gooブログはじめました!キリヤ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
コジキジゲン

ろごまーく

2015-01-26 23:03:21 | 古事記字源

 かって、「アラブの自由化運動」に、崩壊したユーゴスラヴィアの何処かに情勢分析を的確に分析し、「自由化運動の企画立案」する「民間企業」がTVで紹介されていたのを見たコトがあるが・・・その後の「混乱した国家」の指針もビジネスで「企画立案」をしているかも・・・
 「オトポールと応用非暴力行動・戦略センター(CANVAS) 」・・・「オトポールの応用非暴力行動・戦略センター(CANVAS)は、"革命ビジネス"に携わる"指導者とコンサルタントの国際ネットワーク"だと、自らを表現している。全米民主主義基金(NED)により資金援助を受け、アメリカが支援する40ヶ国以上で、反体制集団に助言し、訓練するコンサルタント会社」・・・
 この企業は「応用暴力行動・戦略」に変身しているのかも・・・モウソウ・・・?
  ↓
 ナゼ、「国家組織」は「経済的流通」に法で「規制」をするのか・・・
 「商品交易流通」は
 原則的に
 「自由な交換市場」を媒介にして
 「自由な財産形成」の手段であるからだ・・・
 「自由な財産形成」の結果とは
 「私有財産(富)の蓄積」である
  では「富」とはナニか?
 「富」とは「余剰の生活物資」である。
 「個人、家族、親族、一族郎党」以外の
 人々の「衣食住」を賄うことが出来る
 「生活財」だが、
 その「富=財」の使用、処分は
 得た個々人の
 「自由な意志」でなされる。
 だが、暴力的に
 「略奪・強奪」される可能性がある。
 モチロン、
 生産現場で直接生産、蓄積されるモノも
 この「略奪・強奪」はなされる可能性がある。
 個々人が自分自身で
 武装してマモルのは当然でアタリマエである。
 だが、暴力的な武装と実力ないものはどうするか?
 傭兵を雇う「余剰生産物」はある。
 「山賊・海賊・チンピラ・暴力集団」を
 傭兵として雇うのが上策であるが、
 傭兵が
 「七人の侍」になるとは限らない。
 そして、
 「七人の侍」もイズレは
 「略奪・強奪」のプロの「野盗集団」になるか、
 既存の「野盗集団」に吸収されていくのが必然である・・・
 暴力と暴力の対立、縄張り領域の支配・・・
 暴力を前提にした「秩序の形成」の結果の思想が
 「儒教」である・・・
 生殺与奪の頂点に「君子」が存在する
 この「君子の思想・哲学・意志」が
 民主主義であろうが、
 利権君主主義であろうが、
 独裁、独断、暴力主義であろうが、
 重臣の合議主義であろうが
 形式的に
 「君臣忠義、忠誠の縦の命令関係の組織体制」でさえあればよい・・・
 「君主」は
 「名君」、「暴君」、「愚図」、「木偶」は問わない「秩序思想」・・・
 その秩序組織維持には「血統」もナンのソノ・・・
   ↓ 
 「法」とは「階級支配」の「維持の法」である
 「階級国家(社会)」とは基本的には
 「支配階級・被支配階級」に二分され、
 その中間に「諸階層」が存在する。
 だが、
 「支配階級に位階序列」がアリ、
 「被支配階級にも序列」がアリ、
 「階級社会(国家)」は
 更に、各組織の中で
 「序列秩序」は細分化され
 「階級秩序」を形成している。
 これらはスベテが
 生きている間の「人間社会」の
 「慣習・掟・法律・契約」の
 「約束事」で縛る「秩序」である。
 「国家」が
 「法」で規制しようとしても
 「法の網目=法外=非法=否掟」は
 「規制」できない・・・
 「国家秩序」は
 生きている人間とって
 「利用価値」、「使用価値」がある
 「法でないモノは規制外」で
 「利用価値」、「使用価値」がある・・・
 個々人の「エゴ意識の枠内」で
 「特殊な幻想」であっても
 幻想が実現しようが、しまいが
 「利用価値」、「使用価値」ある・・・
 死んでも、尚且つ、
 「天国・煉獄・地獄」の「法秩序」があるらしいカラ・・・ 
ーーーーー
 以下は「新井白石」の続き
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/03edo.htm
 「新井白石」の
  ↓↑
  B 信牌制度
 単に規制を厳しくするだけでは、
 密貿易を誘発するだけです。
 実際、この時期、
 密貿易は第2のピークを迎えていました。
 例えば
 1707年には19件、
 新令の施行された
 1708年にも
 7件の密貿易が摘発されています。
 綱吉時代の密貿易は、
 長崎市民が犯人でしたから、
 市民の
 行動の自由を
 制限することで
 押さえることができたことは、
 前章で紹介しました。
 それに対して、
 この当時の密貿易は、
 主犯は長崎市民ですが、
 補助者には
 よそ者が
 参画している場合がぐっと増え、
 したがって逮捕者を
 長崎市民と
 よそ者に分けると、
 よそ者の数の方が多い、
 という状態になってる点に大きな特徴を示します。
 もちろん、こうしたよそ者の利用が、
 長崎市民の
 行動の自由に対して
 加えられている制限を
 かいくぐるための
 手段であることはいうまでもありません。
 犯行が・・・?・・・「非犯行」
 広域化したということは、
 取締が困難になるということを意味します。
 そこで、白石は、そのための策を立てます。
 すなわち、
 中国船に対する
 信牌(しんぱい)の発行です。
 これこそが、新令の最大の特色です。
 信牌は、
 割符(わっぷ)とも呼ばれます。
 来航した中国船のうち、
 新令に違反しないことを制約した者だけにこれを交付します。
 そして、以後は
 信牌を持たない限りわが国との貿易を認めない、という制度です。
 この制度には、巧みに飴とむちが組み込まれていました。
 すなわち、信牌を持っていれば、
 制限金額を銀30貫までは増額して、
 全量を買い取るという特典がつきます。
 そのかわり、
 積載量に定高より30貫以上の
 過不足がある場合には、以後の来航を禁ずるとか、
 指定された正規の航路以外を通ることは認めないとか、
 粗悪品、不正品を積載してきた者は、
 以後の貿易を認めないというような
 様々の条件を受け入れなければいけません。
 もちろん密貿易をした者は信牌を取り消されます。
 その結果、かなり効果的に密貿易の取締ができるわけです。
 もっとも、
 信牌を発行するのは
 幕府そのものではなく、
 単なる
 通事とされました。
 これは中国政府側の抵抗を恐れたからです。
 すなわち、
 中国の伝統的な政府貿易の形式は
 入貢貿易です。
 中国の臣下の国が貢ぎ物をすると、
 中国側ではその忠誠心を愛でて貢ぎ物以上の物を下賜する、
 という形式の貿易です。
 足利義満が(中国に)臣下の礼をとって行った貿易などが有名です。
 中国では、
 信牌とは、
 この入貢国に対して与えるものだったのです。
 したがって、
 幕府が中国船に信牌を発行すると、
 中国をわが国の入貢国としたかのように見えるので、
 貿易摩擦の発生が予想されたのです。
 実際、そういう事件が起きました。
 信牌を与えられなかった
 中国商人達は、
 本国で訴訟運動を展開します。
 すなわち、
 信牌は
 日本の年号を使用しているので、
 信牌を受けた船頭は
 日本に忠誠を誓って
 清朝に反逆する者だと政府に訴えたのです。
 そこで
 中国政府では信牌を没収したため、
 多くの船が日本に来られなくなったのです。
 もとより
 白石はこうした事態のあることを
 予想して信牌を
 幕府発行とは
 しておかなかったのですから、
 早速適当な便船で、
 抗議書を中国に送りました。
 中国側では、結局
 1717年になって、
 康煕(こうき)帝の勅裁により
 わが国の信牌の発行に
 文句を言わなくなりました。
 なお、
 中国では、
 同年から再び海禁(つまり鎖国)政策に転じます。
 おそらく中国側としても、
 日本の信牌を利用することで、
 貿易状況のチェックが可能になるという点に、
 信牌の許容策を導入した理由があると思われます。
 吉宗が将軍に就任したのが
 1716年のことですから、
 この時には、もう
 白石は政権から遠ざけられていました。
 他方、
 信牌を受けられなかった中国商人達は、
 九州各地、特に福岡、小倉、萩の3藩の領海が接する辺りに回航して、
 日本側の
 密貿易船を半ば公然と待ち受けるということを始めました。
 多いときには十数艘も滞船していた、といいます。
 幕府では当初は手を拱いていましたが、
 1718年に
 3藩合同の軍を出動させて追い払いました。
 その後、何度か出動させ、
 最終的には
 1726年に追い払うのに成功したのです。
 何故このように長く出動を遅らせたのかはよく判っていません。
 海上の3藩の境界という難しい場所であるために、
 関係する
 3藩の足並みをそろえるのに時間がかかったということもあるでしょうし、
 家宣が死亡して、権威が低下しつつある
 間部詮房の命令では、
 各藩がなかなか動こうとしなかったという事情もあるでしょう。
 しかし、国際紛争を未然に防ぐため、
 康煕帝の勅裁が降りて
 中国側が
 信牌の運用に文句を言わないということが
 確認できるまで待っていた、
 というのが真の理由ではないかと、私は考えています。
  ↓↑
  C 長崎市振興策
 ところで、
 白石が新令の制定を諮問されたきっかけは、
 長崎廻銅の量の減少により、
 長崎貿易が不振となり、
 このため長崎市民が困窮しているという
 報告が長崎奉行から出されたことです。
 それなのに、貿易制限を強化したのでは、
 困窮の救済にはならないはずです。
 白石の答申した新令が
 長崎市民の救済になる、
 という逆説を理解するには、
 それまでの
 長崎貿易の状況を理解する必要があります。
 定高仕法によると、
 正規の貿易は
 長崎廻銅を
 ベースとして行われなければなりません。
 ところが、この
 長崎廻銅が不足する結果、
 貿易量が恒常的に
 制限額以下で推移するという状況が生まれていました。
 前章で述べたとおり、長崎貿易では、
 諸利益のうち
 11万両は長崎会所に残し、
 残りはすべて長崎運上として
 幕府が徴収するという制度がとられていました。
 この
 11万両が、会所と市民に分けられるのです。
 細かく内訳を書くと、
 長崎会所で
 外国からの輸入品を
 わが国商人に売って得た銀(金7万両相当)、
 つかい銀(小遣い銭)、
 落銀(長崎市民に落ちる銀)、
 間銀(あいぎん=手数料)、
 役料(役目に対する報酬)
 などです。
 このうちから、
 7万両が
 地下(じげ)分配金として、
 長崎市民に配分されるはずなのです。
 ところが、
 貿易実績が上がらないのですから、
 このような市民への配当も来ません。
 幕府の方も、
 それでは長崎運上が入らないはずですが、
 そこは
 法令を作る方ですから、
 対策の立てようがあります。
 すなわち、
 貿易できずに帰る
 積み戻り船の船荷から、
 貿易制限の枠内での
 「追売」を認めて、
 貿易利潤の補填を図ったのです。
 これは会所の査定額で一方的に買い上げ、
 二割増で日本商人に売り出したので、
 夥しい利潤があったといいます。
 この追売は、
 幕府が長崎運上確保のために
 別枠で行うので、
 長崎市民への配当はありません。
 要するに、
 貿易総額が減少する中で、
 長崎運上に当てる
 追売を確保する方針を幕府が維持したので、
 本来の貿易は圧迫されてますます先細りとなり、
 運上額そのものは増加しているにも関わらず、
 長崎市民への
 貿易利潤の配分は減少する、ということが起きたのです。
 白石は、
 貿易額
 及び
 貿易船の入港数を低く設定することと、
 銅輸出額を
 実際の
 輸出能力にあったものに
 改訂することにより、
 追売のような
 不健全な貿易形態を廃止します。
 また、
 長崎市民が貿易を支えるために
 負担している様々な活動のための経費は、
 従来は、
 貿易決済後の実績によって配分していたのです。
 それを幕府からの
 前貸しの建前にして、
 貿易実績が上がると否とに関わりなく、
 配分することにしたのです。
     *     *     *
 この
 海泊互市新例は、その後幕末まで続く幕府の基本政策となります。
 これを
 消極的な貿易無用論と
 理解しては間違いです。
 この政策は、二つの点で、
 国内産業の保護育成策なのです。
 一つは、
 俵物を正規の輸出品にしたことです。
 これにより、
 全国的に
 煎り海鼠や
 干し鮑の増産が行われるようになっていきます。
 今一つは、
 輸入品の
 国産化です。
 我が国において、
 片貿易が長く続いていた理由は、
 白糸(上質の生糸)、各種絹織物、綿布、鹿皮、砂糖
 などの海外産品に
 国内需要があるにもかかわらず、
 封建政権は、その基盤である
 米の生産に力を入れ、
 そうした農産品の
 国内生産を
 許さなかった点にあるのです。
 そこで、そうした
 農産品は
 国産化を推進すべきである、
 というのが
 白石の結論でした。
 惜しいことに、
 白石時代は長く続きませんでした。
 が、この農業政策の大転換が必要という発想は、
 次の
 享保の改革における農業政策の中心となっていきます。
  ↓↑
  D 日朝貿易
 中国産生糸ほどの高品質のものが、
 幕府の政策が転換されたからといって、
 直ちに国内生産可能になるわけはありません。
 他方、
 国内の生糸需要は依然として根強いものがあり、
 長崎新令は、
 その道をふさいでしまったわけです。
 そうした膨大な需要を、
 長崎貿易に
 代わって支えたのは、
 対馬藩を経由しての
 日朝貿易でした。
 前章で簡単に触れたとおり、
 朝鮮人参については
 宗家と朝鮮王家との間の
 公貿易という形をとっていましたが、
 それ以外に日朝間には
 私貿易という形態の貿易が存在していました。
 その状況について
 対馬藩では
 「私貿易帳簿」というものを作成しており、
 1684年以降のものが現存しています。
 それによると、
 朝鮮経由の
 中国生糸の輸入がこの頃から急増していきます。
 対馬藩は、
 長崎貿易よりも安い価格で
 朝鮮から生糸を輸入するようになり、
 独自のルートで
 西陣などへ供給するようになりました。
 その結果、
 日朝貿易による生糸の輸入量は、
 1730年くらいまでは
 長崎貿易の量を凌ぐようになります。
 この日朝貿易の
 決済手段は相変わらず
 銀でした。
 このため、
 長崎からの銀の流出が止まっても、
 対馬から毎年、
 1000貫~2000貫というレベルで
 銀の流出が続いていたことになります。
 元禄銀の場合には、
 品位の低さを補うため、
 一定の
 プレミアムをつけることが必要だったようです。
 そして、
 三つ宝銀や
 四つ宝銀の場合には、
 プレミアムをつけても
 受け取りを拒否されました。
 このため、
 1710年から1714年までは、
 勘定奉行
 荻原重秀の特別の計らいにより、
 品位80%という
 特別良質の銀貨が、
 年に1417貫だけですが、鋳造されます。
 これは、
 建前上は、
 朝鮮人参輸入の確保という名目でしたから、
 「人参代往古銀」という名称でした。
 これを幕府は、
 普通の
 劣位貨幣と同価で
 対馬藩に渡していました。
 つまり形を変えた
 輸入補助金というわけです。
 その後、
 重秀の失脚により、これは製造されなくなりますが、
 白石が作った
 正徳銀は信用が高かったので、
 そのまま問題なく取り引きされました。
 この対馬からの銀の流出は、
 白石も抑制することができませんでした。
 対馬藩には、
 幕府に代わって
 対朝鮮外交を担当する、
 という
 大義名分があり、
 日朝貿易の独占による利潤は、
 外交を円滑に進めるための
 経済的保障という性格があったためです。
 次章に詳しくは紹介しますが、
 1730年代に行われる元文改鋳により、
 銀貨の品質が再び著しく低下し、
 特例によって
 「人参代往古銀」は製造されます。
 しかし、この時は、
 宝永の時と違って、
 幕府が
 対馬藩に
 必要経費を
 請求するようになったことから、
 輸入量は急減します。
 最終的に
 日朝貿易による
 銀貨流出が終わるのは、
 1750年代のことになります。
 朝鮮人参について 
 国産化が成功し、また、
 国産生糸の品質が向上して、
 中国産生糸に対する
 国内需要がほとんどなくなったのが、
 その理由です。
 なお、その後も
 対馬藩による日朝貿易は続きます。
 その場合、
 日本からの主力輸出品は、
 長崎貿易を通じて
 日本に入ってきた
 東南アジア産の
 胡椒、水牛の角、すおう等です。
 李氏朝鮮は、日本以上に
 厳しい
 鎖国を実施していましたから、
 このような
 奇妙な・・・?・・・「非奇妙」
 三角貿易の
 必要性があったのです。
 この場合の朝鮮からの輸入品は、
 3分の2までが
 木綿で、これは国内市場で売却されました。
 残り
 3分の1は
 米です。対馬はご存じのとおり、山がちの島で、
 米といえども自給自足ができません。
 そして距離的にははるかに朝鮮に近いので、
 (米を)日本国内から輸入するよりも
 安上がりだったのでしょう。
ーーーーー
  ・・・「生活」するタメには「労働」と「生産」を前提する。だが「ダレ」でもではない・・・
 「富=財産=剰余財」が既にあれば、その必要のないヒトも存在する。
 「過去のダレかの労働と生産」を遺産(財産)として受け継いで生活していく人々である・・・
 この社会ではコレを「理不尽」とは思う人は少ない。
 ほどんどの「国家・社会」の「法」の根幹だから・・・
 ・・・そして「社会秩序の混乱」を目論んでは、それをネタに生きていく「人間」たちも・・・「ビジネス」・・・
 そして、
 直接的な生産物の「収奪・強奪・略奪」での「蓄財=剰余生産物」以外は
 「市場交換」での交換の媒介使用物、「貨幣・紙幣」での「蓄財=モウケ」である。
 「貨幣・紙幣」は「余剰価値」となるが、必ずしも「余剰価値物=蓄財物」を保証するものではない・・・「損得」は「市場価格」で決定される。「価格」は「損得」を含むモノである。
 市場での「生産物の交換」が直接的な「物物交換」とは限らず、
 「生産物」の生産の分業は、同時に市場での何でも「交換」できる「媒介物」の「貨幣・紙幣」を発明した。「利子」の発明はそれ以前に発明されていた・・・「貸したモノ」には「+アルファ」で期限付き返してもらう・・・この社会では当たり前である。
 「慈善家」も「寄付金」でダレかに資金援助するが、日本では「寄付金」には「税金」が掛かる・・・「寄付」で援助資金とした「基金」の管理費を貪っている奴も存在する・・・もちろん、「混乱ビジネスマン」は「育成」される・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「貨幣・紙幣」の増幣、増刷の原因

2015-01-25 23:30:45 | 古事記字源

  新井白石と「正徳の治」の時代
   ↓
  第六代将軍・徳川家宣
   ↓
  徳川 家継
  第七代将軍
 (宝永六年七月三日・1709年8月8日)
   ~
  正徳六年四月三十日・1716年6月19日)
 (在任:1713年~1716年)
  徳川家宣の四男
  母は側室で
  浅草
  唯念寺住職の娘・お喜代(月光院)
  一時期、
  徳川家の旧苗字「世良田」を用いて
  世良田 鍋松(せらた なべまつ)
  と呼ばれていた
   ↓
  第六代将軍・徳川家宣の子
  宝永六年(1709年)7月3日
  正室・近衛熙子(天英院)との間に生まれた
  豊姫は天和元年(1681年)に早世
  宝永四年(1707年)
  側室・おこうの方との間に生まれた
  家千代も2ヶ月で早世し
  宝永五年(1708年)に生まれた
  大五郎も
  宝永七年(1710年)八月に早世
  正徳元年(1711年)に
  お須免の方との間に生まれた
  虎吉も早世し、
  家継(鍋松)だけが生き残った
   ↓
  正徳2年(1712年)九月二十三日
  家宣が病に倒れ
  家宣は
  新井白石と
  間部詮房(まなべ あきふさ)・・・?
      「マベ」ではなく「マナベ」
       間部      眞鍋
       真部      眞鍋
       間辺      学べ
       馬部      まナベ
  を呼び寄せて、       南部
  「次期将軍は        奈辺
   尾張の          名部
   徳川吉通にせよ。     ↓
   鍋松・・・・・・・「鍋松(ナベマツ)」
   の処遇は
   吉通に任せよ」
  と
  「鍋松を将軍にして、
   吉通を鍋松の世子として政務を代行せよ」
  の二案を遺言したと
  『折たく柴の記』に記録・・・?
  家宣が死去すると
  白石は
  「吉通公を将軍に迎えたら、
   尾張からやって来る家臣と
   幕臣との間で争いが起こり、
   諸大名を巻き込んでの
   天下騒乱になりかねぬ。
   鍋松君を将軍として
   我らが後見すれば・・・・・?、
   少なくとも
   争いが起こることはない」
  として、鍋松の擁立を推進した。
  これに対して、幕閣の間では
  「鍋松君は幼少であり、
   もし
   継嗣(世継ぎ)が無く
   亡くなられたらどうするおつもりか」
  という反対意見もあったが、
  白石は
  「そのときは、それこそ
   御三家の吉通公を迎えればよい」
  と説得
  また一説に家宣が、
  「鍋松の成長が見込めなかった場合は、
   吉通の子・五郎太か
   徳川吉宗の嫡男・長福丸を養子として、
   吉通か吉宗に後見させよ」
  と遺言
  家宣没後
   ↓↑
  正徳三年(1713年)四月二日
  鍋松は
  家継と改名し、
  将軍宣下を受けて
  第七代将軍に就任
  家継は
  詮房や白石とともに、
  家宣の遺志を継ぎ、
  正徳の改革
  を続行した。
  この間、
  幼少の
  家継に代わって
  生母の
  月光院や
  側用人の
  間部詮房、
  顧問格だった
  新井白石らが主導
   ↓
  未亡人だった
  月光院と
  独身の
  間部詮房の間には醜聞風評
  正徳四年(1714年)
  江島生島事件が起こった
   ↓
  家継自身は
  白石より、
  利発で聞き訳が良いと認められていたが
  正徳六年(1716年)四月三十日に死去
  享年八歳
   ↓
  尾張藩主で家継から
 「継」の字の授与を受けていた
  徳川継友が
  間部詮房や
  新井白石らに支持され
  第八代将軍の最有力候補であったが、
  結果として
  大奥の
  家宣の正室・天英院や
  家継生母・月光院など、
  反詮房、
  反白石の
  幕臣達の支持を得た
  紀州藩主の
  徳川吉宗(三十三歳)が
  第八代将軍に迎えられた
ーーーーー
 以下は
 「新井白石」に対する歴史的、かつ、評価の論文だが・・・この記述者は、よく「勉強」しているなぁ~、と思うので、勝手に部分抜粋して、ボクの「?」も加え、注目文字を改行の「頭出し」として、少々改作添付・・・
   ↓
 第3章 新井白石と正徳の治
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/03edo.htm
   ↓
 ・・・
 間部(まなべ)詮房(あきふさ)
 ・・・元は能楽者・・・
    西田清貞の子
    猿楽師の
    喜多七太夫の弟子
    相模厚木藩主、
    上野高崎藩主、
    越後村上藩
    間部氏初代藩主
    側用人、老中格
    1666~1720年
    第六代将軍家宣
    第七代将軍家継
    の側用人
     ↓
  間部詮房は
 (徳川)家宣存命中はもちろん、
 その死後も、問題にぶつかる度に
 白石の意見を求めるようになります。
 その家宣が将軍になるにしたがい、
 白石も幕臣となりました。
 が、彼はあくまでも
 儒者という地位に・・・「非儒者・乱学者?」
 とどまりましたから、
 間部と異なり、
 1709年に500石を賜り、
 1711年になって1000石
 に加増されているに過ぎません。
 身分的にも
 本丸寄合(よりあい)・・・ホンガン・本願・本貫
 ↓    本丸=本陣
      城の中心となる
      曲輪(くるわ)で指令部
      「○○丸」と呼ばれる
      曲輪は織田、豊臣、
 ↓    織豊系城郭の系統の城
 すなわち無役のままで、
 最後まで通しています。
  ↓
 一介の寄合に過ぎなかった者が
 幕政を完全に
 左右していたのですから、
 地位と実際に
 行使した権力との
 落差に驚かされます。
 今の感覚でいうと、
 総理大臣の
 秘書官と家庭教師が、
 舞台裏から完全に
 国政を牛耳っている状態でも
 想像すれば
 よいのでしょうか。・・・「是」
       ・・・「階級社会維持意識」
 結果は手段を・・・?
       ・・・「結果論は」
 正当化するとはいえ、
 かなり
 不健全な状況・・・?
       ・・・「非不健全」
 といえるでしょう。
 しかし、
 この二人の誠実さ、・・・?
          ・・・「主人に誠実」
 言葉を換えれば、
 無私の心だけは・・・?
        ・・・「無心=物欲が無い」
        ・・・「権力欲はある」
 否定することができません。
 いくらでもお手盛りで
 自分に対する
 報酬を増やせる状況にありながら、
 そうした動きは全く見せていなかったからです。
  ↓↑
 ・・・ナゼ、そうはしなかったのか?・・・
 ・・・権力欲は物欲に勝る・・・権力>物欲
  ↓↑
 白石は、
 儒者・・・?・・「非儒者」
 としては、
 様々の点においてきわめて
 例外的な・・・・・「非例外」
 人物ですが、
 この時代の
 財政家としての
 最大の特徴は、
 数字に
 明るいということです。
 これまでも度々
 「白石の調査数字」
 を引用してきましたが、
 あらゆる問題に、実に周到に
 「統計調査」
 を行い、それに基づいて、
 合理的な思考で・・・?
        「君臣の階級枠で」
 問題を解決していく点に、
 白石という人の優れた特徴が存在します。
  ↓↑ 
  A 荻原重秀と宝永の改鋳
 前章に詳述したとおり、
 荻原は金貨の改鋳により、
 元禄期の
 幕府の
 財政危機を救いました。
 が、この頃になると、
 経済規模に比べて・・・「非デフレ」
 通貨供給量が
 多くなりすぎたことから、
 インフレ傾向へと
 経済基調が変化していました。
 しかし、
 当時の普通の人々には、
 そのような
 通貨常識はありませんでした。
 そこで、
 物価上昇の原因は、
 品位の低い通貨に改鋳したことにある、
 ときわめて単純な論理で荻原を非難しました。
   ↓
  (A) 金貨の改鋳
 そこで、荻原は、
 1710年に、きわめて皮肉な方法で反撃にでます。
 宝永小判の発行です
 (「乾」・・・いぬい=戌亥=犬猪=狗獅=犬鹿
   の
   字の刻印
   があるところから
  「乾字金」とも呼ばれます)。
 これは、金純度が慶長小判が86.79%であったのに対して、84.29%とほぼ同一の小判です(まだ技術が低かった時代なので、個々の小判における成分比のぶれに過ぎないようです)。
 しかし、その重量は2.5匁で、慶長小判の4.76匁に比べると約半分です。
 だから、含有される純金だけを取り出して重量を比べると、慶長小判の51%に過ぎず、悪名高い元禄小判よりもなお少ない、という小判です。
 つまり
 十分に高品位でありながら、
 改鋳により
 幕府として
 出目が・・・・・・・・・出目=骰子の目数
                突き出た眼球
                再検地などによる
                石高の増加分
                貨幣改悪鋳造によって
                生じた益金。出目高
               「出目米」の略
               「出目金」の略
 得られるという手法です。
 品位の低さだけを取り上げて
 非難していた人が、
 非難の論理を失って当惑している顔が、
 目に見えるような気がしませんか?
 同様に、やはり
 慶長一分金の
 ほぼ半分の重量で、
 ほぼ同一品位の
 宝永一分金も発行します。
 両者合わせて1151万5500両と、
 ほぼ
 元禄金銀の発行量に
 匹敵する大量発行を敢行します。
  ↓↑
 荻原重秀・・・「商品流通・物流」の「社会」では卓越な発想・・・かも、だが・・・「無生産者、消費階級の武士社会の幕府の金庫」を潤すコトが基本目的である・・・そして、未だ「ブルジワ」が成熟していた階級社会ではなかった。「流通経済社会」は浸透しつつあったが、未だ「私有社会の階級社会」でもなかった・・・
  ↓↑
 以下は「ウイッキペデア」が原文
 唐代
 飛銭と呼ばれる
 役所発行の手形が用いられていた
 北宋
 商人によって
 交子・会子と呼ばれる手形が使われた
 全国一律で同じ価値を持つ
 交子は
 他地域との
 交易には欠かせないものとなっ
 交子は仁宗の頃
 会子は南宋になってから
 政府によって発行(世界で最初の紙幣)
 後に大量発行されて
 インフレーションが発生
  ↓
 銅銭・銀との兌換が前提だった紙幣は
 不換紙幣へと変化
 南宋末期の1246年に
 増発され
 北宋末と比較して
 物価水準は約2倍、
 紙幣の価値は
 銅銭の1/3~1/4まで低下
  ↓
 専売品との引き換えに
 茶引・塩引と呼ばれる
 手形も紙幣の代用品として用いられた
 金国は、北宋・遼の銭貨を用いていたが、
 海陵王の治世で、
 交鈔と呼ばれる紙幣が発行
 大量発行されて
 インフレーションが発生
 これらの紙幣は
 使用できる年限が定まっており、
 期限を過ぎるとただの紙切れ
 期限前に
 役所に対して手数料を払う事で、
 新しい紙幣との交換は可能
 1260年
 元国のクビライが即位の
 中統元宝交鈔(通称・中統鈔)という
 有効期限の無い
 交鈔が発行
 交鈔は補助貨幣ではなく、
 基本貨幣(紙幣)で
 金銀との交換できる
 兌換通貨
 大量発行されて
 インフレーションが発生 
ーーーーー
 ・・・ほとんどの「貨幣・紙幣」の増幣、増刷は「官僚への給料支払いのタメ」だった・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルキはじめ・・・スダチ=巣立ち・鹿立・月出里

2015-01-25 06:08:22 | 古事記字源

 ・・・「支配の論理」=「支配数<被支配数」=「官僚の論理」、「組織の論理」・・・「搾取する数>搾取される数」・・・「生産=消費」、「生産>消費」、「生産<消費」・・・「需要=供給」・・・「需要>供給」、「需要<供給」・・・「市場=交換価格」・・・「使用価値」・・・
 NHK・ETV「三島由紀夫(1925年1月14日~1970年11月25日)戦後史証言プロジェクト」・・・
 「ナニか」を手に入れればヒトは変わる。しかも与えられた「ナニか」ではなく、自分が自分自身の「能力」で得たと思い込んでしまう「ナニか」である。
 そして、それは自分にとって
 「これからも自由にコントロールできる」
 と思い込んでしまう切っ掛けとしての
 「ナニモノのか」である。
 「ナニモノ」とは「これからも自分自身で出来るモノ、出来るコト」で・・・「自我でコントロール出来るモノ」と思い込んでいる「自我意識」・・・
 「三島由紀夫」の後、
 「日本人論(NHK・ETV・100分de名著)」・・・に欠けているモノは「日本人(の傾向性)」ではなく、「人間の自我としての階級意識の発端、切っ掛け」と、その「階級意識の分岐」である・・・「分岐」とは「支配するもの(能動的に従わせるもの)・支配されるもの(受動的に従わされるもの)」・・・階級社会枠内での個々人の「エゴ意識の覚醒」である・・・覚醒したらどうなるんだか?・・・いずれも「大地でプチブル意識の枠内」で地位の上昇、転落、儲けの多寡の妄想で葛藤するのカモかも・・・
  ↓
 九鬼 周造
 (1888年・明治二十一年2月15日
   ~
  1941年・昭和十六年5月6日)
 「「いき」の構造」
 「偶然性の問題」
 「人間と実存(哲学私見)」
  ↓ 
 河合 隼雄
 (1928年・昭和3年6月23日
   ~2007年・平成19年7月19日)
 日本の心理学者
 京都大学名誉教授、
 国際日本文化研究センター名誉教授
 文化功労者。元文化庁長官
 専門は分析心理学、臨床心理学、日本文化
 兵庫県多紀郡篠山町(篠山市)出身
 ユング派分析家
 日本における分析心理学の普及・実践に貢献
 箱庭療法を日本へ初めて導入
 著作
 「母性社会日本の病理」
 「中空構造日本の深層」
 「日本人の心のゆくえ」
 「日本人という病」
 「日本文化のゆくえ」
   ↓
 鈴木 大拙(だいせつ)
 本名は太郎(ていたろう)
 (1870年11月11日・明治三年10月18日
    ~
  1966年・昭和41年7月12日)
 日本の禅文化を海外に紹介
 仏教学者(文学博士)
 「日本的霊性」
 大拙は仏教の核心に、
 「霊性の自覚」を見出した
 仏教の霊性的自覚というのは
 「即非の論理の体得」
 「日本的霊性」
 霊性
 大知性・莫妄性・無分別智
 ・・・ボクとしては「中空構造日本の深層」が面白かったけれど・・・高天原に成った神の名は、
  ↓
 天地初發之時、於高天原成名、
 天之御中主
 (訓高下天、云阿麻。下效此)、
 次
 高御產巢日、
 次
 產巢日。
 此三柱者、
 並
 獨
 成坐而、
 隱身也。
  ↓
 「天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神」
 の
 「天之御中主神」の役柄、役職が不明で
 「天照大御神・須佐之男・月読命」
 の、
 「月読命」の役柄、役職が不明であるコトが
 「中空(曖昧・無責任・灰色・中間・媒介空間・うつぼ)構造」と説明され、「中空」は「無責任・妥協・取り込む」日本人の傾向性と・・・論議?されていた。
 だが、
 「天之御中主神(テンシオンチュウシュウシン)」
 も
 「月読命(ゲツドクメイ)」
 も、「漢字(真名仮名)」の「意味」であり、「音」であるコトには変わりがない。
 そして「天之御中主神」は
 「獨成坐而、隱身也」
 で三神一括の「神」として説明され、
 「月読命」も「夜之食國」、あるいは「大氣津比賣神・大宜津比賣」と同じ神らしく、「爲穢汚而奉進」=「汚きモノを吐き出した神」として「須佐之男に殺された」と説明され、その後、「故是・產巢日御祖命」ている。これは「御祖(ゴソ)」の字が抜けた「產巢日」である・・・
 ・・・「新井白石」は漢字を「ニホン語の音(音写)」で採れ、と解釈しているらしいが、「古事記」を記録した人物は「漢字の意味も音」も学習した後に「ニホン語の音も、漢字の意味も採って重ねた」のである・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月祈(キセキ)・・・喜捨・・・

2015-01-23 12:09:17 | 古事記字源

 ・・・「α-」は、「ギリシア(希臘)語・ελληνικά・ελληνική」で「否定」を表す「接頭辞」・・・「否定の接頭辞」・・・「anti-」、「a-new」、「in-convenient」・・・日本語漢字ならば、「異 + 邦人 = 異邦人」、「反 + 物質 = 反物質」、「非 + 常識 = 非常識・非人道的」、「不 + 本意 = 不本意」、「未 + 成年 = 未成年」、「無 + 利子 = 無利子」・・・「アルバニア南部」ではギリシャ語を使用・・・「Λ= λ=ラムダ・ラムザ=λάμβδα・λάμδα」の「λ」は漢字の「入」に類似する・・・「Ολυμπία=オリンピア」の「λ」だが、「入」は「いり・はいる・ニュウ」である・・・

 「新井白石」の「西洋紀聞」・・、「紀聞」なのか?・・・「野作(エソ・中国人の表記)」は「蝦夷」で北海道・・・「イタアリヤ(漢訳は意大里亜、また意多礼亜」・・・「ドオツバルカインとダマスクス」は「ダマスクス」は「シリアの首都」。では「ドオツバルカイン」とは、ドコ?・・・「そもそもどの世界でも、それぞれ尊しとする宗教があります。世界の宗教は三つに分かれます。一つはキリスト教(Christian・キリシタンはポルトガル語)、二つ目はヘイデン(Heiden)で、またこれをゼンテイラ(Gentile 多神教)ともいいます。(この法を質問すると、この宗で仏を多く立て、それにつかえるといい、この教議内容は明確ではない) 三つ目はマアゴメタン(マホメット教、漢語で回教という)です」・・・「そのへイベレイウスといふは、ユデヨラの語なり。(ユデヨラとは、ラテンの語にして、イタリヤの語にはジュデアという。これ古の国の名。其の国、今は滅びたり。其の国人の子孫諸国に散在してあるもんを、ヨード人(ユダヤ人)と称すというなり」・・・「ラテンといふは、古の国の名。今はその地詳ならず。キリイキス、またこれに同じ。その中、ラテンに至ては、此方諸音に相通ぜずといふ所なし。されば、諸国の人、これを学びずといふものあらず。又諸国用ゆる所の字体、二つあり。1 つに、ラテンの字、二つに、イタリヤの字、其ラテンは、漢に楷書の体あるがごとく、イタリヤの字は漢に草書の体あるに似たり。其字母、僅かに二十余字、一切の音を貫けり。文省き、義広くして、其妙天下に遺音なし。(其の説=シドチ説に、漢の文字万有余、強識の人にあらずしては、暗記すべからず。しかれども猶声ありて、字なきあり。さらばまた多しといえども、尽くさざる所あり。徒に其の心力を費やすのみという)」・・・「トルカ(イタリヤの語に、トルコといい、他邦ではツルコという)」・・・此の国、其の地甚だ広くして、アフリカ、ヱウロパ、アジアの地方につらなり。国都は、古のコウスタンチイの地(イスタンブール)、古の時、ローマの君、地を避けし所也という。(コウスタンチイ、またコンスタンチヤともいう。アフリカの地、バルバアリヤの北、マーレニゲーテラーニウムに近き所にあり)」・・・「ヲヲランド人(和蘭陀人・阿蘭陀人)」・・・
 西洋紀聞 現代語訳版
ーーーーー
 以下、「ウイッキペデア」から参照
  ↓
 「アラブ(arab)」は「砂の民、遊牧を行う人」・・・
  ↓
 「アルバニア
 (阿爾巴尼亜
  阿爾巴尼亞 )」
 東ヨーロッパのバルカン半島南西部に位置する共和制国家。首都はティラナ。
 西はアドリア海に面し、北にはモンテネグロ、東にはマケドニア共和国とコソボ、南にはギリシャと国境を接する。
 「イリュリア(古代アルバニア)」人は南方の古代ギリシア文化の影響を受けた種族・・・
 「スカンデルベグ
 (Skanderbeg
  1405年~1468年1月17日)
  =スカンデルベク」は、
 中世
 アルバニアの君主で
 オスマン帝国に抵抗した
 本名は
 「ジェルジ・カストリオティ
 (Gjergj Kastrioti)」
 通称の
 「スカンデルベク
 (アルバニア語では
  スケンデルベウ
  Skënderbeu)」は
 トルコ名の
 「イスケンデル・ベイ
  (İskender Bey)」
 に由来
 アルバニア共和国の
 「アルバニア」とは「白い土地」
 「一般的には、白い石灰岩性の地質から」、
  ラテン語の
  「albus =白」が語源・・・
  ↓
 正式名称はアルバニア語で
 「Republika e Shqipërise
  (アルバニア語発音は
   ɾɛpuˈblika ɛ ʃcipəˈɾiːs
   レプブリカ・エ・シュチパリセ)」
 通称は
 「Shqipëri(不定形)・Shqipëria(定形)
  ʃcipəˈɾi, ʃcipəˈɾiːa
  シュチパリ、シュチパリア」
 公式の英語表記は
 「Republic of Albania
 rɪˈpʌblɪk əv ælˈbeɪniə, ɔːlˈbeɪniə
 リパブリク・オヴ・エルベイニア、
            オールベイニア」
 通称は
 「Albania
 (エルベイニア、オールベイニア)」
 日本語の表記は
 アルバニア共和国
 通称はアルバニア
 漢字では
 「阿爾巴尼亜」・・・
 古代には
 「イリュリア」と呼ばれた・・・
  ↓↑
 ・・・「白石」の『西洋紀聞』、『采覧異言』に「アルバニア」は記しているか?・・・
  ↓↑
http://book.geocities.jp/kunio_suwa/Seiyoukibun.pdf
 西洋紀聞 現代語訳版
 「北は、マーレ・ニゲーテラーニウム(すなわち地中海、上の地中海「マーレ・カヌピヨム(おそらくカスピ海のこと)とは用語が異なるのは当然)、東はマーレ・ルーブロム(漢語で西紅海という)」・・・イタリア(漢訳は意大里亜、意多礼亜という)。ヨーロッパの南の地方、地中海上にあり。
 その国都をローマンという。(オランダ語で、ローマという。漢に訳して、羅馬国という。)ここはキリスト教之主(教皇、法王)が支配する場所で、周囲は僅かに十八里、住民は70万人である。
 ・・・私見だが、ポルトガル人が初めて豊後国に来たのは天文10 年(1541)7 月である。その後、薩摩国に来たのが天文12 年(1543)8 月である。
 慶長元和(1596~1623)年間に、毎年
 ゴワや
 アマカワの人(五和、天川と書く)が来聘しているが、それは皆このポルトガルの人がそうした場所にいて、船を操っていた。
 慶長18 年(1613)の冬、西洋の船がキリスト教徒をつれて来ることを禁じた。
 (その前の慶長14 年(1609)、日本人でアマカワに行って貿易していたものが3 百人、ポルトガル人によって皆殺しにあった・・・」
  ↓
 「シドッチが着けている法衣の名を質問すると、「ルリヂヨ(religio)です」と答えた。織ってある布は日本製である。「どこで入手したか」と質問すると、「マルバルのホンテチリで布を買って、ロクソンで法衣にして貰った」という。(この形の法衣を、ポルトガル語では
 カッパ(Capa)
 という。以前日本では、その製法をまねて
 雨衣を作った。今回この製品を見ると、日本でマルガッパという物に似て、襟首の所が少しだけ違う。身に被けて、前襟でボタンという物で左右を連結する。かなり長くて、地面を3,4 尺も引きずるほどである。
  ↓↑
 西洋紀聞 現代語訳版
http://book.geocities.jp/kunio_suwa/Seiyoukibun.pdf
ーーーーー
 ・・・
 シュチパリアとはアルバニア語で
 「鷲の国」を意味し、
 アルバニア人が
 「鷲の子孫」であるという伝説に由来
 他称の
 「アルバニア」は
 ラテン語の
 「albus(白い)」が語源
 語源を同じくする
 アルビオンと
 同様
 アルバニアの地質が主に
 石灰岩質で白いことから
 「白い土地」
 と呼んだことに由来
 1967年
 共産党政府が
 「無神国家(無神論国家)」を宣言
ーーーーー
 以下、「ウイッキペデア」から参照
  ↓
 Α, α
 (アルファ、アルファー
  希: αλφα / ἄλφα, 英: alpha)
 ギリシア文字の1つで、
 伝統的な配列では
 最初にあたる
 古代ギリシア語では
 アルパまたは
 アルファと発音され、
 日本語でも
 アルファ
 あるいは・・・アルイハ
 アルファー
 と呼ぶ
 音価は、
 短母音 [a](ア)、
 または
 長母音 [a:](アー)
 ラテン文字の「A」に対応する。
 α=単母音=a(中・広開母音「ア」)
 数文字としては、
 右肩に点を置いた場合、
 「αʹ 」で、
 「1」を表し、
 左肩(または左下)に点を置く場合、
 「͵α 」で、
 「1000」を表す。
 「αγγλικά=アングリカ=英語」
  日本語の「アングリー」
 「白色= άσπρο(アスプロ)」
  ↓
 ラテンアルファベットの
 「A」、
 キリル文字の
 「А」
 はこの文字を起源とする。
 ギリシア語
 アルファベットの
 冒頭に位置する文字
 物事のはじめを象徴する。
  ↓
 新約聖書のヨハネの黙示録
「わたしはアルパであり、オメガである。
 最初の者であり、最後の者である。
 初めであり、終りである」(22章13節)
  ↓
 ギリシャ文字系統の文字
 (ラテン文字、キリール文字など)を
 アルファベットと言うが、
 これはギリシア文字の最初の
 2文字
 αとβ(アルファ、ベータ)に由来
 「α」は、「a」で、
 「one・one・One=1・壱=一(はじめ)・Ⅰ」
 ギリシア語で
 「否定」
 を表す
 接頭辞・・・?・・・「窃盗語」
 ・・・接頭辞(せっとうじ、英語のprefix)とは、
    接辞のうち、語基よりも前に付くもの。
    接頭語(せっとうご)とも言う
     ↓↑
http://sky.geocities.jp/gaha_space/prefixo.htm
     ↓↑
    anti- 「-に反する (against)」、
       「-と逆」を意味する
       anti=no lugar de
         =confronto com
       anticancerígeno=抗がん剤
       anticorpo=抗体
       antropo=homem=人
       antropologia=人類学
       antropofobia=人間恐怖症;恐人症
       antropofagia=食人
       antropogênese=人類発生論
       antropogeografia=人文地理学
       antropomorfo=類人猿
       antropóide=人間に似た
 「alvi」- ・alvi=branco=白い
       alvinegro=ゼブラカラー
       alvinitente=真っ白な
 「auto」- ・auto=de si mesmo=自分の
       autobiografia=自伝
       autocracia=自己批判
       autocrítica=自己批判
       autodidaxia=独学
       autodidata=独学の人
       autofagia=自食
       autogamia=自家受粉
       autógrafo=自己分析
       autômato=自己分析
       autópsia=自己分析
   ↓
 ギリシャ語の表記以外では、
 大文字Αは
 ラテン文字のA
 と紛らわしいためほとんど使われず、
 小文字
 「α」のみが使われる。
 プラスアルファは、
 元々
 プラスエックスの誤りである。
 「+X」を速記したものを
 「+α」と読み違えたことが起源
 現在では和製外来語として定着した。
 数学で、a と異なる
 第1の定数としてしばしば用いられる。
 特に、複素数や角度を表すことが多い。
 代数方程式の解にあてられることもある。
 自然科学で、
 角加速度、角度、
 電離度、膨張率、減衰率などの量記号。
 素粒子物理学で、
 微細構造定数を表す。
 核物理学で、
 アルファ線を表す。
 電気回路のベース接地回路における
 電流増幅率。
 天文学で、
 各星座で最も明るい(例外あり)
 アルファ星。
  ↓
 Α/α(アルファ)を冠する用語
 アポジカα 、第一製薬が販売している育毛剤。
 アルファ粒子 、アルファ線
 アルファ波
 Arab (arabun 発音記号)
  ↓
 「arab」は
 「砂の民、遊牧を行う人」
 「アラビア」という語は
 「アラブの土地」を意味する
 古代ギリシャ語に由来
 「アラブ」という語は
 「アラビア語を母語とする者」という意味
 ローマ帝国のときから
 アラビア属州という名前が存在
 それより以前からこの地域は
 アラビアと呼ばれていた
 記録では
 アッカド人が彼らのことを
 「Arabi」と読んでいた
 最も古い物では
 紀元前853年の
 アッシリアの碑文に書かれた
 被征服民リストの中に
 「アラブの王」という用例が見られる
 旧約聖書の創世記2章11節に出てくる
 「ハビラ」を
 「アラビア半島」とする説がある・・・
  語源は、
 古代ペルシャ語で、
 意味は
 「arabaya
  (三番目の a の上に
   フランス語の
   シルコンフレックスのような
   山形のアクセントが付いてる)」
  ↓
 「アラブ」の語源は諸説ある・・・
 ヘブライ語の「遊牧民」
 メソポタミアの人々が
 ユーフラテス川の
 西側に住む人々のことをそう呼び
 「西」の意味のセム語の派生とも。
 最古の記録は、
 紀元前・BC853年
 アッシリアの碑文に、
 シャルマネセル3世へ反乱を起こした王子たちに
 「アラブ」の
 「ギンディブ」と称する者が
 1000頭のラクダを与えたと記されているという。
 前6世紀頃まで
 アッシリアや
 バビロニアの碑文に
 「アラブ」はしばしばみえ、
 アラビア半島北部
 シリア砂漠に住む
 遊牧民のことをさしている・・・
 アラブ人自身が、自分たちを「アラブ」と呼んでいる記録は、北アラビア語(正統古典アラビア語になった)で書かれた
 「ナマーラ」の墓誌 に出てくるものが最古。
 南アラビアの
 古代碑文は年代のはっきりしないが、
 おそらく紀元前末期-紀元後初期と推定
 これらも
 「アラブ」は
 遊牧民をさしている。
 なお、
 『旧約聖書』には
 最古のアラブ人だろう人々の記録が残る。
 「創世紀・第10章」に、
 アラビア半島に住んでいる人たち、
 アラビアの土地のことなどが記されている。
  ↓
 コーランでの
 「アラブ」は、
 町の人間ではない者、
 砂漠の遊牧民という意味で使用
 メッカ
 や
 メディナ
 の町の住民は
 「アラブ」とよばれていない。
 ムハンマド(マホメット)の死後、
 コーラン=アラビア語を
 ともなったイスラム世界の広がりは
 「アラブ」という言葉を
 中央アジアから
 西アジア、
 北アフリカ地域へ
 広く世界へ分布させた。
 「ガズウ(略奪)」が
 習慣的、文化的に行われていたらしい・・・
 略奪した際、
 犠牲者側が砂漠で生きていけるよう
 何頭か残していく家畜をいう
 「ウクラ」というものがある。
  得句覶・・・「慈悲・自費・似非・侍婢」・・・
 民話では家畜をとりかえす力のない
 老人が略奪者に
 「ウクラはどうした?」といって
 相手が
 「ウクラ」をおいていくやりとりがある
 「井戸」の支配権をめぐる争いで戦う
 「シャイフ(齢とった人・遊牧民では族長)
  と呼ばれる
  指導者は勢力圏内の
  一族や客の安全を保障できないと、
  シャイフとしての一切の資格を失う。
  また弱い部族が金品を差し出して
  強い部族に
  隷従し庇護を受けることがあるが、
  その部族は
  軽蔑され
  他のあらゆる部族と
  姻戚関係を持つことは許されない」
  民話にも
  ジプシー的な部族の者と
  姻戚関係が許されない話がある
  名誉を守るため
  婚資の倍の賠償を払って離婚
  サウディ・アラビアでは
  この
  ジプシー的な・・・フランス語で「ジタン」
  存在の部族を
  「スロッバ」といっている・・・?
  「素(数)賂葉」カモ?・・・タロット
   ↓
 「台風」の語源
 はアラビア語?
 「台風」はの言葉の語源は
 「嵐」を意味する
 アラビア語の
 「tufan」=「旋風」
  ↓
 「アル(al)」で始まるモノの
 アラビア語源由来
 アルコール
 キャンディ・シュガー・シロップ、
 コーヒー、コットン、
 マッサージとマットレス
 (遡ると同じ語源)、
 ラケット、ソファ、タンバリン
 などアラビア語からの借用語
  ↓
 alchol(酒)
 algebra (代数)
 algorithm (アルゴリズム)
      数学、コンピューティング、
      言語学、
      それらの関連する分野において、
      問題を解くための
      手順を
      定式化した形で表現したもの
     「算法(さんぽう)」とも
 assassin (暗殺・大麻は
       英語でhasheesh)
 jar (ジャー)
 lemon
 magazine
 monsoon (気象用語)
 mummy(ミイラ・乾物・やせこけた人)
 mask
 racket (テニスのラケット)
 sofa (ソファ)
 syrup (シロップ)
 tariff (税関)
 zero (数字のゼロ)
ーーーーー
 ・・・「ザカート」=「困窮者を助けるための義務的な施し・喜捨」=「制度喜捨・救貧税」=語源は「浄め」の意・・・「サダカ」=「任意で自由な施し・喜捨」・・・「ウンマ・イスラーミーヤ(أمّة إسلامية umma islamiya)」=「イスラーム共同体」=「ウンマ」の語源は「母」・・・「うま=馬→馬婦=乳母=養母」・・・?
 イスラーム
 ムハンマドが
 アッラーフの啓示を受けた
 ムスリム(Muslim)の信仰生活
 第一聖典クルアーン(コーラン=朗唱されるモノ)
 と
 第二聖典ハディース
 の体系思想
 回教=フイフイ教=islamqa
 服従、謙遜、命令に従い
 禁止を守り
 アッラーだけを信仰
  ↓
 ラテン文字で表記
 IS-L-AM(イスラム・isurāmu=islām)
           slām=平安・・・?
           aslama(アスラマ)は
           交換の意味・取引関係
           己の全てを神に委ねる
          (مسلم muslim・al-Islām)
           ムスリム=穆斯林
 IS-R-AEL(イスラエル)・・EL=戦う神
 「ヤコブの別名イスラエル(旧約聖書)」
 「ヤコブ」が天使(神)と相撲をし、
 与えられた名前
 「神に勝つ者」を意味・・・
 「イスラ・エル
  イシャラー(勝つ者)+エル(神)」
 「ヤコブ(弟)」は「エサウ(兄)」と
 「双子」で生まれた・・・「大碓・小堆」も双子
 「イサク(イツハク)の子」、
 「アブラハムの孫」・・・
  アブラハム→イサク(弟)→ヤコブ&エサウ・・・
   ↓     ↑↓
   ↓   →イシマエル(異母兄)
 「イシマエル・イシュマエル=Yišmaʿel」
  アラビア語で「イスマーイール」
  は
 「神は約束し給う・主は聞きいれる」の意
 「アブラム→アブラハム」と
 「ハガル」の子供
 「ハガル」はエジプト人で
 「サライ→サラ」の女奴隷(創世16:11-16)
 神はアブラムとハガルに
 「イシマエル」は
 大いなる国民の父祖になると約束・・・
 「彼は野生のロバのような人になる。
  彼があらゆる人に
  こぶしを振りかざすので
  人々は皆、彼にこぶしを振るう。
  彼は兄弟すべてに敵対して暮らす
  (創世記. 16:12)」
 との預言された人物で、
 全てのアラブ人の先祖・・・
 だが「ハガル」と「イシマエル」母子は「サラ」によって砂漠に放逐・・・「彼は荒野に住んで弓を射る者となった。(創世記21:14-21)」・・・「アラブ=砂漠の人」・・・
  ↓↑
ーーーーー
 「イシマエル」・・・石舞(いしまえる)
  ↓
 石舞台古墳
 文献に記されるのは、
 江戸時代
 延宝九年(1681年)の
 林宗甫
 『大和名所記』(和州旧跡幽考)に、
 「石太屋」という陵があると記録
 陵とは前後の文脈から
 天武天皇の陵と了解できる
 「石太屋」(いしふとや)は・・・・セキタイヤ
       意思附賭也・・・・・→籍太(多以・対・堆)辭(辞)
 大きな石で造った屋の意味
 これが
 「石舞台」と転訛したのではないか・・・イシマエルの代
 嘉永元年(1848年)の
 『西国三十三所名所図会』にも、・・・西の国の参拾参の所
 石舞台を
 天武天皇の殯のあとという記述
 地元では他に
 「石蓋(いしぶた)」・・・「蓋(ふた)」=「亠(なべぶた・トウ・ズ)
               ナベブタ・音の略字」
     亥(猪)示(支)豚・猪子分多(他・汰)
 ・・・・「イシ(磐・岩・違和・巖・)=医師・意思のフタ」だろう・・・
 などの名前で呼ばれていた
 「狐が女の姿に化けて
  古墳の上で
  踊ったことから
  石舞台と名付けられた」という伝説・・・
 古墳のすぐそばで生まれ育った
 「網干善教」は、
 そのような話を自分は聞いたことがなく
 近年に創作された話であろう、としている
 明治時代
 喜田貞吉が
 『日本書紀』にみえる
 桃原墓が石舞台にあたるとする説を発表
 1933年(昭和八年)
 と
 1935年(昭和十年)
 に京都帝国大学(当時)の
 浜田耕作らが中心となり、発掘調査
 貼石列、空堀、外堤の跡が見つかり、
 方形であることが判明した。
 発掘調査で古墳周囲の堀が見つかったの
 1954年(昭和二十九年)~1959年(昭和三十四年)
 古墳の復元整備事業が行われた
 巨石が組み上げられた
 基本的な外観は江戸時代から変わっていない
 ・・・イシブタイの語源は「幕末、明治」の仕業である・・・
ーーーーー
  ↓↑
 「イサク」・・・・・・・・・・・・・意、咲(笑・哂・嗤・嘲笑・アザケル)・・・
 「アブラハム(100歳)」と
 「サラ(90歳)」の子
 「イサク(英語=Isaac アイザック
      ヘブライ語=yits-khawk=イツハク
      ギリシア語=Ισαάκ=Isaak
      アラビア語=Isḥāq イスハーク)」
      「彼は笑う」の意・・・
 ・・・囚われた「日本人」の祖先はダレなんだか・・・彼らに「サダカ」=「任意で自由な施し・喜捨」はあるのか・・・ワラウのはダレか・・・イサクであるカナ・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食糧援助は現物を手渡しで・・・俎板の上には覚悟で・・・

2015-01-21 17:47:08 | 古事記字源

 ・・・「古事記・日本書紀」の「また(又・叉・俣・股・復・亦・全)=マタの名」→「マタのメイ」・・・「亦」=「亠(音の略字・トウ・ズ)」+「刂(刀の略字・かたな・トウ・ト)」+「八(や・やつ・ハチ・ハツ)」・・・「廣州亦名羊城」=「広州は、亦(また・エキ・腋=わき)の名は、羊城(ヨウジョウ)とも呼ぶ」・・・「羊(ひつじ)の城(しろ)=十+一+成(万戈)」なら、「未白(未だ白ならず)」である。人物なら「高田未白(寛永七年・1630~正徳五年十二月十四日・1716)国学者。山崎闇斎の門人・備中(岡山県)出身・名は正方・別号に海隅白翁」と「酒井未白( ?~弘化二年1845) 江戸時代後期の俳人。信濃(長野県)の人。上野(こうずけ)・群馬県)に永住。通称は治兵衛」・・・「新井白石」に関係するのか・・・?・・・亦も、モウソウ、同じことを書き込んで、これを読んでくれる人は「辟易」するカモネッ・・・
 「辟易=項王瞋目而叱之、赤泉侯人馬倶驚、辟易数里(史記-項羽本紀)?→避けて路を変える意・重い刑罰を易する?・処刑・腰を斬る?」・・・「辟雍(ヘキヨウ)は西周時代の中国の高等教育機関、学校=五学=太学」である。「太く学ぶ」とはネッ。これは「孫 詒譲(ソン イジョウ・1848年~1908年)・字は仲容、号は籀廎。清末の学者・教育家」の「墨子家(墨子は兼愛、非攻の思想家・紀元前450~390頃)」の説らしい。
 キリスト誕生以前の「紀元前450~390」である。
 釈迦誕生の推定生没年は、
 「紀元前624年~紀元前544年南伝(上座部仏教)」説、
 「紀元前566年~紀元前486年北伝(衆聖点記)」説
 があるらしい。
 キリスト誕生以前の「紀元前566年~486年」である。
 誕生日は中国暦「4月8日」、インド系太陽太陰暦「第2月15日」で、「花祭り・華祭り」である・・・
 ・・・「辟=尸+口+立+十」を伴なう漢字・・・「譬=辟+言」は「譬喩=ヒユ=比喩」の「たとえ(譬)=例え・喩え・仮令」である。
  「譬説(ヒセツ)」、「譬喩(ヒユ)」、「譬諭(ヒユ)」、「譬喩尽(たとえづくし)」があり・・・人体では「臂(ひじ・ヒ)=辟+肉」である。
 「辟=尸+口+立+十」は「シカバネ(屍)、カバネ(姓)のクチ、タツ、十字架」・・・「尸」=「屍体、亡骸、かたしろ、晒す、司る、連ねる、陣を並べる、怠る、実体の無い」、「尸」=「陳(つら)ぬるなり(説文解字・巻八)・陳なり、主なり、なり(爾雅・釈詁)」、「字形は屍体の臥せるところの象形」・・・「死体解剖=dissection of a dead body=necrotomy」・・・
 デッド・ボディ=dead body(英語)
 ライヒェ=Leiche(独逸語)
 コール=corps(仏蘭西語)
 カダベル=cadáver(西班牙語)
 カダバル=kadaver(阿蘭陀語・和蘭語)
      lijk
      kreng
      「解体新書」=杉田玄白
             中川淳庵
             前野良沢
       刑死者の腑分(ふわけ=解剖)
       弟子の
       大槻玄沢が改訳
      「重訂・解体新書」
       寛政十年(1798年)脱稿
       文政九年(1826年)刊行
      ドイツ人医師
      ヨハン・アダム・クルムスの医学書
      「Anatomische Tabellen(解剖図譜)」
             たべれん?
       のオランダ語訳
      「ターヘル・アナトミア」
       日本語漢字でのルビ
      「打 係縷・亜那都米」
      「Tabulæ Anatomicæ=解剖(学)図表」
      「ターヘル」が「表」、
      「アナトミイ」が「解剖」
      「Ontleedkundige Tafelen」
      「Tafelen」は「テーブル=図表」
             たふえれん?
 カダーヴル=cadavre(伊太利亜語)
 カダーヴェレ=cadavere(伊太利亜語)
  ↓
 ・・・「白石」は「涅(そ)めても涅めても黒くならず、磨(と)いでも磨いでも薄くならず(論語・陽貨篇)」の意味。「涅」の漢字は元来「釈迦」が入滅した「陰暦二月十五日」の「涅槃(ネハン)=解脱・安楽寂滅」の熟語に使われる漢字である。他には「涅歯(デッシ・ネッシ)」があり「歯を黒く染めるコト」である。「涅=氵+日+土(十一)」は「デツ・ネチ・ネ・ネツ・くろつち・どぶどろ・くろ」と漢和辞典にある。
 兎に角、「亦」である・・・
 「説文解字・巻十」には「亦」は「人の臂亦なり」とある。 字形は「人の正面形に両脇を示す点を加えた指事(または象形)」、「臂亦=ヒエキ・臂(ひじ)と亦(わき)・亦はワキの下の腋」、「説文」に「大に從ひ、兩亦(両脇・両腋)の形に象る」とある。「腋の初文」とも・・・「わき(和記)・エキ(易)」・・・
 釈迦の誕生譚・・・母のマーヤ夫人が「白い象」が体の中に入る夢をみて妊娠し、臨月で里帰りする途中、アショーカ樹(サーラ樹)の花が満開のルンビニー園で休憩。マーヤ夫人はその花を取ろうとして右手を伸ばした時に釈迦は「夫人の右の脇腹(腋腹→亦腹)」から生まれた・・・「形象→白象→白像→想像」、「脇腹(腋腹→亦腹)」・・・「天上天下唯我独尊」・・・
 ボクの持っている「新約聖書(ラゲ訳・東京大司教出版)」には、
 「幼児・幼子」キリストに使用された漢字は
 「孩兒(おさなご・ガイジ・カイシ)」であった。
 「孩」=孑(ひとり・ぼうふら・ケツ・ケチ)+亥
     子(こ・ね・シ・ジ)+亥(い・カイ・ガイ)
 「兒」=臼(うす・キュウ)+儿(ニン・ジン)
     兒=児=旧(ふるい・キュウ・ク・グ)+儿
         旧=「舊」の略体
 「孩」は「孑(子)」は「亥=猪」である。
 「古事記」の「猪」とは「伊吹山(伊服阜能山)の白猪(白豚)の神」であった。「日本書紀」では「五十葺山(膽吹山)」の「大蛇=大巳(大蝮)」である。
 ヤマトタケル=倭建命=小堆皇子
 「亦の名」は
 「日本童男・倭男具那命(やまとをぐな)」
       和談に具えるナメイ(ダメイ)
           命=みこと=いのち
  ↓
 「新約聖書」では
 「アルフェオ(Alfeo)の子」で、「税吏」であった「使徒マタイ」によって書かれたとされている『マタイの福音書』、『マタイ福音』、『マタイ伝』、『マタイ』・・・
 「アルフェオ(Alfeo)」の名前は「モンテ アルフェオ オットーネ ピアチェンツァの州、トレッビアの左岸で、中央イタリアのコミューンの領土内に位置するリグーリア州アペニンの山」・・・
 「アルファ-ベット(alpha-bet)」・・・
 「Alfeo(アルフェオ)」は「ギリシャ神話のオルフェウス(Ὀρφεύς, Orpheus)」の訛りカも・・・?
 「アルフェオ(Alfeo)→オルフェ( Orfeo)」・・・
 「オルフェオとエウリディーチェ(グルック)・
   (Orfeo ed Euridice)
  グルックが作曲したオペラ。1762年初演」
 のオペラに「森鴎外の翻訳」・・・
 モノガタリは
 「黄泉(よみ・冥土・冥界)の国」に
 「妻の伊邪那美命を求めに行った」
 「夫の伊邪那岐命」
 ・・・と重なる・・・?・・・
ーーーーー
 古事記原文・・・島生み・・・
  ↓
 於是
 二柱神議云。
 今吾所生之子不良。
 猶宜白
 天神之御所。
 即共參上。
 請
 天神之命。
 爾
 天神之命以。
 布斗麻迩爾
 【上。此五字以音】
 ト相而詔之。
 因
 女先言而不良。
 「亦」
 還降・・・・刊行?
 改言。・・・改元?
 故爾・・・・古事・故事・古字・虎児?
 反降。・・・反抗・犯行・版行?
 更往
 迴其
 天之
 御柱
 如先。
 於是
 伊邪那岐命。
 先言
 阿那迩夜志愛袁登賣袁。
 後
 妹
 伊邪那美命
 言。
 阿那迩夜志愛袁登古袁。
 如此言竟而。
 御合。
 生子
 淡道之穗之狹別嶋
 【訓別云-和氣-下效此】・・・別=和氣
 次生
 伊豫之二名嶋。
 此嶋者身一而有面四。
 毎面有名。
 故
 伊豫國
 謂
 愛(上)比賣【此二字以音下效此】
      「この二字は音読み
    (以)下は此れに效(効・なら)へ」
 讚岐國
 謂
 飯依比古。
 粟國
 謂
 大宜都比賣【此四字以音】
 土左國
 謂
 建依別。
 次生
 隱伎之三子嶋。
 「亦」-名
 天之忍許呂別【許呂二字以音】
 次生
 筑紫嶋。
 此嶋-「亦」-身一而有面四。
 毎面有名。
 故
 筑紫國
 謂
 白日別。
 豐國謂豐日別。
 肥國
 謂
 建日向日豐久士比泥別。【自久至泥以音】
 熊曾國
 謂
 建日別【曾字以音】
 次生
 伊岐嶋。
 「亦」-名謂天比登都柱【自比至都以音訓天如云】
 次生
 津嶋。
 「亦」-名謂天之狹手依比賣。
 次生
 佐度嶋。
 次生
 大倭豐秋津嶋。
 「亦」-名謂
 天御虚空豐秋津根別。
 故因此
 八嶋
 先所生。
 謂
 大八嶋國。
 然後還坐之時。
 生
 吉備兒嶋。
 「亦」-名謂建日方別。
 次生
 小豆嶋。
 「亦」-名謂
 大野手(上)比賣。
 次生
 大嶋。
 「亦」-名謂
 大多麻(上)流別
 【自多至流以音】
 次生
 女嶋。
 「亦」-名謂
 天一根【訓天如天】
 次生
 知訶嶋。
 「亦」-名謂
 天之忍男。
 次生
 兩兒嶋。
 「亦」-名謂
 天兩屋。
 【自
  吉備兒嶋
  至
  天兩(両)屋嶋
  并
  六嶋】
ーーーーー
 新約聖書(マタイ傳)・・・亦異伝・亦遺伝
 ↓            又叉俣・復股・摩他
 現代語訳
 第17章
 17:1
 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
 17:2
 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
 17:3
 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
 17:4
 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
 17:5
 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。
 17:6
 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。   17:7
 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。
 17:8
 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。
 17:9
 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。
 17:10
 弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。
 17:11
 答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。
 17:12
 しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。
 17:13
 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。
ーー↓↑ーー
 17:14
 さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、
 17:15
 「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。 17:16
 それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。
 17:17
 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。
 17:18
 イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。
 17:19
 それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
 17:20
 するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。
 17:21
 「しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない」・・・?
  ↓
 ?・・・『然(されど)、此類(このたぐい)は、「祈祷」と「断食」とに由(よ)らざれば遂(爫豕辶)出(おひださ)されざるなり』・・・「祈祷」と「断食」がナゼ必要なんだか・・・?・・・これは「信仰が足りないから」ではない、と、イエス自身が否定的に云っているのだ。「釈迦」と同じ「修行」が必要だったのか?・・・
 「遂(ハ豕辶・逐→駆逐)出」=おひだすモノは、猪、豚。「豸(爫+犭)+ト」=「ツメ冠のケモノ偏のト」・・・「豸(むじな・チ、ジ)=「のそのそと這いながら進む・足のない這いながら進む動物の総称・むじなへん」+「卜(うらない・ボク)」・・・「彖(タン・太ったブタ・かくれる=コッソリと物陰に隠れる・易経で一卦ごとに対する総論)=彑(けいがしら・いのこがしら)+豕(いのこ・豚・シ)」・・・
 「遂(とげる・ついに・スイ・ズイ)」
 と
 「逐(おう・チク・ジク)」、
 「豸+ト」
 と
 「彖」は混乱しているらしい・・・
  ↓
ーーーーー
 絡める・からめる・カラメル・・・キャラメル
  ↓
 「キャラメル」の語源
 フランス語の「caramel(カラメル)」
 ラテン語の「calam-us(葦・あし)」
 に語尾がついた・・・「us→ゥス」
 「calamell-us(小さい葦・あし)」が、
 ポルトガル語の「caramelo(カラメロ)」となって、
 フランス語の「caramel」になった・・・
 ↓
 ラテン語の「calamus(葦)」=砂糖黍
 スペイン語(ポルトガル語)の
 「caramelo(カラメロ=甘いもの)」が
 フランス語「caramel(キャラメル)」に入り
 英語の「caramel」に・・・
 砂糖を熱して
 重曹で
 固めた
 軽石のような
 お菓子
 「軽目焼き(かるめやき)」は「caramelo」
 「calamus」から生まれた
 「caramelo」が
 ポルトガル語の
 「charamela(チャラメラ)」は
 葦で作った笛のこと
  ↓
 日本語では、
 キャンディー菓子の
 「キャラメル」に対し、
 「カラメル(浮石糖)」は
 水と砂糖のみを熱して生じた液体
 ↓
 キャラメル(caramel)は、
 16、17世紀に
 ポルトガルが伝えた
 カラメルとは
 別モノで
 森永製菓創始者の
 森永太一郎が
 アメリカで製法を学んで創作
 ↓
 日本の
 キャンディ(candy)の歴史は
 飴(あめ)から
 甘い(あまい)から
 日本書紀にも
 飴の記述・・・
 平安時代には貴族の薬用
 江戸時代の初期になって
 麦芽を使い生産
 現在のキャンディ(candy)の多くは、
 明治時代に欧米から
 「candy」→「canーdy」→「can-day」
 「dy」・・・腐植泥,泥炭泥
       dysprosium
       希土類の3価の金属元素
 「dy」・・・「dye=染料」
             「die=死」
       「dynamic・disable・dyad」
  ↓
 「キャラメル」の語源の一つ・・・
 インド由来の単語
 「伽羅(きゃら)」と
 「スメール山」の
 合成語だという・・・
 伽羅(沈香)は
 甘い匂いを漂わせる香木で
 色もキャラメル色・・・
 スメール山(須弥山)には
 甘露と呼ばれる雨が降る・・・
  ↓
 森永製菓の創業者
 森永太一郎(もりながたいちろう)
ーーーーー
  ↓
 「華厳経(けごんぎょう)
  梵語: Avataṃsaka Sūtra
    アヴァタンサカ・スートラ)
 「大方広仏華厳経
 (だいほうこうぶつけごんきょう
  梵語: Mahā-vaipulya-buddha-avataṃsaka Sūtra
     マハー・ヴァイプリヤ・ブッダ
            アヴァタンサカ・スートラ)
 初期大乗仏教経典
 経名は
 「大方広仏の、
  華で飾られた
  (アヴァタンサカ)
  教え」の意
  「大方広仏」
  時間も空間も超越した
  絶対的な存在としての
  仏という存在について説いた・・・
 ↓
 元来は
 「雑華経(ぞうけきょう)
  梵語: Gaṇḍavyūha Sūtra
  ガンダヴィユーハ・スートラ)
 「様々な華で飾られた
  荘厳された(ガンダヴィユーハ)教え」
 とも呼ばれ
、「ヴァイローチャナ・ブッダ」という
 仏が本尊
 「ヴァイローチャナ・ブッダ」を、
 「太陽の輝きの仏」と訳し、
 「毘盧舎那仏」と音写される。
 「毘盧舎那仏」は、
 真言宗の本尊
 「大日如来」と同一の仏
  ↓
 華厳経にも、
 「如来蔵」思想につながる発想・・・
  ↓ 
 陽光である
 毘盧舎那仏の智彗の光は、
 すべての衆生を照らして
 衆生は光に満ち、
 同時に
 毘盧舎那仏の宇宙は
 衆生で満たされている。
 これを
 「一即一切・一切即一」とあらす
 「あらゆるものは
  無縁の関係性(縁)」・・・?
  によって成り立っている
 「法界縁起」と呼ぶ
 「六十華厳」の中で特に重要なのは、
 最も古層に属する
 「十地品」
 「入法界品」の章
  ↓
 「十地品」
 菩薩が踏み行なうべき十段階の修行
 六番目までは
 自利の修行が説かれ、
 七番目から十番目までが
 利他行が説かれている
  ↓
 「入法界品」
 「善財童子(ぜんざいどうじ)」
 という少年が、・・・キリストも子供を例えて説いた
 人生を知り尽くした
 53人の人々を訪ねて、
 悟りへの道を追究する物語
 ↓
 唐の
 法蔵は
 「華厳五教章」
 において、
 五教十宗判の教相判釈を行い、
 華厳の教えを最高とした
  ↓
 第二章
 廬遮那品
 ・・・「因縁」とは「諸関係」というコトだろう・・・道で相手の目を見て「因縁」をつけられる・・・「如来の神通力」ではないだろう・・・
  ↓
 「わたしは、生死の海のなかで、
  ことごとくかなぐりすてて、
  国を浄めることだけを修した」・・・
 「怠惰なものは、
  ふかい
  方便の海を解わかることができない。
  努力精進の力が完成することによって、
  仏の世界は浄められて行く」・・・?
 ・・・「仏の世界」ではなく、浄められて行くのは「俗人の世界」である・・・
  ↓
 第五章
 如来光明覚品
 「仏の説きたもう
  真理は、
  はなはだ深くて、
  色もなく形もない。・・・目では認識できないモノ
  その境界は、
  すべての
  煩悩をこえ、
  すべての
  我執をはなれて、
  空寂であり、
  清浄である。
  さとりの世界は・・・悟りの世界とは「脳ミソ機能」
  広大無辺であり、
  そのなかで
  万象は関連しあって・・・関連とは「関係」である
  起っている。
  その一々が
  ともに
  解脱しており、
  もともと
  つねに空寂であって、
  すべての
  まどいを
  はなれている」・・・纏わりを離れている?
   ↓
 菩薩のつとめ
 「(1)人間界や天上界における
     快楽の心をはなれて、つねに
     大慈心を行じ、
     すべての衆生をすくいまもれ
  (3)とこしえに生死の海をはなれ、
     仏法のながれにしたがい、
     清涼の智慧に安住せよ
  (5)過去現在未来の
     無量であることをしり、
     怠慢の心をおこさないで、
     つねに仏の功徳をもとめよ
  (6)自身のありのままの
     実相を観察し、
     すべては
     みな寂滅
     していること・・・無常とは
              変化で寂滅ではない
     をしって、
     我
     や
     無我
     にたいする
     執着をはなれよ・・・無我は既に無執着である
  (7)衆生の心を観察して、
     まよいの想いをはなれ、
     真実の境界を完成せよ
  (8)無辺の世界に思いをはせ、
     すべての大海を
     のみつくすほどの
     神通の智慧を完成せよ・・・「神通力」?
  (9)諸仏の国土の、
     形あるものと・・・存在・・・形而下
     形ないものの・・・認識・・・形而上
     すべてをしれ
 (10)はかりしれない
     仏国土の、・・・
     一つの塵を
     一仏となし、
     かくして
     すべての塵を
     諸仏となせ
 そのとき、
 仏の光明は、
 無数の世界を照らしだし、
 世界のありとあらゆるものがあらわれでる
  ↓
  第六章
  菩薩明難品
 すべてのものは、
 自性を持たない。・・・関係性である
 あらわれているということにも、
 なんの自性もない。・・・関係性である
 ただしく
 思惟し、
 ありのままに
 観察すれば、
 すべてのものに
 自性のないこと・・・・関係性であるコト
 がしられる
 このような
 心眼は、・・・・・・・「心の眼」は脳ミソ機能
 清浄であり、
 不思議である
 だから、
 虚妄といい、
 虚妄でないといい、
 真実でない
 ということなどは
 かりのコトバにすぎない・・・「コトバ」自体である
  ↓
  教化・・・教化される存在とは「無知」者
  ↓
 「智慧の明かなひとは、
  つねに寂滅の行をねがっている。
  身体を内から観察してみるに、
  いったい、
  わが身になんの所在があろうか。
  どこにも、
  そのもとづくところの根拠がない。
  このように、
  身体の状態をさとっているものは、
  からだのどこにも執著することがないであろう。
  身体のありのままの状態をさとり、
  すべてのことがらに了達しているものは、
  いかなるものも
  すべて虚妄・・・妄想観念
  であるとしって、
  さらに、
  その心にも、
  執著しないであろう。
   ↓ 
 因縁・・・・諸関係
 によって
 おこるところの業は、
 生滅流転の
 一切の世界は、
 ことごとく
 因縁から起っており、
 刹那刹那に消滅している。・・・生成消滅生成
 智者は、
 すべての存在は・・・認識対象存在
 無常迅速であり、
 空にして自我はないと観察し、
 執著のイメージをはなれる」 ・・・
 (これを体得することをさとりという)
 仏が、
 衆生を
 解脱せしめられるときは、
 衆生の
 こころや
 智慧に
 したがって
 仏法をのべられる。
 そしていくらのべられても、仏法は尽きることがない。
 このように
 仏は、
 衆生にしたがって、
 自由自在に
 衆生の世界に入りたもうけれども、
 仏の智慧は、
 つねに寂然としている。
 これが、ただ仏だけの境界である。 
 仏の境界は、
 業でもなく、煩悩でもなく、
 寂滅していて、
 よりどころもないが、
 しかし、
 平等に
 衆生の世界に活動している。
 一切衆生のこころは、
 過去、未来、
 現在のなかにあり、
 仏は、ただ一念において、
 衆生のこころをことごとく
 明達しておられる」
 ・・・
ーーーーー
 十二因縁・十二支縁起
 1.無明
  過去世の無始の煩悩・迷い
 2.行
  志向作用・物事がそのようになる力=業
 3.識
  識別作用=好き嫌い、選別、差別の元
 4.名色
  物質現象(肉体)と精神現象(心)
  実際の形と、その名前
 5.六処
  六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意
 6.触
  六つの感覚器官が、感受対象が触れること
  外界との接触
 7.受
  感受作用。六処、触による感受
 8.愛
  渇愛
 9.取
  執着
 10.有
  存在。生存
 11.生
  生まれること。
 12.老死
  老いと死
 ・・・ご立派・・・デス・・・どうやら、「釈迦」は覚ってなかったようである・・・悟りきれない存在であるコトをサトルてはイナイ?・・・
  ↓↑
 そして、中国人仏僧は「中華の芯」を「シン(秦国・支那・晋国・新国・清国)=チャイニーズ(Chinese)、秦(sino)の国」と解釈し、「ローマ(羅馬)帝国」を
 「太秦(大秦)国=和帝の
          永元九年(97年)
          西域都護の
          班超が
          甘英を使者として
          大秦に派遣」
          桓帝の
          延憙九年(166年)
          大秦国王の
          安敦(アントン=アントニヌス)
          の
          使者が日南郡に訪れて
          象牙・犀角・玳瑁を献上
          初めて(大秦と漢は)
          交流」
 と記し、その後の近代英国人は「sin=罪」と解釈?し、江戸時代、明治教養人は解釈に混乱し、その後「太秦(うずまさ)」に映画会社が乱立されたが、東宝(J.O.スタヂオ)は1941年に閉鎖し、跡地は
 「大日本印刷(1876年=明治九年、前身は秀英舎)」の京都工場工場となった。
 「秀英舎」は
 1935年(昭和十年)2月26日に
 「日清印刷」と合併
 「日清印刷」は
 東京専門学校(早稲田大学)の印刷所だった・・・
 「秀英舎」は
 佐久間貞一
 宏仏海
 大内青巒
 保田久成が共同出資し
 活版での印刷会社として
 東京京橋の
 弥左衛門町に創立
 佐久間が
 大教院・・・尊皇愛国思想の教化
      (大教宣布)をするための機関
       明治八年(1875年)四月
       神仏合同布教禁止の令
       五月、大教院は解散、閉鎖
 の教会新聞発行を引継ぎ、
 その印刷のために
 活版所を買い取ったのが由来
 秀英舎は主に新聞印刷や、
 中村正直の
 「西国立志編」
 の活版による再版などに
 代表する書物の印刷会社として発展・・・
  ↓
 「シン」・・・サンスクリット語では「獅子(しし)」だが、「虎」である。獅子舞の龍の顔は「ライオン?」で、「虎」ではない・・・漢字の「辰(シン)」は日本語で「たつ=龍・竜」だが「リュウ・ロウ」?・・・「獅子(しし)」とは「鹿」か「猪(亥)」である・・・
ーーーーー
 宗教には
 「奇蹟・奇跡」が必要で、
 「比喩」が必要である・・・「一切衆生(この世に生を受けたすべての生き物)」は「無知」だから・・・勉強しなくちゃぁネッ・・・だが、「教化する者」も「教化される者」も、「一切衆生」で、亦、「塵」の「因縁=関係性」で蠢いているハズ・・・?・・・「教化」とはダレに対するモノ・・・コトバを理解する前に先ずはコトバを覚えなくちゃァ・・・その前に喰わなくちゃ・・・
 キリストの最大の奇蹟は「群集(婦女、幼童を除いて五千人、四千人)に二度に与えたパン(麺=麪=ベン・メン=麦・麥+丏)の配給」、「マタイ伝(14章20・21)」と「マタイ伝(15章37・38)」である。
 「麥+丏」の
 「丏(しかばね・おおう・ベン・メン)」とは、隠れるという意味の字である。
 「丐(こう・カイ・乞う、乞食という意味)」
 とは別の字・・・丐は匄(匃)の異体字・・・
 彼以外にこの「奇蹟」を行った宗教家は存在せず、類似するのはモーゼの民は放浪中、天から降り注いだ「マナ(Manna)」で飢えを凌いだ・・・旧約聖書「出エジプト記・第16章」イスラエルの民が「シン」の荒野で飢えた時、神がモーゼの祈りに応じて天から降らせた。人々は「これは何だろう」と口にしたことから「マナ=これは何だろう」を意味するヘブライ語になる・・・「真名・真魚」である・・・
 麦
 wheat(ウィート)=小麦
 barley(バーリィー)=大麦
 rye(ライ)=ライ麦・裸麦
 oats=燕麦・・・「オートミール(oat meal)」
         「オーツ麦の食事」
         「粥状に調理したもの」
         「煮たモノ・porridge
          英俗語で
          刑期
          刑期をつとめる
          do (one's) porridge)」
  「meal」・・・「マナ」の音には繋がらないが「まんま(マンマ)」は「飯(めし・いい・まんま・まま・ハン・パン・ボン)」である・・・だが漢字はナゼか「飯=食+反」?・・・「魚(まな→真名仮名)」の混じった「炊き込みご飯」で「瀧(多伎・他記)込み語判(誤判)」である・・・鳴滝塾・・・座当の市さん、「めしい(盲目)」の、「一宿一飯の義理」である・・・
 「教化」って、「思想教育」、「洗脳教育」、「人間改造教育」・・・「思想」でない「コトバ」なんかは無いのに・・・ネッ・・・「命令キョウカの社会」・・・
ーーーーー
 キャラメルを「カラ」メル・・・絡める・・・
  ↓
 1899年(明治32年)
 前身の森永西洋菓子製造所を設立する。
 1912年(大正元年)
 森永製菓株式会社となる。
 1914年(大正3年)
 ポケット用
 箱入りミルクキャラメルを発売
 1919年(大正8年)
 ミルクココアを発売する・・・
 ・・・「見る句は個々、亜(アマネシ)」である・・・カナ・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする