○)の記録
    「蘭字枠」=浮世絵の外枠にデザインされた和蘭文字
  ↓↑
 2012年1月発見の「かわら版」
 滋賀・甲賀流忍者の家から発見
  ↓↑
http://scoby.blog.fc2.com/blog-entry-742.html
  ↓↑
 漂着の類似言い伝え
 『千葉県安房郡和田町(現南房総市)花園の伝説。
 「子の神由来記」と呼ばれる
  掛け軸に記録
  花園天皇(即位1308年)
  一人の姫がうつろ舟に乗ってこの地に漂着
  村人達の介護もむなしく、姫は死亡
  姫の墓に
  一本の花木(ハマボウの花)を植えた
  村の名も、
  西条村から
  花園村に変わった』
  ↓↑
 中国の古民話
 『あるところに金持ちの権力者の男がいたが、
  大事にしていた娘が
  未婚のうちに妊娠しているのが発覚した。
  娘を問い詰めると、相手は信心している寺の
  若い僧侶ということであった。
  怒った男は、僧侶を捕まえて首を斬った。
 また、いったん入ると出ることのできない舟を作り、
 その中に自分の娘を閉じ込め、流した』
 ・・・そうですか・・・「安珍-清姫」にも似ている・・・道成寺
ーーーーー
 "江戸時代の日蘭交流"
http://www.ndl.go.jp/nichiran/index.html
江戸時代の日蘭交流江戸時代の日蘭交流
 日本におけるオランダ語学習
 長崎の出島居留オランダ人との交渉のために
 長崎に配置された通詞(通訳)たちによって始められた。
 始め平戸にあったオランダ商館が長崎の出島に移されたのは、
 寛永16年(1639)の
 鎖国令により
 ポルトガル人が出島から放逐されてから2年後の
 寛永18年(1641)のことであったが、これ以後幕末に至るまで
 オランダ商館員(ただし男性のみ)は長崎の出島に居住を認められ、
 幕府公認の日蘭貿易に従事した。
 オランダ商館が出島に移って以後、幕府は、
 日蘭交渉の実務に携わらせるために通詞、
 すなわちオランダ語の通訳の養成を開始し、
 将来の通詞候補の若者を選んで出島に赴かせ、
 オランダ人から直にオランダ語を学ばせた。
 こうしてネイティブ・スピーカーから
 オランダ語を学んだ通詞の仕事は世襲であり、
 それぞれの家で親から子へとオランダ語の知識を伝承させた。
 このようにして、
 17世紀後半には長崎の通詞制度が確立し、
 ある程度のレベルの生きたオランダ語の知識が伝承されるようになった。
 17世紀後半以降の日蘭貿易の進展とともに、
 長崎におけるオランダ語の学習と研究は
 これらの通詞たちを中心として深められ、
 語学のみならず西洋の学問の研究も一段と進展した。
 このようにして西洋の学問研究を行ったことで知られる
 オランダ通詞の家としては、
 吉雄家、
 志筑家、
 本木家
 などが知られている。
 また、18世紀後半の江戸においても、
 前野良沢、
 杉田玄白
 らがオランダ語医学書の翻訳を行い、
 安永3年(1774)に
 『解体新書』として刊行し、また、
 大槻玄沢の私塾である
 芝蘭堂ではオランダ語教育が行われ、
 寛政8年(1796)に玄沢の弟子の
 稲村三伯が日本で最初の
 蘭和辞書である
 『波留麻和解』(「江戸ハルマ」)を刊行するなど、
 蘭学の興隆が見られた。
 19世紀になると、世界情勢の変動が日本にも波及し、
 フェートン号事件(1808年)をきっかけに、
 長崎の通詞たちの間ではオランダ語のみならず
 英語の学習も始められ、のちに
 日本人がオランダ語学習から英語学習に転換していく先駆けをなした。
 その一方、
 ヨーロッパ情勢の変動により
 オランダ船の渡来がほとんど途絶えた
 1810年代の出島では、
 オランダ商館長ドゥーフが、
 『波留麻和解』のもとになった
 フランソワ・ハルマの蘭仏辞典の日本語訳を独自に開始し、
 ドゥーフ帰国後の
 天保4年(1833)に、
 長崎通詞たちの手で
 『ヅーフハルマ』(「長崎ハルマ」)として完成した。
 この『ヅーフハルマ』は写本の形で西日本を中心に流布した。
 また、19世紀前半には長崎や江戸以外の地でも
 私塾や大名家で蘭学やオランダ語学習が行われるようになった。
 こうした私塾の中では、緒
 方洪庵が開設していた大坂の適塾が名高く、
 村田蔵六(大村益次郎)
 や
 福沢諭吉などが門弟として知られている。
 嘉永6年(1853)の
 ペリー艦隊の来航に刺激を受けて、
 日本における蘭学及びオランダ語学習は一層の進展を見せ、
 安政5年(1858)には
 今日の慶應義塾大学の前身となる
 蘭学塾が福沢諭吉により江戸で設立された。
 また同じ頃に、
 近畿・北陸や東北、九州の諸藩においても蘭学の進展がみられた。
 その後、明治維新とともに、
 英語、フランス語、ドイツ語などが
 オランダ語に代わって日本人の学習対象となっていくが、
 地方においては、
 19世紀の後半まで
 オランダ語やオランダ語文献の影響が残っていたようである。
ーーーーー
 ・・・???・・・「英語」もねッ・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする