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コジキジゲン

鵜を使って「鮎(アユ・年魚)」などを獲る、漁法

2019-03-07 19:25:15 | 古事記字源

 「阿諛迎合」・・・迂回=ウカイ=宇甘・・・鵜飼い・・・
 鵜を使って「鮎(アユ・年魚)」などを獲る、漁法
         阿諛=顔色を見て、相手にオモネル(阿る)こと
            追従・「阿諛迎合・阿諛追従」・媚(こ)びへつらう
               「阿諛便佞・阿附迎合」

 Is this the real life
 Is this just fantasy
 Caught in a landslide(地滑りにあって)
 ↓↑
 ・・・ケンサク・ブログ検索、アレコレ・・・知らぬ存ぜぬ・・・
 ・・・しらんぷり・・・知らないふりをし続けること・・・
 ・・・新羅(斯羅・斯鸕・斯虜)んフリ・・・
  「知らぬ仏より馴染みの鬼」・・・?
 「シラざァ、イッて、キカセヤしょう」
 「知らぬがホトケ」って・・・?・・・「ムチがサイジョウ」ってコト・・・?
ーーーーー
       高句麗    貊
               (ハク)
 黄     楽浪郡   濊   日
        帯方郡     (ワイ)   本
 海                   海
     馬韓→百済 辰韓→新羅
         弁韓→加羅
             (伽耶=任那)
            任那・狗邪韓国・・・?
         対馬海峡
 ↓↑       ↓↑
 by 「https://ja.wikipedia.org/wiki/狗邪韓国」
 ↓↑       ↓↑
 「狗邪韓国」・・・?
 『三国志』では「其(倭国?)の北岸」
        「韓は南は倭と接する」
 『後漢書』では「倭の西北端の国」
 「弁辰十二国」の中の「弁辰狗邪国」
 「倭人
  在 帶方 東南大海之中
  依 山島 爲國邑。
  舊 百餘國
  漢時 有朝見者
  今 使譯 所通三十國。
  從 郡 至 倭
  循 海岸水行
  歷 韓國
  乍南 乍東
  到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里。
  ( 『三国志』卷三十 東夷伝 倭人条)
 ↓↑       ↓↑
 「從郡
  至 倭
  循海岸水行
  歴 韓國・・・歴=𠩵+止=歷=厂+禾+禾+止=厤+止
         厤=厂(崖)+秝(稲束)=異体字「歷・曆・歴」
          =屋根の傾斜を稲で拭いて止めた形象・・・
            ↓↑
           鸕鶿草葺 合(うがやふきあう)・・・
           鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
            ↓↑
           彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(日本書紀)
          (ひこ なぎさたけ うがやふきあえず の みこと)
           彦波瀲武鸕鶿草葺不合
          (ひこなぎさたけうがやふきあえず)
           天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(古事記)
          (あまつひこ ひこ なぎさたけ うがやふきあえず の みこと )
           鸕鶿(う・鵜)=鸕(ロ)=ペリカン・・・鸕野讃良
              カツオドリ
              日本では鵜飼の「う」・・・
              鵜飼い・鵜飼・鵜養
              鵜を使って鮎(アユ・年魚)などを獲る、漁法
              阿諛=顔色を見て、相手にオモネル(阿る)こと
                 追従・「阿諛迎合」
           波瀲(なぎさ)=渚
            ↓↑
         異体字「历・厤・坜 
             壢・𠪱・𠪾・𡿌
             𢊆・𢍷」
           レキ・リャク・へる(歴る・経る)
           年月を経る・過ぎた事柄・歴史・履歴
           わたる・めぐる・つぎつぎに
           歴訪・巡歴
           はっきりしている
           歴然・歴歴・歴程
           歴階=階段を上るに、左右を一段ずつ上ること
  乍南
  乍東
  到
  其北岸・・・・其の北岸
  狗邪韓國・・・狗邪韓國
  七千餘里
  始
  度 一海千餘里
  至 對馬國 」
 ↓↑       ↓↑
 「倭 在 韓 東南大海中
  依山島為居 凡百餘國。
  自 武帝 滅 朝鮮
  使驛 通於 漢者 三十許國
  國皆稱王 世世傳統。
  其 大倭王 居 邪馬臺國。
  樂浪郡 徼
  去 其國 萬二千里
  去 其西北界 拘邪韓國 七千餘里。
  其地 大較 
  在 會稽 東冶之東
  與朱崖 儋耳相近
  故 其法俗多同。
 (『後漢書』卷八十五 東夷列傳 第七十五)」
 ↓↑       ↓↑
  ・・・by 「姫皇子の邪馬台国」・・・
 『或るときは韓に属し、或るときは倭(国)に属した』
  此れについては、
  任那日本府(369年~562年)
  414年に建立された
  広開土王碑碑文に由る・・・
 ↓↑ 
 『広開土王碑碑文』
  百殘
  新羅
  舊
  是屬民
  由來朝貢
  而
  倭
  以
  耒卯年(辛卯年・391年)
  來渡海
  破
  百殘 加羅 新羅
  以
  為臣民
 ↓↑
 『諸番職貢圖巻』
 2011年
 歴史学者
 趙燦鵬によって発見された
 清朝時代の
 画家
 張庚による
 『諸番職貢圖巻』では
 18国の題記を含んでいる
 ↓↑
 張庚・模本に記された国、18国
  渇槃陀国、武興蕃(仇池國)、高昌國、天門蠻
  滑國、波斯国、百済国、亀茲国、倭国
  高句麗国、于闐国、斯羅国(新羅)、周古柯国
  呵跋檀国、胡蜜檀国、宕昌国、鄧至國、白題國 
ーー↓↑ーー
 ・・・by 「古代史俯瞰 by tokyoblog」・・・
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 ↓↑ ↓↑
 倭国・倭王, 史書, 韓・中国
 梁職貢図の倭国、斯羅國、新羅
 tokyoblog 2014-09-27 6 Comments
 ↓↑
 職貢図は、中国王朝からみた
 諸夷と呼ばれた周辺諸民族が、
 様々な扮装で来朝する様を、
 文章とともに絵図として描いている。
 梁(南朝)から
 清朝の時代まで
 複数の存在が確認されている。
 ↓↑
 2011年に発見された
 梁の『梁職貢図』には
 新羅が
 「あるときは韓に属し
  あるときは倭に属した」
 と、新羅が倭の属国であったと記されている
 『梁職貢図』は、
 後に元帝(孝元皇帝)として即位する
 蕭繹が、
 荊州刺史を務めていた
 526年~539年までの間に作成されたとされ
 新羅が倭国に属していた時期は
 これより前の年代になる。
 なお、蕭繹は、梁に朝貢する諸国の
 外国使節の風貌を
 荊州や梁の首都建康(南京市)で調査し
 また
 裴子野(469年~530年没)の
 方国使図を参考にした 
 ↓↑
 「斯羅國
  本 東夷 辰韓之小國也。
  魏時曰新羅
  宋時曰斯羅
  其實一也。
  或 屬韓
  或 屬倭
  國王
  不能 自通使聘。
  普通二年
  其王姓募名泰・・・募秦王(法興王)
 (其王名募秦)
  始 使隨百濟 奉表献方物。
  其國 有城
  號 曰 健年。
  其俗 與高麗 相類。
  無文字
  刻木為範
  言語
  待百濟 而後 通焉 
ーー↓↑ーー
 『梁職貢図』
 梁の武帝(蕭衍)の第七子
 後に元帝(孝元皇帝)として即位する
 蕭繹が
 荊州刺史を務めていた時代に作成
 蕭繹は学問好きで
 蔵書は10数万巻
 蕭繹は
 梁に朝貢する諸国の外国使節の風貌を
 荊州や梁の首都建康(南京)で調査し
 また
 裴子野(469年~530年没)の
 方国使図を参考にした・・・
 ↓↑
 原本は紛失
 唐の画家
 閻立本による模本(台湾故宮博物院蔵)
 南唐の画家
 顧徳謙による模本(台湾故宮博物院蔵)
 北宋の模本(中国国家博物館蔵)
 の三種類の模本が現存
 いずれも完本ではなく
 記事に欠落も多い
 「歴史地理風俗的題記」が記された
 北宋模本でも
 絵は12国
 題記は13国
 ↓↑
 近年、歴史学者
 趙燦鵬によって発見された
 清朝時代の画家
 張庚による
 『諸番職貢圖巻』では
 18国の題記を含んでいる
 ↓↑
 趙燦鵬によれば
 職貢図における
 高句麗の題記は
 『翰苑』高句麗条の記述と関連性が深く
 職貢図は
 『梁書』諸夷伝の
 原史料の一つ・・・でもあった・・・
 ↓↑
 張庚模本に記された国
 渇槃陀国(タシュクルガン・タジク自治県)
 武興蕃
 (仇池國)
 高昌國
 天門蠻
 滑國
 波斯国
 百済国
 亀茲国
 倭国
 高句麗国
 于闐国
 斯羅国
 (新羅)
 周古柯国
 呵跋檀国
 胡蜜檀国
 宕昌国
 鄧至國
 白題國
 北宋模本にある
 狼牙脩國
 (狼牙修国)
 未国
 については記載がない
ーー↓↑ーー
 「梁職貢図から
  新羅・高句麗題起が発見」
  ソウル=聯合ニュース
 2011年8月23日
 キム・テシク記者。
 2011年8月20日
 新羅史学会
 第107回学術発表会における
 ユン・ヨング博士発表。
 ↓↑
 ユン博士は
 仁川都市開発公社所属。
 張庚模本について
 青黛文集から発掘したと同記事にある。
 韓国古代史研究の第1級史料の一つと見なされる
 梁職貢図で永遠に消えたと見なされた
 新羅と高句麗に対する
 簡単な説明の題記が最近発見された。
 特に、今回発見された
 新羅に対する提起には
 新羅が
 倭の属国という一節がある、
 いわゆる
 任那日本府説とあいまって論争が広がる見通しだ。
 韓国古代史専攻である
 仁川都市開発公社
 ユンヨンク博士は
 過去20日、
 西江大学で開かれた
 新羅史学会
 第107回学術発表会を通じて
 中国で最近発見報告された
 梁職貢図提起を分析、紹介した。
 ユン博士によると、
 中国の学者の
 趙燦鵬が発掘し
 今年初めに紹介した
 梁職貢図資料は
 清国の中期に人物で
 絵に造詣が深い
 張庚(1685~1760)という人が
 模写した
 諸梁職貢図だ。
 ・・・中略・・・
 ユン博士は、今回公開された梁職貢図の史料を
 南京博物館の舊藏本の梁職貢図版本と比較した結果
 「新羅と高句麗を含む
  七つの国家の史料は
  完全に新しく出現した史料であり
  さらに
  百済と倭国をはじめ
  従来知られている
  九カ国の史料の内容も差は小さくない」
 と話した。
 特に
 張庚が書き写した
 梁職貢図を通じて初めて姿を現した
 新羅の史料を見ると
 新羅の国号は
 「斯羅國」と表記され
 しかも、
 新羅が
 「韓に属したりもし、たまに倭国に属したりもした。
  その国の国王は自ら使者を送りるのに
  増便することはできない」
 と記録されている。
 また、総九十一文字になったこの史料は
 「梁武帝の普通(年号)二年(521)に
  新羅王の
  募泰
  が初めて
  百済の使節に返答の使者を送り
  表をして小間物(方物、特産品)を送った。
 「その国では砦を
  健年(ゴニョン)と呼び
  その習俗は
  高麗(高麗、高句麗)と似ている。
  文字がなく、木を刻み、表示する。
  言葉は百済を介して通じる事が出来る」
 とした。
 この記録では
 「募泰」とは「募秦」を書き間違えた
 「法興王」を指し、
 姓を指す新羅語ゴンニョン(健年)も
 その他の記録を参照する際に
 ゴンモラ(健牟羅)のミスと考えられる。
 ユン博士はこの内容の中でも
 「新羅が倭国に属したりもしたと」
 いう言及が新たに明るみになった部分であり
 これをどう受け止めるかよって
 歴史学界で論議が起こる可能性があると付け加えた。 
 ↓↑
 韓国の歴史家
 ユン・ヨングは
 張庚模本と
 南京博物院旧蔵模本と比較したうえで
 「新羅と高句麗を含んだ七ヶ国の題起は
  完全に新しく出現した資料」
 とした。
 また、
 張庚模本の
 新羅題記の中の
 「或屬韓或屬倭」
 (「或るときは韓に属し、或るときは倭(国)に属した」)
 という記述について
 任那日本府(369年~562年)問題や
 414年に建立された
 広開土王碑碑文における
 「百殘 新羅
  舊 是 屬民由來 朝貢
  而 倭 以耒卯年・・・辛卯年(391年)
  來
  渡海
  破
  百殘 加羅 新羅
  以
  為臣民」
 という記述などの諸問題に関連して
 議論が起こるだろう・・・?
ーー↓↑ーー
 日出処
 「日出づる処の天子
  書を日没する処の天子に致す。
  恙無きや」
 という
 煬帝あて国書は、
 長年、議論の的となってきたが
 『大智度論』などの仏典では
 「日出処」は東
 「日没処」は西
 を指す言葉として用いられている・・・
 この語を
 倭国より先に国書で用いていた国があった
 梁の武帝に対して
 西域の小国の王が送った国書の中に
 「日出処」の表現が見える・・・
 ↓↑
 「趙燦鵬」
 「南朝梁元帝《職貢図》題記佚文的新発現」
 (『文史』2011年第1輯、中華書局、北京、2011年2月)
 現在は
 唐の模本と
 南唐の模本
 (台湾の故宮博物院)
 北宋の模本
 (北京の中国国家博物館)
 という3本の模本が伝えられている
 いずれも完本ではなく
 使者の絵や国名だけでなく
 その国の
 「歴史地理風俗的題記」が記してある
 北宋の模本にしても
 絵は12国、題記は13国にすぎず
 それも欠落があり
 倭国の題記も途中で切れてます。
 ↓↑
 ところが
 清代の学者・画家であった
 張庚(1685~1760)が写したものは
 十八国の題記を含んでおり
 それが
 清末民国初の
 葛氏の
 『愛日吟廬書画続録』
 (『続修四庫全書』子部・芸術類、1088册)
 中に掲載されていて
 現行諸本の
 欠落部分や
 文字の誤りを
 ある程度補うことができることを
 「趙燦鵬」氏は発見した・・・
 ↓↑
 北宋の模本では
 「…来朝。其表曰、揚州天子、 出処 大国聖主…」
 となっている箇所が
 今回発見されたテキストでは
 「来朝貢。其表曰、揚州天子、日出処 大国聖主…」
 となっていた・・・
 ↓↑
 つまり、
 「来朝す」でなく
 「来りて朝貢す」
 「出処」でなく
 「日出処」となっており
 その上表文では
 梁の武帝に対して
 「揚州の天子、日出づる処の大国の聖主」
 と呼びかけていたのです。
 しかも、この「表」ではそれに続けて
 胡蜜檀国王が
 「遙かに長跪合掌し、作礼すること千万なり」
 と述べており
 おそらく
 仏教信者である国王が
 武帝に対して遠方から
 仏教風に何度も礼拝を重ね
 非常に敬っている・・・ことが示されていた
 ↓↑
 梁代
 東南アジア・南アジア・西域
 の諸国との交渉が増えており
 それらの諸国が
 武帝あてに送った国書では
 武帝を菩薩扱いして敬い
 仏教用語を盛んに用いて
 武帝や梁を礼賛していた・・・
 梁こそが天下の中央であって
 その天下の東端の国から日が上るのでなく
 江南の
 梁は
 「日出づる処の大国」
 とされ、仏教信仰で
 有名な「天子」である
 武帝は「聖主」と呼ばれている・・・
 ↓↑
 このことは
 倭国の
 「日出づる処の天子」国書を考えるうえでも重要。
 実際、今回発見された
 倭国の題記の後半部分では
 末尾は
 「斉の建元中(479~482)に、表を奉じて貢献す」
 とあるのみです
 ↓↑
 遣隋使の日出ずる処
 ↓↑
 派遣第一回
 開皇二十年(600年)
 『日本書紀』に記載はない
 『隋書』
 「東夷傳俀國傳」は
 高祖文帝の問いに
 遣使が答えた様子を載せている
 ↓↑
 「開皇二十年
  俀王 姓 阿毎
     字 多利思北孤
     號 阿輩雞彌
  遣使詣闕
  上 令 
  所司訪 其風俗
  使者言
  俀王 以天爲兄
     以日爲弟
  天 未明時 出聽政 跏趺坐
    日   出便 停理務
  云 委我弟
  高祖曰 此太 無義理 於是訓令改之」

 開皇二十年=推古天皇八年
   念=20     捌=8
ーーーーー
 持統天皇
 在位期間
 690年2月14日~697年8月22日
 外交では前代から引き続き
 新羅と通交し
 唐とは公的な関係を持たなかった
 ↓↑
 金春秋
 父は第25代
 真智王の子の
 伊飡(2等官)の
 金龍春(文興葛文王と追封)
 ↓↑
 母は第26代
 真平王の長女(or次女)
 天明公主(文貞太后)
 実父は金龍春の兄の
    金龍樹
 『旧唐書』『新唐書』には
 真徳女王の弟
 『三国史記』
 新羅本紀・太宗武烈王紀の分注で
 誤りと指摘
 ↓↑
 王妃は
 角干(1等官)の
 金舒玄の娘の
 文明夫人・文姫
 ↓↑
 金庾信(『三国史記』によれば
 黄帝の子の
 少昊金天氏の子孫の妹
 ↓↑
 従兄弟 義慈王 百済第31代国王
 ↓↑
 金庾信の
 妹=文明王后金氏(武烈王の王妃)
 甥=文武王 第30代国王
 妹=金寶姫(武烈王の後宮)
 大伯父=真興王
 伯父=真平王
 従姉妹=善徳女王 第27代国王
 従姉妹=天明公主 武烈王の母
 従姉妹=善花公主
     百済第30代 武王の王妃
     第31代 義慈王の母
 ↓↑
 文武王⇔・・・日本の「文武天皇=珂瑠皇子」は同名
 (在位661年~681年)
 姓は金
 諱は法敏
 ↓↑
 金庾信(595年~673年)
 の妹が
 金春秋(武烈王)
 に嫁いで
 文明夫人・・・文明夫人=文明譜盡(訊・尋・壬)
 その長子が
 文武王
 ↓↑
 天智天皇2年8月27日~8月28日
 663年10月4日~10月5日(ユリウス暦)
 白村江の海戦
 ↓↑
 671年
 10月
 百済に向かっていた
 薛仁貴
 が率いる唐の水軍が
 黄海で
 新羅の水軍に敗れた
 672年
 7月
 唐軍と
 靺鞨軍が平壌を占領し
 8月に
 韓始城と
 馬邑城を占領した
 高句麗復興軍と
 新羅軍は
 672年
 12月
 白氷山・・・白氷山
 で唐軍に敗れた
 673年に
 瓠瀘河でも唐軍に敗れ
 高句麗復興運動は衰えた
 新羅は
 674年に
 安勝を
 百済地域に設け
 報徳国の王とした
 ↓↑
 674年1月
 唐の
 高宗は
 文武王
 の冊封を取り消し
 代わりに
 文武王の弟の
 金仁問・・・・金の「尋問・訊問・人文・陣門」?
 を新羅王に冊封した
 文武王は
 675年
 2月
 謝罪使を派遣し
 元の状態に戻った
 675年
 9月
 新羅軍
 泉城で唐の
 薛仁貴・・・薛の仁の貴・・・壬癸・仁木(似記)
 の軍を破り
 買肖城戦闘で
 李謹行・・・李の謹の行・・・近業・錦江・筋行
 の軍を破った
 676年11月
 新羅の水軍が
 錦江河口の
 伎伐浦海戦で
 薛仁貴
 の水軍を破る
 唐は
 熊津都督府と・・・熊津都督府=遊心訳解く譜?
 安東都護府を・・・安東都護府=案問(答)訳解く譜?
 遼東に移し・・・・遼東=両等
 朝鮮半島から撤退した
 結果
 新羅が朝鮮半島の三国統一
 新羅は
 戦争中も
 唐との朝貢冊封関係を維持
 唐の年号を使い続けた
 ↓↑
 676年11月
 白江河口部の
 伎伐浦(忠清北道舒川郡長項)
 で唐軍に大打撃を与え
 唐の半島支配とをあきらめさせ
 唐は
 熊津都督府・・・676年(上元3年)2月
         熊津都督府を泗沘より
         建安故城(遼寧省営口市)に移転
         安東都護府が管轄する
         安州都督府と統合
 熊⇔能+四足(灬⇔㣺=心=忄)
 能弁・能力・能吏・可能・機能・効能・能楽・能面
 能登(のと)の国」の略・「能州」
 官能・機能・技能・芸能・効能
 能=はな=鼻=nose
   塙・花・華・葉菜・洟・葉名・端名・英
 ↓↑
 唐王朝は
 安東都護府を
 遼東地方に引き上げ
 朝鮮半島から
 唐の勢力は排除された
 ↓↑
 過=辶+冎+口
 ↓↑
 盧=虍+田+皿
   簡体字「卢」
   異体字「壚・廬・櫨・獹・爐・矑
       𥃈・𧆣・籚・鑪・顱・鸕」
  =めしびつ・くろい・めし入れ・つぼ
   ロ・ル
   すびつ・火入れ・火鉢
   くろい・くろいもの
   酒場
   蘆・あし・よし・イネ科の多年草
   蒲盧(ホロ)
   ・・・「爐(炉・炉端)」
      「鱸(すずき・出世魚の一)」
      古名「スギユキ・スヂユキ・ススキ」
      と転じて、純白、雪白の意を表したもの
ーーーーー
 ・・・

コメント
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