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コジキジゲン

金&武&文・・・あんどゥのイシ・・・

2019-03-13 15:38:02 | 古事記字源

 国家の存在・国家の存亡・国家滅亡・国家の消滅
 地球協同体の形成・・・大地球「共栄圏の幻想」・・・
 pen pen(言論)でジンケンは護れない・・・
 武装無き真実・事実のペンを構えても
 マモレるモノは少ナイ・・・
 ペンは虚と実のコトバでオドル・・・
 売文のペンはfake バイバイで腐敗繁栄する・・・
 売文のペンは fact バイバイでも焚書隠蔽される・・・
 独裁者の「自由」とはナニか・・・生殺与奪の私欲・・・?
 個人の「自由」とは・・・妄想・・・?
 協同体の「自由」・・・排斥・・・?
 ・・・???・・・
ーー↓↑ーー
 「鄭=酋(八酉)+大(一人)+阝」・・・「乞巧奠(酋+大)」
 ↓↑
 鄭=奠+阝=𨞀
   通仮字「丁」
   異体字「𨞀・奠・郑」・・・𨞀=奠+邑(口巴)
   ねんごろ・テイ・ジョウ
   丁寧・細かい所まで気を配る事・鄭重
   懇(ねんご)ろ・懇意・心がこもっている様・親切な様
   重なる・躑重・躑丁・・・
       ・・・つつじ=躑躅・映山紅・鼓路・筒地・筒治
              躑=足+鄭=足+奠+阝=足+奠+邑
                ただずむ・たちもとおる・ためらう
                しゃがむ
                テイ・テキ・チャク・ジャク(ヂャク)
                𧾷の奠の邑=鄭
                足(たり・あし)に
                奠(そなえる)
                邑(くに・阜=丘)
                  ↓↑
                奠=くましね?・・・高麗詞音?
                  狗摩師禰?
                  熊死ね?・球磨詞音・隈死ね
              ・・・大隈死ね?
                  ↓↑
                  かき「く」けこ
                     ↓
                 「ま」みむめも
                    ↓ 
                  さ「し」すせそ
                      ↓
                  なにぬ「ね」の
                  ↓↑
                 =神仏に捧げる洗い清めた白米
                  クマシネ(供米)・奠稲・糈米
                  かしよね・ おくま
                  純米=「神稲(くましね)」
                 「神稲=久万之禰(く・ま・し・ね)」
                     久万之呂
                  ↓↑
                奠=まつる・そなえる・さだめる
                  テン・デン
                   神仏に酒食などを供える
                  奠茶・香奠
                  さだめる・位置を決める
                  奠都・祭奠・釈奠(セキテン)
                  奉奠・乞巧奠
 ↓↑
 鄭元暢
 鄭 和
 鄭姝音
 鄭孝胥
 鄭成功
 鄭承博
 鄭振鐸
  ・・・知っているのは「鄭 和」と「鄭 成功」だけれど・・・
  ・・・怪しい姓名の合体漢字ではアルな・・・
 ↓↑
 鄭王朝
 中国の隋(ズイ)の時代
 開明元年~武徳三年
 己卯    辛巳
 619年  ~621年
 ↓↑
 王世充・・・隋朝の
 ↓↑     恭帝侗(隋王朝第四皇帝)を廃して
       鄭国を建国
 字は行満  隋朝の部将・煬帝の時代には反乱軍を撃破
 ↓↑     恭帝侗の時代には
       反乱軍団を保有していた
       李密を降伏させた
       ・・・茸(キノコ)の理の密(秘密・蜂蜜)
       ・・・稿付句・高伏?・・・
       後に
       唐の
       李淵は
       降伏した
       王世充
       を平民とし
       一族を巴蜀(四川省)に流刑にした
       移動途中の
       雍州の
       廨舍・・・役所・公社・公廨(クガイ・くげ)
            官衙の舎屋・律令制下で官衙収蔵物・用度物
            転じて官人(国司)の得分(給与)を指す
            収蔵物・用度物の配分物
       で
       定州刺史
       独孤修徳・・・独孤=獨孤=非漢族の姓
           ・・・独逸・独乙・何奴・・・
 ↓↑     ↓↑      独り孤立して徳を修める?
              獨=犭(犬・獣)+蜀(罒+勹+虫)
              独孤 信(ドッコシン・502年~557年)
              西魏の匈奴系軍人
              武川鎮軍閥の重鎮
              娘たちはこの軍閥から出て
              関隴集団系
              拓跋国家を樹立した
              宇文氏(北周)
              楊氏(隋)
              李氏(唐)
              のいずれにも嫁いだ
              本名は如願
              字は期弥頭
              本貫は雲中郡
 ↓↑             ↓↑
              独孤 伽羅
             (ドッコカラ・544、553年~ 602年)
              隋の
              文帝
              楊堅の皇后
              一夫一婦主義を要求した皇后
              独孤信の七女
              楊広(煬帝)の実母
              母は崔氏
              北周の
             「阿史那(あしな)」皇后の
              菩提のために寺を建立
              諡は献・・・献=南+犬
              夫の諡「文」を冠して
              文献皇后・・・文献交合(咬合)?
             「独孤(ドッコ ) 皇后」
              と呼ばれる女性は一人ではなく
              四名存在
              三名は「実の姉妹」
              異なる王朝
              北周=敬皇后
              隋=文帝楊堅の文献皇后
              唐=元貞太后、李淵の母
 ↓↑      ↓↑     ↓↑
              独孤 陀(獨孤陀=獨孤陁)
              独孤信の六男
              548年(大統十四年)
               ・・・大の統の壱拾肆の年
              父の功績により西魏の
              建忠県伯に封じられた
 ↓↑      ↓↑    「猫鬼」の事件・・・
       により殺害された・・・?
       父親は
       西域人の
      「王收」・・・王に收(おさめる)
       姓は支・・・干支の「支⇔枝」
       子は
       王玄応=皇太子・唐に処刑
       王玄恕=鄭国王・唐に処刑
       王玄瓊・・・生死不明・・・???
 ↓↑  ↓↑  ↓↑  ↓↑
        「瓊」・・・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
              瓊々杵尊
              邇邇芸命(ににぎのみこと)
                   似二義廼見事
 ↓↑  ↓↑       ↓↑ ↓ ↑ ↓
     天  饌石 国 饌 石 天津 日高日子火
    (アメのニギシクニニギシアマツヒコヒコホの
              瓊瓊杵 命
              ニニギのミコト)
 ↓↑  ↓↑       ↓↑    ↓ ↑ ↓
     天 邇岐志国 邇岐志天 津日高日子番能邇邇芸 命
   (アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギのミコト)
      天 津日高日子番能邇邇芸 命
     (アマツヒコヒコホノニニギのミコト)
           彦 火 瓊瓊杵 命
          (ヒコホのニニギのミコト)
 ↓↑  ↓↑         ↓ ↑ ↓    ↓ ↑ ↓ ↓ ↑ ↓
    天照大神→天忍穂耳尊→瓊瓊杵尊→火折尊→鸕鶿草葺不合尊
 ↓↑
 王世充の
 「鄭」
 河南省内に建てた国が
 李淵の
 唐に滅ぼされた
ーー↓↑ーー
 「鄭」
ーー↓↑ーー
 中国
 周代の諸侯国の一
  (前806~375)
 姫(キ) 姓
 周の
 厲(レイ)王の子の
 桓公友が兄の
 宣王によって
 宣王二十二(前806)年に
 鄭(陝西省) に封じられた
 ↓↑
 前771年
 桓公は
 周の
 幽王とともに
 犬戎(ケンジュウ) ・・・「犬の戎(えびす・ジュウ・ニュウ)」
 に殺された
 その子
 武公は
 平王とともに
 鄶(カイ)と東虢(トウカク)の
 二国を滅ぼし
 東遷
 武公とその子
 荘公は
 周の平王の卿士(ケイシ)となり
 周の国政を左右し
 周の藩屏(ハンペイ)
 として
 新鄭 (河南省) に移った
 前8世紀後半
 荘公の頃繁栄し
 周王室を圧迫
 厲公七(前673) 年
 王子
 「頽(タイ)の乱」で
    ・・・頽=禿(禾儿)+頁(一ノ目八・ページ)・・・廃頽
    ・・・タイ=他意・太・対・台・臺・鯛・態・帯
          俀
       タイ=碓⇔小碓命=日本建?
 周の王を救った
 ↓↑
 厲公後六年(前674年)
 周の
 恵王が
 叔父の王子
 頽(タイ⇔頽廃)
 と対立し
 鄭に援助を求めてきた
 厲公は出兵して
 王子頽(タイ)
 を攻撃したが
 勝つことができず
 厲公は
 恵王
 を収容して帰還
 櫟(くぬぎ・レキ・リャク)=木(十八)+樂(幺白幺十八)
 に住まわせた
 ↓↑
 翌年(前673年)春
 厲公は
 虢叔・・・虢(つめあと・カク・ホウ・ボウ)
      虢=寽(とる・リツ)+虎(とら・コ)
      虢は周と同姓の国
      周の
      文王の弟
      虢仲が初めて封ぜられた西虢
      文王の弟
     「虢叔」の封ぜられた東虢
      その後の移動による
      南虢、北虢(山西省平陸県)がある
 と協力して
 王子頽
 を誅殺
 恵王を復位させた
 五月
 厲公が薨去
 子の
 踕(ショウ)が立って
 鄭君=文公
 となった
 ↓↑
 隣国
 宋との対立が激しく
 晋、楚の衝突が繰返され
 その
 両国から圧迫された
 春秋時代後期
 簡公が
 子産・・・子産=シサン=私産・資産・試算・四散
 を用いて各種の制度を改革
 国内貴族の紛争を処理
 外交面では
 晋、楚両国の圧迫を巧みに排除し
 国家を護国保全
 子産の死後は衰退
 晋
 や
 韓の侵入を受け
 康公二十一(前375)年
 韓の
 哀侯・・・哀(あわれ・あわれむ・アイ・オ)
 に滅ぼされた
 ↓↑
 文公
 紀元前?年~紀元前628年
 鄭の第十代君主・・・鄭(テイ)
           紀元前806年~紀元前375年)
           西周時代~春秋戦国時代まで
           存在した国
           姓は姫
           爵位は伯爵
 厲公の子・・・厲=厂 +萬=レイ= 厉
 ↓↑       がけ・かけ(厂・崖)の中に萬=万・・・?
            掛け・垳 崖=山+厂+圭
                 萬⇔圭
                一万⇔十一十一(二十二)
                10000⇔1111
1(壱・壹)⇔4(四・肆)
 ↓↑      厲=礪=といし・あらと・とぐ・みがく
          はげしい・きびしい・するどい
          はげむ・はげます
          厲行・励
          えやみ
          疫病・厲疫
          や(病)む・しいたげる
          わざわい・たたり
          災厲(サイレイ)・砥厲(シレイ)
          奮厲(フンレイ)
          掲厲=掲も厲も着物を
             たくしあげて川を渡るの意
             川を歩いて渡ること
             川の歩いて渡れる所
            「続日本紀
             宝亀八年(777)十二月乙巳
             是冬不雨、
             井水皆涸、
             出水宇治等川並
             可掲厲」
            「深厲浅掲」
             水を渉る
             衣を持ちて深き所を渉るを厲
             衣をかかげて浅瀬を渉るを掲
 ↓↑         「王維‐燕子龕禅師詩」?
           「鷙鳥厲疾(シチョウレイシツ)
             七十二候の一
             大寒の次候
             鷲や鷹などが空高く速く飛び始めるさま」
           「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)
             二十四節気の大寒の次候
             1月25日~1月29日ごろに相当
             季節は晩冬
             沢に氷が厚く張りつめる
             の意」
             大寒の初候は「款冬華」
                末候は「鶏始乳」
           「水沢腹堅」は
           「略本暦」における呼び名
            元々、中国の宣明暦で
           「鷙鳥厲疾」と呼ばれ
           「鷲・鷹などが空高く速く飛び始める」
            の意  
 ↓↑
 厲公の子
 ↓↑
 姓  姫
 諱  踕
 諡号 文公
 ↓↑
 厲公の子
 厲公後七年(前673年)五月
 厲公が薨去し
 子の
 踕(ショウ)=𧾷+疌
 ↓↑    =足(口止)+⺕+十+龰(人卜)
              疌
        異体字「𨄀」
        足早に進む・素早い・敏捷
        踕
        ・・・捷婕啑倢睫徢・・・α+疌
           崨・寁・婕・啑・倢
           䝊・䑖・𪖮・𩗳・𩃖
           𨺇・𨤴・𨘉
 ↓↑     𪖮=くさめ・くしゃみ・テイ・タイ
 が立って
 鄭君(文公)
 となった
ー↓↑ーー
 「α+疌」の漢字
 ↓↑
 疌=ショウ
   素早い=捷
 倢=亻+疌
   ショウ・ジョウ・異体字「偼」
   機敏な、素早い
   倢伃=女官の職位名
 啑=口+疌
   ソウ・ショウ・チョウ
   鳥や魚が餌をぱくぱくと
   忙(せわ)しげに食う=唼
   ぺらぺらと話す
   ぺちゃくちゃと喋る
   同盟の証しとして血を
   尖らせた口を飲み物の中に入れるようにして
   啜(すす)る、舐めるように啜る=歃
 婕=女+疌
   ショウ
   婕妤=女官の職位名
 寁=宀+疌
   サン・ソン
   速い
 崨=山+疌=𡹈
   ショウ、ジョウ
   山が高いさま
   崨嶫=山が高く険しいさま
      高低不揃いの山が
      鋸の歯のようにぎざぎざと連なっているさま
 𢈻=广+疌
   ショウ
   人名用字
 徢=彳+疌
   足早に歩くさま
 捷=手+疌
   ショウ・ジョウ・はやい
   㨗掶
 行動や動きが素早い
 戦いに勝つ、獲物を捕らえる
 戦利品、獲物
 脻=月(肉)+疌
   ショウ
   鎖骨
 𣮌=疌+毛
   ショウ
   睫(まつげ)
 𣶏=氵+疌
   ショウ
   少しずつ水が湧き出るさま
 睫=目+疌
   ショウ・まつげ
   𥈤𥊆
   目の縁の細かい毛
   一瞬目を瞑(つむ)る
   瞬(まばた)き
   䀹・䀫
 𥓐=石+疌
   ショウ・ジョウ
   䃳𥓐=山が延々と連なっているさま
 箑=竹+疌
   ソウ・ショウ
   骨に竹を使った団扇(うちわ)
   扇・翣
   扇子(センス)を指す
 緁=糸+疌
   ショウ
   衣服の表地と裏地を縫い合わせる
 萐=艸+疌
   ソウ・ショウ
   萐莆(ショウフ)
   めでたいとされた草の名
   葉が扇のように
   大きく揺れなくても
   自ら風を送り
   涼しく食事ができるという
 蜨=虫+疌
   チョウ・ジョウ・ショウ
   チョウ(蝶)、チョウ目の昆虫
 誱=言+疌
   ショウ・ジョウ
   口数が多い
 踕=足+疌
   ショウ
   足早に進む
 𪖮=鼻+疌
   テイ・タイ・くさめ・くしゃみ
   嚔嚏   𡁲𡄶㗣𠳍𠲣䶑𪖰𪖣䶍
   鼻腔や咽(のど)などが刺激され
   吸い込んだ息が
   鼻や口から
   強い勢いで出てくる、またそれを出す
 ↓↑ ↓↑
 文公六年(前667年)六月
 文公は
 斉・宋・陳・魯
 と
 幽(宋の地)にて同盟
 ↓↑
 文公七年(前666年)秋
 楚の
 令尹(レイイン・上卿にあたる楚の官名)
 である
 子元
 が600乗の戦車部隊を率いて
 鄭に攻め込んできた
 これに対し
 斉・宋・魯
 が救援に来たので
 楚軍を追い返した
 ↓↑
 文公八年(前665年)夏
 鄭は
 許(国名)に侵攻した
 ↓↑
 文公十四年(前659年)秋
 楚が
 鄭を攻撃し
 八月に
 斉・宋・鄭・曹・邾
 の諸侯は
 檉(テイ・宋の地)で会合
 ↓↑
 文公十五年(前658年)冬
 楚が
 鄭を攻撃し
 楚の
 鬬章(トウショウ)・・・鬬=鬥+斲
             異体字「𩰚・鬭・斗・闘」
 によって
 鄭の
 聃伯(タンパク)・・・・聃=耳+冉
             異体字「耼・耽・冉・𦕐・𨈜・𨈭」
             耳たぶが大きく垂れ下がっているさま
             老子の字、謚・老聃(ロウタン)
 が捕らえられた
 翌年(前657年)冬
 楚が鄭を攻撃
 文公は楚との和平を考えたが
 大夫の
 孔叔に諫められた
 ↓↑
 文公十七年(前655年)夏
 斉・宋・陳・衛・鄭・魯・許・曹
 の諸侯たちは
 首止(衛の地)で
 周の太子
 鄭と会合し
 周の政治安定策で相談
 秋、
 首止で盟を結んだが
 文公は逃げ出して帰国
 翌年(前654年)夏
 斉・宋・陳・衛・曹・魯
 の諸侯軍は
 鄭を攻撃し
 新城を包囲
 秋、これに対し
 楚が
 鄭を救うべく
 許を包囲し
 諸侯軍は
 許を救うために
 鄭の包囲を解いた
 ↓↑
 文公十九年(前653年)春
 斉が
 鄭を攻撃
 大夫の
 孔叔は
 文公に降伏するよう勧告
 文公は
 申侯を処刑することで許しを請うた
 七月
 斉の桓公・宋の桓公・魯の僖公・陳の太子款・鄭の太子華
 らは
 寧母(魯の地)で盟を結んだ
 ↓↑
 文公二十一年(前651年)夏
 文公は
 周公(宰孔)・斉・宋・衛・魯・許・曹
 とともに
 葵丘(宋の地)で会合、九月に盟を結んだ
 ↓↑
 文公二十四年(前649年)
 文公の
 賤妾である
 燕姞(エンキツ)との間に
 蘭(穆公)が生まれた
 ↓↑
 文公二十六年(前647年)夏
 文公は
 斉・宋・陳・衛・魯・許・曹
 と
 鹹(カン・衛の地)で会合
 淮夷(ワイイ)が
 杞を苦しめることと
 王室のことを話し合った
 ↓↑
 文公二十七年(前646年)秋
 狄(テキ)が
 鄭に侵入
 ↓↑
 文公三十一年(前642年)十一月
 太子華を殺した
 ↓↑
 文公三十六年(前637年)
 晋の公子
 重耳が
 鄭を訪れたが
 文公は礼遇しなかった
 弟の
 叔詹(シュクセン)が諫めたが
 文公は聞き入れなかった
 ↓↑
 文公三十七年(前636年)秋
 鄭の属国だった
 滑(カツ・国名)が
 鄭の命令を聞かなくなり
 衛に附いたため
 文公は
 滑に侵攻
 周の
 襄王は
 大夫の
 伯犕を遣わして
 滑を許してやるように言ってきたが
 文公は以前
 鄭が
 周の恵王を助けた時
 なんの爵禄ももらえなかったこと
 周の襄王が
 衛と滑に与していることに怨みを抱いき
 周の襄王の請いを聞き入れず
 使者の
 伯犕を捕えた
 周の襄王はこれに怒り
 翟人とともに
 鄭を攻撃したが、勝てなかった
 その冬
 周の
 襄王が
 翟人に攻撃されて
 鄭に亡命
 文公は
 周の襄王を
 汜(シ)に住まわせてやった
 翌年(前635年)
 晋の文公が・・・?
 周の襄王を
 成周に戻した
 ↓↑
 文公四十一年(前632年)
 鄭は
 楚を援けて
 晋を攻撃
 ↓↑
 文公四十三年(前630年)
 報復として
 晋の文公と
 秦の穆公が連合して
 鄭を包囲
 文公には3人の夫人
 子が5人
 皆罪によって殺され早世
 文公は怒って
 腹妾の公子たちをことごとく追放
 公子蘭も追放され
 晋に亡命
 公子蘭は
 晋の文公から寵愛され
 その後援によって
 鄭に入り、太子になろうとした
 まず
 晋は
 鄭に
 公の弟である
 叔詹を誅したいと申し出た
 文公が
 叔詹にこの旨を伝えると
 叔詹は自殺した
 文公は
 叔詹の遺体を
 晋に引き渡した
 晋の文公は
 公子蘭を
 鄭の太子にすることを申し入れた
 鄭の大夫である
 石癸が
 「これに承諾すべきです」
 と言ったので
 文公はこれを承諾し
 公子蘭を太子に立てた
 ↓↑
 文公四十五年(前628年)
 文公が薨去
 太子の蘭が立って
 鄭君(穆公)となった・・・
ーーーーー
 ・・・だから、ナニ・・・分項・文考・聞効・・・文の公?
 ・・・金&武&文・・・イシ・・・

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