・・・「叶(かな)う」と云う漢字は「口+十」である・・・口に十字架である。「騙(だま)す」と言う漢字は「馬+扁」である・・・訓読みで同音異字漢字に「欺す・瞞す・黙す・珠数」がある・・・「馬」に偏っているのは「司馬遷の史記」か、「馬喀伯(マカベ)、瑪拉基(マラキ)書の旧約聖書」、「馬太(Matthaeus・馬瓄(王+賣)=マテヲ=マチュウ・瑪太・マタイ・摩太)伝の新約聖書」、「馬可(マルコ)伝の新約聖書」で、「約瑟(ヨセフ)」の妻「馬利亜(マリア)」である・・・ヨセフのヤクはオオゴト、ヨメのマリアはウマのキクのアマネシである・・・「羅馬」、「邪馬台国」にも「馬」・・・乳母(うば)は「命婦(みょうぶ)=中級の女官や中�檜の女房の称」で、「稲荷狐の異名」らしいが、「馬婦」・・・「馬喰」・・・「馬瓄(王+賣)=マタイ」は「馬の王の売り」である・・・「瑪」と「瓄」なら「瑪瑙」と「翡翠」・・・「瑪太」とは太い奴である。「瑙」とは「王」の「甾=巛(かわ・セン・サン)+囟(ひよめき・シン)=頭蓋骨」・・・「囡(ジュウ)=ノウ・・ナン・娘・隠す・くすねる」・・・?・・・「囡=囗+女(おんな→音名・ジョ・ニョ)」・・・カンジ、推してミルベシである・・・
以下の原文は、「ウイッキペデア」や、他の「ブログ記事」で、参照、参考にして「部分添付」・・・少々改作・・・
ーーーーー
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/3916/1/kyoyo115_kato_ma.pdf
「中国語訳聖書」
Bridgman(柳治又)
Culbertson(克陛存)
の訳による
『新約全書(漢文)』は
ヘポンやブラウンの翻訳に
欠かすことのできない
参考資料であった
この『新約全書』は日本人用に訓点がほどこされ
何度も出版
1859年に出版
明治十六年にはすでに日本語訳が完成していたが
漢文訳が重宝された・・・らしい・・・
ボクの持っているのは日本語訳は親父が形見に遺してくれた公教宣教師「ラゲ」訳の「新約聖書」で、
名古屋にいた時に友人の「K(女性)」さんが台湾在住時に贈ってくれた「聖経(新旧聖書)」で、「新標點和合本(上帝版)」である。
ーーーーー
↓
(漢訳聖書)
ブリッヂマン訳
明治16年横浜刊行本
ブリッヂマン訳の「日本語」になった言葉
↓
耶蘇
神
聖霊
預言者
異邦人
諸信者
祈祷
奥義
栄光
嗣業
施洗礼
受洗礼
肉之欲
迫害
黙示
神之子
聖書
地之塩
世之光
旨
偽善者
密室
誘惑
誠
↓↑
中国語の聖書「和合本(胡蝶本)」の参考、参照から・・・「日本語聖書の漢字」になった・・・
中国語の「翻訳」事情
1853年「代表訳」と「公認本文」
1853年の「代表訳」には
翻訳の底本として
ギリシャ語の
「公認本文」
を用いることが決められていた
エラスムスによる
「新約」のギリシャ語本文の刊行は
ルター訳や欽定訳
ルターは同時代人である
エラスムスのギリシャ語本文を用いたが
かなりの部分で
ラテン語のウルガタに依拠
キング・ジェームスの欽定訳(1611)は
ティンダルなどの前人の業績や
ドイツ語のルター訳を参考
ギリシャ語の底本にはエラスムスの系統にある
ギリシャ語校訂本が用いられた
「公認本文」とは
エラスムスにまでさかのぼり
「欽定訳」の
底本となった
校訂本を総称して呼ぶ名称
・・・ロリー(WalterMacorLowrie)の
「The Land of Sinim
(シニムの国)」という本で・・・ロウリーは「イザヤ書49章12節の“Sinim'」という「今でも定説の無い地名」が「中国」を指している・・・と言っているらしい・・・「和合本」では「Sinim=秦」の漢字を本文に採用し、原文の「Sinim=シニム(希尼)」の訳注を「中国・支那」であるとしているらしい・・・
ギリシャ語
「ゼウス(Zeus)=古希Ζεύς」・・・雷神、天空神
Ζεῦ πάτερ(zdêu páter ズデウ パテル)
ディオス (θεos dios )
ヘレネス(ギリシャ)の神
他に神をいう語には
テオス(theos・ラテン語デウス)
Ζεύς
Zeus
↓
「shanti(シャンティ)」・・・何語?
シャンティ(Shanti)とは、
インドのサンスクリット語で、
直訳すると、「平和、至福、祈り」、
「安らぎ、心の平安、静寂」という意味
「shen(シェン)」・・・神・申?
↓
「shanti」とは
日本語で「神」と訳されているモノを
中国語で「上帝」と訳
「shen」とはそれを「神」と訳
イギリス系は「上帝」
アメリカ系は「神」を用い
中国語では
「神さま」の訳語が一定しておらず
「和合本」も二種類の版
「代表訳」の時から現在まで未解決の問題で
「上帝」に対して
ブリッヂマンが
「神」を用いた日本語改訳を行い
それが「日本の聖書」に影響を与えた・・・
・・・「上程(議案などを会議にかけること)」の「紙・髪・祇・加味・守」・・・?
・・・「ゴット(God は印欧語族中のゲルマン語族系の語・Gott)」の語源は?・・・「ゼウス・ユピテル」の「音」には繋がらない・・・音が繋がるのは「ゴート族(ゴート語=gutans・独語=Gothe・Gote)・・・
Godの語源
ゴート語はゲルマン系言語
「神」は「guth(ゴート語はゴート文字」
ローマ字に直して
「th」=「thorn」、
ゴート語では
「thiuth 文字」で記録
「神」は 「guth」・・・
ゴートに纏わる言葉として、
ルネサンス時代に野蛮なという意味で
「ゴシック(ゴート風の)」
スウェーデンの地名には
ゴートが訛った
「イェーテボリ(Göteborg)」がある・・・?
↓
旧約聖書 ヘブライ語で אלהים (エロヒーム)
「Ἐγώ εἰµι ὁ ὤν
(エゴー・エイミ・ホ・オーン)
=私は在るモノである
「私は在りて在るものである
(אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה =ehyeh ’ăšer ’ehyeh)」
と名乗った事に由来
「出エジプト記・第3章第14節」は
漢字のタイトルで
「申命記」である・・・神=示+申
「申」とは「雷・雷電」・・・ゼウスの武器
ヤハウェ(ヘブライ語: יהוה)
ヱホバ
アドナイ
エル(単数形)
エロヒム(複数形)
新約聖書 ギリシャ語で θεου (セオス)
ΘΕΟΣ=θεός (tʰeós テオス)
・・・「Y・H・W・H」・・・このアルファベットの「子音」に「a・i・u・e・o」の母音を接続して音を採って読んだら何通りに読めるか・・・
a i u e o
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
Y→ya・yi・yu・ye・yo→ヤイュヱヨ
H→ha・hi・hu・he・ho→ハヒフへホ
W→wa・wi・wu・we・wo→ワヰウヱヲ
H→ha・hi・hu・he・ho→ハヒフへホ
・・・「ヤハウェ」・・・
以前にも書き込んだが
↓
ラテン語: zeta ゼータ
アメリカ以外の英語: zed [zɛd] ゼッド
アメリカ英語: zee [ziː] ズィー
ドイツ語:zett [tsɛt] ツェット
オランダ語:zet [zɛt] ゼット
スラヴ語(チェコ語 他):ゼト
インドネシア語:ゼッ
イタリア語: zeta ゼータ
フランス語:zède ゼド
スペイン語: zeta セタ
ポルトガル語:ゼー
エスペラント:ゾー
日本語では「ゼット」と呼ぶことが多い
(オランダ語発音と同等)
中国語で「ズィー」と呼ぶ
↓
ZZZ・・→乙乙乙・・→乚乚乚・・→LLL
Z→G
ラテン語には不要なため
ラテンアルファベットに採用されず、
新たに作られた
G が Ζ の位置に代わりに置かれたが、
後代ギリシア語の
Ζ(ゼータ)を
音写する必要が生じて
アルファベットの最後に加えられた
「Z」の文字が表す
音素・音声は、
「IPA(国際音声記号
(International Phonetic Alphabet)」
では
有声歯茎摩擦音を表し
有声歯茎破擦音の「dz」をも表す
フランス語、
エスペラントでは、
音素は「z」
音声は「z」
英語では、
基本的に
「z」だが、
「-zure 」などでは
「zj」が融合同化し「ʒ」となる
ラテン語では、古典期には
「dz」を表した
俗ラテン語ではさまざまな音に変化し、
現在のロマンス語の音につながる。
日本語のローマ字表記では、
「z」=ざ行子音
ヘボン式では
「i」「y」 の前以外。
音は、
「z」(母音の後で a・e・o・uの前)
「dz」(母音の後以外で a・e・o・uの前)
「ʑ」(母音の後で i・yの前)
「dʑ」(母音の後以外で i・yの前)
という異音に変化する。
インドネシア語では、
「z」 のほかに「ʒ」=「Z」を表すことがある。
フランス語では、
「z」が動詞二人称複数の
語尾部分「-ez」を中心に多く使用
例は "vous aimez(エメ)"
"Aimez(エメ)-vous(ヴゥ)"
愛している
エメ(得女・絵目・重女)
ズ(図・事)部得
アイメ(合い目)z ヴゥ(撫有・分得)
"vous aimez" 同部分を含めた
語尾の「z」は殆んどの場合、黙字
但し、そのあとに
母音が続く場合は「リエゾン(liaison)=連音・接続」して「z」 を発音する。
スペイン語では、原則として
「θ」=「T」を表す (ceceo)
中南米では 「s」である (seseo)
イタリア語では、「dz」または「ts」である。
ドイツ語、スオミ語、中国語の拼音では
「ts」である。
・・・リエゾン(liaison→リアイゾン)
L→乚→乙・遺愛存
理合い纂
離アイ存)
↓
ーーーーー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BC%E5%BC%81
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E3%81%A4%E4%BB%AE%E5%90%8D
↓
「ズーズー弁」は、一般には東北方言の俗称
日本語の
音韻上
「し」対「す」、
「ち」対「つ」
その濁音
「じ」対「ず」
「ぢ」対「づ」
の区別がない方言
一つ仮名弁(ひとつかなべん)とも言う
一つ仮名弁=「ジ=ヂ=ズ=ヅ」の4つが同意
二つ仮名弁=「ジ=ヂ≠ズ=ヅ」の2つが同意
三つ仮名弁=「ジ=ヂ≠ズ≠ヅ」の3つが別意
四つ仮名弁=「ジ≠ヂ≠ズ≠ヅ」の4つが別意
↓
鎌倉時代頃の京都では、
シ(ɕi)、チ(ti)、ス(su)、ツ(tu)
という発音であり、
「チ、ツ」は「タ、テ、ト」と同じく破裂音
「ジ(ʑi)、ヂ(di)、ズ(zu)、ヅ(du)」
それぞれ清音に対応する有声音で、
現在の表記での
「チ(ti)=ティ
ツ(tu)=トゥ
ヂ(di)=ディ
ヅ(du)=ドゥ」
二文字の発音であった・・・
「シ」と「ス」は現代と同じ発音
この段階では
「ジ、ズ」は摩擦音、
「ヂ、ヅ」は破裂音
で発音の差は大きい
京都では
「四つ仮名」
はそれぞれ発音が違う仮名文字として弁別
1251年に書写された観智院本『類聚名義抄』に
クジラとクヂラの両方の表記
個別の単語の中には古くから
「z」 と「d」 が交替するものがあった
安房国(千葉県南部)で生まれ育った僧である
日蓮(1222年 - 1282年)の書簡には、
「嫁がづ」(本来は「嫁がず」
「ぢうあう(縦横)」(本来は「じゅうわう」)
などのように混同した例がかなり見られる
関東地方では音韻変化が数世紀先行し
それが西へと広がっていた・・・
↓
室町時代の前期までは、
京都方言では
まだ
鎌倉時代までの発音をそのまま引き継いでいた
しかし、
京都では室町時代の中期に
「チ、ヂ、ツ、ヅ」
の破擦音化が起こり、
「チ(ʨi)、ツ(ʦu)、ヂ(ʥi)、ヅ(ʣu)」
という発音になった
このため、
「ジ(ʑi)、ズ(zu)、ヂ(ʥi)、ヅ(ʣu)」
という発音になり、
調音方法が
摩擦音と
破擦音となって音が近くなった
中国資料の『日本寄語(1523年刊)』で
日本語の「チ、ツ」を表すのに
破擦音系の漢字が使われていることから、
この破擦音化は16世紀初頭までには起きていた
16世紀末の
キリシタン資料における
日本語の
ローマ字表記では、
「シ(xi)」
「ス(su)」
「チ(chi)」
「ツ(tçu)」
「ジ(ji)」
「ズ(zu)」
「ヂ(gi)」
「ヅ(zzu・dzu)」
で表されており、
四つ仮名は書き分けられていた
ただし、
このローマ字表記の元となった
当時のポルトガル語では、
「j」と「g 」
「z」と「dz」
の発音の区別はなく、
日本語の発音を書き分けるための
便宜的なものとみられる・・・
このように
音が接近したため、
「ジとヂ」、
「ズとヅ」の混同が起こり始めた
室町時代後期には、
京都でも
「ジとヂ」、「ズとヅ」
を誤って書いているものが見られるようになった
キリシタン資料は
規範的な言葉を記載しており、
四つ仮名の混同は少ないが、
それでも中には
誤ったローマ字表記のものも見られる
ロドリゲスの
『日本大文典(1604年 - 1608年刊)』
でも、
「本寺(ほんじ)」→ほんぢ、
「自然(じねん)」→ぢねん、
「水(みづ)」→みず、
「参らず」→まいらづ
と誤って発音されることが
京都でも見られると「記述」
筑紫(九州)では、
字の読めない
女の子も誰にも習わずとも言い分けている
と記録
越後国(新潟県)の
室町時代後期の書状などには
「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」
を混同した事例が非常に多く見える
この地域では
16世紀には既に
四つ仮名の区別が完全に失われ、
現在の東京方言などと同じ状態に達していた・・・
江戸時代
17世紀末の
元禄時代(1688年 - 1703年)までには
「ジ」と「ヂ」、
「ズ」と「ヅ」
がそれぞれ完全に同音になった
京都ではこの変化は
「ヂ(ʥi)」「ヅ(ʣu)」
の破擦音から
摩擦音へと変化する方向に進み、
「ヂ(ʥi)」「ヅ(ʣu)」
が
「ジ(ʑi)」「ズ(zu)」
に統合される形になったが、
撥音(ン)の直後に限っては
逆に
摩擦音から
破擦音へ変化
↓
1695年には、
『蜆縮涼鼓集』(けんしゅくりょうこしゅう)という、四つ仮名の書き分けのみを専用に扱った書籍が出版
この本の書名は、
「蜆(し じみ)」
「縮(ちぢみ)」
「涼(すずみ)」
「鼓(つづみ)」
と四つ仮名を含んだ言葉を集めたもので
書籍が出版された背景には、
「四つ仮名」が
発音上は同音に帰して区別されなくなっていたのに対し、少なくとも知識人層は表記上は厳密な書き分けが要求されており、混乱があったという事情がある。
松尾芭蕉(1644年 - 1694年)が
「出づ」を「出ず」と
書いた例があるなど、
文人でも混乱する場合があった・・・?
・・・混乱ではなく・・・意図的・・・
明治時代以降は
歴史的仮名遣が
教育や公の場で使われたが、
これは
「四つ仮名」を
語源通りに書き分けることを要求するものだった。
しかし、
現代仮名遣いでは、
語源に関わらず、
四つ仮名は基本的に
「じ」「ず」と書き、
連濁や同音の連呼などで
「ち」「つ」が濁った場合に限り、
「ぢ」「づ」と表記するという方針が取られた
↓
1946年
には
「現代かなづかい」が、
1986年にはそれを改訂した
「現代仮名遣い」が内閣告示として公布
四つ仮名は
語源通りに書き分けることをやめ、
基本的には本来
「ぢ」「づ」のものでも
「じ」「ず」と書くことを基本
「葛(くず)」
「屑(くづ)」
は歴史的仮名遣いで
現代仮名遣いではどちらも
「くず」と書かれ、
「富士(ふじ)」
「藤(ふぢ)」
は歴史的仮名遣いで
現代仮名遣いではどちらも
「ふじ」と書かれる。
これは
発音が完全に同一になったための措置である。
ただし例外として、
「鼻血(はなぢ)」、
「三日月(みかづき)」、
「気付く(きづく)」
のように、
連濁によって
「ち」「つ」が濁って生じたものが
明らかである場合や、
「縮む(ちぢむ)」
「続く(つづく)」のように、
同じ音が連呼されたことにより
有声化したものは
「ぢ」「づ」と書くと定められた。
現代の「ぢ」「づ」は
発音の違いを表すものではなく、
濁る前の語源を明示するための
語源的な配慮、
あるいは
視覚的な配慮
同音連呼の場合
「踊り字」を用いて、
「ちゞむ」
「つゞく」と続く場合にも配慮した・・・
現代仮名遣いでは、
複合語であるなどの
語源意識が残っており、
「ち」「つ」
などから生じたことが明らかである場合に
「ぢ」「づ」を用いる
異論
例えば、
「世界中(せかいじゅう)」、
「稲妻(いなずま)」
などの語は、
表記を見れば
「中(ちゅう)」、
「妻(つま)」
が連濁したものだと推測できるが、
「じ」「ず」で書くと定められた。
これは、これらの語が
二語に分解できるという
意識が現在では薄いと判定
語源意識が残っていると考えれば
「せかいぢゅう」
「いなづま」と書くものだとも考えられる。
その後、
「現代仮名遣い」では、
「世界中」「稲妻」などの一部の語は、
「じ」「ず」で書くことを本則とし、
「ぢ」「づ」で書くことも
許容する・・・
また、
漢字音についても、
連濁で生じたものを除いて、
全て
「じ」「ず」に統一する。
例えば、
「地」という漢字は、
歴史的仮名遣いでは
呉音が「ヂ」、
漢音が「チ」であったが、
現代仮名遣いでは
呉音のものは「ジ」と書かれる。
「地面」「地震」などは、
本来
清音のものが連濁で濁音になったわけではなく、
呉音で
元々が
濁音であるため、
現代仮名遣いでは
「ぢめん」
「ぢしん」
ではなく
「じめん」
「じしん」と書く
しかし、
「土地(とち)」、
「地点(ちてん)」など、
漢音の「ち」が使われている
熟語もかなりあるため、
これが
連濁で濁ったものと
誤解して
「ぢめん」
「ぢしん」
と書くのではないかと
誤解する例がかなり多く、
現代仮名遣いを学習する際に混乱
呉音と漢音が受容される間に
中国語は
濁音が消滅していく段階に当たっていたため、
呉音で濁音で
漢音で清音
という対応を示す漢字は多く、
「地(歴史的仮名遣いでヂ・チ)」の他にも
「治(ヂ・ジ)」
「直(ヂキ・チョク)」
「図(ヅ・ト)」
「頭(ヅ・トウ)」
などが混乱の原因になることがある。
ただし、
「中(チウ・チウ)」、
「通(ツ・ツウ・トウ)」
のように呉音でも濁音でなく、
連濁によって生じた
濁音と考えられる
「世界中」「融通」について、
現代仮名遣いは
「せかいじゅう」「ゆうずう」
を本則とし、
「せかいぢゅう」「ゆうづう」
を許容するという一貫性のない状況となっている。
↓
「現代かなづかい」では、
「ジ・ヂ」「ズ・ヅ」を言い分けている
地方(「四つ仮名弁」「三つ仮名弁」の地方)に限り、これを書き分けても差し支えないという方針が掲げられていたが、
「現代仮名遣い」ではこの方針は掲げられていない。
ーーーーー
↓↑
地方言語の「ズーズー弁(方言)」で「カミの聖書の漢字」を訓読したらドウナルンだべか?・・・「沖縄」に「聖書のカミ」をもたらした「外国人」の能ミソの「言語本質」は、やっぱ、「ギリシャ語の文字」に重なった「旧約のモーゼ・新約のキリスト」のモノガタリの「意味」・・・
「神」の字が、「אלהים」または「אלוהים」、古代ギリシャ語「Θεός」、英語「God」の訳語に当てられたのは、
近代日本でのキリスト教宣教に先行していた
「清国」におけるキリスト教宣教の先駆者である、
ロバート・モリソンによる
漢文聖書においてであった・・・
ーーーーー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%がBB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A0
バーナード・ジャン・ベッテルハイム
(伯徳令、Bernard Jean Bettelheim
1811年~1870年2月9日)
日本に派遣されたキリスト教宣教師
沖縄県地域最初のプロテスタント宣教師
ハンガリーでは
Bettelheim John Barnardéと表記
ハンガリーでは
Bettelheimは
ベッテルヘイムと発音
ハンガリーの資料では
1869年9月11日に死没
1846年4月30日
香港から琉球王国に到着
那覇の護国寺を拠点に8年間滞在
1848年12月8日に生まれた
2番目の娘は、
記録上沖縄本島で生まれた最初のヨーロッパ人
琉球に住む人々から排斥された
琉球の支配者
薩摩と江戸幕府の方針による・・・
当時、
琉球王国では
キリスト教は禁教
彼は布教や通商のさらなる自由化を要求
英吉利本国も
軍事的圧力を続けた
1847年10月
国王尚育王の国葬参加で
ベッテルハイム夫妻と
フランス人宣教師が
首里の入口で取り囲まれて殴打された
医療活動での評価は高く
「仲地紀仁」に種痘を伝授
聖書を琉球語(当時琉球王国の沖縄方言)に翻訳し、
それを配布
『琉球語文典階梯』
という琉球文典に関する文献も脱稿
未刊の稿本を大英博物館に寄贈
1854年
マシュー・ペリーが来琉した時、
琉球の言語と文化についての知識から
ペリーのもとで働き、
その船舶でアメリカ合衆国に渡った
アメリカでは
シカゴやニューヨークにおいて
長老派牧師として活躍
南北戦争では北軍の軍医(少佐)として参加
ミズーリ州ブルックフィールドにて肺炎で死去
エピソード
ペリー来航時に、
島内で
米水兵が飲酒の上、
地場の女を犯そうとして
島民に石で殴り殺された。
この事件でペリー艦隊との間に緊張を覚え、
困っていた首里王府だったが、
ベッテルハイムの
次女の守役を務めていた
田場武太
が自ら下手人を名のり出て、
自分の妻が
水兵に暴力で犯されたので殺したと申し立てた
このため首里王府は難を逃れたが、
当時、
田場は独身で、
これはベッテルハイムの入れ知恵だった・・・
↓
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/biblio/bib37-2/01.html
英人宣教師ベッテルハイム
BernardJeanBettelheim,
1811~1870
プロテスタントの伝道
1846年琉球の那覇
1846~1854・・・琉球王・尚育19~尚泰7
1797年のプロビデンス号
1840年のインディアン・オーク号
の乗組員の救援・救助
B ベッテルハイムの生い立ち
琉球海軍伝道会
宣教師・医者
沖縄で8年間滞在
当時の琉球の人々には
ナンミンヌガンチョー(波之上の眼鏡)
イヌガンチョー(犬眼鏡)などのあだ名で呼ばれていた
「波之上」とは、彼が滞在した
「護国寺」付近の地名
漢字名を
「伯徳令」と記す
1811年
ハンガリーの
ブレスブルグの
ユダヤ系の家庭で生まれた
13歳の時から親元を離れ、語学教師
1836年
イタリアの
パデュア大学から医師免許状を授与
エジプト海軍や
トルコ陸軍で軍医として働く
1840年
トルコのスミルナ付近で、
英国教会の牧師から洗礼を受けてキリスト教徒となる
1843年
ロンドンで英国女性
エリザベスと結婚して英国に帰化
ロンドンで、
琉球におけるキリスト教の布教を唯一の目的とする
琉球海軍伝道会が設立
創立者は
1816年
英海軍バジル・ホール艦長と共に琉球を訪れた
元海軍大尉クリフォード
1845年
伝道会は琉球へ派遣する宣教師として
ベッテルハイムを採用
琉球で伝道と医療活動
ベッテルハイム一家(妻と2人の子供)は、
1846年4月30日
香港経由の
商船で那覇港に到着
2年前の
1844年
既に
フランス海軍の武威のもとで
フランス人宣教師
フォルカード神父が
中国人の
高とともに入国し、
那覇の泊にある
天久聖現寺に滞在
ベッテルハイムも
強引に那覇港に上陸
波之上の護国寺を住居に指定され、
8年余の生活を始めた
1847年10月
国王尚育の国葬時の殴打事件
国王の葬儀に参加しようとした
ベッテルハイム夫妻と
2人の仏宣教師は、
首里の入口で群衆に取り囲まれて殴打された
1854年7月
沖縄を去る
1848年ごろ
那覇の
医師
仲地紀仁と交友を結び、
仲地医師を通して沖縄における
最初の
西洋式の
牛痘法を導入した・・・
ベッテルハイムの聖書翻訳・米国への移住
1847年2月
ルカ伝の翻訳を始めて、
同年7月には一応終わり
ルカ伝訳了後は、
ヨハネ伝・ロマ書・使徒行伝・マタイ伝・マルコ伝を翻訳
ベッテルハイムの翻訳した文中に
意味不明なところや誤記が多い
1851年までに訳した
ルカ伝・使徒行伝・ヨハネ伝・ロマ書
が
琉球語の口語訳
琉球語訳が日本本土で使用できないことに気づき、
1851年以後の翻訳作業は
漢和対訳の
『路加伝福音書』
『馬太伝福音書』
『馬可伝福音書』
1854年2月
後任の
G. H.モートン師が
那覇に着任
同年7月、
ベッテルハイムは
ペリー艦隊に便乗して那覇を去った
翌年英国への帰途、立ち寄った米国に永住
数年ニューヨークに住んだ後、
イリノイ州に移住
南北戦争中、
北軍の軍医として活躍
戦後一家はミズーリ州に移った
1870年2月
肺炎で死亡
享年59歳
ーーーーー
・・・怪しい「セイショ」も「コジキ」も・・・「新井白石」・・・
里の斯の本・・・理は「波斯・斯波」、史話、詩話、皺の本・・・
・・・昨夜のNHK・TVで「歴史秘話ヒストリア・リスボン大地震」を放映していた・・・「1755年11月1日土曜日9時40分」・・・
1755年 乙 亥(戊・甲・壬)二黒土星
11月 丙 戌(辛・丁・戊)三碧木星
破
1日 戊 戌(辛・丁・戊)八白土星
冲
9時40分 丙 辰(乙・癸・戊)
↓ ↓
↓ (南)震源西南西約200km
↓ 一 六 八白土
年 九 二黒土 四
五 七 三
↓ ↓
↓ (南)震源西南西約200km
↓ 二 七 九紫火
月 一 三碧木 五
六 八 四
↓ ↓
(南)震源西南西約200km
七赤金 三碧木 五黄土
日(東)六白金 八白土 一白水(西)
二黒土 四緑木 九紫火
(北)
・・・???・・・「自然の(未来)変化を知りたい」が故に「自然対象の変化(現象)」を過去的経験則とし、「数理的概念」で、それらの「諸関係」を「仮想的」な「科学理論」としたモノであろう・・・現在の地震情報、気象情報も、その結果の積み重ねでの判断である。地球規模の観察、天体規模での観察は「科学機器」で、その「自然情報の把握」は拡大した・・・
自然災害情報での被害の多寡は時間軸の「短期」であり、「長期」である。大地震の震源地発生時からの情報発信ではその「自己防衛準備」の時間は短すぎる。直下型地震では救いようがない・・・気象情報があっても突風、竜巻、その大小、方向性は未だ測り難く、その被害も救いようがない・・・
「自然の(未来)変化を知りたい」のは、繰り返される自然災害に対する「自己防衛(避難・逃避)」だからである。
だが、問題は避難、逃避できなかった「人間」が被った災害後の「事後処理」である。
モチロン、「事後処理」をドウするかは「生きているモノ、生き残ったモノの仕事」である・・・同じ場所に留まるか、移動するか・・・
生活空間は「復興・復旧」するかも。元に戻そう、過去よりも「生産性を上げ豊かになろう」と・・・その「意識」を実現していくだろう・・・だが、個々人の「プチブル意識」はオカワリなし・・・カモ・・・
あらゆる「生物は老化する」。あらゆる「生物には寿命がある」・・・戦争、災害で命を落とさなくても個々人の個はいずれは塵になる。そして、生きているモノだけが、その期間中に「命」を繋いでいくのだ。個々の人間が百年も生きようとは贅沢である・・・
「世界の破滅」は生きている個々人の、個人の「認識対象の世界」を認識する「脳ミソ機能」の終焉で実現する。
今の所、個人にとっての認識対象である「世界の破滅」とは「自分自身の死=対象を認識出来なくなった存在」でしかありえない・・・生き続けてきたのは「個人」ではなく、「世代交代」として繋がってきた「人間」である。多分、今年生まれた人間のホトンドは百年後には「絶滅」である。だが「人間種の絶滅」ではない・・・アタリマエである・・・
ーーーーー
1755年11月1日午前9時40分に発生した地震
リスボン大震災
津波による死者1万人を含む、
5万5000人~6万2000人死亡
推定マグニチュード
Mw8.5~9.0
震源は
サン・ヴィセンテ岬の
西南西約200kmと推定
ポルトガル経済大打撃
海外植民地への依存度を増す
↓
リスボン地震によって思想的に
大きな変化を蒙った思想家に
「ヴォルテール(Voltaire)」がいる
パリの公証人の子
姓は
「アルーエ」とも表記
「フランソワ=マリー・アルエ
( François-Marie Arouet
1694年11月21日
~
1778年5月30日)
1717年5月
バスティーユ牢獄に投獄、以後
11ヶ月間監禁
1718年11月18日
「韻文悲劇」の処女作、
「エディップ(オイディプス)」
を
「コメディー・フランセーズ」で初公演
「ヴォルテール=Voltaire」という名は
ペンネーム・・・
彼の名の
「Arouet=アルエ」・・・あるエ
をラテン語表記した
「AROVET LI 」
のアナグラムの一
「ヴォロンテール(意地っぱり)」
「ゴットフリート・ライプニッツ」
の「弁神論」に代表される
「調和的で楽観的な世界観」を批判した
「カンディード或は楽天主義説
Candide, ou l'Optimisme・1759年」
を発表した
ピカレスク小説=Picaresque novel
Novela picaresca)
16世紀~17世紀のスペインを中心に
流行した小説の形式
悪漢小説、悪漢譚、悪者小説などと訳される
「楽天主義とは、
どんな悲惨な目に遭おうとも、
この世の全ては善であると、
気の触れたように
言い張ることなのだ!」・・・
↓
リスボン地震後
ポルトガル王
ジョゼ1世の下で
宰相の地位にあった
セバスティアン・デ・カルヴァーリョ
(ポンバル侯爵)
がリスボンの再建計画を推進
宰相は国中の全ての
教区に質問状を送り、
地震とその影響を回答させた
この質問は以下の
地震はどのくらい続いたか?
例えば
南北方向に強く揺れたというふうに、
地震の揺れに特定の方向はあったか?
建物の崩壊でも、
特に
一方向に崩れるということはあったか?
余震は何回感じられたか?
死者の数など、どのような被害があったか?
海水位は引くのが早かったか?
それとも上昇が早かったか?
海は普段の水位からどれだけ上昇したか?
動物が不審な振る舞いをしなかったか?
井戸や水穴には何が起こったか?
ーーーーー
・・・「地震」が「神の罰」ならば、アラブの人々は「スベテの罰をカミに任せたら」どうか・・・「風刺画」がパリにバラマカレテも「銃、爆弾、兵器、武器」に頼る必要はないだろう・・・そして、「ナンジのテキ」を「アイせよ」と云った「ヒトのコ」を信じているらしい人々も・・・
「仏教徒」は「無常=自然の変化」を信じ、「無情」は信じない・・・信じようが、信じまいが、「生きている、生き残っている人間の夢情」かも・・・
・・・ボクの「おばぁちゃん」は旧姓が「本多てつ」で、福島県の生まれだった・・・なんで、妻子を地元に残し、グウだらで、ナマケモノで、盆栽好きの宮城県生まれの爺ジイ(日下卯之松)を追って極寒の蝦夷地、北海道までやって来たのか?、それとも一緒に駆け落ちしてきたのか?・・・頭を傾げてしまうが・・・「傾く(カブク→カ・ブ・ク→化・分句)」・・・歌舞伎・・・「ぶんぶく茶釜」・・・「分福茶釜(ぶんぶくちゃがま、ぶんぷくちゃがま)」、「文福茶釜」とも表記・・・タヌキ(狸・貍・田貫・多抜き→本多抜き・他抜き?)があらわれ、化けて人を騙す・・・もともとは「狐の恩返し(ゴン狐?)」をテーマにしたもの・・・「日本昔話大成」の中の「狐と博労」、「狐遊女」と同種の昔話・・・「ゴン狐」は「兵十の火縄銃」で殺されてしまったが・・・?・・・余計なお世話の報いだった・・・?・・・
タヌキは徳川家康・・・キツネはダレ・・・京都の公家衆・・・札幌じゃぁ、「すすきの」の「狸小路」だけれども・・・明治六年~・・・1885年(明治18年)札幌初の「勧工場(かんこうば)」が開店・・・明治十一年(1878)東京にできた「第一勧工場(かんこうば)」が最初。勧商場・物品陳列所・・・「缶工場」ではなく「市場」・・・「中世中期の都市で、週市は毎日開かれる形態をとることになった。マーケット(market)やマルクト(Markt)は週市に由来する名で、年市は年に1~2回開かれ,本来遠隔地商人たちのための,週市より大規模な市をいう」・・・「マルクト」とはネッ・・・缶詰の缶・・・
「勧工場(かんこうば)」は東京府が明治十一年(1878年)1月、麴町(現,千代田区)辰の口に常設の商品陳列場として東京府勧工場を開設したことにある。
その前年(明治十年・1877年)、東京上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会に展示された出品物も,そこに移されて陳列された
・・・「マーケット(Marquette)」=「アメリカ合衆国,ミシガン州北部、スペリオル湖南岸にのぞむ都市。1849年入植のフランス人宣教師で探検家の J.マルケットにちなんで命名。鉄鉱石,木材の積出港。化学・鋳物・鉱山機械工業などが立地し、観光事業も盛ん」・・・
「113年の歴史に幕 2015年01月13日(読売新聞)
狸小路商店街を代表する老舗
2015年01月12日
中川ライター店閉店」
狸小路の
名称由来は
実際に狸が出没したこと、
夜な夜な街頭に立つ
客引や
私娼をその怪しさや手口から
狸に例えた・・・
・・・ダマサレタ・・・
「和宮 親子内親王
(弘化三年閏五月十日
1846年7月3日)
~
明治十年(1877年)9月2日)」
仁孝天皇の第八皇女
孝明天皇の異母妹
明治天皇は甥
江戸幕府
第14代将軍
徳川家茂の正室
品位は二品、薨後贈一品
「親子(ちかこ)」は
文久元年(1861年)の
内親王宣下に際して賜わった諱
家茂死後
静寛院宮(せいかんいんのみや)と
名乗った
↓
葛飾北斎画『狐の嫁入図』
↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E3%81%AE%E5%AB%81%E5%85%A5%E3%82%8A
宝暦時代の
越後国(新潟県)の地誌
『越後名寄
(えちごなよせ)』・・・「名寄」は北海道の地名
には、
怪火としての「狐の嫁入り」の様子が以下のように述べられている・・・
「夜何時(いつ)何處(いづこ)共云う事なく折静かなる夜に、提灯或は炬の如くなる火凡(およそ)一里余も無間続きて遠方に見ゆる事有り。右何所にても稀に雖有、蒲原郡中には折節有之。これを児童輩狐の婚と云ひならはせり」
・・・天気雨と虹・・・「狐の嫁入り(きつねのよめいり)は、北海道と沖縄県には伝承がない」らしい・・・
北海道上川地方北部にある「名寄」市である。
地名は、名寄川が天塩川に注ぐ様子をいった
アイヌ語の
「ナイ・オロ・プト
川の・所の・口」の意→渓流に注ぐ口
で天塩川から支流の名寄川への入口の意味
がつまって
「ナヨロプト」、さらに
「プト」の省略で
「ナヨロ」になり、
漢字で表記で
「名寄(なよろ)」となった・・・
「名寄(なよろ)」で、
「なよせ・メイヨ」ではない・・・怪しい「ナイオロプト」である・・・「樺太(カラフト)」の漢字名の「太(ふと)」は「太安萬侶」の「太(おおの・おほの)」だが、「プト」を当て字にするならば「太(ふと)」だろう・・・「ナイ・オロ・プト」→「名意於呂(侶)太」→「名意於呂(侶)附賭(土)」・・・「江戸時代後期にナヨロが見え、先住民のアイヌ人はナイプト・ナイプツ・ナヨロプトなどとも呼んでいた」?・・・ならば、当て字は
名意附都(ナイフプト)
内府都(ナイプト)
ナイプツ=名意-布津(仏・振通)
名代露布都(ナヨロプト)
だろう・・・松浦武四郎くん・・・
↓
内府(ないふ)=明治憲法下の宮中に置かれ
天皇を常侍輔弼した内大臣の通称
内大臣府(ないだいじんふ)は上記内大臣の
事務方として整備された官庁の正式名
律令制度下に太政官に置かれた
令外官の一つ・・・非常職の「次官」
内府(だいふ)=律令制度下の太政官に置かれ
左大臣・右大臣の代理を務めた
・・・「だいふ・ないふ」・・・
徳川家康は、
1596(慶長元)年
五月八日
~
1603(慶長八)年
二月十二日
まで
「内大臣=内府」
関が原の戦い前後は「内府さま」・・・
居城の江戸とあわせて「江戸内府さま」・・・
内大臣→右大臣→太政大臣
→征夷大将軍→隠居後→駿府さま=大御所
↓
名寄(なよろ)
餅米の生産量は日本一
三重県の
伊勢名物の和菓子「赤福餅」
原材料のもち米は、
名寄産を中心に使用・・・
明治三十三年(1900年)
山形県東栄村(旧藤島町、現鶴岡市)から開拓団が集団移住した・・・「山形」からの移民である・・・
↓
「名寄せ(なよせ)」
同じ名義で普通預金・定期預金・当座預金など複数の口座を持っている場合、それらを一つにまとめること
一元管理
従来、特に預金保険法施行以前は、金融機関における業務の通称。 おおよそ金銭の権利を預かる行政機関にも共通する重要な業務
金融機関で複数の口座を持っている預金者の同一性を確かめること
人・物・名所などの名を寄せ集めること
ーーーーー
ブンブク茶釜・・・以下は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%B2%A1%E8%8A%B3%E5%B9%B4
が原文・・・
↓
群馬県館林市の茂林寺に伝わる伝説
茂林寺に狸が化けたとされる茶釜が伝わっている
茂林寺にある茶釜は、
1394年から1428年の間に住職であった
「守鶴」が愛用した茶釜で、
一度水を入れると、
一昼夜汲み続けても
水がなくならないという
伝説(松浦清山著『甲子夜話(かっしやわ)』)
↓
肥前国
平戸藩
第9代藩主の
松浦清(号は静山)により書かれた随筆集
書名の由来は、
平戸藩主を退き隠居した後、
この随筆が
1821年12月11日
(文政四年十一月十七日)
の「甲子の夜」に書き起こされた・・・
↓
「分福」
「福を分ける茶釜」
水を入れると突然
「沸騰」することから
「ぶんぶく」となったのではないかという説
↓
月岡芳年の画
『新形三十六怪撰(茂林寺の文福茶釜)』
タヌキが
「守鶴」という僧に化けて寺を守り、
汲んでも尽きない茶を沸かした
↓
民俗学者・柳田國男
動物と人間との交渉を物語る
動物の危機を救ってやり
「報恩」を受ける
・・・「人間界の擬人化」だろう・・・
↓
山形県
米沢市
南原
横堀町の
常慶院にも類種の伝説
狸ではなくキツネ(狐)
・・・キツネは「記通音」だろう・・・
「木常」の逆字の
人名、地名の「常木」は
武蔵国
埼玉郡
常木が起源
徳川家などを輩出した
愛知県東部である
三河の氏族の名
↓
ウニの一種
ブンブクチャガマの名称は分福茶釜から
毛玉の様な外見を
タヌキに模して名づけられたらしい・・・
↓
月岡芳年の画
『新形三十六怪撰(茂林寺の文福茶釜)』
タヌキが僧に化けたという説に基いて描かれた
月岡 芳年(つきおか よしとし)
1839年4月30日(天保十年3月十七日)
~
1892年(明治二十五年)6月9日)
浮世絵師
姓は吉岡(よしおか)、
後に月岡(つきおか)?・・・槻岡→槻山・築山
本名は米次郎(よねじろう)
画号は、
一魁斎芳年(いっかいさい よしとし)、
魁斎(かいさい)、
玉桜楼(ぎょくおうろう)、
咀華亭(そかてい)、
子英、
そして最後に
大蘇芳年(たいそ よしとし)を用いた
歌川国芳に師事した
歴史絵、美人画、役者絵、風俗画、古典画、合戦絵
など多種多様な浮世絵を手がけた
衝撃的な無惨絵の描き手としても知られ、
「血まみれ芳年」の二つ名でも呼ばれる
門下からは
日本画や洋画で活躍する画家を多く輩出
「最後の浮世絵師」と評価される・・・
天保十年三月十七日(1839年4月30日)
江戸新橋南大阪町
武蔵国豊島郡新橋南大阪町(東京都港区新橋地区内)
他説では、
武蔵国豊島郡大久保(東京都新宿区大久保)
の商家である
吉岡兵部の次男・米次郎として生まれる
京都の画家の家である
月岡家・月岡雪斎の養子となる
(自称の説有り、他に父の従兄弟であった
薬種京屋織三郎の養子となったのち、
初めに松月という四条派の絵師についていた
見限って歌川国芳に入門したとも・・・)
嘉永三年(1850年)
12歳で
歌川国芳に入門(1849年説あり)
武者絵や役者絵などを手掛ける
嘉永六年(1853年)
15歳のときに
『画本実語教童子教余師』に
吉岡芳年の名で最初の挿絵を描く
同年
錦絵初作品
『文治元年平家一門海中落入図』
を
一魁斎芳年の号で発表
慶応元年(1865年)
祖父の弟である
月岡雪斎の画姓を継承
慶応二年(1866年)十二月
~
慶応三年(1867年)六月
にかけて、
兄弟子の
落合芳幾と競作で
『英名二十八衆句』を表す
これは歌舞伎の
残酷シーンを集めたもので、
芳年は
28枚のうち半分の14枚を描く
明治元年(1868年)
『魁題百撰相』を描く
彰義隊と官軍の実際の戦いを
弟子の
旭斎年景とともに取材した後に描いた作品
明治二年(1869年)頃までに
『東錦浮世稿談』などを発表
明治三年(1870年)頃から
神経衰弱
明治七年(1874年)
6枚つながりの錦絵
『桜田門外於井伊大老襲撃』を発表
芳幾の
新聞錦絵に刺激を受け、
明治八年(1875年)
『郵便報知新聞錦絵』を開始
これは当時の事件を錦絵に仕立てたもの
明治十年(1877年)
西南戦争が勃発
想像で西南戦争などを描いた
明治十一年(1878年)
天皇の侍女を描いた
『美立七曜星』が問題になる。
明治十二年(1879年)
宮永町へ転居
坂巻婦人の娘・坂巻泰と出会う
明治十五年(1882年)
絵入自由新聞に月給百円の高給で入社
明治十七年(1884年)
「自由燈」に挿絵を描いたことで
絵入自由新聞と問題になる
読売新聞にも挿絵を描く
坂巻泰と正式に結婚
明治十八年(1885年)
『奥州安達が原ひとつ家の図』などによって
『東京流行細見記』(東京府の人気番付)
「浮世絵師部門」で、
落合芳幾・小林永濯・豊原国周
らを押さえて筆頭
名実共に明治浮世絵界の第一人者となる
この頃から、
縦2枚続の
歴史画、物語絵など制作
門人も80名超
その後、
『大日本名将鑑』
『大日本史略図会』
『新柳二十四時』
『風俗三十二相』
『月百姿』
『新撰東錦絵』
などを出し
『月百姿』のシリーズは
芳年の
歴史故事趣味を生かした、明治期の代表作
明治二十四年(1891年)
ファンタジックで怪異な作品
『新形三十六怪撰』の完成間近の頃から
体が酒のために蝕まれていき、
再び神経を病んで
眼も悪くし、脚気も患う
現金を盗まれる・・・
明治二十五年(1892年)
新富座の絵看板を
右田年英を助手にして製作
病状が悪化し、巣鴨病院に入院
5月21日に医師に見放されて退院
6月9日、東京市本所区藤代町(東京都墨田区両国)
の仮寓で
脳充血のために死亡(享年54、満53歳没)
「やまと新聞で」は
6月10日の記事に
「昨年来の精神病の気味は快方に向かい、自宅で加療中、他の病気に襲われた」とある・・・
芳年の墓は新宿区新宿の専福寺
法名は大蘇院釈芳年居士
明治三十一年(1898年)
岡倉天心を中心とする人々によって
向島
百花園内に記念碑が建てられた
↓
歴史絵・武者絵
『大日本史略図会』中の
日本武尊や、
1883年(明治十六年)の
『藤原保昌月下弄笛図』
など、近代の
「自意識」を感じさせるものとなっている・・・
『大日本名将鑑』の
「神武天皇」
『日本書紀』における
神武東征の一場面
芳年は写生を大切にしており、
幕末の動乱期には斬首された生首を、
明治元年(1868年)の
戊辰戦争では戦場の屍を弟子を連れて写生
している
「想像力」を駆使して描いた
『奥州安達が原ひとつ家の図』
「責め絵(主に女性を縛った絵)」で有名な
伊藤晴雨は、この絵を見た後、
芳年が多くの作品で実践するのと同じく
実際に妊婦を吊るして写生したのか気になり、
妻の勧めで妊娠中の彼女を吊るして実験した
そうして撮った写真を分析したところ、
モデルを仕立てての写生ではなく
想像によって描かれたという結論に達した・・・
月の出てくる作品も多く、
『月百姿』という百枚にもおよぶ連作も手がけている
幽霊画も
『幽霊之図』
『宿場女郎図』などを描いており、
芳年自身が
女郎の幽霊を見たといわれている・・・
ーーーーー
↓↑
https://www.google.co.jp/?gfe_rd=cr&ei=uNa1VJPbJeOT8QeD04CoDw&gws_rd=ssl#q=%E5%82%BE%E3%81%8F%EF%BC%88%E3%81%8B%E3%81%B6%E3%81%8F
↓↑
かぶく(傾く)
「かぶ」は頭の意
かたむく、頭をかしげる
勝手な振る舞いをする
奇抜な身なりをする
歌舞伎を演じる
「かぶく」の「かぶ」は「頭」の古称
「頭を傾ける」が本来の意味
「頭を傾けるような行動」という意味から
「常識外れ」や「異様な風体」を表すようになった
↓
歌舞伎の表記は、明治以降に一般化したもので、
「歌舞妓」の「妓」に
「伎芸」などの「伎」が当てられた当て字
「歌舞妓」も当て字のため、
「歌舞伎の語源」とは関係無い
「傾く(かぶく)」の
連用形を名詞化したモノが
「かぶき」である・・・
「傾く(かぶく)」
室町時代、
他と違った身なりの人や、
自由奔放にふるまう人のことを
「傾いた人」、又は「傾き者」と呼んだ
かぶき者
(傾奇者・歌舞伎者とも表記)
戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮
特に慶長から寛永年間(1596年~1643年)にかけて、
江戸や京都などの都市部で流行
異風を好み、
派手な身なりをして、
常識を逸脱した行動・・・
「常識外れ」
「異様な風体」
「頭を傾ける」
「片向く」の意
斜めになる
かしぐ
考えや気持ちがある方面に引きつけられるコト
「傾く(かぶく)」
「傾き者(かぶきもの)」
奇抜な格好・身なりをする
並外れたもの、常軌を逸する
という意
放蕩無頼(ほうとうぶらい)、
異端あるいは
異装の服装・髪型・行動をする者のこと
ーーーーー
・・・
・・・当時の「歌舞伎の舞台」は情報発信の場で・・・現代のTVの「ゴシップ秘密暴露」番組と同類・・・でも、歌舞伎の「戯作者」は、その「情報源」を何処から手に入れていたのだろう・・・作家、戯作者、絵描きには浪人崩れが多い・・・幕府の記録は御禁制として、その「多くの本」が管理されていたハズだが「本田・誉田・ホンダ」の「本多のワケ」・・・歌舞伎の語源は古語にあたる「傾く(かぶく)」であるらしいが・・・ナニを「カタムケル」のか・・・「話の元」を売った奴がいたんだろう・・・売った、漏らしたヤツ、現在的には「秘密漏洩罪」になるカモ・・・
ーーーーー
1616年
干支暦=丙辰年
日本=元和二年
皇紀2276年
中国
明=万暦四十四年
後金=天命元年
朝鮮
李氏朝鮮=光海君八年
↓
ヌルハチ
ゲンギェン・ハーンの称号
後金国を建国
↓
12月20日
マーカムアラビアンがイギリスに輸入
サラブレッドの祖先
↓
死去
↓
4月23日
ミゲル・デ・セルバンテス
スペインの作家(1547年~)
↓
4月23日(グレゴリオ暦5月3日)
ウィリアム・シェイクスピア
劇作家、詩人(1564年~)
↓
5月22日(元和二年四月十七日)
徳川家康
江戸幕府
初代征夷大将軍(1543年~)
↓
7月20日(元和二年六月七日)
本多正信
相模国
玉縄藩主
天文七年(1538年~)
本多俊正の次男
三河で生まれる
鷹匠として徳川家康に仕えた
桶狭間の戦い
今川義元の命で
丸根砦を攻める家康に従い、
その合戦で
膝に傷を負い
足を引きずる跛足(佐久間軍記)になった
永禄六年(1563年)
三河一向一揆
一揆方の武将として家康に敵対
一揆鎮圧後
出奔して大和の松永久秀に仕え
その後諸国流浪
加賀国に赴いて
石山本願寺と連携し、
織田信長と戦った(藩翰譜)
大久保忠世を通じて家康への帰参
家康が行なった謀略は、
正信の献策による・・・
慶長十二年(1607年)
秀忠付の年寄(老中)
慶長十七年(1612年)
岡本大八事件
慶長十八年(1613年)
大久保長安事件
元和二年(1616年)四月
家康が死去
6月7日
正信
死去・享年79。
石田三成の嫡男
石田重家の命を家康に謀って
赦免した
息子の
本多正純は、幕府年寄
宇都宮15万5000石もの大封を得
元和八年(1622年)
下野国宇都宮の
宇都宮城に釣天井を仕掛け
第二代将軍
徳川秀忠の暗殺を図ったとの嫌疑で
本多家は改易
宇都宮城
↓
戊辰戦争で
新政府方についた
宇都宮藩は激戦地
大鳥圭介、土方歳三らに率いられた
旧幕府軍が宇都宮城を攻略
これを奪還に来た新政府軍と激しい戦闘
旧幕府軍は敗北
宇都宮城と城下は炎上・・・
↓
釣天井事件
↓
本多正純は
秀忠が
家康の
七回忌に
日光東照宮を参拝した後、
岩槻、古河、宇都宮城に
1泊する予定であったため、
城の普請や御成り御殿の造営を行わせた。
4月16日に秀忠が日光へ赴くと、
徳川秀忠の姉で
奥平忠昌(七歳)の
祖母
加納御前
(亀姫・築山御前の娘・兄は徳川信康)
から「宇都宮城の普請に不備がある」という
密訴
4月19日、秀忠は「御台所が病気である」とし
予定を変更して
宇都宮城を通過して
壬生城に宿泊し、
4月21日に江戸城へ帰還
8月、
出羽山形藩
最上家親の改易に際して、
正純は上使として
山形城受取りのため同所に赴いた。
その最中、秀忠は、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて秀忠を圧死させようと画策したなど、
十一か条の罪状嫌疑を
伊丹康勝と
高木正次が使いとして赴き、
その11か条について問いたださせた
正純は一つ一つ明快に回答したが
康勝が
追加で行なった
3か条
城の修築において
命令に従わなかった
将軍家直属の
根来同心処刑
鉄砲の無断購入
城修築で許可無く
抜け穴の工事
をしたことについては
回答することができず
現所領は召し上げ、
先代よりの忠勤に免じ改めて
出羽
由利郡に
5万5000石を与えると命じた。
正純は身の潔白を申し立て
その5万5000石を固辞
秀忠は怒り、
本多家を改易
正純の身柄は
久保田藩主
佐竹義宣に預けられ、
出羽横手への流罪とされた。
後に
正純は1000石の捨て扶持を与えられ、
寛永十三年(1637年)三月、
73歳で
秋田横手城下で生涯を終えた・・・
土井利勝らの謀略・・・?
加納御前(亀姫)の恨み・・・?
加納御前(亀姫)は
下総古河への
転封を命じられた
将軍秀忠の姉で
奥平忠昌(七歳)の祖母
加納御前の娘は、
本多正信・正純親子の
陰謀で改易させられた
大久保忠隣の嫡子
大久保忠常の正室
その後
再び
奥平忠昌が入封し
奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏
と城主は変遷し
最終的に
1774(安永3)年
戸田忠寛が
7万8000石で入封、
幕末まで支配・・・維新新政府方
宇都宮城釣天井事件は
後に
講談や歌舞伎の題材となった
歌舞伎の通し狂言
「三千両初春駒曳
(さんぜんりょうはるのこまひき)」
寛政六年(1794)一月
大阪道頓堀の
角の芝居で初演
作者は
辰岡万作、近松徳三、奈河七五三助など
立作者は辰岡万作
織田信長の後継者争いにし、
豊臣秀吉の「太閤記」の世界に置き換えられ
跡目相続に絡むお家騒動に脚色・・・
「けいせい青陽鶏」は、
実録本
「大久保武蔵鐙(おおくぼ むさしあぶみ)」
の中から、
宇都宮釣天井の件や
松平長七郎乱行の件を題材にし
「太閤記」に脚色・・・
↓
11月20日(元和二年十月十二日)
松前慶広
蝦夷国
松前藩初代藩主(1548年~)
天文十七年九月三日(1548年)
蠣崎季広の三男
大館(松前)の館山城で生まれる
南条広継の正室となっていた姉に
永禄四年(1561年)
長兄・蠣崎舜広が、
翌年(1562年)、
次兄・明石元広が相次いで毒殺
されたため、
天正十年(1582年)
父・季広の隠居により
家督を継いで当主
家督相続には
天正十一年(1583年)の説もある・・・
天正十九年(1591年)
南部地方で
九戸政実の乱
豊臣秀吉の命により
国侍として討伐軍へ参加
文禄二年1月(1593年)
肥前国名護屋城で兵を率いて
朝鮮出兵前の秀吉に謁見
慶広は蝦夷での
徴税を認める朱印状を求め、
秀吉はこれを認めると共に
志摩守に任じた
慶広は朱印状を領民に示すとともに、
アイヌを集めて
アイヌ語に翻訳し、
自分の命に背くと
秀吉が10万の兵で征伐に来ると伝え、
全蝦夷地(樺太、北海道)の支配を確立
蝦夷地安堵は
慶長三年(1598年)との説も・・・
慶長三年(1598年)
秀吉が死去
慶長四年(1599年)
家康に臣従
「蝦夷地図」を献上
姓を家康の旧姓の「松平」と
前田利家の「前」をとって松前に改め
慶長五年(1600年)
家督を長男の
盛広に譲り、
盛広も
従五位下、
若狭守を賜
慶長八年(1603年)
江戸に参勤して百人扶持
慶長九年(1604年)
家康より
「黒印制書」を得て
アイヌ交易の独占権を公認
従五位下、伊豆守に叙位・任官
これらを以って、
松前氏を大名格とみなし、
松前藩の
初代藩主とする
慶長十四年(1609年)
猪熊事件
左近衛少将
花山院忠長が
蝦夷・上ノ国に配流
慶広は忠長を城下の
福山(松前)で賓客として厚遇
花山院忠長の姉は
徳川家康の内室
父は大納言
花山院忠長は5年で津軽へ移動
公家に誼を得たことで、
松前家には以後累代に渡って
公家との婚姻が続き、
京都の公家文化を蝦夷にもたらした
慶長十九年(1614年)
親豊臣派であった4男の
由広を誅殺
慶長二十年(1615年)
大坂夏の陣には徳川方として参陣
元和二年五月(1616年)
剃髪して
海翁と号
10月12日に死去
享年69
長男の盛広は早世していたため、
嫡孫である
盛広の長男
公広が後継
↓
12月10日
ディオゴ・デ・コート
探検家
編年史家(1542年頃~1616年12月10日)
ディオゴ・デ・コウト
(Diogo de Couto)
ポルトガル王国
リスボン生まれの探検家・編年史家
アジアの風俗や歴史を取り扱った
『アジア史』を編纂
アンコール遺跡の実証的な
歴史記録の出版は1958年
遺跡の壁画に残されていた
古クメール碑文の文字を解読
都城が
「20人の王たちの継承」によって造営
カンボジア人によって建立されたと記述
↓
12月10日
幸
前田利家の娘
前田長種の室
ーーーーー
・・・
・・・大正七年・・・1918年(戊午年)・・・オフクロが生まれる三年前・・・第一次世界大戦・・・「3月3日」・・・
翌年の大正八年・・・1919年2月6日・・・「ヴァイマル憲法」制定・・・これって、「共同幻想」・・・
ーーーーー
1918年
↓
干支暦 - 戊午年
日本(月日は一致)
大正七年
皇紀2578年
中国(月日は一致)
中華民国七年
朝鮮(月日は一致)
檀紀4251年
主体七年
主体暦は、
朝鮮民主主義人民共和国で
1997年に制定された・・・
ーーーーー
↓
1月
1月1日 - 英政府が珍田駐英大使にウラジオストク共同出兵を提案
1月8日 - 第一次世界大戦: ウィルソン米大統領が十四か条の平和原則を連邦議会で発表
1月27日 - フィンランド内戦勃発(〜5月15日)
並木製作所(後のパイロットコーポレーション)設立
1月30日 - 豊田紡織(現:トヨタ紡織)設立
↓
2月
2月6日 - イギリスで選挙法改正(30歳以上の女性に参政権)
2月16日 - リトアニアがロシア帝国からの独立を宣言
2月24日 - エストニアがロシア帝国からの独立を宣言
↓
3月
3月3日 - 第一次大戦
ソビエト政権とドイツとの間で
ブレスト・リトフスク条約が締結される
中央同盟国
(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、
オスマン帝国、ブルガリア王国)と
ロシア共和国
および
ウクライナ人民共和国の
ボリシェヴィキ政府(ソ連の前身)とが
講和を結んだ。
この条約により、
ロシアが第一次世界大戦から離脱
3月5日 - イギリス・フランスなどが対ソ干渉戦争を開始
ソビエトがペトログラードからモスクワに移動
3月7日 - 松下電器産業(当時の社名松下電気器具製作所)設立
3月12日 - ソビエトがモスクワを首都とする
3月19日 - 米国議会が標準時・夏時間の導入を決定
3月21日 - 第一次大戦: ドイツ軍がパリ砲で砲撃を開始
3月25日 - ベラルーシが独立を宣言
↓
4月
4月1日 - 英国空軍創設(陸軍航空隊と海軍航空隊を再編)
丹那トンネル起工
4月5日 - 日英両軍が居留民保護を理由としてウラジオストクに上陸
4月29日 - ウクライナでヘーチマンの政変起こる
ヘーチマンはウクライナ国家の元首の称号
軍最高司令官の称号「ヘトマン」のウクライナ語名
ウクライナ・キエフで発生した右派による政変
4月30日 - 東京女子大学創立
↓
5月
5月2日 - ゼネラルモーターズがシボレーを買収
5月10日 - 象印マホービン創業
5月15日 - 米国郵政省(後の米国郵便公社)が世界初のエアメールを開始
5月28日 - アルメニア・アゼルバイジャンが独立を宣言
↓
6月
6月10日 - 稲畑産業設立。
1890年、京都府派遣留学生として
フランスのリヨンで染色技術を学んだ
稲畑勝太郎が帰国後、
京都に稲畑染料店を開業したのが
稲畑産業の起源である。
その後、1893年に社名を稲畑商店と改名
稲畑産業のロゴマークは「IK」
6月12日 - ロシアはウクライナに対し休戦協定
6月21日 - 英政府が珍田駐英大使にシベリア出兵を要請
ソビエト政権が戦時共産主義を採用
イマヌエル・カント「実践理性批判」邦訳
↓
7月
7月1日 - 児童雑誌「赤い鳥」創刊(鈴木三重吉)
7月8日 - アメリカがシベリアへの日米共同出兵を日本政府に提案
7月12日 - 日本海軍の戦艦『河内』が徳山湾で爆発事故により沈没
7月15日 - 第一次世界大戦: 第二次マルヌ会戦はじまる。
7月17日 - ロシア・エカテリンブルクのイパチェフ館に監禁されていた元ロシア皇帝ニコライ2世とその家族5人、従者4人が銃殺された。
日本政府が日米共同出兵同意をアメリカに回答
7月22日 - 富山県で米騒動がおこる。
7月31日 - 米価が大暴騰し、米市場が大混乱
↓
8月
8月2日 - 日本がシベリア出兵を宣言
アメリカがシベリアに出兵する。
↓
9月
9月21日 - 寺内内閣総辞職
西園寺公望に組閣命令(辞退)
9月29日 - 原内閣成立(日本最初の本格的な政党内閣)
↓
10月
10月1日 - 森永ミルクチョコレート発売
10月23日 - 第一次世界大戦
ヴィットリオ・ヴェネトの戦い(〜11月3日)
10月28日 - チェコスロバキアがオーストリア=ハンガリー帝国からの独立を宣言
エジプトで民族主義者サアド・ザグルールによってワフド党が組織される。
1918年10月29日 - ヴィルヘルムスハーフェン港にいたドイツ大洋艦隊の水兵達約1000人が、イギリス海軍への攻撃のための出撃命令を拒絶し、サボタージュを行った。海軍司令部は作戦中止をもたらしたサボタージュの兵士たちを逮捕し、キール軍港に送った。
11月
11月1日 - キールに駐屯していた水兵たちが仲間の釈放を求めたが、司令部は拒絶した。
11月3日 - 水兵・兵士、さらに労働者によるデモが行われた。これを鎮圧しようと官憲が発砲したことで一挙に蜂起へと拡大
11月4日 - 労働者・兵士レーテ(評議会、ソビエトとも訳される)が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧した(キールの反乱)。
レーテは政府が派遣した社会民主党員グスタフ・ノスケを総督として認め、反乱は一応鎮静化した。しかしこの後キールから出た水兵や労働者によって事件はたちまち広まり、
5日にはリューベック、ブルンスビュッテルコーク、
6日にはハンブルク、ブレーメン、ヴィルヘルムスハーフェン、
7日にはハノーファー、オルデンブルク、ケルン、
8日には西部ドイツすべての都市がその地に蜂起したレーテの支配下となった。
11月7日 - バイエルン革命(ミュンヘン革命)ではバイエルン王ルートヴィヒ3世が退位し、君主制廃止の先例となった。
大衆的蜂起と労兵レーテの結成は、11月8日までにドイツ北部へ、11月10日までにはほとんどすべての主要都市に波及 レーテ運動
ボリシェビキのような
前衛党派が
指導したわけではなく、
多くの労兵レーテの実権は
社会民主党が掌握
↓
11月3日 - 第一次大戦
オーストリアが休戦協定に調印(ヴィラ・ジュスティ休戦協定)
ドイツ革命
ドイツのキール軍港で水兵が反乱を起こす。
ドイツ革命が始まる。
ポーランドがソビエト連邦から独立を宣言
11月9日 - ドイツ革命
首都ベルリンの街区は、
平和と自由とパンを求める
労働者・市民のデモ
ドイツが共和国を宣言
11月10日 -ドイツ革命・11月革命
社会民主党、
独立社会民主党(USPD)、
民主党からなる
仮政府「人民委員評議会」が樹立
一方、
ベルリンの「労兵レーテ」は
人民委員評議会を承認したものの、
独立社会民主党の左派である
革命的オプロイテが半数を占める
大ベルリン労兵レーテ執行評議会を選出し、
ドイツにおける最高権力と宣言し、
二重権力状態が生まれた
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命
11月11日 - 第一次大戦
ドイツが休戦協定に調印し、第一次大戦が終結
カール1世 (オーストリア皇帝)が国事不関与を声明
11月12日 - オーストリアが共和制に移行
11月14日 - チェコスロバキアが正式に独立
11月16日 - ハンガリーが独立宣言・共和制に移行(ハンガリー第一共和国)
↓
12月
12月1日 - セルビア・クロアチア・スロベニア王国(後のユーゴスラビア王国)成立
デンマークを宗主とする属国としてアイスランドが独立
12月6日 - 大学令公布
12月16日 -ドイツ全国労兵レーテ大会で、
多数派を占める社会民主党員の賛成により
国民議会の召集とそのための選挙の実施
12月25日 - 第41議会召集
12月23日 - ベルリン王宮を占拠していた
人民海兵団を武装解除しようと
エーベルト派遣の部隊と戦闘
これに抗議して
独立社会民主党は政府から離脱
(人民海兵団事件)
12月30日 - ローザ・ルクセンブルクら
スパルタクス団を中心に
ドイツ共産党(KPD)が結成
↓
日付不詳
スペインかぜが大流行
アメリカ海軍海兵隊航空団が公式に認められる
シュペングラー『西洋の没落』
魯迅『狂人日記』
ロシア語正書法改革
↓
1919年1月9日
ノスケの指示によって、旧軍兵士によって編成された
フライコール(ドイツ義勇軍)がベルリンに到着
スパルタクス団などの革命派と激しい戦闘を展開
1月15日までには革命派は鎮圧
革命の象徴的指導者であった
カール・リープクネヒト
ローザ・ルクセンブルクが殺害
フライコール(義勇軍)により鎮圧
国防軍も動員され数ヶ月のうちにほとんど鎮圧
1月19日、ドイツ国民議会選挙が実施され、
社会民主党が第一党を獲得
2月6日、ヴァイマルの地で国民議会が召集
国家の政体を議会制民主主義共和国とする
「ワイマール共和国」の誕生
大統領にエーベルト、
首相にシャイデマン
が選出
社会民主党・民主党・中央党からなる
「ワイマール連合」政府が成立
民主的な憲法
「ヴァイマル憲法」が制定・・・
ーーーーー
「足かけ
5年にわたった戦争で
900万人以上の兵士が戦死」
・・・そして、「ヴァイマル憲法」・・・
・・・「ヴァイマル憲法」は「幻想」に終わった・・・
・・・「日本国憲法」は・・・「幻想」か「妄想」か・・・
「甲の午」の年は2月節分まで・・・「乙の未」の年はソレから・・・
以上も、以下も参照、参考の原文は「ウイッキぺデア」・・・
↓
ーーーーー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%81%AE%E7%8A%A0%E7%89%B2%E8%80%85
↓
第二次世界大戦
被害者数の総計は
5000万〜8000万人、
8500万人とする統計もある・・・
それでも、
当時の世界の人口の
2.5%余り・・・
これらには飢饉や病気の被害者数も含まれる
↓
民間人の被害者数
3800万〜5500万
飢饉病気によるものは
1300万〜2000万)
軍人の被害者数
2200万〜2500万
捕虜としての死者数も含む
↓
軍人の犠牲者数には
戦闘での死者数、行方不明、事故、病気、捕虜
としての死者数も含まれる
民間人の犠牲者数には
戦略爆撃、大量虐殺、戦争犯罪、
ソ連の強制移住なども含まれる
気候だけでなく
戦争を原因とする飢饉の被害者数は
400万〜1200万とされるが、
中国、インドネシア、
1943年のベンガル大飢饉、
1945年のベトナム大飢饉、
フィリピンにおける飢饉被害も含まれる・・・
ーーーーー
「個々人」の「死」は総計として「統計学の数字」として記録される・・・「統計学は、経験的に得られたバラツキのあるデータから、応用数学の手法を用いて数値上の性質や規則性あるいは不規則性を見いだす。統計的手法は、実験計画、データの要約や解釈を行う上での根拠を提供する学問であり、幅広い分野で応用されている」・・・
「死者の数」から、ナニを学びたいのカネ・・・明日の命・・・
ーーーーー
↓
「英語で統計または統計学を
statistics と言うが、
語源はラテン語で
「状態」を意味する
statisticum であり、
この言葉がイタリア語で
「国家」を意味・・・・・?
するようになり、
国家の人力、財力等といった
国勢データを
比較検討する
学問を意味するようになった。
現在では、
医学(疫学、EBM)、薬学、経済学、
社会学、心理学、言語学など、
自然科学・社会科学・人文科学の
実証分析を伴う分野について、
必須の学問となっている。
また、
統計学は
哲学の一分科の・・・?哲学は「if・カモ」だから
である
科学哲学においても
重要なひとつの
トピックス(topics)・・・・・?話題ってコト?
になっている」
↓
トピックス(topics)
東京証券取引所第1部上場の
全銘柄を対象とした
株価指数。
増資による株数増加を調整した
全銘柄の
時価総額(株価×発行済株式数)を、
基準時である
1968年1月4日の
時価総額
(当初数値は8兆6020億5695万1154円)
を100としてと比較して
指数化したもの・・・
1秒ごとに、算出・公表している
株価指数である
↓
東証1部上場の
全銘柄の
時価総額の合計を
全銘柄で割って出した数字
↓
・・・「結果の数字」で、明日の「損得を予測する」・・・
・・・「計算結果」は推測、推定、推理、類推の「仮定、可能性の数字」、あるいは「誤差の幅の予測数字」で、予測は「仮数」で「確定数」ではない・・・
「ウィリアム・ゴセット、続いてロナルド・フィッシャーが
農学の
実験計画法研究をきっかけとして
数々の
統計学的仮説検定法
を編み出し、
記述統計学からの時代に移る。
ここでは
母集団から抽出された標本を基に、
確率論を利用して
逆に
母集団を・・・・・?「母集団」のナニを?
推定するという
考え方がとられる」
・・「推計の学」だからね・・・「確率論」は「確定論」ではない「率・割合」だから・・・
↓
「統計の世界には
Garbage in,
garbage out
という格言がある。これは、
「ゴミのようなデータを使っていくら解析しても出てくる結果はゴミばかりだ」
という意味・・・らしい・・・タシカにねッ・・・
・・・「実証分析」して、どうするつもりナンだか・・・「リスク分担」・・・「損得バランス」・・・
「エンゲル係数(エルンスト・エンゲル)」も「統計学」・・・この割合は理解できる・・・物価が上がっても「喰わなくちゃァ~」・・・コレも喰っちゃった「結果論」の「数字」だけれど・・・
「客観確率」・・・・・・・?
を前提に置く統計学に対し
「主観確率」・・・・・・・?
を中心に据えた
「ベイズ統計学」が1950年代に提唱された。
『ベイジアン』
「母集団の前提を必要とせず
不完全情報環境下での
計算や原因の確率を語るなど、
およそ在来統計学とは正反対」
「主観確率」には、
新たに取得した情報によって
「確率を更新する機能」が内包され、
「統計学」では世界的に「ベイズ統計学」が主流となり、
「先端的応用分野」ではもっぱら
「ベイズ統計学」が駆使されている・・・
・・・「計量経済学、統計物理学、バイオテクノロジー、疫学、機械学習、データマイニング、制御理論、インターネットなど、あらゆる分野でベイズ統計学は実学として活用」
「スパムメールフィルタ」や
「日本語入力の予測変換」などに応用も数多い。
「20世紀末には
マルコフ連鎖モンテカルロ法など
理論面で様々な革新的考案もなされ、
旧来の統計学では
不可能であったような
各分野で多くの
応用がなされるようになっている」
・・・「日本語入力の予測変換」・・・「誤差の僅少確率」で「予測選択」をする、と言うコトか?・・・「認識」は常に「主観的」な「選択」だと思うが・・・
「いずれも計算環境の進歩と不可分である」
・・・らしい・・・???・・・