・・・「風雲真田(上田)城」の「真田昌幸(天正七年・1580年~ )従五位下」はナゼ「安房国(アワのクニ・日本律令制度の地方行政区分)の守」の「官位(官職と位階)」だったのか?・・・現在の千葉県南部、別称は「房州(ぼうしゅう)・安州(あんしゅう)・南総(なんそう)」・・・「安房」の源流は「阿波(四国徳島)」であった・・・「古代、徳島県の北の地域は粟の生産地・粟国。南の地域は長国。『古語拾遺』によれば、神武東征において忌部氏を率いて、木国の材木を採取し畝傍山の麓に橿原宮を造営した天富命が、肥沃な土地を求め当地の開拓をし、穀・麻種を植えた。律令制において長国造の領域を含め令制国としての粟国が成立した。和銅六年(713年)、元明天皇による好字令で、地名を二字で表記するため「粟」は「阿波」に変更・・・「淡路島」は国造りの最初の「島」であった・・・コレは「日本地図作成の最初の場所」・・・だった?・・・
↓↑
天正九年(1581年)
武田勝頼の命で真田昌幸は
新たに
韮崎へ築城された新府城の人夫動員を通達
新府城築城に関しては
昌幸は作事奉行の説も・・・
が、昌幸は麾下の諸将に
人夫動員を通達しているに過ぎず、
作事奉行であったとする見方を慎重視する説も・・・
同年、
元沼田城主・沼田景義が旧領奪回を図ったが、
昌幸は家臣の
金子泰清に命じて景義を討ち取った。
↓↑
「安房守(天正七年・1580年~)従五位下」
↓↑
「官位は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称。古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のこと。中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当。各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という」・・・らしい・・・「武家官位とは、主として戦国期から江戸期にかけて、武士が任官または自称した官位(官職と位階)」・・・
ーーーーー
真田昌幸
生誕 天文十六年(1547年)
死没 慶長十六年六月四日(1611年7月13日)
改名 武藤喜兵衛→真田昌幸
別名 幼名:源五郎、通称:喜兵衛
戒名 長谷寺殿・一翁千雪大居士・一翁閑雪大居士
武家官位 安房守(天正七年・1580年~)従五位下
↓
勝海舟 安房守(文久三年・1864年・二月五日~)従五位下
・・・ナゼか「勝海舟」が「安房守(文久三年」」である・・・?
ーーーーー
「安房」の名称と由来
『古語拾遺』によれば、
阿波国において穀物や麻を栽培していた
天富命は、
東国により良い土地を求め
阿波の
忌部氏らを率いて黒潮に乗り、
房総半島南端の
布良の浜に上陸し開拓を進めた。
そして
阿波の
忌部氏の住んだ所は、
「阿波」の名をとって
「安房」と呼ばれたという。
上総国阿幡郡、
上総国阿波郡、
上総国安房郡
という表記の
木簡があり、
古くは
「阿幡」、
「阿波」
とも表記された。
↓↑
国府は現在の
南房総市府中付近に置かれ、
古代末期から中世にかけて
丸氏、長狭氏、安西氏、神余氏
などの武士団が活動し、
平安時代末期には
源頼朝の再起の地
鎌倉時代の守護は不明
室町時代の守護には
結城氏、
上杉氏
が就いた
15世紀半ば頃より
里見氏が台頭し、
戦国期には
安房統一を果たして
上総から下総の一部に至るまで勢力を張った
↓↑
豊臣秀吉による小田原城攻め以後
安房一国が里見氏の領地
関ヶ原の戦いでは、
里見氏は徳川家康を支援、加封
慶長十九年(1614年)
里見忠義
が
大久保忠隣・・・・オオクボ・おおくぼ?
改易に連座し
伯耆国
倉吉に転封・・・・倉吉?・・・蒼頡(ソウケツ・倉頡)
漢字の発明者の名前
「蒼鴂」?
その後は、
東条藩、
勝山藩、
上総
百首藩、・・・・・百首・・・「小倉百人一首」
北条藩、
館山藩
などの諸藩と、
幕府領・旗本領が置かれた
村数は
280ヵ村(天保期)
明治二年(1869年)
安房では
勝山、館山、北条
の三藩に、
新たに
長尾藩、
花房藩
の二藩が置かれた
この地の幕府領・旗本領は
安房上総知県事
柴山典・・・・・・・・・柴の山の典
の管轄となり、
翌年に
宮谷県が置かれて
柴山典が権知事となり、
安房四郡の
約5万6千石を管理
明治四年(1872年)
廃藩置県
木更津県に編入・・・・・記作等通懸に編入
明治六年(1874年)
木更津県と
印旛県・・・・・・・・・印版の懸
の合併により
千葉県に編入・・・・・・千(知)の葉(場)
明治三十年(1897年)
安房国四郡が統合
千葉県
安房郡に再編
↓↑
明治六年(1873年)六月十五日
木更津県が
印旛県に統合して
千葉県が発足
↓↑
安房坐神社は
名神大社
名神大社(みょうじんたいしゃ)
日本の律令制下において、
名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社
古代における社格の1つとされ、
その全てが
大社(官幣大社・国幣大社)に
列していることから
「名神大社」と呼ばれる。
↓↑
『続日本紀』
天平二年(730年)十月庚戌(二十九日)条
「渤海」からの貢物を・・・渤海?
・・・略称は魯
太行山脈の東方
山東省
北は渤海
東は黄海に面し
黄河の下流に位置
泰山
主要都市は
青島、泰安、威海等
諸国の
「名神社」に奉った
弘仁十二年(821年)正月四日付
太政官符に
名神は
「或は農の為に歳を祷り、
或は旱の為に雨を祈る。
災害を排すに至り荐(しきり)に徴応有り」
とある
『日本後紀』以後
次第に仏教用語の意味合いを含んだ
「明神」と混用記載
律令制の弛緩に伴って、
名神社は
二十二社へと
収縮固定されて
名神祭も廃絶した
中世以後は
社格の意味を持たない
「明神」にとって代わられた
↓↑
真田昌幸
↓↑
武田信玄の時代
天文二十二年(1553年)八月
甲斐武田家への人質として
七歳で甲斐国へ下り、
武田晴信(武田信玄)の
奥近習衆に加わった
『甲陽軍鑑』
信玄は
昌幸の父
幸隆にも劣らぬ才能を認め、寵愛
父と兄の
信綱、
昌輝と並び、
武田二十四将
父と兄弟3人が
武田二十四将に数えらた
「奥近習衆」は
『軍鑑』によれば
昌幸の他に
金丸平八郎、
曽根与一、
三枝勘解由、
三枝新十郎、
曽根総次郎
が挙げられている
↓↑
昌幸は
永禄年間に
信玄の母系
大井氏の支族である
武藤家の養子となり、
「武藤喜兵衛」を称し
足軽大将に任じられ、
その軍役は
騎馬十五騎、
足軽三十人
武藤家は
武藤三郎左衛門尉の時に
実子の
武藤与次
が早世したため、
昌幸を
養子(鳥子・擒・虜→訳理拠)にとった
↓↑
永禄七年(1564年)頃
山手殿(山之手殿、信幸、信繁らの母)を
妻に迎えた
山手殿は公家
「菊亭晴季」の娘(女)・・・規矩綴葉留記の音名(納)?
↓↑
初陣は『甲陽軍鑑』
永禄四年(1561年)九月
第四次
川中島の戦い
足軽大将として武田家奉行人にも加わった
昌幸は十五歳
↓↑
永禄九年(1566年)春、
甲府一蓮寺での歌会で
奥近習衆として
信玄の配膳役を勤めた
永禄十年(1567年)十一月
武田勝頼の嫡男・信勝が生まれた際には
山県昌景・馬場信春・内藤昌豊(昌豊)・土屋昌続(昌次)
と共に信玄の使者として
高遠城の勝頼の下に出向いた
↓↑
永禄十二年(1569年)十月六日
北条氏康・氏政・氏照
親子との
三増峠の戦いでは
先陣の
馬場信春・・・・葉場埜部葉留?
への使番を務めた
『軍鑑』によれば
北条軍との戦いで
一番槍の高名を挙げた
↓↑
元亀三年(1572年)十月
信玄の
西上作戦に参陣・・・・似史上作撰に纂字務
十二月
三方ヶ原の戦いにも参加
この際に
昌幸は浜松城に敗走した
徳川家康らを
追撃・総攻撃すべきという意見に反対
『軍鑑』によれば、
昌幸は
「武藤喜兵衛尉、
騎馬十五騎、
足軽三十人」
を率いて出陣
信玄の晩年には武田家の奉行人に列
元亀三年(1572年)二月四日
佐久郡
岩村田の
竜雲寺宛の
竜朱印状の
奉者として確認
↓↑
武田勝頼の時代
元亀四年(1573年)四月
信玄が病死すると家督を継いだ
武田勝頼に仕えた
↓↑
天正二年(1574年)
父・幸隆が死去
真田氏の家督は
長兄
真田信綱が継いでいた
天正三年(1575年)五月二十一日
長篠の戦い
信綱と次兄・昌輝が討死
昌幸は真田氏に復して家督を相続
武藤家の家督は
武藤一族の武藤常昭が継承
所領に関しては真田領のみの相続
家督相続後、昌幸は
真田領の仕置のために在国し、
勝頼への
甲府出仕も多かった
↓↑
天正六年(1578年)三月
越後の
上杉謙信死後に
御館の乱を経て甲越同盟が成立
天正七年(1579年)九月
昌幸は勝頼の命令で
北条氏政の所領であった
東上野の沼田領へ侵攻
天正八年(1580年)閏三月
沼田城攻撃を再開し、
金子泰清や藤田信吉らを投降させて
五月に沼田城を開城させた
同時に利根郡みなかみ町にあった
猿ヶ京城も攻め落とした
同年に喜兵衛尉を改め
↓↑、
従五位下
安房守
に叙任する・・・・
↓↑
天正九年(1581年)
勝頼の命で新たに
韮崎へ築城された
新府城の
人夫動員を通達
新府城築城に関しては
昌幸は作事奉行であったとする説
昌幸は麾下の諸将に
人夫動員を通達しているに過ぎず、作
事奉行であったとする見方を
慎重視する説も・・・
同年、
元沼田城主・沼田景義が
旧領奪回を図ったが、
昌幸は家臣の
金子泰清に命じて景義を討ち取った。
↓↑
天正十年(1582年)三月
織田信長・徳川家康連合軍による
甲州征伐が開始
昌幸は
武田勝頼に
甲斐国を捨てて
上野国吾妻地方に逃亡するように進言し
岩櫃城へ迎える準備をしていたが
勝頼は郡内領主
小山田信茂の居城である
岩殿城を目指して落ち、
途中で
信茂の裏切りに遭って最期を遂げた
↓↑
武田氏滅亡後、
昌幸は織田信長の家臣となって本領を安堵
織田氏の重臣
滝川一益の与力武将となった
沼田城には滝川益重が入った
昌幸は次男の
信繁を人質として
滝川一益に差し出した
↓↑
天正壬午の乱
織田氏に従属してから
僅か3ヶ月後の
天正十年(1582年)六月二日
本能寺の変で信長が横死
甲斐・信濃の旧武田領はこの事変で
森長可、毛利秀頼、道家正栄
ら
信長から
旧武田領の統治を任されていた
織田家臣らは相次いで
美濃方面に逃走し、
甲斐・信濃諏訪郡支配を担っていた
河尻秀隆
は殺害された
無主の旧武田領を巡り、
徳川家康・上杉景勝・北条氏直
らが争奪戦を繰り広げた(天正壬午の乱)
ーーーーー
・・・
・・・「千葉大学卒・現在23歳・パイロット志望・実家(大阪府池田市)はe防犯.comという防犯グッズの販売会社経営」・・・?・・・「少女誘拐監禁犯の目的」は何だったのか・・・日常生活の中に潜む「卑劣なIS予備軍の誘拐、拉致、奴隷売買」・・・「ム(私の源字・よこしま=邪・シ)」・・・「ム」の部首構成漢字は「肱(ひじ・コウ)=肉+ナ+ム」で、「腕(うで・ワン)」の形であり、「腕」の訓読みに「かいな(肩から肘までの部分・肩から手首の部分)」。「弯=亦+弓」を部首とする漢字は「わん=捥・椀・碗」の「器(うつわ・キ)」である。丸い窪(くぼみ)のある形のモノである。膝(ひざ)、肱(ひじ)の関節の窪み、指の関節の窪み部分と同時に、手首、足首、腕(捥)と足(脚・肢)、身体の骨全体の曲げるコトが出来る接合関節の部分である。「臼(うす)と杵(きね)」の「臼(うす・キュウ)の窪(くぼ)み」である・・・「踝(くるぶし・カ・ankle)」は「足首の関節の内外両側にある突起した骨・内側は脛骨(ケイコツ)の末端、外側は腓骨(ヒコツ)の末端にあたる・くろぶし・つぶぶし」の出っ張りだが・・・前回、書き込んだ「ワ・ム・ク・マ」の片仮名と、「7」の数字、それらの「左右上下斜め、反転」にした「字の形」にサラにコダワルと・・・
ーーーーー
「あぐら」を「カク」は、「胡坐」を「跨(カ)く」である。
「跨」=「足+大+一+丂(コウ)」=「またぐ・またがる・ク・ケ(クヱ)・カ(クヮ)・コ」
「丂=まがる・曲げる・枉げる・さまたげられる・コウ」
「蛙具等(あぐら)」を「斈(カク=文+子)=学・學(まなぶ・ガク)」・・・?
以下の絵の人物は
「アグラ(インドの都市)」出身の
詩人の
「ミール・タキー・ミール」が
「胡坐を跨(カ)」いている図と
「ワ・ム・ク・マ・7」の片仮名を
人体図として合成したモノ
↓↑
・・・「幻覚」を視て「恋愛の詩」をカク・・・ナゼ、「幻覚」が視えたんだか・・・「暗殺者(アサシン・(Assassin)」の常用する「ハシシ(大麻樹脂・麻薬・アサの花穂の樹脂を固めたもの・ハシシュ。ハッシッシ)常用」で狂ったのカモ・・・人間は「マンガ・動画・文字の羅列・阿字」を視ても、「ユーガのポーズ」をとっても、狂ってしまう「存在」なのかも・・・「胡座」をカイて、「ム」になっている奴らには要注意である・・・
↓↑
胡坐=あぐら=胡座・・・「粟国・安倉」・・・趺・踑
↓↑
アーグラ
(ヒンディー語=ウルドゥー語=アーグラー
英語=Agra=アーグラ)
↓↑
インドの
ウッタル・プラデーシュ州に属する都市の名
アーグラー、アグラとも表記
タージ・マハル廟
アーグラ城塞
がある
ガンジス川最大の支流の
ヤムナー川沿いに位置する都市
↓
古代叙事詩の
『マハーバーラタ』
において、
アグラヴァナ(अग्रवन:「前方の森」の意)
3世紀の
プトレマイオスの制作した
世界地図にも、
その位置が記録されている
1475年頃
ラージャ・バダル・シング
によって現代の
アーグラとなる都市が設立
↓
16世紀初頭
最後の
デリー・スルターン朝の
ローディー朝の都
↓
1526年
ローディー朝を倒して
ムガル帝国が建国され
3代皇帝の
アクバルの時代に都となり
赤砂岩で囲まれた
アーグラ城塞
首都宮城の
ファテープル・シークリー
1613年
シカンドラー霊廟が建立
↓
5代皇帝の
シャー・ジャハーン
は、愛妃
ムムターズ・マハル
の死を嘆き、
この街に
1622年
白亜の霊廟
タージ・マハル(国家の拠り所の意)廟を建てた
囚われの塔(ムサンマン・ブルジ)には
王が
7年間幽閉された
↓
19世紀
イギリスの支配下の植民地
1927年
アーグラ大学が建てられた
↓
アーグラ出身の
ウルドゥー文学の抒情詩の巨匠
ミール・タキー・ミール・・・?
↓ ・・・見入る・太記意・魅入る(観意留)
meal=食事→食字→殖字?
mill=粉挽き
mill=工場
カミ(製紙工場)=paper mill
加味・加美
咬・噛・嚙
髪香状?
「神・守・上」の口上
↓ ミール=ロシア語で
↓ 「平和・世界」を意味?
(1723年~1810年)
インドの詩人
本名は、
ムハンマド・タキー
抒情詩(ガザル)の巨匠
先祖はアラビア半島から移住
曽祖父の時代にアーグラに定住
ミールは幻覚で現れた人物に恋をし、
この体験がもとで詩作を始めた
文人となった後は
ムガル帝国の高官の庇護を受け、
戦闘にも参加
アワド太守の誘いを受けて
ラックナウへ移住
晩年をすごした。
↓↑
作品
ウルドゥー語の
ガザル(抒情詩)で、
恋愛詩
ミールのガザル詩集は6巻
マスナヴィー形式による
恋愛物語も有名
他の著作
ウルドゥー詩人の列伝
『ニカートゥッシュアラー』
(Nukat-us-Shura=詩人たちの注目すべき諸点の意)
自伝
『ズィクレ・ミール』
(Zikr-e-Mir、ミールの物語)が
ペルシア語で書かれている
↓↑
ガザル
アラビア語の
古典の定型詩に由来
他の言語に伝わり、各地に広まった
短い定型詩
5詩句~10詩句が一般的
アラビア語で
「紡ぐ」を意味する
語根「ghazala」に由来
インドやパキスタンでは、
現在も恋愛詩として鑑賞
特に
ウルドゥー語の
ガザルは
カッワーリー
などの歌曲に用いられ、
映画で使われることも多・・・
ーーーーーー
「ミル」の音元と語源・・・付録
↓↑
「紙・鉄鋼・織物」などの製品を作る
工場,製作所,製造所
a steel (a paper) mill
製鋼[製紙]工場.
製粉機を備えた
粉ひき場・製粉所・精米(麦)所
水車場・風車場
「水車、風車」小屋
a water (a wind)mill
「ひき(挽)臼うす・臼」
粉砕機・製粉機
籾(もみ)すり機・精米(麦)機
「コーヒー(珈琲・coffee)
胡椒・肉」などの
「ヒキ(挽き)器」
a coffee (a pepper)mill
「手回し臼(うす)→碓(うす・タイ)」
a hand mill
↓↑
No mill, no meal.
「ひき臼がなければ粉はない=まかぬ種は生えぬ」
↓↑
回転運動を利用した工作機械
a rolling mill
圧延機
断裁機
研磨機
圧搾機
a lapidary mill
機械的に大量事務処理を行う
役所、事業所、事務所
機械的業務
a DIPLOMA MILL
a DIVORCE MILL.
機械、
ライス盤の回転刃
サラサ捺染筒や
紙幣印刷板などに
模様・図柄を転写する
型押し鋼鉄ローラー.
ボクシングの試合
殴り合い.
treadmill.
機関車
航空機・自動車・オートバイ・ボート
などの
エンジン.
タイプライター
留置場
ぶた箱=軍刑務所・・・豚箱→猪子のハコ
牛の群れの旋回
ダンス(舞踏)・・・・部等・分等・武等→天武天皇?
ミル=フォークダンスで
男女2組が片手を
中央で合わせて
水車のように回ること
draw water to one's (own) mill
我田引水する
↓
ひき臼でひく
物を製粉機、粉砕機にかける
穀物をつく・殻をとる・籾すりをする
木材をひく・こびきする・ひき割る
圧延機・縮絨機・断裁機
研磨機・打出機・圧搾機
などにかける
mill grain
穀物をひいて粉(こな・フン)にする
mill paper
製紙にする
貨幣鋳造
硬貨などに
耳(へり・縁)をつける・・・耳=みみ・のみ・ジ・ニ
耳朶 (ジダ)
耳鼻科
外耳・心耳・俗耳
内耳・馬耳
耳順
耳元・空耳・早耳・福耳
硬貨に
「ギザギザ」をつける・・・ギザギザの歯・波・葉
チョコレート(chocolate・貯古齢糖・猪口令糖)
などをカキ混ぜる
かき混ぜて泡立たせる
人に拳骨(げんこつ)を食らわす
ぶん殴る
殴り合いをする
格闘する
打ち勝つ
投獄する.
物事をあれやこれやと
考えを巡(めぐ)らす
熟考する(over)
自動詞で
ひき(挽)臼
製粉機、粉砕機にかける
粉になる
家畜・人の群れが
当てもなく動き回る・・・放浪・彷徨(さまよう)
ぐるぐる回る
うろつく
思いが駆け巡る(about,around)
crowd milling in the theater lobby
劇場のロビーをウロウロしている人の群れ
殴り合う
鯨(くじら・ゲイ)が
急に向きを変えて泳ぐ.
mill around
戦車がもうもうと土煙をあげて走り回る
Mill on the Floss
『フロス川の水車小屋(G.Eliotの小説・1860)』
・・・「エリオット(重理於通訳)の背負う節」?・・・
ーーーーー
・・・みいる・ミイル・・・みる・ミル・・・・「ニンゲン」は個々に於いても、社会全体に於いても「クル」ってしまう「存在」であることを「自覚」すべきである・・・肝(きも)に銘(メイ)ジても、尚且つデある・・・