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コジキジゲン

モモちゃんへの「対幻想」、ブブへの「追幻想」・・・

2015-01-11 20:31:27 | 古事記字源

 ・・・「対幻想」も「ego幻想」だろう・・・「恋愛幻想」も「ego幻想」だろう・・・
 モチロン、各々の「国家幻想」も「国家ego」、諸々の「組織幻想」も「組織ego」である・・・
 そして、「対象認識の結果の幻想」は「等価」ではない。ましてや、「共同」、「組織」、「一族郎党」、「家族」、「親子・兄弟・姉妹」、「愛人・恋人」、「夫婦」などに、「幻想」を接着しても、対象を得た「個々人」の「相互幻想」は「不等価」である。「対幻想」も個々人の相手に対する「幻想・妄想」であるから「等価の幻想」ではない。「同じ想い」は無いのである。「幻想・妄想」とは個人、個々人の能ミソに巣食う「思い込み」であるから・・・「同じ想い」と「憶う」の勝手だけれどネッ・・・
 「共同幻想」は「階級社会」の「利害関係」の産物で、賜物である。「国家幻想」が「共同・公平・平等」と思うのは、コレも又、勝手だけれどね・・・「支配幻想」の固まったモノが「階級国家」の「意思・意志」となった「掟・法・法律」である・・・「現実一般社会」が「共同・公平・平等」であるならば、「幻想」と言うコトバは生まれなかっただろう。
 個々人が「階級社会」の現実に直面して「幻想」は、その枠内で、「願望・希望」、「志望・切望」、「絶望」と渦巻き、「諦観」と「達観」に枝分かれし、その状況の選択を「覚悟」するのさ・・・死んだ人間、仏には「幻想」は無用である・・・
 それらを「幻想」しているのは「個々の生きている実体的人間」である。
 いずれも、諸状況、諸環境に置かれた「個々人の諸関係」に於ける「個々人の意識規範の核」が生きているモノの「ego」である、と云う事だ・・・ 
 生きているモノの「幻想」は「現実の諸関係」でのみ「能ミソ機能」として起こる・・・
 個々人がボケになっても「吸収と排泄」、「睡眠」の「ego」からは解放されないだろう・・・
 「自己の生きている肉体」を「維持・保持」していく、と云う「本能的ego」である。
 ここでボクが云う「ego」とは「自我」で、「selfish(セルフッシュ)」の「我儘」とは異なる。「他者の不利益を求める悪、万人の利益を求める功利主義」とも異なる・・・「自我(英語=ego、ドイツ語=das Ich、Ich)とは、哲学および精神分析学における概念=自己意識」であるらしい・・・「自我の自由」・・・フロイトによれば、「自我(エゴ)」という概念(コトバ)は「意識と前意識」、それに「無意識的防衛を含む心の構造」を指す言葉であるらしい・・・
 それにしても「意識と前意識」とはナンなんだか・・・「対象・事象」⇔「五感⇒対象認識⇒脳ミソ機能⇒思考・思惟⇒コトバでの規定認識⇒記憶」⇒「思惟・思考⇔再認識」・・・
 「自覚的ego」と云うなら「利己・私利・私欲」で、「selfish(セルフッシュ)」と同言である。
 ボクが「ego」を別のコトバで言えば生きている個々の「生命体の生理的自己保身」と云うコトである。
 ・・・ 
 「命を懸ける覚悟がなかった人間」の「思想」には
 「大衆」と云う箕と笠を被った「selfish」な自己保身の核」があるだけだろう。「階級社会」での「大衆意識」・・・「プチブル意識の多寡の上昇性」である・・・今よりは、皆のように、皆よりも、アイツよりも・・・富も出世も・・・望むのも、妄想、幻想するのも「自由」である・・・
 どんな生き方をしても、どんなコトバを吐いても
 「自己表出」であろうが、「指示表出」であろうが
 個々人の「選択」と「判断」は脳ミソの枠内で「自由」であるがネッ・・・
 「プチブル意識の本質」はイウマデもないが・・・「私有」に対する「多寡の度合い」である。
 この「意識」は「ブルジョア」であろうが、「プロレタリア」であろうが、「コジキ」であろうが、「人間社会の本質」である・・・「無階級社会」、「幻想」である・・・
 「ダーウインが来た」を観ていれば、コイツの「妄想」なんかは粉々に崩れ去ってしまうに違いない。
 「市井の人間」に「思想」なんてものはナイ。
 「プチブル意識」・・・
 ドコに「職場」を持とうが、場所には関係ない・・・
 「市井の人間」が「コトバ」で「プチブル思想」をカタって生きては「オシマイ」である・・・
 「思想をカタって個人崇拝の対象」になってしまっているのを気がつかない「バカ」じゃぁなかった、とは思うが・・・
 ・・・「寫眞」を飾って拝んでいる人間もいるらしい・・・崇拝するのは自由で、勝手である・・・
 「皇帝の寫眞」と「仏の寫眞、キリストの絵」を一緒に飾って拝むのもね・・・「妄想対象」のプロマイドなら、まだ、救いはアルかも・・・大戦前のロシアでもドイツでも革命後に「労働者の家の中」には「皇帝・皇后」の写真が飾ってあったそうだが・・・戦後の日本もシバラクはそうであった・・・「刷り込まれた意識と、儀礼的慣習の払拭」には「時間的世代交代」が必要なのさ・・・
 だが、「ニッポン型プチブル意識の短時間でのファッションの変遷」は目まぐるしかった・・・ベトナムでナニがあろうが、アフガニスタンでナニがあろうが、アフリカでナニがあろうが、日本国家枠内では「餓えず」にソレまでには口にできないモノも「大衆」として喰えたのだったから・・・だが、公害の代償も甚大だったし、山谷生活者もコジキも存在した・・・
 この人間界、自然界の「生命の本質」は個々が「新陳代謝」を前提にして「生命体として生きている」と、云うことで、「妄想・幻想」はオマケである・・・
 「異論反核論」には「生きている人間」が、すっ飛んでしまっている・・・「原爆」で殺されるのも、「大砲・機関銃・ライフル銃・刀剣」、「素手」で殺されるのも、「個々人の人間」にとっては「死」は同じである・・・問題は「国家ego・国家selfish」である・・・「数の問題」ではない・・・「幻想」は相対立する「理想」と「虚妄」に分岐し、「法」として現実化される・・・
 「ニッポン国家枠」の「プチブル意識の大衆」に崇拝されて「成仏」したのならオメデタイ・・・
 「世界が、地球が、勝手に線引きされた他国家に住む人々」を吹っ飛ばしたオメデタさ・・・
 「糞実践するよりも、思考する方がモット重要なんだ」って、か・・・タシカに「プロ」の「思想家」である・・・本売、売文のセールスマンの「アマ」じゃぁ、「唯の市井の人間」じゃぁ、食っていけなかっただろ・・・
 ・・・それに、「二ッポン独自で特殊な思想家」だなんて、オメデタイヤツも多いらしい・・・
ーーーーー
 NHK・ETV23:00
 戦後史証言プロジェクト
 日本人は何をめざしてきたのか
 知の巨人たち
 第5回(字)
 戦後の言論界を走り続けた思想家
 吉本隆明。
 個の自立を説き、大学紛争の時代、若者たちの支持を得た。
 独自の思想を
 上野千鶴子さん、
 高橋源一郎さん
 他の証言で見つめる
ーーーーー
 ・・・「個の自立」って・・・ドコにあるんだか・・・「個のプチブル意識としての自立」・・・?・・・「自由の選択」はあっても、「関係性」に「自由」は無い・・・
 ・・・妄想がスギました・・・恋する「タマミ」はボクの「対幻想」、「存在論」ではなく、ボクの内なる「ego幻想」で、「認識論」の「範疇妄想」だが・・・

 

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ユウ・ユウァ・ユウ・・・云う・結亜・遊・・・

2015-01-10 23:04:59 | 古事記字源

 ・・・「TV・東京・北海道7チャンネル」、「YOUは何しに日本へ?(再)▽剣術道場へ入門するドイツ人▽しばり術を学びに来たというデンマーク人カップル▽社交ダンス大会に出る14歳ロシア人▽ベトナムからの旋盤・溶接の研修生…などが登場!!!!」・・・「天真正伝香取神道流・大竹先生」に入門、ドイツ人「アルパー」さん、「土方歳三」のファン・・・「血判」して入門・・・「エメラルドブルーの謎(碧き眼の人形伝説)」・・・「平松武兵衛(武平)=スネル(Schnell)」・・・「1869年(明治二年), エドワード・スネルがワカマツ・コロニーを建設」・・・シェイク=shake(振る)、ルビを振る・・・フォール(落ちる・落とす・fall・let something fall)・・・keep up・・・文字をフォロー(Follow)・・・hold(ホールド)・・・Hold on・・・Hold up・・・
 「スネル=すねる=拗ねる=素音留」、アレ、コレ・・・「ペコピ?、ピコペ?」・・・「コピペ=コピー&ペースト=Copy and Pasteの略語」・・・
ーーーーー
  ↓
 横浜開港とほぼ同時期に来浜した
 スネル兄弟は 当初から
 山下居留地44番館に 住んでいた。
 横浜が開港された
 安政六年(1859)に来日した。
 そのとき
 兄ヘンリーは十七歳、
 弟エドワルドは十六歳
 といわれる・・・
 慶應三年七月十五日
  ↓
 オランダ人、
 プロイセンの
 シャルジェ・ダフェール公使の
 書記官をしていた
 スネル(Henry Schnell)が侍に襲われる
  ↓
 彼が弟のエドワードと馬車で江戸に戻ってきたところ、突然、侍が一人、馬の前に飛び出してきた。
 スネルは馬首を廻らせて男に触れずに通り過ぎようとしたが、馬車が斜め前に来たところで男は刀を抜き、スネルの隣に座っていたエドワードに一撃を浴びせようとした。だが、素早く放たれた拳銃によって襲撃者は胸に銃弾を受けたという
 (『ポルスブルック日本報告』208p.~209p.)
  ↓
  『維新史料綱要』巻七
 慶應三年七月十五日の項
 このとき、馬の前に飛び出してきた侍は、沼田藩士
 三橋昌で、彼の襲撃を禦ごうとして発射された拳銃の銃弾が、誤って
 下駄商
 幸次郎の雇人
 淺次郎を傷つけた由である。
 翌日、「スネル」兄弟は、この襲撃事件を幕府に訴え、暴行者の逮捕を求めた。
 事件から
 二日後の
 十七日、 沼田藩は、書面をもって、幕府に、三橋昌を拘禁したことを報告している。
  スネルのこの事件について、
 デ=グラーフ=ファン=ポルスブルックは、
 1867年8月22日
 (慶應三年七月二十三日)付け書簡
 (ARA, MIBZ. No.3146, Brief No.80/82)
 によって、例のとおり、
 スフラーヴェンハーゲの外務大臣に報告
ーーーーー
  ↓
 「平松武兵衛(武平?)=エドワルド・スネル?」
 「スネル兄弟は、幕末期の商人。
  兄はジョン・ヘンリー・スネル。
  弟はエドワルド・スネル。
  オランダ出身とされる。
  出身地も没年も不明・・・
  1860年に
  プロシアが日本と通商条約を結ぶと、
  初代領事として
  マックス・フォン・ブラントが赴任する。
  兄・ヘンリーはその下で書記官を務めた」
  ↓
 「ジョン・ヘンリー・スネル
 (John Henry Schnell、1843年?~1871年?)」
 「エドワルド・スネル
 (Edward Schnell、1844年?~没年不詳)」
 ・・・
ーーーーー
  ↓
 明治維新人物伝
http://matome.naver.jp/odai/2130686534339674801/2131359814756096103
 兄弟は
 万延元年(1860年)に
 プロシアが日本と通商条約を結んだ際に、
 日本に赴任した初代領事である
 マックス・フォン・ブラントの下で
 兄「ヘンリー」は書記官を務めた。
 弟「エドワルド」はスイス総領事書記官であった。
   ↓
 書記官務めの後、
 スネル兄弟は
 新潟に移り、
 エドワルドは
 「エドワルド・スネル商会」を設立
 長岡藩の
 河井継之介は、
 スネル兄弟との密接な関係を築き上げ、
 当時最新鋭の
 元込め銃、そして当時日本に
 3台しか無かった
 ガトリング砲を2挺購入し、
 北越戦争で
 長岡藩は官軍を苦しめた
  ↓
 スネル兄弟は
 戊辰戦争において、
 旧幕府軍に対して協力し続け
 兄・ヘンリーは
 会津にて軍事顧問を務め、
 更には
 米沢藩の軍事顧問をも兼ねたことで、
 奥羽越列藩同盟全体の
 軍事顧問としての立場となってゆく。
 会津藩主
 松平容保は
 ヘンリーに
 「平松武兵衛」の名を与え、
 屋敷も提供しその労に報いた。
 戊辰戦争勃発当初は
 外国から武器弾薬を運輸し、
 奥羽越列藩同盟に全て送り込んだ。
 新潟港は後に北越戦争で陥落し使用不能となるが、
 この時
 弟のエドワルドは陸揚げ中であり、
 官軍に捕縛されるが、すぐに釈放。
  ↓
 スネル兄弟が
 戊辰戦争を単なる金儲けとして
 旧幕府軍に
 肩入れしているのではなかった・・・
  ↓
 戊辰戦争が終結し、官軍の勝利に終わった後、
 ヘンリーは
 1869年
 カリフォルニア州に
 会津若松の人々
 約40人と共に移住・・・
 戊辰戦争敗戦後、
 領地を召し上げられ
 窮地に陥った会津藩の人々を
 スネルは救済
 サンフランシスコ
 北東の
 ゴールド・ヒルに移民。
 ヘンリーはここに
 「若松コロニー」という名の
 開拓地を建設、開拓したが
 日本産の
 茶や桑などが気候が合わず育たなかった
 為、その後
 ヘンリーは
 金策の為に日本へと向かった
 が、
 若松コロニーに戻る事はなかった・・・
 若松コロニーは
 初の日系移民入植地
 現在ゴールド・ヒル地区には、
 初の日系女性移民である
 「おけい」の墓が残っている
  ↓
 弟エドワルドは
 新潟から東京へ移り、そこで商会を開いた
ーーーーー
  ↓
 http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6448.html
 庄内藩や会津藩、米沢藩、長岡藩
 など
 奥羽越列藩同盟と
 取引があった「スネル兄弟」・・・
 「庄内藩」と付き合いがあったのは、
 弟の
 「エドワード・スネル」
 スネルは、米沢藩の記録では、
 「山師的商人で、
  年頃30歳前後、
  眉目清秀、実に美男子」・・・
 庄内藩が
 戊辰戦争(1868~1869年)で、
 近代的装備を揃え・・・
 全戦全勝して降伏・・・
 慶応四年四月
 庄内藩は
 清川口、吹浦口、瀬場、羽黒、大網口に派兵し、
 国境を固め官軍を阻止
 戦いを優位に進めながら
 降伏した・・・
 使用した銃はアメリカ製
 庄内藩を資金面で支援したのは
 酒田・本間家で、
 当主の
 本間光美(こうび)には
 エドワード・スネルとの
 大量の武器取引した記録がある
  ↓
 「約定書」には、
 短シャープ騎兵銃600梃、
 スプリングフィールト銃300梃、
 短エンフィールド銃70梃、
 シャープ騎兵銃弾60万発
 などとある。
 これらの銃は、
 南北戦争
 (American Civil War, 1861~1865年)
 で使われた
 中古銃で、
 当時の日本に大量に輸入され、
 戊辰戦争の主力武器として使われた・・・
 戊辰戦争は
 アメリカの内戦・南北戦争が終結して
 3年後に勃発しているのが、
 双方
 アメメリカの
 お下がりの武器で戦った
 1877年(明治十年)
 「西南の役」当時は、
 世界中から武器弾薬が日本に集まり、
 世界で一番の銃保有国になった・・・
  ↓
 ウィキペディア
  ↓
  兄・ヘンリーは明治維新後、
 1869年に
 カリフォルニア州に
 会津若松の人々約40人と共に移住
 サンフランシスコの北東にある
 ゴールド・ヒルに
 「若松コロニー」という名の開拓地を建設
 持ってきた日本の
 茶や桑などが育たず、
 1年ほどで若松コロニーの経営は行き詰まった。
 1871年4月、
 ヘンリーは金策をしてくると言い、
 日本へと向かったとされるが、
 その後、
 彼がこの地へ戻ってくることは無かった。
 日本で秘密裏に暗殺された・・・
 弟は新潟から東京へ移り、そこで商会を開いた。
 1882年頃まで日本国内で活動していたが、
 それ以降の消息は不明・・・
ーーーーー
  ↓
 日米交流
Japan-US Encounters Website
http://www.japanusencounters.net/sub_schnell.html
  ↓↑
 慶応1(1865)年6月17日付けの記述である。
 いわく、
 神奈川奉行、書を外国奉行等に致し、
 瑞西(スイス)国書記官・スネルより
 交趾支那(コーチシナ=ベトナム南部、
      メコン川下流地方)
 サイゴン府の
 米
 百五十萬担を
 本邦へ輸入せんことを勧誘せる旨を報じ、
 その指揮を請う。
  ↓
 更に
 同、慶応3(1867)年7月15日
 付けの記述いわく、
 普国(プロシャ国=プロイセン)
 代理公使館
 書記官ヘンリ・スネル、
 其弟
 エドワード・スネルと倶に馬車に乗じ、
 田町(江戸芝)を過り、
 沼田藩士
 三橋昌のために襲われ、
 之を禦がんとして
 拳銃を以て狙撃し、
 誤て邦人
 (下駄商、幸次郎の雇人、浅次郎)
 を傷く。
 と、
 スネル兄弟が
 江戸の芝・田町で暴漢に襲われ、
 ヘンリー・スネルの撃った拳銃の弾が、
 誤って近くの商店の日本人を傷つけたと云うもの
 (大日本維新史料稿本・続通信全覧)
  ↓
 戊辰戦争の
 新政府軍の
 新潟攻撃で、
 弟の
 エドワード・スネルは
 戦争に巻き込まれ
 多額の財産を失っている。
 明治5(1872)年になって
 エドワード・スネルが
 明治政府に賠償要求を出し
 4万ドルの償金を得ているが、
 その時の文書には
 「和蘭人・スネル」と、
 オランダ人として出て来る
(日本外交文書デジタルアーカイブ
 ・第5巻、第6巻)
  ↓
 兄のヘンリー・スネルが
 会津の移民を引き連れ
 サンフランシスコに上陸した時点で、
 現地の新聞は
 「プロイセン人」と報道
 即ち、
 兄は「プロイセン人」で、
 弟は「オランダ人」・・・
 ・・・弟のエドワード・スネル・・・
 オランダ公使まで巻き込んだ
 日本側の公式な
 賠償請求史料の如く、
 オランダ人・・・
  ↓
 日本とプロイセンの
 修好通商航海条約
 プロイセン使節
 オイレンブルクと
 交渉中に突然割腹自殺をとげた
 外国奉行・故堀利煕(としひろ)に代わり、
 3ヶ月程前にアメリカから帰国した
 外国奉行・村垣範正や、
 同・竹本正雅、
 目付・黒川盛泰との間で
 万延元年十二月十四日
 (1861年1月24日)
 に調印され、
 2年後に
 プロイセン領事・フォン・ブラントが来日
 それ以降、
 プロイセンは
 1866(慶応2)年の
 オーストリア帝国との戦争に勝利し、
 北ドイツ連邦の盟主になった
 一時帰国した
 フォン・ブラントは
 代理公使に昇格して日本に帰任し、
 この経緯と
 新しい北ドイツ連邦の関係を説明する
 1867(慶応3)年4月22日付けの
 文書を幕府に提出している
 (大日本維新史料稿本・続通信全覧)
  ↓
 4月22日付けの文書の原文は
 ドイツ語だったはずだが、
 日本語に翻訳された
 文の末尾には
 「イ・・・・・・?異
  ヘンイ・・・・?変意
  スネル・・・・?拗ねる・素音留
  訳」
 と出てくるから、
 当時
 プロイセン公使館書記官の
 ジョーン・ヘンリー・スネルが
 ドイツ語からオランダ語への翻訳を行い、
 オランダ語訳文と共に
 ドイツ語原文を幕府に提出し、
 日本側で
 オランダ語訳から日本語へ訳された・・・
 横浜開港当時日本と諸外国間での
 公用語はオランダ語だった・・・
 アメリカ公使館でも
 ヒュースケンや
 ポートマン等の
 オランダ系アメリカ人が
 オランダ語を使う書記官として活躍
 オランダ語をよく操った
 スネル兄弟が
 ドイツ語圏の
 プロイセンやスイスの公使館で
 オランダ語を使う書記官を務めたのは、
 自然・・・
  ↓
 明治元(1868)年七月二十七日付けの、
 戊辰戦争で新潟港まで
 進攻した新政府軍の
 摂津丸(摂津艦)と
 丁卯(ていぼう)丸(第一丁卯艦)
 の2艦からの
 報告書にいわく、
  ↓
 当正月より
 会津にまいり居り候
 プロイセン人、
 当時
 平松武兵衛と
 申す者の弟
 スネルと申す者、
 よほど賊のため
 外国の事
 周旋いたし候由。
 (大日本維新史料稿本・
  新潟駐在官軍軍艦報告書)
  ↓
 ここでの「プロイセン人」は、
 文脈からみて
 平松武兵衛を名乗る兄
 「ジョーン・ヘンリー・スネル」の事であり、
 「弟・スネル」を
 プロイセン人とは言っていない・・・
 兄・ジョーン・ヘンリー・スネルは
 明治元(1868)年1月から会津に来ていた
 江戸から会津に帰国した
 前藩主・松平容保は
 四月十日に新政府軍に対抗する
  「会津・庄内同盟」を盟約していた
 月末には
 旧幕府老中
 小笠原長行や
 陸軍奉行
 竹中重固
 等が会津にやって来、暫くして
 旧幕府老中
 板倉勝静も参加
 そんな中で
 ヘンリー・スネルは
 五月に松平容保に会い、
 軍事顧問として
 「平松武兵衛」という日本名を貰い、
 若松城下の
 西に屋敷を与えられた
  ↓
 兄「ヘンリー・スネル=平松武兵衛」は、
 七月下旬に
 新政府軍が新潟に攻め込む数ヶ月前には
 会津から新潟近辺に出て来て、
 会津藩士
 田中茂手木(もてぎ)の
 通訳で
 米沢藩などの軍事相談に乗ったり、
 七月中旬には
 奥羽越列藩同盟の重役と会議を持ち、
 同盟が新潟を開港して
 外国と取引するには
 専門家を駐在させねばならないと建策したり、
 サイゴン辺りから
 3千人程の傭兵を連れて来る
 等のアイデアを出したりしている
 (大日本維新史料稿本)
  ↓
 弟のエドワード・スネルは、
 水運に便利な
 新潟の街中の
 東掘(片原堀)前通りの
 山木商店に拠点を構え、
 武器、弾薬や必需品を
 会庄同盟・奥羽越列藩同盟になる側の
 庄内藩を始め、
 長岡藩、会津藩、米沢藩等に供給していた
  ↓
 兄のヘンリー・スネルについては、
 スネルの兄は近頃
 会津藩に召抱えられたと云って、
 日本服を着用し、
 「丸に葵」の
 紋付羽織に
 袴を穿き
 大小を佩び、
 自ら
 平松武兵衛と改名した・・・
  ↓
 既に会津藩で
 平松武兵衛を名乗り、
 日本装束に
 脇差も差す事を許された程に、
 松平容保や
 会津藩重臣達の信頼を勝ち得てい
 会津藩から、軍事顧問に招かれた・・・
 (横尾東作翁伝)
  ↓
 これは、
 長岡藩家老
 河井継之助が
 江戸呉服橋の藩邸引払いの際に、
 信頼する
 弟のエドワード・スネルに頼み、
 藩邸にあった主家の
 家宝や収集した書画・什器類を
 横浜在留外国人に売却し
 数万両を手に入れ、
 撤退時に最新式の
 大砲や小銃など武器類を
 スネルから購入し、
 スネル所有の
 汽船を借り上げて積み込み、
 藩邸倉庫の米穀をも積込み、
 桑名候(松平定敬)はじめ
 長岡・会津・桑名の
 藩兵300人余りを乗せ、
 江戸から
 横浜・箱館経由新潟に向かっている
 (河井継之助傳)
  ↓
 会津藩は
 河井継之助を通じ
 スネル兄弟を知り、
 武器購入も行った・・・
 新潟には
 スネル兄弟が滞在した時期があった
 1月に兄のヘンリー・スネルは
 新潟から会津に来ていて、
 会津に逃れて来た
 旧幕府方の
 閣老
 板倉伊賀守や
 小笠原壱岐守も出席する場で
 洋式の軍備や戦略を建策
 (大日本維新史料稿本・
  史談会速記録第91輯)
 弟のエドワード・スネルが武器を供給し、
 兄のヘンリー・スネルが軍事顧問
  ↓
 スネル兄弟
 プロイセン西部と
 オランダ東部の
 低地ドイツ語やオランダ語も
 話される地方に生まれ、
 兄のヘンリー・スネルは
 「将軍」とも呼ばれた・・・
 2人は
 ドイツ語とオランダ語の
 出来る書記官として日本で仕事を始めた
  ↓
 兄・ジョーン・ヘンリー・スネルが
 サンフランシスコ上陸時に
 現地新聞に
 「プロイセン人」と名乗ったのは、
 本来の国籍を伝えた筈で、
 日本の当時の記述とも矛盾しない・・・
  ↓
 平松武兵衛こと
 ジョーン・ヘンリー・スネル
ーーーーー
  ↓↑
 以下はボクのHPの小説
「エメラルドブルーの謎(碧き眼の人形伝説)」
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/blue/blue1.htm


 

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カンスウ・ƒ・・・箱(函・匣・波来・葉子)館戦争・・・榎本×黒田

2015-01-10 20:41:12 | 古事記字源

・・・函館・・・箱館・・・「榎本 武揚(えのもと たけあき、天保七年八月二十五日(1836年10月5日)~明治四十一年(1908年)10月26日)・幕臣・外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川」。名は「ブヨウ」とも・・・「榎本ブヨウ」・・・
 「函館=箱館」戦争の結果論・・・「y = f(a-x)」とするならば、「y」は「蝦夷共和国の成立」、「(a)」は「投入兵力」、「(x)」は「消耗兵力」・・・
 「北海道共和国(y)」は「a」=「陸海軍の兵力、と指揮官」で戦い、変数「(x)」次第で「成立」すると考える・・・この「論理」にはムリがある・・・
 ・・・ f(x)=y・・・が一定で、これは数学的には定数関数と認識される・・・
 だが、相手の「兵力」も、「兵站力」も「精神力」も、「天候状況」も、「国際関係の外国状況」も考慮されていない・・・しかも、「箱館戦争」は過去的事後の「ifとしての結果論」である・・・「未来」では無い・・・
ーーーーー
 榎本 武揚(釜次郎)・海軍中将・正二位勲一等子爵
 江戸下谷御徒町(東京都台東区御徒町)に生まれた
 父は
 箱田良助
 備後国
 安那郡
 箱田村(広島県福山市神辺町箱田)出身
 榎本武由(武兵衛)の娘
 「みつ」と結婚して、
 婿養子として幕臣
 榎本武規(円兵衛)と改名
 伊能忠敬の弟子・・・
  ↓
 榎本武揚は幼少の頃から
 昌平坂学問所で儒学・漢学、
 ジョン万次郎の私塾で英語を学ぶ
 私塾では箱館戦争を共に戦った
 大鳥圭介と出会った
 19歳
 箱館奉行
 堀利煕の従者として
 蝦夷地
 箱館(函館市)に赴き、
 樺太探検に参加
 安政三年(1856年)
 長崎海軍伝習所に入所
 西洋の学問や
 航海術
 舎密学(化学)などを学ぶ
 文久二年(1862年)9月
 内田恒次郎・赤松則良・澤太郎左衛門、
 「西周助」らと共に長崎を出航してオランダ留学
 文久三年(1863年)4月
 オランダ・ロッテルダムに到着
 元治元年(1864年)2月
 赤松則良とともに
 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
 を観戦武官として経験
 後、エッセンのクルップ本社を訪れ、
 アルフレート・クルップと面会
 幕府が発注し、当時オランダで建造中の
 軍艦
 「開陽」に搭載する大砲を注文
 最終的に
 「開陽」には
 18門のクルップ施条砲が搭載
 オランダで
 国際法や軍事知識、
 造船や船舶に関する知識を学んだ
 慶応三年(1867年)3月
 「開陽」と共に帰国
 慶応三年(1867年)10月14日
 徳川慶喜が大政奉還
 榎本の率いる幕府艦隊は
 兵庫沖に結集し、
 停泊していた薩摩藩ら他藩海軍に圧力をかけていた
 慶応四年(1868年)1月3日
 鳥羽・伏見の戦い
 戊辰戦争が始まった
 幕府艦隊は大阪湾に停泊、
 1月4日
 阿波沖海戦で薩摩藩海軍に勝利
 鳥羽・伏見の戦いで
 旧幕府軍が敗北
 榎本は1月6日午後、
 幕府陸軍と連絡を取るため大坂城へ入城
 徳川慶喜はその夜、大坂城を脱出
 1月7日朝、
 榎本不在の旗艦「開陽」に座乗、
 1月8日朝に江戸へ引き揚げた
 後に残された榎本は
 矢田堀景蔵と共に、
 榎本は大坂城内にあった
 18万両を
 「富士丸」に積み、
 旧幕府軍側の兵士達と共に江戸品川沖へ撤退
 撤退後、徳川家家職の
 海軍副総裁に任ぜられ、和泉守を名乗る
 幕府海軍総裁であった
 矢田堀は、新政府側へ恭順の慶喜に従ったが
 榎本派は徹底抗戦を主張し幕府海軍を抑える
 榎本は小栗忠順などと共に主戦論を主張
 同年四月十一日
 新政府軍は江戸城を無血開城
 幕府海軍艦隊を引渡すことを要求
 榎本は拒否し、悪天候を理由に
 七隻を連れて
 品川沖から
 安房国館山に退去
 勝海舟の説得により
 四隻(富士・朝陽・翔鶴・観光)だけを
 新政府軍に引渡し、
 「開陽」等主力艦を温存
 五月
 徳川家は
 駿河、遠江
 七十万石に減封
 艦隊は徳川家臣団の
 駿府移封の作業に従事
 徳川家が約八万人の幕臣を養うことは困難となり、
 榎本は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、
 北方の防備と開拓にあたらせようと画策し、
 朝廷に対して
 「蝦夷地殖民認可の嘆願書」を提出
   ↓
 蝦夷地殖民は拒否
 徳川家臣団の駿府移封が完了後
 再び幕府艦隊の引渡しを要求され、
 榎本は8月19日
 抗戦派の旧幕臣とともに
 「開陽、回天、蟠竜、千代田形、
  神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸」の
 八艦から成る
 旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出
 東征軍に抵抗する
 奥羽越列藩同盟の支援に向かった
 若年寄・永井尚志、
 陸軍奉行並・松平太郎
 彰義隊の
 大塚霍之丞・丸毛利恒
 遊撃隊の
 見勝太郎・伊庭八郎
 旧幕府軍事顧問団の一員だった
 ジュール・ブリュネ
 アンドレ・カズヌーヴ
 らフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船
 出港翌日
 暴風に見舞われ艦隊は離散、
 清水沖に流された
 咸臨丸は新政府軍に発見され拿捕
 咸臨丸・美賀保丸の2隻を失う
 九月中旬
 仙台東名浜沖に集結
 榎本は庄内藩支援のために
 千代田形
 と
 陸兵約100名を乗せた
 運送船2隻(長崎丸・太江丸)を派遣
 奥羽越列藩同盟は崩壊し
 米沢藩、仙台藩、会津藩
 が降伏
 庄内藩も援軍が到着する前に降伏
 榎本は、幕府が仙台藩に貸与していた運送船
 太江丸、鳳凰丸と、
 桑名藩主・松平定敬、
 歩兵奉行・大鳥圭介、
 旧新選組副長・土方歳三
 らと旧幕臣からなる
 伝習隊、衝鋒隊、
 仙台藩を脱藩した
 額兵隊などの兵、約2,500名を吸収して、
 十月十二日
 仙台を出航
 途中、幕府が仙台藩に貸与して
 海賊に奪われていた
 千秋丸を拿捕し、
 さらに宮古湾に寄港し
 旧幕臣の保護を旨とする
 嘆願書を新政府に提出して、
 蝦夷地を目指した。
 十月十九日
 蝦夷地
 箱館北方の
 鷲ノ木に上陸
 十月二十六日
 五稜郭を占領
 十一月一日
 榎本は五稜郭に入城
 十二月
 蝦夷全島平定が宣言
 「蝦夷共和国」を樹立
 十二月十五日
 「入札(選挙)」実施により総裁
 江差攻略作戦で
 「開陽」が座礁事故により喪失
 翌明治二年(1869年)二月
 局外中立の米国は、新政府支持を表明
 幕府が引渡未了だった当時最新鋭の
 装甲艦
 「ストーン・ウォール」は
 「甲鉄」と命名され、新政府へ引き渡される
 榎本は「甲鉄」を
 移乗攻撃(アボルダージュ)で奪取する奇策を実行
 至近距離まで第三国の国旗を掲げて接近し
 至近距離で自国の旗に切り替える
 騙し打ちを計画し
 榎本はこの作戦を
 「回天」、「幡竜」、「高雄」の
 3艦を当て
 「回天」の艦長の
 甲賀源吾を任じた。
 同艦には
 土方歳三も座乗
 暴風に見舞われ、
 「幡竜」は離脱、
 「高雄」も機関が故障
 「回天」1艦のみでの突入
 幕府海軍はガトリング砲の砲火を浴び、
 占拠に失敗、甲賀艦長も戦死
 (宮古湾海戦)
 同年五月十七日
 自軍兵士の逃亡、
 新政府軍工作員による
 弁天台場の火砲破壊、
 箱館湾海戦による全艦喪失
 榎本は降伏
 榎本は、
 オルトラン著
 『万国海律全書』
 (自らが書写し数多くの脚注等を挿入)を
 蝦夷征討軍海陸軍総参謀
 黒田了介に送った
 黒田は榎本の助命嘆願活動により
 東京丸の内
 辰の口の牢に投獄
 福澤諭吉も助命に尽力
  ↓
 明治五年(1872年)一月六日
 榎本は特赦出獄
 同年三月八日
 黒田清隆(了介)が次官を務める開拓使に
 四等出仕として仕官
 北海道鉱山検査巡回
 明治七年(1874年)一月
 駐露特命全権公使
 同年六月
 サンクトペテルブルクに着任
 翌明治八年(1875年)八月
 樺太・千島交換条約を締結
 マリア・ルス号事件で
 ペルー政府が国際法廷に対し日本を提訴した件で、
 ロシア皇帝アレクサンドル2世が
 調停に乗り出したことから、
 同年六月
 サンクトペテルブルクでの裁判で勝訴
 駐露公使就任にあたって、
 海軍中将に任官
 駐露大使時代は
 サンクトペテルブルク
 地学協会に加盟していた
 明治十一年(1878年)
 シベリア経由で帰国
 シベリアに対し精細な科学的な視察を行い、
 「西伯利亜日記」を記す
 帰国後
 外務省二等出仕、外務大輔、議定官、海軍卿、皇居御造営御用掛、皇居御造営事務副総裁、駐清特命全権公使、条約改正取調御用掛等を歴任
 明治十八年(1885年)
 内閣制度の成立後
 6つの内閣で
 逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任
 文相・外相の前後に枢密顧問官就任
 日清戦争の戦時内閣時
 農相在任は三年余
 農商務大臣時代
 足尾鉱毒事件について
 予防工事命令
 現地視察
 国が対応すべき公害であるとの立場を明確にし
 大隈重信らにその重要性を説諭、
 鉱毒調査委員会を設置し、
 自身は引責辞任
 明治二十三年(1890年)
 子爵
 大日本帝国憲法発布式で
 儀典掛長を務めた
  ↓
 北海道開拓に関与した経験から、
 明治二十四年(1891年)
 徳川育英会育英黌農業科(東京農業大学)を創設
 黌長
 明治十二年(1879年)
 渡辺洪基らと共に
 「東京地学協会」を設立し、副会長
 明治二十一年(1888年)~同四十一年(1908年)まで
 電気学会初代会長
 を務めている。
 明治32年(1899年)4月
 黒田の娘と
 榎本の長男が結婚
 明治四十一年(1908年)
 死去、享年73。
 墓所は東京都
 文京区の
 吉祥寺
ーーーーー
 明治二年(1869年)
 十一月二十二日に
 黒田清隆(了介)は
 十六歳の
 「中山清(せい)」と結婚・・・
 ・・・榎本のために「丸坊主に剃髪」した「黒田の娘」って・・・「梅子」・・・
 子供に恵まれず
 清の妹
 「百子」を養女した
 百子は成人後に
 陸軍軍人の
 黒木為に嫁いだ
 清(せい)は
 二十四歳の若さで
 肺の病により亡くなったとされるが、
 黒田が殺害との風聞・・・
 その後、
 黒田は41歳で
 材木商
 丸山伝右衛門の娘
 「滝子」と再婚
 娘の
 「梅子」
 と
 嗣子の
 黒田清仲・・・・・独身のまま32歳で逝去
 を授かり、
 「梅子」は
 榎本武揚の長男
 榎本武憲と結婚
 黒田清仲には嫡子がなかったため、
 黒木為の三男の
 黒木清を養嗣子とした
ーーーーー
 ・・・


 

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塵労・・・除雪労使・・・落雪・落氷・・・骨折り損

2015-01-09 18:42:26 | 古事記字源

 ・・・重い雪・・・入口、玄関、表道、横道、裏道を塞いでいるユキ・・・雪投げが「しんどい」・・・「塵労(ジンロウ)」ではなく、肉体的な「労働の辛さ」である・・・「炭鉱ガス爆発」は「炭塵爆発」でもあった・・・「1912年4月29日 - 夕張炭鉱で爆発事故(死亡276名)」、「夕張炭鉱(第二斜坑ほか)にて4月と12月に爆発事故。それぞれ死者276人、216人」、「12月23日 - 夕張炭鉱で爆発事故」・・・1912年・・・埃及(エジプト・Egypt)・・・「チリ」が及ぶ・・・地理・治理・智利(República de Chile・Republic of Chile=智加⇒チイカ=西川如見『増補華夷通商考(1708年,宝永五年)』・・・
 「夕張炭鉱は開山当時からガス爆発事故が続出。多数の死者及び死者数に劣らない規模の一酸化炭素中毒患者を出してきた。特に、第二次世界大戦以前の過酷な環境下で発生した事故の記録は散逸・風化しており、詳細な事故の状況や死者数は把握できない」・・・風塵化・・・
ーーーーー
 「労」=苦労して働く・骨を折る・骨を折らせる・働かせる・ねぎらう。なぐさめる」
 「いたわる=労る」・・・
 「弱い立場にある人などに同情の気持ちをもって親切に接する。気を配って大切に世話をする」
 「労をねぎらう・慰労する・手当てを加える・養生する」
 「犬馬の労」
 「労の概念」は中国漢代にまで遡ることが知られ、居延漢簡の中にも登場している。積労(労の積み重ね)・年労は官人の勤務評価の材料として考慮された。日本の律令制にも導入され、
 「勤務年数の意味」を指していた。
 「労」が持つ漢字的な意味は
 「手柄・功労」でもある
 ・・・中国語の「労使」は「扱(こ)き使う」である・・・
  ↓
 「労(ろう)」とは
 律令制の官人が
 官職に勤務すること
 及びその
 勤務期間を指す。労効(ろうこう)ともいう
 特定の官職における勤務期間を
 年労(ねんろう)とも称した。
 積労(労の積み重ね)・年労は
 官人の勤務評価の材料として考慮された
 日本の律令制にも導入され、勤務年数の意味
  ↓
 功労
 征夷・造営・造寺・献納などの
 功績によって叙位・昇進が行われる
ーーーーー
  ↓
 「塵労」って調べると、
 「世の中・俗世間における煩わしい苦労」、
 「仏語。煩悩(ぼんのう)・塵労は心を疲れさせるものの意。 煩悩(ぼんのう)の異名」って、説明されてあった・・・「仏語」は「仏蘭西語=フランス語」じゃぁないよなッ・・・いずれも「ぽち・プチ・ブツ」だが・・・
 「塵=鹿+土」の「労」・・・「鹿」は「王」の比喩なら「塵・ちり・ジン」は「鹿土=王土」・・・「鹿」=「しか・か・ロク」・・・
 「鹿」=「广」+「コ‖(角)」+「比」
     マダレの コジ(ツノ)を   比べる
     比=上の牝
     トの一の匙、七、匕(首)=短刀
     「广(ゲン・ゴン)」
     广部(げんぶ・まだれ)=高い屋根の形象
           「麻」の 垂 ( たれ )・・・? 
     广=「|(丿・丶)
         +
        厂(カン・ガン・がけ・がんだれ)」
     广=「広・廣」の略字 
     準備する、用意する
     治める、管理する
     房屋=母家の両わきの小部屋・寝屋・厨房
     房=糸を束ねて、先端を散らし垂らしたもの
       花や実が群がり生じて垂れているもの
       二十八宿の一・東方の第四宿
       蠍座の頭部にある四星
       そいぼし・房宿
  ↓
 塵(ちり)は、一般に、
 ホコリや目に見えない微小な砂などの
 粒子(リュウシ)
    龍氏→龍の子→芥川龍之介?
  ↓
 塵(ごみ) - 価値のない邪魔なもの →ゴミ · 塵(ちり) - 細かいくず、粒子、ほこり。細かなゴミ
  ↓
 ごみ(塵=芥)・・・「芥」は芥川の「アクタ」
 利用価値のないこまごました汚いもの
 ちり。あくた。塵芥(ジンカイ→塵灰)。
  ↓
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
 塵の用語解説
 仏教用語
 六境
 すなわち・・・・・・?・・・砂(素名)の和知
 感覚器官の対象である
 色,声,香,味,触,法のことで,
 真実の心性を
 けがすことから
 塵と呼ばれている
 ・・・
  ↓
 塵も積もれば山となる
 塵
「塵埃(じんあい)」
 ちり。ほこり。 汚れ。また、汚れたもの。
 特に俗世間的なもの
 「塵芥(じんかい・ちりあくた)」
 ごみ。 つまらないもの、軽いもののたとえ
 「塵界(じんかい)」
 ちりのような汚れた世界
 俗世間
  ↓
 「塵外(じんがい)」=俗世間から離れた所
  ↓
 「和光同塵(わこうどうじん)」
  非常にすぐれた者が
  市井の塵と同じ塵になって生きていくという
  老子の境地は
  「宗謙」にあっては逆で、
  そのことが
  くやしい(口惜しい・悔しい)という意味
  ↓
 「宗謙」って、ダレ・・・?
  ↓
 尾形宗謙
 江戸前期の書画家・商人
 京都生
 尾形宗伯の子、光琳・乾山の父
 初名は主馬、
 字は子伯、
 号は浩斎
 屋号は
 「雁金屋」
 尾形家四代宗甫の末弟でその跡継ぎ
 東門院の呉服御用
  ↓
 石井宗謙
 寛政八年(1796)~文久元年(1861)
 江戸時代後期の蘭方医
 長崎で
 P.F.シーボルトに学び
 天保三年
 美作(みまさか・岡山県)
 勝山藩医となる
 岡山で開業し
 シーボルトの娘
 「楠本いね」に
 産科をおしえ
 「いね」との間に娘
 「たか」をもうけた
 のち江戸詰めの勝山藩医
 安政二年
 箱館奉行所通詞
 安政三年
 蕃書調所に出仕
 文久元年5月23日死去
 66歳
  ↓
 笠松宗謙・・・?・・・笠松謙吾
 鶏肋集(ケイロクシュウ)
 刊行年月
 明治42年
 1911年12月18日
 丸山新十郎の編輯
 西園寺公望への岡千仭の評あり
 1839~1872
 幕末の尊攘運動家
 天保九年十二月生まれ
 生家は越後(えちご・新潟県)
 頸城郡
 小猿屋村の庄屋
 江戸で
 安積艮斎(あさか-ごんさい)に、また
 昌平黌(しょうへいこう)で
 藤森弘庵らに学ぶ
 文久元年(1861)帰郷して塾をひらき
 尊攘派とまじわり
 長谷川鉄之進らをかくまう
 戊辰(ぼしん)戦争では新政府軍に協力
 明治四年
 川浦郷学を創立
 明治五年2月18日死去
 35歳
 名はのち宗謙
 字は士恭
 号は蜂嶺
  ↓
 「塵離垢(おんじんりく)」
 「鏤塵吹影(ろうじんすいえい)」
  ↓
 「一塵法界」
 「塵一つの中にも、
  物事の真理が含まれていること」
 「法界」は、「全宇宙」
  ↓
 「後塵を拝する」
 車馬が通り過ぎた後に
 土誇り(埃)を浴びて見送る意味から、
 人に先を越されて遅れをとることをいう
 すぐれた権力者に追従すること、
 人にこびへつらうことのたとえとしてもいう
  ↓
 「浅草公園」
 著者、「芥川竜之介」
 「遠眼鏡《えんがんきょう》、双眼鏡《そうがんきょう》、廓大鏡《かくだいきょう》、顕微鏡《けんびきょう》、塵除《ちりよ》け目金《めがね》などの並んだ中に西洋人の人形《にんぎょう》の首が一つ、目金をかけて頬笑・・・」
 ・・・「目金(モクキン・モクコン)」って、「夏目漱石」の「金之助」の「キン」ちゃんの「目」・・・?
ーーーーー
  ↓
 夏目漱石(金之助)の
 長編小説『行人』は、
 「友達」
 「兄」
 「帰ってから」
 「塵労」
 の4つの編から成り立っている
ーーーーー
  ↓
 しんどい・・・
 「しんど」の形容詞化・主に関西地方で用いる
 骨が折れる。つらい。くたびれる
  ↓ 
 「しんどい」とは、
 心の疲れた様子を表す「心労(しんろう)」という言葉が変化したもの
 「心労」が変化したという説以外に、
 ひどい苦労という意味の
 「辛労(しんろう)」が変化したという説
  ↓
 くたびれた様子、疲れた様
 「しんろう・・・しんろ・・・しんど」
 ・・・「しんどい」は「心度意(心の程度)」、「震度畏(地震の揺れ怖さ、恐怖)」、あるいは「辛土肥」かも・・・
 「草臥れる(くたびれる)」・・・草に臥す
 悄気る(しょげる), しんどい.
 粗末(そまつ), 箍が緩む(たががゆるむ)
、「だるい」「しんどい」
 「えらい」「きつい」
 「こわい」・・・北海道弁?・・・
         体が疲れた、体が辛い、息が苦しい
         「怖い・おそろしい」は
         「おっかない」・・・
         「おっかな‐びっくり」
         「こわがって、びくびくしながら
          事をするさま」
         「おそるおそる・こわごわ」・・・
         蝦夷地
         古代の呼称は「渡嶋(わたりのしま)」
         音威子府(おといねっぷむら)村
         から中川町方面に
        「松浦武四郎 北海道命名の地」
         入り口の看板
         松浦武四郎(1818~1888年)
         6度、蝦夷地を調査
         1857(安政四)年に
         天塩川の流域を調査
        「音威子府(おといねっぷむら)」村で
         アイヌ語の「カイ」が
        「この土地で生まれた者」であるコトを知り、
         1869年に
        「北加伊道」と命名提案し
         武四郎の案をもとに
        「北海道」と改称
        「おといねっぷ」は・・・多分、
         音 威子 府
         音問い音(子・根・値)
             通符・・・だろう・・・
          ↓
        「蝦夷人のみ、そぎな、し、たる
         天塩川(てしおがわ・テンエンセン)
         今宵ぞ 夏(なつ・カ)の
         とまり、をば、しる」・・・?
         歌碑の「文の区切り」は、ボクの妄想?
          ↓
         1869年1月(明治元年12月)
         旧幕府軍が五稜郭を占拠し
         榎本武揚を首班とする
        「蝦夷共和国」が成立、
         翌年にかけて新政府軍との間で
         戊辰戦争の一
         箱館戦争が戦われた
  ↓
 be tired
 be exhausted〈つらい〉
 hard
 exhausting
 しんどい仕事
 a tough job
 tired
 frazzled
 tiresome
 worrisome
 bothersome
ーーーーー
 ・・・数字の単位・・・
 「零、一(壱・壹)、十(拾)、百(佰・陌)、千(仟・阡)、万(萬)、億、兆、京、垓、(禾+予)、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数」・・・
 一より小さい数・・・
 0.1から十分の一ごとに、
 「分、厘、毛、糸、忽、微、繊、沙、塵、埃、渺、漠、模糊、逡巡、須臾、瞬息、弾指、刹那、六徳、虚空、清浄」
 「0.000000001」=一塵」、「0.0000000001=一埃」・・・「ダスト(dust)」・・・出すト・・・拿素賭・・5×3、15(位置拾語)・・・
  ↓
 一塵不染 (いちじんふせん)=物欲のゴミに塗れず
 一塵法界 (いちじんほっかい)=一塵からも悟り
 遠塵離垢 (おんじんりく)=煩悩の迷いを断ち切る
 客塵煩悩 (きゃくじんぼんのう)=欲は客の塵から
 校書掃塵 (こうしょそうじん)=終わることは無い
 木端微塵 (こっぱみじん)
 恒沙塵数 (ごうしゃじんじゅ)=ガンジス河の無数の砂
 塵羹土飯 (じんこうとはん)
     =子供の遊びにおける塵の飯や泥の吸い物の意
      実際には役に立たない物、
      とるに足らないもののこと(韓非子)
 塵垢粃糠 (じんこうひこう)=ふけ
 塵思埃念 (じんしあいねん)
 塵飯塗羹 (じんぱんとこう)
 吹影鏤塵 (すいえいろうじん)=無駄な努力
 滄海揚塵 (そうかいようじん)
 甑塵釜魚 (そうじんふぎょ)=極貧で食うものが無い
 超軼絶塵 (ちょういつぜつじん)=非常にすぐれていること
 超塵出俗 (ちょうじんしゅつぞく)
 軟紅車塵 (なんこうしゃじん)=にぎやかな都会
 風塵外物 (ふうじんがいぶつ)
 風塵之会 (ふうじんのかい)
 風塵表物 (ふうじんひょうぶつ)
 風塵僕僕 (ふうじんぼくぼく)
 風塵碌碌 (ふうじんろくろく)
 奔逸絶塵 (ほんいつぜつじん)
 望塵之拝 (ぼうじんのはい)
 六塵不染 (ろくじんふせん)
 ・・・「塵芥集(じんかいしゅう)とは、陸奥国の戦国大名、伊達氏が制定した分国法。天文五年(1536年)に、伊達稙宗によって制定された。条文はおよそ170条に及び、分国法中最大の規模。体裁に御成敗式目の影響が見える他、殺人・強盗など刑事に相当する部分に詳細な規定があること、また地頭の支配権が広く認められている」・・・
 生口という特殊な制度があり、伊達家が犯罪捜査をしない為、被害者が自ら捕まえなければならなかった。冤罪の場合は50日以内に真犯人(むかい生口)を生きたまま連れて来なければならなかった。
 蔵方乃掟(くらかたのおきて)は、塵芥集に先立って
 天文二年三月十三日(1534年)に出された
 質屋関係の
 法令13条であり、
 塵芥集が出された後も補助法として存続した。
 期限計算や質物の損壊、
 利子計算、
 質物が盗品であった場合の
 規定などが定められている。
ーーーーー
 ・・・伊達藩・・・宮城(みやぎ・キュウジョウ)、岩手(いわて・ガンシュ)・・・球状の癌痘・・・九条の願主・・・

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「音数」分解と、「文素得」分解・・・

2015-01-07 17:21:12 | 古事記字源

 ・・・「コトバ」は伝染するけれど、その意味内容の認識は「アイマイ・ミィ」である・・・「エリィ」さんはエライなぁ~・・・毎度、随分と同じようなコトを書き込んでいる、ナッ・・・書いている自分自身も読み返して、あれ、あれってワラちゃうけれど、自分自身の記憶の世界の枠内での再確認だろうとは思うけれど、まとまりの無い文章には自分も「?」で、コイツはナニを云いたいんだか、と理解に苦しむ部分も多い・・・
 まぁ、書き込んだものはメモ程度のモノ・・・だとは思っているが、そのメモの意図内容自体もすっ飛んで、コレって「?・・・?」と、しばらく考え込んでしまう。
 新しい何かを展開すればイイんだろうけれど、脳ミソが飽和状態。しかも知識と言っても理解度は浅く、アバウトで、厳密、緻密ではない・・・
 中学校に入学してから以後、「勉強⇒試験」と言えば、一夜漬けがほとんどだったが、不思議なコトに小学生までは「学校の授業」だけでコト足りた。一夜漬も、予習も復習もあんまりしたことがなかった。記憶、暗記授業の各小学校の「偏差値」はあったろうが・・・中学校での最初の数学試験の点数結果を知って、子供ながらに真っ青・・・「一夜漬」はガンバったが・・・
  a( x + y) = ax + ay
 因数分解の
  ax + ay = a(x + y)、
 や
 (m+a)(m+b)= mm+am+bm+ab
 因数分解の
 mm+am+bm+ab= (m+a)(m+b)
    ↓
   mm+10m+24
 を因数分解
  mm+10m+24 = (m+□)(m+△)
 とすると□と△には
 掛けて「24」、
 足して「10」
 掛けて「24」になるのは
 1×24, 2×12, 3×8, 4×6
 足して「10」になるのは「4+6」
  mm+10m+24 = (m+4)(m+6)
 「mm」は「二乗(冪乗・ベキ乗)」
 となる・・・はナンとか理解できたが
 A2+2AB+B2 = (A+B)2 =(A+B)(A+B)
 A2-2AB+B2 = (A-B)2 =(A-B)(A-B)
 「A2」と「B2」、
 「(A+B)2」と「(A-B)2」
 の「2」は「二乗(冪乗・ベキ乗)」
 なんで?、「2AB」がでてくるんだか・・・
   (A±B)
 × (A±B)
  ̄ ̄ ̄ ̄縦掛けならば、「±2AB」が出てくる・・・?
 A2+2AB+B2 = (A+B)2
 A2-2AB+B2 = (A-B)2
  ↓
 ムズカシイ本の難解文字に遭遇しても、前後の文章で勝手に理解。あるいは理解放棄・・・
 小説、物語はなんとなくワカッタ気分、ましてや専門書、学術書のたぐいの理解はほとんどがアウトライン的理解か、行き詰まって、後で読むさッて、積ん読・・・
 だから、その後、曖昧なコトバを思い出しては、辞書、辞典、百科事典の同じ箇所を幾度も索引するが、すぐ忘れる・・・これさえあれば記憶する必要もない、又、引けばイイ、と・・・虎の巻・・・今現在はコンピュータでの辞書、辞典、百科事典・・・概念内容の暗記、記憶なんかは電脳まかせ。
 キィさえ叩けば、本も字書も本屋も必要ない。文字の記憶も暗記も・・・概要さえ解かればイイ、と・・・
 そして、モニター画面からは興味のある文字や文章が次から次と視覚に侵入してくるし、記憶曖昧な文字も出てくるからドウしようもない・・・理解するには別の頁を開けて辞書、辞典、百科事典・・・書き込みの重要なトコロは「コピペ」で、すマス・・・基本概念、相互共通理解概念、一般理解としての書き込み記録は「安全」・・・
 だが、ところが、そうが問屋が卸さない・・・「一概念」に多数の説明。「一事象、一事件」の異説もワンサカと多い・・・理解は推理、推測、憶測、妄想、空想。理解度は「確率分母範囲の分子部分の%」・・・
 それにしても、コンピュータを発明し、進化させた人間もスゴイけれど、あらゆる情報をコンピュータに記憶させた個々人としての人間はスゴイなァ~ッ・・・
 兎に角、人間生活、文明文化、イイもワルイも「数字記号」の発明と「数字の計算」の発明、その「かず」を駆使したモノ造り、改造、改作がスベテである・・・「数学」・・・ボクには「文字コトバ・音声コトバ」と同様に理解しがたいが、数字の単純な「加減乗除」の計算結果はアイマイではない。
 だが、「函数・関数・function・y = f(x)・変数 y を x を独立変数 (independent variable) とする関数 f・x = a を代入したときに決まる関数の値」・・・曖昧なコトバの範疇に「確率論」などという「数字の操作」を持ち込んだ人間・・・「確率」とは「分母存在」の「部分変化・過程変化」の「分子存在」の「人間認識」であろう・・・「人間認識」には「限界」がある・・・モチロン、個々人の「認識」には「偏差」があるのはアタリマエである・・・
 それにしても、
ーーーーー
  ↓
 「オイラー自身は、変数や定数を組み合わせてできた数式の事を関数と定義していたが、コーシーは上に述べたように、y と言う変数を関数と定義した。
 y が x の関数であることの別の表現として、
 変数 y は
 変数 x に従属するとも言い、
 y を従属変数 (dependent variable) と言い表す。
 独立変数がとりうる値の全体(変域)を、
 この関数の定義域 (domain) といい、
 独立変数が
 定義域のあらゆる値をとるときに、
 従属変数がとりうる値(変域)を、
 この関数の値域 (range) という。
 関数の値域は
 実数 R や
 複素数 C の部分集合であることが多い。
 値域が実数の集合となる関数を
 実数値関数 (real valued function) といい、
 値域が複素数の集合となる関数を
 複素数値関数 (complex valued function) という。
 それぞれ定義域がどのような集合であるかは問わないが、
 定義域も値域も実数の集合であるような関数を
 実関数 (real function) といい、
 定義域も値域も複素数の集合であるような関数を
 複素関数 (complex function) という」
ーーーーー
 ???・・・理解しづらいのは「数式」以前に「漢字の意味」である・・・もっと言えば「ニホン語」である・・・?
 ボクに理解できるのは、「関数」を「函数」とし、「函=箱⇒( )」として理解した場合である・・・「箱( )の中の数」は「x」・・・「xの数」が決まれば「yの数」も決まる・・・その「関係」の記号が「=・等しい」である・・・
 f( )=函の中の数・・・
  ↓
 「ブラックボックスモデルによる説明」
  ↓
 「関数は入力と出力が定義されたブラックボックスとして説明される・・・「ブラックボックス」=「fの( )」・・・
 y = f(x)
 例えば120円のジュースを自動販売機で購入することを考えよう。
 ここで投入する金額が
 入力、・・・・・・・・・・ f(x)のx
 ジュースとお釣りが
 出力である・・・・・・・・y
 更に
 同一の金額でも様々な組合せがある。
 120円といっても
 10円玉12枚、
 50円玉1枚と10円玉
 7枚など組み合わせがあるが、
 自動販売機内部では
 硬貨が違っても
 金額が同じなら全て同一と見なされる、
 つまり
 入力が変化しても・・・・・・・・・・f(x)のx
 出力が一定である・・・・・・・・・・y
 がこれも関数である・・・・・・・・・f()
 これは
 数学的には定数関数と認識される」
 ↓
 での、「ウイッキペデア」の・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%95%B0_(%E6%95%B0%E5%AD%A6)
 記述説明の部分ダケ・・・あとはの部分は・・・ボクの理解能力では、かなり「?」・・・で、アルかな・・・
 

コメント
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