森の石松(?~1860年7月18日(万延元年六月一日)
清水次郎長の子分
出身地
三州半原村(愛知県新城市富岡)
or
遠州森町村(静岡県周智郡森町)
とも・・・
浪曲では「福田屋という宿屋の倅」・・・
二代目
廣澤虎造=広沢 虎造(ひろさわ とらぞう)
1899年〈明治三十二年〉5月18日
~
1964年〈昭和三十九年〉12月29日)
大運1963年4月(63歳)⇔壬戌偏官
己┏亥(戊甲壬)傷官・偏印 絶⇔甲辰偏印
己┗巳(戊庚丙)傷官・偏財建禄⇔丙子比肩
丙 戌(辛丁戊) ・劫財 墓⇔壬子偏官
己 丑(癸辛己)傷官・正財 養⇔辛丑傷官
午未空亡
↓↑
浪曲師・俳優
東京府東京市芝区白金(港区白金)出身
本名 山田 信一
旧姓 金田 信一
↓↑
三角形=triangle・・・纂佳句経?
正方形=square・・・西方経?
円 =circle・・・・延→直線=チョクセン=勅撰?
↓↑
円周=エンシュウ=演習=遠刕=遠州
円周(circumference)=円の周囲・周長
サァ(ル)カァンファラァンス・サカムファレンス
作有留化案附蛙覧務素・佐賀務附蛙聯(連)州???
円周率 π=円周の直径に対する比率
「殷」の勃興と終焉・・・「音楽の終焉」?
↓↑
殷=アン・イン・オン・エン
殷(オン)
殷(エン)
殷(イン)
殷(アン)
殷(かゆた)か
殷(ねんご)ろ
殷(やかにぎ)やか
殷(さか)ん
殷(おお)い
殷(あか)い
10種の読み方
↓↑
周王朝の勃興と終焉
円周
円周率・・・終焉の無い無限の「パイ(π・Π)」
几帳・机
円周卒(ソツ=卛・率・䘚・卆)
↓↑
䘚=衣+十
=卆
=卒
=率
=卛
↓↑
ソツ・シュツ
おえる(終)
おわる(終)
しもべ(僕)
ついに(終に)
にわかに(俄かに)
しもべ(従僕・僮)・召し使い
突然・にわかに・急に
級の低い兵士
百人の軍隊
終える・終わる
ついに
結局は・最後には・行きつくところは
死ぬ
高い身分の人が死ぬ
卛=䜌+十=卒・卆・・・枠
一兵卒
率先
卒業・・・親鸞・戀愛・恋慕
↓↑
卛=糸+言+糸+十
幺+小+言+十
リツ・ソツ
シュツ・スイ
ひきいる
おおむね
かしら
したがう
わりあい
ひきいる・導く
したがう・つきしたがう・従いまもる
おおむね・すべて・大体・大方
あっさりしている・かざりけのない
かしら・おさ・ひきいる者
わりあい・歩合・程度
きまり・規則・のり
↓↑
周王
四人の王
共王・・・「共」和国?
懿王・・・「懿」徳天皇?
孝王・・・「孝」明天皇?
夷王・・・蘇我蝦「夷」?
↓↑
・・・「中大兄皇子」・・・「中のお柄の往時」?
名賀・那賀・長・永
那加・那珂・名嘉・中
↓↑
「ナ」+「が・ぎ・ぐ・げ・ご」
「ナ」+「が」=長野・長居・奈雅井
「ナ」+「ぎ」=凪・薙ぎ・和ぎ・椥
「ナ」+「ぐ」=和ぐ・殴る
「ナ」+「げ」=嘆・歎
「ナ」+「ご」=名護・長太・名古・奈胡
↓↑
二課・仁賀・苦
「二」+「が・ぎ・ぐ・げ・ご」
「二」+「が」=苦い・煮貝
「二」+「ぎ」=二義・握・賑合い
「二」+「ぐ」=似具・邇具
「二+「げ」=逃げ・逃げる
「二」+「ご」=濁る
↓↑
糠・額・奴賀・額賀・怒賀
「ヌ」+「が・ぎ・ぐ・げ・ご」
「ヌ」+「が」=怒賀・奴賀
「ヌ」+「ぎ」=脱ぎ・塗木
「ヌ」+「ぐ」=脱ぐ・拭
「ヌ」+「げ」=脱げ・貫け・抜け
「ヌ」+「ご」=脱誤・怒誤
↓↑
nega
「ネ」+「が・ぎ・ぐ・げ・ご」
「ネ」+「が」=願い
「ネ」+「ぎ」=葱・禰宜・根木・根來
「ネ」+「ぐ」=塒鵜・根倉
「ネ」+「げ」=根毛・音化
「ネ」+「ご」=根後・音語
↓↑
野賀・逃・佚・迯・遁
「ノ」+「が・ぎ・ぐ・げ・ご」
「ノ」+「が」=遁る・逃・佚・竄=改竄
「ノ」+「ぎ」=禾・乃木・能義・埜木
「ノ」+「ぐ」=野具
「ノ」+「げ」=禾・野下
「ノ」+「ご」=廼語・盧語
↓↑
太伯 (曹)
太伯(タイハク)
西周の諸侯
曹の第2代の君主
姓は姫
名は脾・・・「脾=月(肉)+卑」・「脾臓」
「曹 叔 振鐸」の子として生まれた
「曹 叔 振鐸」の後をうけて
曹国の君主となった
「仲君」の父
『史記』管蔡世家第五
「叔振鐸 卒,子 太伯 脾立。
太伯 卒,子 仲君 平立。」
↓↑
紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物
太伯(タイハク)
虞仲(グチュウ)
周王朝の
古公亶父の子で兄弟
后稷を始祖
周王朝の祖である
后稷の母
姜嫄の
「姜=羌」
周は元々
羊の遊牧文化を持つ
非定住農耕民であったという説・・・
↓↑
姓は姫(キ)
二人とも
「季歴」の兄
「文王」の伯父
↓↑
「太伯=泰伯」は長男
呉(句呉)の祖
「虞仲=名は雍・呉仲」
↓↑
古公亶父
長男の太伯
次男の虞仲
末子の季歴
↓↑
季歴の子の
昌(文王)が優れた子で
あったので
「古公亶父」は
「わが家を興すのは昌であろうか」
と言っていた
↓↑
父の意を量った
太伯と虞仲は
季歴に後を継がせるため
荊蛮の地へと自ら出奔
後
周の者が二人を迎えに来たが
二人は
髪を切り
全身に刺青を彫って
中華へ帰るに相応しくない人物として
これを断った
↓↑
太伯
号 句呉(コウゴ)
呉国を建国
荊蛮の多くが従った
太伯没後
弟の
虞仲(仲雍)
が跡を継いだ
↓↑
武王は
虞仲の曾孫の
周章を改めて
呉に封じ
その弟の
虞仲(同名の別人)を
北方の虞に封じた
これにより
太伯・虞仲は
呉
と
虞
の二カ国の祖となった
↓↑
髪を短く切るのは
海の中で邪魔にならないための処置
刺青をするのは魚に対する威嚇
二つの風習は
呉地方の素潜りをして魚を採る民族
中国の史書で
「倭」
に関する記述で
同じような風習を行っていると記録
↓↑
『翰苑』巻30
『魏略』逸文
『晋書』東夷伝
『梁書』東夷伝
などに
「倭」について
「自謂 太伯之後(自ら太伯の後と謂う)」
南宋の
『通鑑前編』
李氏朝鮮の
『海東諸国紀』
や
『日東壮遊歌』
等にもある
「呉の太伯の末裔説」
の初出は
3世紀後期の
『魏略』で
「呉の滅亡」は
紀元前473年
↓↑
南北朝時代の禅僧
「中巌円月」
が
日本を太伯の末裔だと論じた
北畠親房の
『神皇正統記』応神天皇条は
「異朝ノ一書」に
「日本ハ呉ノ太伯ガ後也ト云」
とあるのを批判
室町時代の
一条兼良も
『日本書紀纂疏』巻一で
太伯末裔説を批判
イエズス会宣教師
ジョアン・ロドリゲスの
『日本教会史』には
神武天皇は
太伯の2番目の弟
季歴(虞仲と季歴を混同?)
の第6代の子孫であるとしている
江戸時代
儒学者
林羅山
が
『神武天皇論』で
神武天皇の
太伯末裔説を肯定
↓↑
九州
宮崎県
諸塚山
句呉の太伯が
生前に住んでいて
死後に葬られたという伝承
鹿児島神宮(大隅国隅正八幡)
全国の神社で
唯一
太伯が祭られている
『新撰姓氏録』で
松野連(まつののむらじ)は
呉王
夫差
の後とある・・・
↓↑
孟子
『孟子』で
「舜は
諸馮に生まれて
負夏に移り
鳴條で亡くなった
東夷の人である。
文王は
岐周に生まれ
畢郢に死した
西夷の人だ」
と述べている
↓↑
季歴の息子
姫昌(文王)
が周国を繁栄させ
殷から
「西伯」の地位を賜る
殷の紂王は暴君だったため
諸侯は姫昌に頼って
革命を期待したが
姫昌は
紂王の臣下であり続けた
姫昌の死後
姫発(武王)
は
周公旦
太公望
召公奭
らの補佐のもと
前1046年
「革命戦争(牧野の戦い)」
武王は
紂王に打ち克ち(克殷)
周王朝を創始
↓↑
成康の治
武王の後を継いだ
成王(在位前1042年~前1021年)
は未だ幼少で
殷の残存勢力には侮れないものがあり
周公旦が摂政とした(周公旦即位説)
殷の遺民たちを治めさせていた
武庚禄父
と
周公旦の兄弟であるが
周公旦が政権を握ることに不満を持つ
管叔鮮
蔡叔度
が共謀して乱(三監の乱)
周公旦はこれを鎮圧
後7年して成王が成長した後
周公は一臣下に戻った
成王は
周公旦
召公奭
を左右に政務に取り組み
東夷
を討った
↓↑
成王の後
康王(在位前1020年~前996年)
召公奭
畢公高
を左右にし
40年にわたり刑罰がなかった(成康の治)
↓↑
4代目
昭王(在位前995年~前977年)
南方への遠征失敗し
周は軍事的に攻勢から守勢に転じた
5代目
穆王(在位前976年~前922年)
以降
王の親征が無くなり
祭祀王として
祭祀儀礼を行うことで
軍事的に弱まった王の権威を補っていく
↓↑
6代目
共王(在位前922年~前900年)
7代目
懿王(在位前899年~前892年)
8代目
孝王(在位前891年~前886年)
9代目
夷王(在位前885年~前878年)
までの時期に
礼制が改められ
王が臣下を職務に任命する
冊命儀礼
などを通じて周王室への求心力の維持を図り安定
夷王
は
紀侯
靖公の讒言を信じ
斉の
哀公を
「釜茹での刑(烹)」
に処し
諸侯に対する
暴虐・暗愚さが次代の
厲王
らへと受け継がれていった
↓↑
10代目
厲王(在位前877年~前841年)
大反乱で辺境に逃亡
周定公
召穆公
の2人の大臣が
合議制で
「共に和して」政治
英語の
「republic=共和制」
の故事由来
実際は
「共に和して」ではなく
「共伯和」という名の人物
が執政したので
それを略して
「共和」と呼んだ・・・
「和」という名の人物・・・説
↓↑
11代目
太子
静(宣王・在位前827~前782)
を立てて輔政し
宣王中興と呼ばれた
↓↑
12代目
幽王(在位前781年~前771年)
申から迎えていた皇后を廃し
褒姒を皇后とし
申侯の怒りを買い
申は
犬戎
を伴い王都へと攻め込んで
幽王を殺し
褒姒の子の
伯服(伯盤)も殺された(申侯の乱)
↓↑
13代目
携王(在位前770年~前750年)
即位
これに反対する諸侯は
東の洛邑(王城・成周・河南省洛陽市付近)
へ
王子
宜臼
を擁して移り
平王(在位前771年~前720年)
として立てて対立
周は東西に分裂
東の平王が勝利し
周は
東周と呼ばれ
春秋時代に移行
↓↑
春秋戦国時代
平王の孫
桓王
は王権の再強化を図ったが
「繻葛の戦い(前707年)」
で一諸侯に過ぎない
鄭に敗れ
諸侯に対する統制力を喪失
洛邑(王城・成周)周辺のみの小国となった
湖北省
随州市付近の
曽
の春秋時代の侯の墓に納められていた
青銅器の銘文に
「周室既卑(シュウシツ すでに ひくく)」
と記録
西周以来の伝統と権威を強調することで
祭祀を主催する立場の維持を図った
↓↑
春秋時代
秦の
景公
の墓の出土品の銘文で
秦の君主を本来
周王の称号であったはずの
「天子」と称され
孔子の
西周の時代を理想化した
礼制の整備が
代目
儒家や諸侯によって行われていくが
周王室は主導権を失い
祭祀を主催する立場すら失っていた
↓↑
戦国時代
覇者
晋
太公望の子孫
斉(姜斉)
といった
周王室と結びつきが強い諸侯が滅び
権威や存在意義が更に低下
魏の
惠王
は「夏王・天子」を称し
東周
23代目の王
顕王は
秦に対して
春秋時代に覇者に対して
行っていた儀礼を行うことで
秦の保護を受けようとしたが
既に天子を称していた
秦の
恵文王は
王を称し
七雄の諸侯のみならず
小国の宋
や北辺の中山国の君主までもが
王を称するようになった
秦の
昭襄王
と
田斉の
湣王に至っては
「西帝」
「東帝」
と帝号を称した
周王室の影響力はわずかに
王畿(洛陽附近)に限定
末期には
貞定王の末子
掲(桓公)を始祖とする
西周公(武公)
とそこから分裂した
東周君(昭文君)
の勢力によって分裂
周王朝最後の王
赧王
は
西周の武公を頼って
西周(河南)に遷都
元の成周は
東周君が支配
↓↑
赧王の在位
59年に及んだが紀
元前256年
西周
は諸侯と通じて
韓
と交戦中の
秦軍
を妨害し
秦の将軍
楊摎の攻撃を受けた
西周の
文公(武公の子)は
秦へ謝罪しその領土を秦に献上
赧王は秦の保護下に入ったが崩御し
西周の
文公も死去
その民は東周へ逃亡
秦は
九鼎と周王室の宝物を接収
文公の子を移した
秦が
王畿を占拠し
西周と周王室本家は滅亡
↓↑
東周
昭文君
は7年間存続したが
紀元前249年
秦の
呂不韋によって攻め滅ぼされた
『史記』秦本紀
昭文君は殺されたと伝えられているが
東周君に土地を与えて
周の祭祀を続けさせたとも記録・・・
昭文君の子が封じられた・・・
↓↑
前漢
武帝以降
儒学が尊重され
周王室の子孫も尊重され
姫嘉
という人物が
周子南君に封じられた
姫嘉の子孫は
元帝の時代に
周承休侯へ昇格され
平帝の時には
鄭公に
後漢の
光武帝の時代には
衛公に封じられた
↓↑
周の官制
金文によると周には
卿事寮(ケイジリョウ)
太史寮(タイリョウ)
2つの組織
卿事寮の長官は
太保
太師
の2つがあり、のちに太師だけになる
下に
司馬(軍事担当)
司土(司徒、土地管理担当)
司工(司空)
の職があり、各諸侯の下にも同じ職があった
太史寮の長官を
太史と呼び
歴史の編纂・各種儀礼・祭祀などを行った
↓↑
身分制度
『春秋左氏伝』
王の下に諸侯
その下に
大夫(タイフ)
と呼ばれる貴族層
その下に
士
と呼ばれる層
その下が
庶民
取引対象の
奴隷階層があった
↓↑
殷周の文化
王国維
は
「殷周制度論」
において
殷と周の間で諸制度の大変革があり
周の制度は
周公によって定められたと主張したが
実際は
周王朝は
殷王朝の礼制を踏襲し
その基礎の元に発展させていった
礼制に変革が起こったのは
西周後半期
↓↑
周と十干諡号
殷は
十干
で祖先を呼ぶ
十干諡号を使用
河南省
平頂山市応国墓地
八号墓で出土した
「05応公鼎」の銘文に
応公の号として
「珷帝日丁」
『春秋左氏伝』僖公二十四年の記述に
応国の君は
武王の子孫とされ
「珷帝日丁」とは
武王のことを指し
周が殷と同様に
十干諡号を有していた
↓↑
山東省
高青県
陳荘村で
西周
斉国の貴族の墓群が発掘
18号墓からは
「祖甲斉公」
という銘文が記された青銅器が発見
斉の国君は
2代目の丁公
~
4代目の癸公まで
十干諡号を用いた
↓↑
青銅器には
占卜の結果を鋳込んである
金文
殷代と比べて
周代は文が非常に長いものとなっている
↓↑
殷では
祖先に対する
崇拝と畏れが非常に強く
祭祀を怠ったりすれば
すぐにでも祟られるという考えを持っていた
↓↑
建築
周に入ってからそれまでの
茅葺きから
瓦が一般的になった
↓↑
投壺(トウコ)が始まった
壺(金属製)に向かって
矢(木の棒)を投げ入れる遊戯(ゲーム)
ーーーーー
・・・???
↓↑ ↓↑
エメラルドブルーの謎 (碧き眼の人形伝説) 奈井江 五郎
↓↑ ↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
+
(表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
↓↑
干支歴
↓↑
追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
↓↑
メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
↓↑
モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
↓↑
モウ君の総合目次
↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
↓↑
古事記と虎関師錬