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コジキジゲン

遼・女真・匈奴・金・・・

2018-01-18 23:06:25 | 古事記字源

 ・・・「ひとえ=一重=単」・・・ひとえに=偏に=一重 (ひとえ)+に」・・・「ただそのことだけを・いちずに・ひたすら」・・・「御贔屓 (ごひいき) のほどを偏(ひとへ)にお願い申し上げます」・・・「原因・理由・条件などが、それに尽きるさま・もっぱら」・・・「高麗屋」・・・歌舞伎の源流は「高麗」・・・「女形(おやま・ジョケイ)=おんながた・旦(タン)=恩(音)名臥多」・・・「京劇(キョウゲキ・Jīng jù=ジンジュウ)」の「旦(Dàn・ダン)=女性の役・4種類の老旦=老女、しわがれた声で台詞(科白・セリフ)を言う。青衣=しとやかな女性、花旦=溌剌とした若い女性、武旦=立ち回りを専門とする女性で、刀馬旦とも」・・・「音揃(おんぞろ・おとまえ)」ですか・・・「怨揃」かも・・・「意味揃」って?語彙・・・単語の検索は「音揃」・・・
ーーーーー
 「単語・單語」・・・word・vocabulary
 そのものだけであること
 重ならないであること
 花びらが重なっていないこと=単弁
 一片の椿 (つばき)
 一重瞼 (まぶた) の略
 単物 (ひとえもの)
 単(ひとえ・いち・ただ・タン・ゼン・セン)
 單(旧字体・繁体字)、单(簡体字)
 単衣
 春秋時代に存在した諸侯国
 単物(ひとえもの)
 裏地のつかない着物
 江戸時代には麻地の物を帷子 (かたびら)
 絹や木綿地の物を単と呼んだ
 短銃・瓢箪・炭住・・・?
 「単(ツ+甲+一・ツ+田+十)」は
 「單(口+口+甲+一・口+口+田+十)」の略字
 「先端が両又になっている弾(はじ)き弓」の象形
 「弾(はじ)く=弓+単(單)」
 「ひとつ・ただひとつ・ひとり(単体・単品・単語)」
 「ひとえ(そのものだけであること・単衣)=襌(ふんどし)」
 「尽きる・尽くす」
 「書きつけ(文書)・カード(伝単)」
 「まこと(本当)・まことに」
 「厚い・厚くする」
 「たんに(ただ)」
 「めぐる・めぐらす」
 「単于(ゼンウ)=匈奴(キョウド)の王の名前」
 「匈奴=中国の秦・漢時代にモンゴル高原に
     いた遊牧騎馬民族」
ーーーーー
 「後漢書の楊彪伝」
 「楊彪」が
 「曹操」に対して
 「金日磾」の故事を念頭に置いて
 「私には金日磾のような先見の明も無い」と述べた
  ↓↑
  金 日 磾
 (キンジツテイ)・・・金の日の「磾=石+口+口+田+十」
 前漢の政治家
 匈奴族の人・・・匈(勹凶)の奴(女又)
 武帝に仕え
 金姓を賜った
 註釈に
 「二人の子供が居て武帝に可愛がられたが
  宮女をたぶらかす所を見て息子を自ら殺した」
 という故事が記録
 「楊彪」が
 「曹操」に対して
 「金日磾」の故事を念頭し
 「私には金日磾のような先見の明も無い」と云った・・・
  ↓↑
 金日磾
 紀元前134年~紀元前86年9月
 字は翁叔
 前漢の
 匈奴系の政治家
 匈奴の
 休屠王の太子
  ↓↑
 漢の
 武帝により
 金姓を授けられた
 紀元前121年春
 驃騎将軍の
 霍去病は
 1万騎を率いて
 匈奴討伐に出征で
 連戦連勝
 河西地域にいた
 休屠王
 と
 渾邪王
 の部族と戦い
 休屠王が
 天を祭るために用いていた
 黄金の像を手に入れ
 同年秋
 休屠王と渾邪王は漢に投降することを画策
 漢は霍去病を彼らの迎えに派遣
 休屠王は後、投降をためらい
 渾邪王が休屠王を殺した
 渾邪王は
 4万人の匈奴と
 休屠王の太子を率いて投降
 武帝は
 渾邪王を列侯に封じ
 14歳の休屠王の
 太子(日磾)とその家族は官奴とされ
 太子(日磾)は馬番にされたが
 武帝は
 身長が8尺2寸という日磾の風格と容貌を見初め
 馬監とし
 次に
 侍中駙馬都尉
 光禄大夫
 とし
 武帝の近侍臣になった
  ↓↑ 
 休屠王が
 天を祭るために用いていた
 黄金の
 像(金人)にちなんで・・・「子牛or子羊」だろう?・・・
 武帝から
 「金」という姓を賜った
 金日磾の母は人徳者で
 武帝は感心し、彼女が病没すると
 甘泉宮に
 休屠王の妻(金日磾の母)の絵を展示
 金日磾は毎日、母の肖像画に祈り、黙祷
 金日磾は武帝から宮女を賜ったが
 金日磾は彼女に近づこうとしなかった
 武帝は
 彼の女を後宮に入れようとしたが
 金日磾は応じようとしなかった
 金日磾の2人の子供は
 武帝の寵童となったが
 成長するに従い
 武帝の頭を抱えるような狼藉を働くようになり
 長男は宮廷の女官をたぶらかすようになったので
 金日磾は彼を殺した
 当初武帝はそれを怒ったが
 金日磾と話し
 誠実で忠義な人柄を改めて知り
 罪に問うことはなく
 信頼するようになった
 紀元前91年
 江充・戻太子
 劉拠の事件が勃発
 後
 武帝
 前漢の第七代皇帝
 平陽公主ら3人の同母姉がいる
  ↓↑
ーーーーー
 武帝
 中国の皇帝の諡号の一つ
 武力を以て国土を広げた皇帝
 戦乱を平定した皇帝に送られる
 諡号
 武帝というと
  ↓↑
 前漢の武帝
 西晋の武帝
 三国時代の
 魏の武帝
 梁の武帝
 南越の武帝(趙佗)
  ↓↑
 前漢の武帝(孝武帝・劉徹・在位紀元前141年~紀元前87年)
 三国時代の
 魏 の武帝(曹操へ曹丕(文帝)が追諡
 西晋の武帝(司馬炎・在位265年~289年)
 五胡十六国時代の
 成漢の武帝(李雄・在位304年~334年)
 五胡十六国時代の
 後趙の武帝(石虎・在位334年~349年)
 南朝の
  宋の武帝(劉裕・在位420年~422年)
 南朝の
  斉の武帝(蕭賾・在位482年~493年)
 南朝の
  梁の武帝(蕭衍・在位502年~549年)
 南朝の
  陳の武帝(陳霸先・在位557年~559年)
 北周の武帝(宇文邕・在位560年~578年)
 後唐の
  太祖武帝(李克用へ荘宗、光聖神閔帝(李存勗)が追諡
ーー↓↑ーー
 王朝 前漢
 在位期間
 前141年3月9日~前87年3月29日
 姓
 諱 劉徹
 諡号 孝武皇帝
 廟号 世宗
 生年 前156年
 没年 後元二年二月十五日(前87年3月29日)
 父 景帝
 母 王氏
 皇后 陳皇后
    衛皇后
 陵墓 茂陵
 年号
 建元 : 前140年~前135年
 元光 : 前134年~前129年
 元朔 : 前128年~前123年
 元狩 : 前122年~前117年
 元鼎 : 前117年~前111年
 元封 : 前110年~前105年
 太初 : 前104年~前101年
 天漢 : 前100年~前 97年
 太始 : 前 96年~前 93年
 征和 : 前 92年~前 89年
 後元 : 前 88年~前 87年
  ↓↑  ↓↑
 景帝の十男(九男とも)
 魔除けのために悪字
 「彘(テイ・ブタの意)」の幼名を与えられた
 四歳
 膠東王(山東省の王国)に封ぜられた
 先に皇太子に立っていた
 栗夫人が生んだ
 長兄の
 劉栄(栗太子・臨江閔王)を押しのけて
 十六歳で即位
 太皇太后の
 竇氏が即位当初は実権を握っていた
 皇后は伯母の
 館陶公主
 劉嫖(景帝の同母姉)が産んだ
 陳皇后(元勲・陳嬰の孫の堂邑侯陳午の娘)
 である
 (このいとこ同士の夫婦の仲は険悪で
  祖母の竇太皇太后が亡くなると
  近侍の張湯の助言で離縁)

 呉楚七国の乱
 有力な封王が倒れ
 武帝は中央集権への移行を目指し
 諸侯王が
 自分の領地を
 子弟に分け与えて列侯に
 封建するのを許し(推恩の令)
 諸侯王の領土は細分化

 郷挙里選の法
 官吏任用法を採用
 各地方郷里の有力者とその地方の太守が話し合って
 当地の才能のある人物を推挙するもので
 武帝は
 儒教の教養を身につけた人物を登用
 董仲舒の献策
 五経博士を設置
 儒教を官学とした
 
 外征
 「文景の治」による蓄積を背景に
 宿敵、匈奴への外征を開始
 高祖
 劉邦が
 冒頓単于に敗れて以来
 漢はその孫の
 軍臣
 単于が君臨する匈奴に対して
 低姿勢で臨んでいた
 武帝は反攻作戦を画策
 匈奴に敗れて西へ落ちていった
 大月氏へ
 張騫を派遣
 大月氏との同盟で
 匈奴の挟撃を狙った
 同盟は失敗
 後の対匈奴戦に大きく影響
 武帝は
 衛青とその甥の
 霍去病の
 両将軍を登用し
 匈奴に当たらせ
 匈奴を打ち破り
 西域を漢の影響下に入れた
 更に
 李広利に命じて
 大宛(中央アジアのフェルガナ地方)を征服
 汗血馬を獲得
 南越国に遠征し
 郡県に組み入れ
 衛氏朝鮮を滅ぼし
 楽浪郡、
 漢四郡を朝鮮に設置
 前漢支配は最大版図
 匈奴打倒を達成し
 武帝は泰山に封禅の儀式で
 自らの功績を上天に報告
 
 外征中に『史記』の著者
 司馬遷が
 李陵を弁護し
 死刑を命じられ
 減刑の
 宮刑
 李陵の妻子を
 皆殺しにした事件
 
 財政面
 外征や不老長寿願望等から来る奢侈
 国庫は空っぽ
 塩鉄の専売
 増税
 貨幣改鋳
 で民衆が流民化、各地に反乱誘発

 後半期に
 各地で反徒や盗賊の横行
 武帝は
 酷吏という法律至上の官僚を要職に就け
 父帝の代からの
 寧成、義縦、張湯、王温舒、杜周
 を重用し取り締まりに当たらせた
 酷吏の重用による厳罰主義

 太子の反乱
 江充は当時
 皇太子であった
 戻太子
 劉拠に恨みを買っていたため
 武帝死後に戻太子に誅殺される事を恐れ
 武帝を呪い殺そうとしているという疑惑を
 戻太子に被せて殺そうとした
 劉拠は江充を殺し囚人を武装させて挙兵
 武帝は丞相の
 澎侯・劉屈氂(武帝の甥で、中山王劉勝の子)
 に鎮圧させた
 劉拠は逃亡し後に自殺 or 殺害(巫蠱の獄)

 「巫蠱の術」
 人形に呪いたい相手の名前を書き込み
 土に埋める
 「巫蠱の罪で処刑された者の多くは冤罪」
 劉屈氂はその嗣子の妻が
 弐師将軍・李広利の娘だったため
 李広利の妹が産んだ
 昌邑王・劉髆を太子にすべく巫蠱を行った
 それが仇となり
 劉屈氂と李広利の一族は誅殺
 外征中だった李広利は
 匈奴に投降し政敵に殺害・・・

 末子の劉弗陵(後の昭帝)を皇太子とし
 霍光・金日磾・上官桀
 の三人に後を託し直後に死去

 二十四節気の中気を用いて
 閏月を定める置閏法を採用し
 太初暦をつくり
 中国や日本の
 太陽太陰暦での
 月名基準となっている
ーーーーー 
 陳皇后(後に廃される)
 衛皇后(後に廃される)
 夫人王氏
 姫李氏
 夫人李氏(皇后の位は死後追贈・反魂香、「傾国」出典)
 婕簱尹氏
 鉤弋夫人(趙婕簱・皇后の位は死後追贈)
 子女
 戻太子 劉拠
 斉懐王 劉閎
 燕剌王 劉旦
 広陵窅王 劉胥
 昌邑哀王 劉髆(海昏侯劉賀の父)
 昭帝 劉弗陵(または劉弗)
 富利公主(戻太子の姉)
 陽石公主(同上)
 諸邑公主(同上)
 蓋鄂邑公主(燕剌王・広陵窅王の姉)
ーーーーー
 紀元前八十八年六月
 金日磾は
 江充の親友だった
 馬何羅らが武帝を暗殺しようと企て
 馬何羅を格闘の末に捕らえた
  ↓↑
 金日磾は
 自分が漢人ではなく
 捕虜としての
 匈奴であったので・・・「匈奴」であるコトは
             二重国籍の「帰化人」・・・
 慎重だった
  ↓↑
 紀元前87年
 武帝は崩御・・・「武帝はファラオ」
 武帝は病床に
 霍光、金日磾、上官桀
 の3人を呼び寄せ
 昭帝を補佐するよう後事を託した
 霍光は当初
 金日磾に
 昭帝補佐の地位を譲ろうとしたが
 金日磾は
 「私は外国人です。
  そんなことをすれば
  漢は匈奴に軽んじられます」
  ↓↑ ・・・外国人「移民」です
  ↓↑    アメリカの白人は
        ACJKRに
        侮られます
        土着「先住民」です
        アメリカの移民の白人は
        虐殺の連続で
        Iに
  ↓↑    怨まれています・・・
 といって拒否し
 霍光の補佐となった
 霍光は大司馬大将軍
 金日磾は車騎将軍・・・エジプト宰相のヨセフ?
 上官桀は左将軍
 となった・・・
 金日磾は
 昭帝が即位して1年後の
 紀元前86年9月
 死没
 死ぬ直前の病の床で
 列侯(秺侯)に封じられ
 死後に敬侯と諡
 武帝の墳墓である
 茂陵の近くに埋葬
 列侯は子の
 金賞が継承し
 金賞および弟の
 金建
 は昭帝と年が近く
 昭帝と寝起きを共にした
 金日磾の弟
 金倫は黄門郎となったが早死
 金倫の子である
 金安上
 以降になって栄えた
 後漢末の
 金旋
 金禕
 父子は
 金日磾の末裔
  ↓↑
 大唐故金氏夫人墓銘(韓国)
 文武王陵碑
 新羅の
 各種
 金石文では
 金閼智
 以降の新羅王たちが
 「金日磾」の末裔と自称・・・「匈奴の末裔」・・・
 歴史事実として
 新羅王家が
 「金氏」を称したのは6世紀のこと
 それ以前の新羅王家の
 「金」という姓は
 「金日磾の子孫」だという系図詐称の付会説・・・?
ーーーーー
 「相意清掛句等」・・・日清製粉のカップメン・知金等蛙女務・・・チキンラーメン・・・
  ↓↑
  愛 新 覚 羅 溥傑
 (あいしんかくら ふけつ
  アイシンギョロ・プギェ
  Ai sin-gioro- pu-giye)
 1907年4月16日~1994年2月28日
 愛新覚羅溥儀の実弟
 清朝
 地位は醇親王継嗣
 満洲国軍人
 陸軍中校(中佐)
 中華人民共和国では
 全国人民代表大会常務委員会委員
 全国人民代表大会民族委員会副主任
 立命館大学名誉法学博士
 書家
  ↓↑
  愛 新 覚 羅 溥儀
 (あいしんかくら ふぎ
  アイシンギョロ・プーイー
  aisin  gioro  pu i)
 1906年2月7日       ~1967年10月17日
 1906生年 丙午(丙・ ・丁)合火 丁未(丁・乙・己)
 0002生月 庚寅(己・丙・甲)合火 庚戌(辛・丁・戊)
 0007生日 辛巳(戊・庚・丙)害  甲寅(己・丙・甲)
      申酉=空亡
          59~69・・正官 丙申(己・壬・庚)
      劫財⇔正官       刑沖
                  合刑破
 大清国第十二代、最後の皇帝
 (在位、1908年12月2日~1912年2月12日)
 後に満州国執政
 (1932年3月9日~1934年3月1日)
 皇帝
 (在位、1934年3月1日~1945年8月18日)
 1964年から
 中華人民共和国中国人民政治協商会議全国委員
 清朝皇帝時代
 宣統帝
 辛亥革命後
 遜清皇室小朝廷として
 大清皇帝の尊号で保護されるも
 張勲復辟事件で復位して
 12日間で再び退位
 北京政変で追われて
 天津の日本租界で日本政府の庇護を受けて
 満洲国の執政に就任
 帝政移行後の
 大満洲帝国で皇帝即位
 康徳帝と称し
 満州国軍大元帥
 満州国協和会名誉総裁
 などを兼任
 大満洲帝国の崩壊とともに退位
 赤軍の捕虜
 中華人民共和国に引き渡され
 撫順戦犯管理所からの釈放
 北京植物園に勤務
 晩年には満州族の代表として
 中国人民政治協商会議全国委員に選出
 字は耀之
 号は浩然
 辛亥革命後の呼称
 廃帝と国民党政府から呼ばれる一方
 旧清朝の立場からは
 遜帝(遜=ゆずる)とも
 末代皇帝(末帝)と呼ばれる場合もある
 唯一火葬された皇帝のため
 「火龍(龍は皇帝を指す)」
 とも呼ばれる
  ↓↑ 
  婉 容
 (えんよう・Wǎn róng)
  1906年11月13日~1946年6月20日)
 満州国の皇后
 清朝最後の皇帝(宣統帝)
 満州国皇帝(康徳帝)の
 愛新覚羅溥儀の正妃
 実家の姓から
 ゴベイル(郭布爾)皇后・・・「郭布爾」?⇔「郭務悰」?
 とも呼ばれる・・・
ーーーーー
 ・・・「郭布爾」?⇔「郭務悰」?・・・

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葉酸(ヨウサン・ヴァイタミンmonkey)・・・バァイタミン・Caesar?

2018-01-17 23:49:38 | 古事記字源

 ・・・認知症(ボケ)には「緑(綠)酸」ではなく「葉酸(ヨウサン・ヴァイタミンM)」がイイらしい・・・「活性酸素を発生させるホモシステインというアミノ酸を抑える」らしい・・・そうです、脳(腦)ミソの「𡿺」、悩(惱)みの「𡿺」・・・「邕=巛+口+巴」のカンジにもコダワル・・・「邕」、洪水で押し流された「邑=阝=むら=村」なのか、温泉が噴出した「邑=阝=むら=村」なのか、「邕」の字形は「巛(カワの水流が)+口(河口で)+巴(トグロのような渦をまいている)」ような形象の様に思えるが・・・「α+𡿺(巛囟・ツ囟)=ノウ=能生=脳=腦・匘・瑙・碯・悩=惱」・・・「囟(ひよめき・シ・シン)=赤ちゃんの完全に閉じきっていない頭蓋骨の隙間」・・・「閃(ひらめき)」でなく、「囟(ひよめき)」である・・・「悩む」の本字は「㛴=女+𡿺(説文・巻十ニ)らしく、意味は「恨む所有るなり・今、汝、南の人、恨む所有るを㛴と曰ふ」らしい・・・ナゼ、「悩=㛴」で「女+𡿺」なんだか?・・・
 「脳(ノウ)=月(肉)+⺍+凶=腦=月(肉)+巛+囟
        異体字は腦・匘・堖・脑・𠜶・𠟞・𡍗・𦛁
            𦛳・𦛴・𦝶・𦞄・𦠊・𦠤・𦭣・𩩀」
 「ノウ」・・・異体字がアリすぎ・・・
 「囟=頭(あたま)の鉢(はち)の形」・・・
 「囟=ノ+龱」・・・
 異体字=𠈀・𠔋・𠙷・𠚁・䏤・𦞤・𩒦・䪿・𩔙・顖・𩕄・𦥓
 声 符は「囟」・𠈈・𨑋・𥿳・𢍱・䢉・𣳦
 熟 語は「囟上(説文解字)・頭會、匘蓋(ノウガイ)なり
      象形、凡そ囟の屬は皆な囟に従ふ」・・・
 「脳・悩」の「ツ+凶」が「𡿺」なら
 「匈奴」の「匈=勹+凶」と云う漢字は
 「勹+囟(ノ+龱)=ひよめき・シ・ジン」だったかも・・・
ーーーーー
 「蔡邕」って、「蔡倫」の血統?
  ↓↑ ・・・(50年?~107年?、121年?)
         後漢の宦官・桂陽(湖南省耒陽市)生まれ
         字は敬仲
         後漢は外戚と宦官の間で
         国家権力掌握を激しく争い
         鄭衆と蔡倫はその初期の人物
         和帝のとき尚方令 (帝室技芸長官)
         元興一(105)年
         竹木簡、白絹などに代えて
         樹皮、麻頭、魚網、襤褸(ボロ)などから
         紙をつくり献上
      ・・・「和帝(和綴)」に「紙(神)」の
  ↓↑     「献上(権丈)」・・・?
      そもそも「蔡=艹+祭」とは
     「蔡=法則・のり
        占いに用いる大亀(蔡龜)・・・差異の化目
        異体字は𣞖」
     「春秋時代の列国の一
      周の
      武王が弟の
      叔度(シュクタク)を
      ・・・叔(上の亅の八の又)を「度(はかる)」
      蔡に封じた国(河南省上蔡県西南)
  ↓↑  前447年、楚の恵王に滅ぼされた」
 「蔡邕の《独断》の著」には
 「臘は年末の大祭」
 「應(応)劭の《風俗通》」には
 「《礼書》曰く
  臘とは
  もともと
  鳥獣を狩り祖先に捧げ祭る風習」
 「臘は、引き継ぐ時であり
  古きを祭り以前の功を報告し
  新旧を引継ぐ」・・・
  ↓↑
  希臘(ギリシャの漢字名)
  上臘(臈)=ジョウロウ=上﨟・上臘
     安居(アンゴ)の功を積んだ年数を数える語
     﨟を積んだ高僧・位の高い僧
     年功を積んだ地位、身分の高い人
   臘(﨟)=仏教において僧侶が比丘としての
        具足戒を受けてからの年数を数える単位
        夏臘・法臘・戒臘・法歳(ほうさい)とも
     臘=中国において冬至の後の
       第三の「戌の日(臘日)」に
       行なう猟の獲物を先祖百神に供える祭り
      (臘祭)
  蠟石=蝋石
  鑞接(ロウセツ)=金属を接合する方法・熔接の一種
  蜜蝋=蜂蝋=ビーズ-ワックス(Bee's Wax)
   蠟=虫+巤(鼡・鼠)・・・鼡=ツ+几+十+一
                鼠=臼+レ+:+レ+:+レ
      「巤」は鬣(たてがみ)を有する獸が
          タテガミを靡(なび)かせる様
       巤=簡体字は蜡
         異体字は䗶・蝋
         慣用字は蝋
         声 符は巤・儠・䝓・臘・鬣
             擸・邋・㲱・獵・鑞
             鱲(からすみ・リョウ)=魚+巤
              ボラ(鯔)やサワラ(鰆)などの
              卵巣を干した食品
   蝋=年をとること・年寄り
     律令制で61~65歳まで
     (後、60歳~64歳まで)の者の称
  蝋=蠟=虫+甾(巛+田・巛+囟)
              巛+囟・・・惱=悩
     =ロウ(ラフ)=みつろう・ワックス
      蝋燭 (ろうそく)・鯨蝋・屍蝋・蠟涙・蠟梅鼡
      封蝋・蜜蝋・木蝋
      蜡人蠟人形
      戸籍法上の字体は「蠟」
  ↓↑
  猎=犭+昔(艹一日)
    鳥獣を捕る、狩る
    打猎・射猎
    あさる・捜し求める
    涉猎
    中国語の猎
    狩猟をする
    猎虎=虎狩り
    打猎的猟師
    狩猟用の猎枪(猟銃)
    猎刀(狩猟刀)
    猎狗(猟犬)
 ↓↑
 「蔡邕」・・・「邕=巛+邑」
 後漢の「蔡邕」
 北方の玄武、
 甲殻類の長
 後漢のころに
 名前は玄武
 領地は北方
 玄武=亀と蛇が交わり武となる
 「蔡邕」の文芸は
 詩・賦・碑・誄・銘・贊・連珠・箴・吊・論議
 に及び
 「独断・勧学
  釈誨・敘楽・・・釈誨・・・知らない者に教える註釈
           誨淫 (カイイン)・教誨・訓誨
  女訓・篆芸」・・女を訓むって、何が記録されてんだかは?
          序文(古事記)の「訓読み」である?
 などの著作
 他に
 「祝文・章表・書記」など
 およそ104篇(後漢書・蔡邕伝)
 蔡邕が収集した漢史の史料
 「李傕の乱」によって多くが失われ
 元々は東観において
 盧植・・・盧(鸕)を植(得重留)・・・鸕野讃良=持統天皇
 馬日磾(バ ジツテイ)・・
 ↓↑  馬の日の磾・・・
      金日磾(キンジツテイ・紀元前134年~紀元前86年9月)
      字は翁叔・前漢の匈奴系の政治家
      匈奴の休屠王の太子
      漢の
 ↓↑   武帝により「金姓」を授けられた?
 ↓↑   馬姓と金姓で「名が同じ」の別人?
 らと共に行われていた
 『漢記』の撰補は戦乱と関係者の死去などで
 中断されていたが
 「建安」年間に入って・・・建の安(案・按)?
 「楊彪」の手により・・・・楊の彪(龍虎)・・・柳拠
 最後の編纂が行われ
 「東観漢記」となった・・・
 後漢末の文化人
 阮瑀・・・阮の瑀・・・阜の元、王の禹(ウ)
 王粲・・・王の粲・・・王の「しらげよね=白飯・飯(いい)」
               搗(つ)いた白米
 路粋・・・路の粋・足の各の純粋・抜粋・・・粋=米+九+十
 などは「蔡邕」の門下生
 ↓↑
 「蔡 邕(サイヨウ)」
 132年or133年~192年
 後漢末期の政治家 ・儒者・書家
 字は伯喈(ハクカイ)
 兗州陳留郡圉県の人
 父は蔡棱
 娘は蔡琰
 従弟は蔡谷
 外孫は
 「羊徽瑜(西晋の景献皇后)」・・・羊の徽の瑜
 ↓↑
 「羊 祜(ヨウコ)」・・・羊を示す十(拾・足)の口
 ↓↑                咩(ビ)=口+羊・・・
       ヒメ(媛・日女・比売・比咩・姫)
       貴族や領主の女性名に付けられる尊称
       女性首長(酋長)を表す尊称
 ↓↑    咩=miē=擬声語=羊の鳴き声「メエー」
 221年~278年
 中国三国時代~西晋の武将
 字は叔子
 曾祖父は羊儒
 祖父は羊続
 父は羊衜(上党太守)
 母は「蔡邕の娘」
 伯父は羊秘(京兆太守・妻は蔡氏)
 叔父は羊耽(泰山太守・妻は辛憲英)
 異母兄は羊発(母は孔融の娘)
 同母兄姉は
 羊承
 羊徽瑜(司馬師の妻、献皇后)
 妻は夏侯覇の娘
 伯母(一説には母)は蔡琰
 ↓↑
 「陸抗VS羊祜」の関係・・・謙信が信玄に塩を贈る?
 いかなる政治的な先入観にも囚われない?
 「私的な交誼」を表す「羊陸之交」・・・「刎頸之交」?
 「戦争の戦略・戦術=与えるdamage
          =死を賭けている=国家の存亡」としては
 「美談」は「欺瞞」である・・・
 NKもSKも「欺瞞」である・・・Olympicも欺瞞である・・・
 ↓↑
 邕=川+邑(むら)
   雍=亠+幺+隹
     「雝=邕+隹」の略体
     「雝=隹(とり)+邕(ヨウ)」の会意兼形声文字
     「邕=川+邑(むら)」
        川で囲まれた集落
        囲んで家禽を守ること
        平和であること
 ↓↑
 邕
 邑=阝(おおざと・むら)
     ヨウ
   周囲を川や堀で囲まれた都市
   ふさぐ・周囲を囲って封じ込める
   やわらぐ・なごむ
   古の「雍」と同義
     「和睦・和諧」・・・諧謔だろう?
   古の「壅・堵塞」と同義
     ・・・土手(堤)で水害を塞(ふさ)ぐ
ーー↓↑ーー
 「宇文邕=武帝」
  ↓↑
 北周の皇帝
 在位期間 560年5月31日~578年6月21日
 姓・諱は宇文邕
 字は爾羅突・・・ジラトツ・ニラトツ?
 諡号は武皇帝
 廟号は高祖
 大統九年(543年)
  ~
 宣政元年六月一日(578年6月21日)
 父は宇文泰
 母は叱奴太后
 皇后は阿史那-皇后・・・阿史那=あしな=蘆名・足名・葦名
            Athens=アテネ=雅典=当て音
 陵墓は孝陵
 年号 保定=561年~565年
    天和=566年~572年
    建徳=572年~578年
    宣政=578年
 后妃
 正室は「阿史那」皇后
 側室は
    「李皇后・庫汗姫・馮姫・薛世婦
     鄭姫(北斉の南陽王、高綽の寡婦)
 子は
 宇文贇(宣帝)
 宇文贊(漢王)
 宇文贄(秦王)
 宇文允(魯王)
 宇文充(趙王)
 宇文兌(蔡王)
 宇文元(荊王)
ーーーーー
 ・・・「宇文 化及(ウブン カキュウ)」は「隋」の政治家、軍人・隋末の混乱期に禁軍を伴って宇文智及らと煬帝を弑殺し、独立して皇帝を僭称・「許を建国」・宇文智及、宇文恵及の兄、宇文士及の異母兄」・・・
 「宇文一族とは無関係」?
ーーーーー
 ・・・?
 陳曉東《突然心動》
 MV
 宇文邕 篇
「蘭陵王」插曲
 陳曉東
 ↓↑
 突然心動
 電視劇 蘭陵王 插曲
 作詞:二水
 作曲:孔凡東
 編曲:孔凡東
 ↓↑
 一朵夕陽斜斜掛在巷口,・・・朶・垂れさがった枝?
 我俳佪在你家的門口,
 有些話已經蠢蠢欲動,
 我只想你一人懂,
 不想別人在我的眼中。
 ↓↑
 一片落葉落在我的胸口,
 我才知道,已到深秋,
 我一直用心在播種,
 你淺淺的一個笑容,
 讓我魂牽夢繞在其中。
 ↓↑
 我為你心動,被你感動
 你的笑容,像天邊的彩虹,
 我說過永遠,不是衝動。
 我會珍惜關於你的每一分鐘。
 ↓↑
 突然心動,有你不同
 我的天空,過濾掉了傷痛。
 我說過永遠,當然管用
 我讓瞬間停在我心中。
 ↓↑
 我說過永遠,當然管用
 我讓瞬間停在
 我心中・・・
 我心中・・・
 我心中・・・
 u ummmm…….
 我心中・・・
ーーーーー
 初代皇帝
 孝閔帝
 宇文覚は
 補佐役で従兄でもある
 宇文護の専横を排除しようと図って
 廃位され、殺害
 後を継いだ庶長兄の
 明帝
 宇文毓
 も
 宇文護によって暗殺
 明帝の遺言で
 宇文邕(武帝)
 が即位
 外交
 南朝の陳とは友好関係
 東の北斉には攻略攻撃
 突厥と同盟し
 北斉を攻撃
 儒教・仏教・道教
 の討論会を数次に開き
 儒者・僧侶・道士の指導者たちに行わせ
 その優劣を競わせていた(三教談論)
 ・・・信長の法華宗と日蓮宗の宗教論議・・・
 天和七年(572年)
 長安に戻った
 宇文護を誅殺
 親政を開始
 建徳三年(574年)
 道教、仏教を廃止
 仏教・道教の研究機関としての
 「通道観」を設置し
 120名の
 「通道観学士」を選任
 寺院の破壊と財産の没収
 僧侶の還俗を行って財産を没収し
 税賦を逃れる目的で僧籍に入る者を
 還俗させて税を取ることで
 財政改善を狙った
 (三武一宗の廃仏)・・・奈良時代の僧侶還俗政策
 建徳二年(573年)
 陳の
 宣帝
 陳頊が
 名将
 呉明徹を遣わし
 北斉軍を討ち破り
 寿陽など江北の九郡を奪った
 陳の攻撃で弱った北斉に
 武帝は
 建徳四年(575年)
 北斉へ攻撃
 建徳五年(576年)
 平陽と晋陽を奪い
 建徳六年(577年)
 首都の
 鄴を包囲
 後主
 高緯や皇族たちは逃亡
 青州で捕虜とし北斉を滅ぼし
 北魏の東西分裂以来
 四十数年ぶりに
 華北統一
 武帝は
 最後まで北斉に忠実だった者は厚遇し
 李徳林を法律制度整備に重用
 宗教政策
 旧北斉領内でも仏道二教の廃毀を断行
 武帝親政
 周礼を理想とし
 一方で
 鮮卑への復古も標榜する
 北周朝の政策に則って
 仏道二教を廃止したが
 廃仏により
 仏罰を受けたとする説話が流布
 元来の教団規模が仏教に比して
 小規模であり
 道教教団では
 道教の外護者であり
 通道観においても
 道教の経典研究を行い
 道教典籍を編纂
 「道蔵」中に収録
 『無上秘要』という道教類書

 宣政元年(578年)
 彭城で陳軍を破って
 呉明徹を捕らえ
 武帝は呉明徹を
 懐徳公に封じ厚遇
 同年、突厥に親征を企てたが
 出発後に罹病し崩御
 享年36(満34歳没)。

 阿史那(アシナ)皇后
 551年~582年
 北周の武帝の皇后
 突厥の出身
 突厥の
 木汗可汗の娘
 木汗可汗は
 柔然を滅ぼした後
 ゴビ砂漠以北の土地の多くを支配
 西魏の
 宇文泰は
 東魏や北斉と争うため
 木汗可汗の援助を借りた
 北周の
 武帝が即位すると
 北周と突厥の間に数回の使者の往来があり
 彼女が
 武帝の許に嫁ぐことが決められ
 565年2月
 北周の
 陳国公
 宇文純
 許国公
 宇文貴
 神武公
 竇毅
 南安公
 楊荐
 ら120人が
 彼女を迎えるため
 木汗可汗の牙帳に赴いた
 木汗可汗は
 北斉に対しても娘の婚姻を約束
 宇文純らは信義を説いて
 履行を求めたが
 木汗可汗は履行せず
 たまたま落雷と大風が起こって
 木汗可汗の穹廬を
 突風が吹き飛ばし
 木汗可汗はこれを
 天の譴責であると考え
 礼をもって彼女を送りだした
 568年3月
 彼女は長安に到着
 武帝に迎えられて
 婚儀を挙げ
 皇后に立てられた

 578年5月
 宣帝が即位し
 皇太后に立てられ
 579年2月
 称号を
 天元皇太后と改められ
 580年2月
 天元上皇太后と改められた
 5月
 宣帝が死去
 静帝により
 太皇太后に立てられ
 582年4月23日
 32歳で死去
 諡を徳(夫の諡を被せて武徳皇后と号)
 隋の文帝は礼をもって
 彼女を葬るよう命じ
 4月29日に孝陵に合葬
ーーーーー
 邕江=広西、チワン族自治区にある川の名
    広西チワン族自治区南寧の別称
    広西南寧の別称
    邕剧広西チワン族自治区の
    粤(エツ)語による地方劇
 ↓↑
 邕=巛+邑
   声符「邕」、雝(ヨウ)
   「蔡邕」
   陽嘉一(132)~初平三(192)
   後漢
   陳留圉(ギョ)県(河南省) の人
   建寧三 (170) 年
   霊帝の郎中
   東観で書物の校定に従事
   熹平四 (175) 年
   諸経の
   文字平定を奏請し
   みずから書して
   石に刻み
   太学の門外に立てた
  「熹平石経 (キヘイセッケイ) →石経」
   のち中傷されて流刑
   大赦にあったが帰らず
   呉に十余年を過した
   中平六(189)年
   董卓(トウタク) に召されて出仕
   侍御史、侍中から左中郎将
   董卓の誅死後、投獄
   獄中死
   朝廷の制度、称呼について記した
  『独断』
   詩文集
  『蔡中郎集』がある
   書法で
  「飛白体」を創始
  娘に詩人の
  「蔡琰(サイエン)」
 ↓↑ 
 字は伯喈(ハクカイ)
 琴の名手
 六経(リクケイ)の文字を校定
 自ら碑に刻した
 飛白(ヒハク)の書体を創始
 董卓(とうたく)の乱に連座し獄死
 著に「独断」など
ーー↓↑ーー
 印刷術は中国に始まった
 木版に文字を彫りそれに墨を塗り
 上から紙をあて〈バレン〉
 で文字を刷りとる方法
 活字印刷に対し
 整版と呼ぶ
 唐代(618~907)に始まった
 それ以前から
 印刷類似の方法が中国やオリエントで行われていた

 永字八法
 「永」の1字に包含
 「永」字によって運筆法を説いた
 来源には
 張旭説、智永説
 蔡邕
 王羲之説の3通り
 後漢の
 蔡邕が嵩山(スウザン)の
 石室で書を学び
 神授された
 蔡邕から
 崔瑗(サイエン)
 張芝
 鍾繇(ショウヨウ)
 王羲之を経
 王羲之七代の孫
 隋の
 智永
 に伝わり
 これを
 虞世南に授け伝わった

 琴操
 琴書
 後漢
 蔡邕(字伯喈、132~192)著
 古代の琴曲と作者を解説
 50曲の収録曲目
 歌詩五曲
 十二操
 九引
 河間雑歌
 に分け
 失われた4曲を除きすべて
 解題がほどこされている
 作曲年代は
 主として
 春秋戦国時代の作
 孔子や伯牙の作も収められている
 音楽的内容は不明
 《鹿鳴》《将帰操》《拘幽操》
 などは明代以後の琴譜に同名曲が収録

 石経
 儒教の根本聖典である
 経書の本文を
 政府の手で石に刻したもの
 儒教は中国の国教で
 経書は科挙の教科書
 太学(中央の国立大学)に立てた
 漢石経
 後漢末に経書本文に関する論争に決着をつけるため
 蔡邕が定本を作り
 文字を書いて石に刻した
 熹平四年(175)
 起工し
 九年目に完成
 熹平石経
 書体は隷書だけで書かれ
 一字石経ともいう

 「蔡琰」
 後漢朝の
 議郎(顧問官)
 蔡邕の娘
 文姫とは字ではなく
 文才のある女性という意
 衛道玠の妻だったが
 董卓の遷都の動乱に巻き込まれ
 後には
 北方の異民族の
 匈奴に連れ去られ
 そこで
 左賢王の妻となり
 二人の子供をもうけた
 蔡琰は
 『胡茄(匈奴の使う 楽器・笛)一八拍』
 という楽曲を作った
ーーーーー
 ・・・???・・・

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ホクソウ・・・ブンジシュギ・・・文辞・文字・文治?

2018-01-16 23:59:22 | 古事記字源

 ・・・火曜日、アレレレレッ・・・迷路にハマっちゃった・・・カンジ・・・「北宋」の勉強になっちゃった・・・王様も「文治主義」を通すのには苦労した・・・「神宗」、「王安石」・・・「司馬光」・・・「蔡確」・・・
ーーーーー
 「狄 仁傑」・・・狄(テキ)の仁(ジン)の傑(ケツ)
         狄は仁(にん)に傑(すぐれている)
         仁義=「他人に対する親愛の情、優しさ」
            「中国の伝統的な
             社会秩序=礼を支える
             精神、心のあり方」
            「惻隠の心=同情心(孟子)」
            「無意識の他利(孟子)」
            「大道廃れて仁義あり(老子)」
             ↓↑ 
            「仁=痛痒の知覚(程明道)」
               外的な肉体の動作機能は
               意思、意識が
               神経を通してなされる
             ↓↑
       程明道=程邕(テイコウ)
       1032年~1085年
       北宋時代の儒学者
       字は伯淳
       明道先生
       朱子学・陽明学の源流の一人
       弟の
       程頤
       とともに
       周敦頤に学び
       兄弟で
      「二程子」と呼ばれる
       王安石と対立
        ↓↑
       王安石
       天禧五年十一月十二日
       (1021年12月18日)
         ~
       元祐元年四月六日
       (1086年5月21日)
       北宋の政治家・詩人・文章家
       字は介甫
       号は半山
       撫州臨川(江西省撫州市)の人
       新法党の領袖
       神宗の政治顧問となり
       制置三司条例司を設置し
       新法を実施し、政治改革
       仁宗に上奏した
      「万言書」は名文
       唐宋八大家の一人
       儒教史上
       新学(荊公新学)の創始者
       『周礼・詩経・書経』に対する注釈書
       『三経新義』を作り、学官に立てた
        ↓↑
       王安石(ワン アンシー)の新法
       大商人・大地主達の利益を制限
       中小の農民・商人たちの保護
       その制度の中で政府も利益を上げる
       漢字の由来を述べた大著『字説』を著
       文学作品
       『臨川集』にまとめられ
       散文家として
       「唐宋八大家」の一人
       代表作は
       「万言書」
       「孟嘗君伝を読む」
       など・・・
        ↓↑
       1074年(熙寧七年)
       河北で大旱魃
       「新法に対する天の怒りである」と上奏され
       皇太后高氏
       宦官、官僚の強い反対により
       神宗・・・在位期間
       ↓↑   1067年1月25日~1085年4月1日
         姓・諱は
         趙仲鍼・趙頊(立太子時改名)
         諡号
         体元顕道法古立憲帝
         徳王
         功英文烈武欽仁聖孝皇帝
         廟号は
         神宗
         慶暦八年四月十日
         1048年5月25日
       ↓↑ ~
         元豊八年三月五日
         1085年4月1日
         父  英宗(長子)
         母  宣仁聖烈皇后高氏
         皇后 欽聖憲粛皇后向氏
         年号 熙寧1067年~1077年
       ↓↑元豊1078年~1085年
       は
       王安石の
       首席宰相解任、地方へ左遷
       安石の後を継いで新法を推し進めていた
       呂恵卿
       韓絳
       など
       新法派内部での分裂
       翌年に王安石は復職
       息子の
       王雱(オウホウ・1044年~1076年)
       が死
       1076年(熙寧九年)に辞職
       ↓↑
       元豊の改元
       神宗が直接統治で改革
       蔡確
       の登場で新法推進
       1085年(元豊八年)
       神宗、死去
       翌年に王安石も死去
       新法に大反対の
       皇太后により
       司馬光・・・「資治通鑑」の編者
       が宰相
       新法を廃止
       司馬光も死去
       新法と旧法の争いは
       党争に堕し、政治的混乱
ーー↓↑ーー
 ・・・「狄 仁傑」の「傑」だったが・・・名前の連鎖が「日本史」と関連するようで、気になったのだが・・・調べ出すとアッチ、コッチと検索が飛ぶ・・・何がマトだったんだか・・・
 「傑=人(イ)」が「背信(舛)」する「十八(木)」・・・
ーー↓↑ーー
 五代十国時代(907年~960年)
 唐の滅亡から
 北宋の成立までの間
 黄河流域を中心とした華北を統治した
 5つの王朝(五代)と
 華中・華南と華北の一部を支配した
 諸地方政権(十国)とが興亡
 ↓↑
 北宋(960年~1127年)
 趙匡胤が・・・趙=走+肖
 ↓↑       趨(はし)ること趙(おそ)きなり=遅い
          北征趙行の注は
          =猶、超騰のごとし=速い
          趙は「走る緩急の動作」・・・
          ミュージカルの趙飛燕・アムロ
        匡=糺す・・・国境を解放した「王」?
            ・・・城門を解放した「王」?
          枠の中に押しこめて形を元に矯正する
          型にはずれたものを型通りの形に修正
          背が曲がっているさま・・・
            枉=まがる=紆・・・
              勾(句・匂)玉
              勾=勹+厶
              勾股弦=三平方の定理
             (ピタゴラスの定理)
          春秋時代の衛の地
          河南省長垣県西南
          春秋時代の
          宋の地・河南省睡県西
          正す・匡正・匡輔
        胤=丿+幺+月(肉)+乚=たね・つぐ・イン
          儿+幺+月・・・「儿」が「育・肯・肓」
 ↓↑         ↓↑        ↓ ↓ ↓
              育児の育の上部(云・亠+ム)は
             「子を上下逆に書いた文字」?は
             「7(ワ・ク)+一(十・┰)」
              子を左右逆に180度回して見える文字
             「𠫓」⇔「ワ(ク・7)」+「┰(丅)」
          「云=亠+ム」=「𠫓」⇔ワ+一⇔ユ+৷
              膏肓=コウコウ⇔コウモウは誤読
                 膏は心臓の下部
                 肓は隔膜の上部
              肯定=肯=止+月(肉)
                 頷(うなづ)く
              首肯→「止=ト+丄(上)」の
                 「月(肉)」
                  止まった月(肉)?月宿
               肯=肎=骨についた肉
                 冖+月(肉)
                 ワのゲツ(解通)
                 ワのジク(字句)
              膏肓穴(コウコウケツ)
              足の太陽膀胱経に属す
              第43番目の経穴
          血筋・後継者・胤裔・後胤・落胤
          律令制で弾正台長官
 ↓↑       左右京職の長官の唐名
          胥吏(ショリ)=疋+月(肉)
          庶民でありながらも
          役人の仕事をする者
          正規の高等官僚としての官人と対応し
          両者を併せ、
         「官人」の「官」と
         「胥吏」の「吏」で
         「官吏」と呼ばれる・・・唐で「流外官」
          胥吏=俸禄無し必要経費的な名目で
             若干支給させる程度
             関係者から、斡旋、手数料を徴収し
             生計・地域での
             ヤクザ継承利権の温床
          手数料を「規例」や「陋規」などと呼び
          賄賂と明確な区分ができず
          庶民を搾取する結果となった
          王安石の新法など
          胥吏に俸禄を支給して
         「陋規」を禁止させる改革も試みられたが
 ↓↑       失敗・・・
 趙匡胤が
 五代
 最後の
 「後周」の
 柴宗訓・・・柴(しば)宗(そう)訓(くん)
 から      司馬・斯波・標葉・鳥羽・芝
        「宗(宀示)=総(糸ハム心)」を訓む
         宗=みたまや・おおもと・いえもと
         かしら・おさ・おもだった
         むね・・・統=すべる
 禅譲を受けて建国
 ↓↑
 「金」・・・金朝(1115年~1234年)
 ↓↑    中国の北半を支配した女真族の王朝
       国姓は完顔氏
       遼、北宋を滅ぼし
       西夏を服属させ
       中国南半の南宋と対峙
       モンゴル帝国(元)に滅ぼされた
       都は初め会寧(黒竜江省)
         後、燕京(北京)
      「金の始祖、函普は高麗からやって来た」
      「函普(カンプ)」は
      「阿骨打(アコツダ・女真音はアクダ)の7代祖
       女真-完顔部の先祖・金の始祖
 ↓↑    懿憲景元皇帝」・・・懿徳天皇⇔懿=壹+次+心
                 懿=十一冖豆冫欠心
                 懿=女性の徳を褒(誉)める語
                 第四代天皇
                 大日本彦耜友天皇=女王?
 ↓↑              大倭日子鉏友命=女王?
 に
 「開封」
 を追われて
 「臨安」
 に南遷した後の
 「南宋」と区別して「北宋」と記録
 ↓↑
 北宋期の首都は
 「開封」・・・記録、書簡の「開封=カイフウ=海風・界風」
        2017年のアメリカ政府の
        秘密文書の開封は「ケネデイ暗殺文書」・・・
        開封は安堵(安心)か、不安か、「臨む安」
 ↓↑

 位置関係(1111年)
  西夏  ⇔   遼(契丹・女真・金)・・・匈奴(前趙)
    \ 北宋 /↓↑
      南宋  高麗 ⇔ 日本
 ↓↑
 北宋-政和元年
 遼 -天慶元年(1111年)
 ↓↑
 北宋(開封)~南宋(臨安)
 社会・経済・文化は継続性・・・
 ↓↑
 北宋
 太祖(趙匡胤・兄)
 太宗(趙匡義・弟)
 真宗(趙恒)・・・澶淵の盟(景徳元年・1004年)
 仁宗(趙禎)・・・興元年・1022年・塩の専売制
          慶暦の治・印刷出版も活発
 英宗(趙曙・甥)・嘉祐八年・1063年
 神宗(趙頊・子)・・・王安石を宰相
 哲宗(趙煦・子)・・・元豊八年(1085年)・十歳
          英宗の皇后、宣仁太后が垂簾聴政
          ・・司馬光を宰相(元祐更化)
 徽宗(趙佶・弟)・・・元符三年(1100年)
         ・徽宗・蔡京
         宣和二年(1120年)・方臘の乱
        「水滸伝」の時代背景・・・
 欽宗(趙桓・子)・・・金の呉乞買(太宗)が侵攻
ーー↓↑ーー
 北方事情
 遼の支配下にあった
 女真族の
 阿骨打は
 遼を攻め
 1115年
 金を建国
 宋は
 重和元年(1118年)
 金に使者を派遣し
 金と共に遼を挟撃の盟約(海上の盟)
 宣和二年(1120年)
 方臘の乱が勃発し
 宋軍は出遅れ
 ↓↑
 宣和三年(1121年)
 両軍は遼を攻撃
 金軍は遼を撃破し
 遼帝天祚帝は逃亡
 宋軍は燕京に篭る
 耶律大石
 ら遼の残存勢力に敗北
 宋軍司令官の
 童貫は
 金の
 阿骨打に
 燕京の攻撃を要請
 阿骨打軍は燕京を攻め落し
 燕京は宋に引き渡され
 代わりに財物・民衆を全て持ちさった・・・
 ↓↑
 燕雲十六州の一部を取り返し
 宋は祝賀
 燕雲十六州全てを取り返したいと
 宋首脳部は
 遼の残党と手を結んで
 金を牽制し背信
 金の
 阿骨打が死去し
 弟の
 呉乞買(太宗)が跡を継ぎ
 宋の背信行為に
 金太宗は怒り
 宣和七年(1125年)
 宋へ侵攻
 童貫は軍を捨てて逃亡
 狼狽した徽宗も
 「己を罪する詔」
 を出して退位
 欽宗(趙桓・子)が即位
 ↓↑
 金軍が
 開封を包囲
 徽宗は逃亡
 欽宗は
 李綱などを採用し
 金の包囲に耐え
 金側は宋の義勇軍の力を警戒し
 欽宗
 に莫大な財貨を差し出すことを約束させ
 趙構(後の高宗)を人質として撤退
 包囲が解かれ
 開封に徽宗が帰還
 窮した宋は遼の残党と接触し
 再び金の怒りを買う
 1126年
 金は開封を再包囲して陥落させ
 徽宗・欽宗は北へ捕虜とされ
 二度と宋への帰還はできなかった
 4歳~28歳までの多くの
 宋室の皇女達が連行
 金の王族達の妾にされるか(入宮)
 洗衣院と呼ばれる売春施設に送られて娼婦とさせられた
 「靖康の変」・・・
 後、救援要請の使者として
 「靖康の変」時に城外にいた
 趙構が南に逃れて皇帝に即位し
 南宋(1127年~1279年)として復興・・・
ーーーーー
 ↓↑
 傑=イ+舛+木=イ+タ+ヰ+十+八
   すぐれる・ケツ
   ひときわ優れる
   傑作・傑出
   ひときわ優れた人
   傑物・英傑・怪傑・豪傑・俊傑・女傑
   舛=夕+ヰ=裏切る・背く・セン
   杰=傑
   すぐれる・ケツ
   亻+桀
   異体字、杰・桀・㘶・榤
   簡体字、杰
   声 符、 「桀」・磔
   熟 語、傑作・傑俊・傑出・傑句
   「人(イ)」+音符「桀」
   「桀=舛(左右の足)と木」で
   足を開いて木の上に晒す張り付け
   磔刑で「磔」の原字・・・キリストか、
               磔刑にされた各時代の犯罪者
   人が高く目立つところにいる
   すぐれて目立つモノ
ーーーーー
 ・・・???・・・

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「エルザ」の身罷り・・・

2018-01-15 22:18:06 | 古事記字源

 ・・・昨夜の19;30、「ダーウィンが来た!・白い狼」・・・生きるって、キビシイ・・・ 「エルザ」の身罷り・・・ボクがムカシ飼っていた牝猫「チコ」の娘、「チビ」も同じだった。チコの産んだ子猫の面倒に一所懸命だった・・・チコはボクの勉強机の下で身罷り、そして、チビもチコの後を追うように机の下で・・・「オス狼のアルファ、メス狼のスノーが率いる総勢14匹の群れ・・・スノーが新たに生まれた子供の狼を一緒に育てるのが群れを離れて帰って来たスノーの娘、エルザ」だった・・・名前がイイ、「エルザ (Elsa・ Elza)」なんて・・・「エルザ・アインシュタイン」って?・・・メスのライオンは、「野生のエルザ・エルザ(Elsa the lioness)」だった・・・原題の「Born Free」、「Living Free」、「Forever Free」って、何を意味しているんだか・・・「All people are born free.」って?、「Living alone might be stress-free.」はなんとなく、「Forever Free」って?・・・だいたいからして「Free」って「存在論」的には「存在しない?」である・・・
ーーーーー


 ・・・
 狛犬(こま犬)
 「左近の桜 右近の橘」
 「アシンメトリー(左右非対称)」の配列
 自然界に「左右同等の対称」は存在しない
 スベテは「近似値」・・・ニテイルだけである・・・
 「高麗」は中国では「カオリー」と発音するなら
 「カオリー犬」か・・・
 ↓↑
 狛犬
 右の獅子は雄
 左側の狛犬は雌
 狛犬の中には
 股間に男根や女陰を刻んだものもある
 ↓↑
 イシス女神
 両脇に二匹の対の番(つが)いの獅子
 二羽のフクロウ(梟・鴞・Minerva・ミネルバ)
 ミミヅク(木菟・木兎・鵩・鶹・鵂・角鴟・鴟鵂
      耳木菟・耳木兎)・・・「耳付く」?
 ↓↑
 狄 仁傑(テキジンケツ)
 630年(貞観四年)~700年(久視元年)
 高宗・中宗・睿宗・武則天に仕えた
 武則天の治世において
 最も信頼された
 宰相
 武則天に、文昌右相を贈られ、文惠と贈り名された
 ・・・「狄」の「仁傑」・・・
 ↓↑
 狄(テキ)=犭+火
       犭+α・・・「犭」は有りすぎて手にアマル・・・
       「犴=犭+干=中国北方に産する野犬
              拘置所・地方の牢屋
        犯=犭+卩
        狌=犭+生=猩=犭+星・・・黄鼠狼
        狇=犭+木=狇狫(ボクロウ)・山岳少数民族の名
        猪=犭+者・・・豬
        狼=犭+良
        狛=犭+白=狛犬・高麗犬
        狽=犭+貝=バイ・ハイ・・・狼狽
        狃=犭+丑=手懐(てなず)ける
        菏=犭+丸=ケキ・キャク・獣名
        猯=犭+耑=いのしし・まみ・タン
        獫=犭+僉=獫狁・玁狁
          中國北方、西北方の古代游牧民族
          活躍於西周中期
          「獫狁=犬戎=匈奴」同じ祖先
        猙=犭+爭(争)=伝説上の獣の名
          姿は豹に似て一本の角と五つの尾を持つ
          「狰狞=性格や姿形が凶暴そうなさま」
        獟=犭+堯=狂犬・凶暴な犬
        狹=犭+夾=せまい・キョウ・コウ・ギョウ
              せまい・せばめる・さ
        獞=犭+童=チワン族
             タイ系民族の名・現壮族の旧称
        狡=犭+交=ずるい
        独=犭+虫・・・獨=犭+蜀(いもむし)
        ↓↑↓↑
        狂=犭+王
          いずれ、「狂う」ってコト?
      =北狄=四夷の一つ
       北方の中原的都市文化を
       共有しない遊牧民族
       北方の民族は度々中原を侵略し
       北方異民族は総じて狄と呼ばれ
       北狄は蔑称の意味合い が強くなった
      「夷狄 (イテキ) ・戎狄 (ジュウテキ) ・北狄」
      「夷蛮戎狄(イバンジュウテキ)」
       中国周辺の四方にいる野蛮・未開の異民族
       東西南北にいる文明度の劣った異民族
      「東夷・南蛮・西戎・北狄」
      「犬戎族・匈奴」
      「テン(貂・黄鼬)
       哺乳綱ネコ目(食肉目)
          イヌ亜目
          イタチ科テン属
          エゾクロテン(蝦夷黒貂」
ーーーーー
 「犭+α」
 犯
 犲
 狂狃狆狄犹
 狎狗狙狛狒
 狐狢狭狡狠狩独
 狹狷狽狸狼
 猗猊猜猖猝猪猫猛猟
 猴猩猯菪猶猥
 猿猾獅獏
 獄
 獗
 獪獲獨
 獰
 獵
 獺
ーーーーー
 ↓↑
   「狛犬(こまいぬ)=貊犬=拒魔犬=高麗犬=胡摩犬」
    狛=狼の如く善く駆ける羊(説文)
    高句麗の訓読み「こま」
 日本人にとって、「獅子(しし)」と云えば
 「いのしし=猪=豬=猯」で、「亥」の十二支である・・・日本の京都、奈良からの方角は「北西」・・・「ヤマトタケル(倭建命・日本武尊)」は「五十葺山=膽吹山=伊服阜能山(古事記)」=「伊吹・伊夫伎=いぶきやま=意附紀?」山の「白い猪」の祟りにあって命を落した・・・しかも「白鳥」になって・・・何処へ逝ったんだろう・・・
 「日本書紀」は「白ヅくめ」で「日本武尊は信濃の山の神の白い鹿を蒜で殺し、白い犬に導かれ美濃へ。そして越を周った吉備武彦と合流し、尾張へ」・・・
 ↓↑
 「⺕」=けいがしら=彑頭=いのこがしら(豕頭)
     この「彐=彑=刀」は「猪の鼻」の形象らしい・・・
     「呼吸器官=鼻」・・・
     「鼻」から生まれたのは
     「須佐之男(古事記)
「素戔男尊(日本書紀)
素戔嗚尊(日本書紀)」だった・・・
「息が長い」のは
     「気長足姫尊(日本書紀)
      息長帯比売命(古事記)」
      ↓↑
     雪字底・寻字头・・・头=頭
     彐=彑・归(リヨ)=帰
       当・彔・录・㣇・㣇・彖
       彗・彗星
       彙・語彙
       慧(恵)・慈恵=慈慧
         ・・・ジケイ=字形・次兄・次系・自警
                自刑・時雞(鷄・鶏)
                ペテロの裏切り?
 「彐部(ケイブ)=康熙字典214部首・58番目
          3画の29番目
          彐の字=ブタの頭の意
              「彑」に作る
               豚・豕(シ)=ブタの
               尖った鼻先の形象
         「彐部=彐・彑・⺕」
  ・・・「彐部(けいぶ)」は、なぜ
     「猪(チョ)=亥(ガイ)=豕(シ)」
     の発音でなく
     「彐(ケイ)」の「部」なのか?・・・
      本来は
     「鷄(ケイ)=雞=の鶏冠(とさか)」?・・・
 「彑(カイ・ケイ)」は
    右手の意味をなす
   「ヨ=⺕」の字形と同じになった
    書尹争聿隶健事などの「⺕(右手)」
   「又=右手・手・右・許す・また・も
      再び・助ける」
    ・・・「彑=又」?・・・
 「彐=彑=けいがしら・いのこがしら」
      彐=ケイ・けい
      彑=ケイ
      当=トウ・あてる
      彔=ロク・きざ
      彖=タン・シ
      彗=スイ・ケイ・・・彗星=箒星
        帚(ほうき・ははき・ソウ・シュウ)=掃除道具
      婦人=フジン
      浸入=シンニュウ
      侵入=シンニュウ
      彘=テイ・デイ
      彙=イ・はりねづみ・・・語彙
      彚=イ・はりねづみ・・・語彙
      彙=彑+冖+果(田十八)=集める意
      彛=イ・つね=米分
      彜=イ・つね=米分
      彝=イ・つね=米糸
      彞=イ・つね=米糸
      彟=カク
      彠=クワク・ワ
ーーーーーー↓↑ーーーー↓↑
   ・・・則天武后=武照(武曌)の父の名?
      ↓↑武士彠(ブシカク・577年~635年)
          尋(たずねる)=ヨ+エ+ロ+寸
          蒦(萑又・艹隻・艹隹又)
          蒦=はかる・ものさし・のり・はかり
            ワク・クワク・キャク
            カク・ヤク
      異体字=𦭜・彠・矱・彟
ーーーーーー↓↑ーーーー↓↑
            郭務悰と天武天皇
            ↓↑
            郭女王=光和七年三月十日
                (184年4月8日)
                青龍三年三月八日
                (235年3月14日)
            魏の初代皇帝
            曹丕(文帝)の皇后
            字は女王・諡は徳
            夫の諡を重ねて
            文徳皇后と諡
            冀州安平郡広宗県(河北省広宗県)
            出身
            父は郭永(後漢の南郡太守)
            母は董氏(堂陽君)
            兄は郭浮
       ↓↑   ↓↑
            郭皇后(?~景元四年・263年)
            魏の曹叡(明帝)の皇后
       ↓↑   ↓↑
            郭子儀(697年~781年)
            唐朝に仕えた軍人・政治家
            玄宗、粛宗、代宗、徳宗
            の4代に仕えた
            客家人
            安史の乱で大功を立て
            以後、異民族の侵入を防いだ
            盛唐〜中唐期を代表する名将
            憲宗(在位805年~820年)
            の皇后
            郭氏
            は
            子儀の孫
ーーーーーーーー↓↑ーーー
      則天武后の父
        武士彠
        字は信明
        諡は定
        忠孝太皇と追尊
        本貫は「并州-文水県」
        并州=上古中国の九州の一つ
           山西省、河北省、モンゴルの一部
           723年(開元十一年)
           并州を太原府に昇格
           北京太原府とし、副都格の扱いとした   
        元々は「材木商」?
        ↓↑
        武士彠は最初
        相里氏を妻とし
        武元慶と武元爽の二男をもうけ
        後
        利州都督となった
        武士彠は
        楊夫人(栄国夫人)を後妻とし
        三女をもうけ
        長女は賀蘭越石の夫人、韓国夫人に封ぜられ
        次女の武照は高宗の皇后、女帝-則天武后
        三女は郭孝慎の夫人
        武士彠の
        兄に
        武士棱・武士譲・武士逸
        兄の子として
        武惟良、武懐亮、武懐運
        らがいた
        ワ=わ=倭・和・輪・環・渦・窪・話・羽・把
 「彐=獣の頭・片仮名のヨとは無関係?・・・有関係デス
    漢字として「彐」
ーーーーー
 漢字の「片」を「仮の名」の文字とする・・・
 ↓↑
 了(ア)・・・・・鴉(からす)、蛙(かえる)、了解
 叾(ア+ロ)dug・・・終了の口、掘り起こした・掘り返えされた
 亻(イ)・・・・・・人の意
 イオ(イ+オ)・・・・意緒は人の才能
 仜(イ+エ)・・・・家の建築は人の技、巧み、工作
 仂(イ+カ)・・・・易化は人の力
 伽(イ+カ+ロ)・・・怒る人の力は口先で
 仟(イ+チ)・・・・位置、人の千(チ)は位地から
 侈(イ+タ+タ)・・・伊太の人は多(おほの)
 佸(イ+チ+ロ)・・・一路、逸郎、人のお喋り
 仆(イ+ト)・・・・・意図・異訳は人の占い
 佑(イ+ナ+ロ)・・・意名賂は人の名の句知
 仁(イ+ニ)・・・・・盡、尋、訊、人は二番目
 伝(イ+ニ+ム)・・・委任、人の二番目は私欲のヨコシマ(ム)
 仈(イ+ハ)・・・・磐、石。人は葉の知
 化(イ+ヒ)・・・・人が変わるのは牝(七)による
 仏(イ+ム)・・・・異夢、医務、忌む人はヨコシマ(ム)である
 宀(ウ)・・・・・雨、地球の蓋は宇宙の大気
 穴(ウ+ハ)・・・・得葉、蛙名は屋根の穴(換気口)
 空(ウ+ハ+エ)・・・得葉得の空
 它(ウ+ヒ)・・・・ウヒの蛇
 工(エ)・・・・・・巧みな技はH(エイッチ)の横倒し
 㠭(エ+エ+エ+エ)・・・重得重得
 功(エ+カ)・・・・・慧可・恵価
 エロ(エ+ロ)・・・・・得ろ
 才(オ)・・・・・・才能は緒
 オカ(オ+カ)・・・・・丘、岡、陸、緒化
 ↓↑
 力(カ)
 カカ(カ+カ)・・・・嬶(かかあ)・・・加賀
 秫(カ+カ+カ)・・・脇・𦚰
 秞(カ+レ)・・・・加齢・力の鉤、鍵、科技
   カ+乚(乙)・・チカラは「乙→おと→音」
 加(カ+ロ)・・・・夏炉・火炉
 𠂊(ク)・・・句
 クロ(ク+ロ)・・・黒・黭・玄・句賂
 竹(ケ+ケ)・・・筑紫九州の他懸の掛化
 ↓↑
 艹(サ)・・・詐・差・作
 廾(サ)・・・・・・拱(こまね)いて佐(たす)けを求む
 花(サ+イ+ヒ)・・・詐意比の中華(註化)
 莞(サ+ウ+ニ+ル)・・詐得似留
 蓉(サ+ウ+ハ+ヘ+ロ)・芙容の詐得葉経賂
 艻(サ+カ+)・・坂・詐化
 葬(サ+タ+ヒ+サ)・・・沙汰比差の葬儀
 芊(サ+チ)・・・幸
 䒷(サ+チ+ロ)・・詐知賂
 苫(サ+ト+ロ)・・・・詐渡賂・・・苫小牧
 艾(サ+メ)・・・・・佐目・もぐさで醒目る
 苅(サ+メ+リ)・・・・佐目利・醒め理
 江(シ+エ)・・・・・支重の江戸
 汐(シ+タ)・・・・・史他の史緒、籍
 汘(シ+チ)・・志知・七・漆(うるし)
 汃(シ+ハ)・・詞葉、参拾弐=纂を拾う似
 沿(シ+ハ+ロ)・・・沿(反・逆)って詞葉賂
 乜(セ)・・・施・世
 セコヌ(セ+コ+ヌ)・・・施古奴(怒・帑・濡)
 丷ロ(ソ+ロ)・対
 ↓↑
 夕(タ)
 多(タ+タ)
 外(タ+ト)
 夞(タ+ト+ロ+ヒ)
 死(タ+ヒ)
 列(タ+リ)
 名(タ+ロ)
 舛(タ+ヰ)
 千(チ)
 升(チ+ー+ト)
 㔓(チ+カ)
 チ千(チ+チ)
 刋(チ+リ)
 舌(チ+ロ)
 乱(チ+ロ+レ)
 ⺍(ツ)・爫(爪)
 亍(テ)
 卜(ト)
 攴(ト+ヌ)
 占(ト+ロ)
 卤(ト+ロ+メ)
 ↓↑
 ナ(ナ)
 左(ナ+エ)
 友(ナ+ヌ)
 ナヒ(ナ+ヒ・ナ+七)
 右(ナ+ロ)
 二(ニ)
 亖(ニ+ニ)
 元(ニ+ル)
 又(ヌ)
 双(ヌ+ヌ)
 叒(ヌ+ヌ+ヌ)
 叕(ヌ+ヌ+ヌ+ヌ)
 礻(ネ)
 礼(ネ+レ)
 丿(ノ)
 彳(ノ+イ)
 衍(ノ+イ+シ+テ)
 行(ノ+イ+テ)
 爫又(ノ+ツ+ヌ)
 受(ノ+ツ+ワ+ヌ)
 舜(ノ+ツ+ワ+タ+ヰ)
 彡(ノ+ノ+ノ)
 么(ノ+ム)
 ↓↑
 八(ハ)
 谷(ハ+ヘ+ロ)
 公(ハ+ム)
 父(ハ+メ)
 尣(ハ+ル)
 㕣(ハ+ロ)
 兌(ハ+ロ+ル)
 匕(ヒ)・・・匕首・匙
 七(ヒ)・・・7・牝
 比(ヒ+ヒ・ト+一+匕)
 乁(ヘ)
 朮(ホ-丶)・・・「枲(あさ)の莖皮を分かつ
        汖(山+水)は異体字
       「枲皮を分かつなり(字彙)」
       「馳と同じ音
        𣏟と同じ義(篇韻)」
       「アサ(麻)=广+𣏟・・・𣏟≠林
              アサ科アサ属の草
              苧麻(チョマ)
              亜麻(アマ)
              大麻(タイマ)
              など繊維を採る植物の総称」
    苧=枲=苧麻(チョマ)
      イラクサ科の多年草
      茎は木質。葉は広卵形で先がとがり
      裏面が白い・夏、淡緑色の小花を穂状につける
      茎から繊維をとって織物
      真麻(マオ)
      「枲=厶(私・よこしま)+呆=台+木
        ・・・私がアホ(阿呆)・・・
         あさ・からむし・シ
        邪馬台(臺・䑓)國の
          木(き・ボク・十八・足捌・あしべつ)
        阿毎王朝の馬鹿なマツリゴト・・・阿呆
        呆=ぼけ・あほ・うすのろ
          ホウ・ハウ・ボウ・バウ
          あきれる・愚か・ばか
          阿呆・痴呆・呆然・呆気 (あっけ)
      「枲」は
      「螈=艹+ム+口+十+八」の俗字
      バカ(馬鹿)とアホ・アホウ(阿呆)
      「愚かなこと・愚かな人」の意
      秦の始皇帝が
      四川省から大木を輸送し
      渭水 (イスイ) の
      南、
      上林苑中に建てた未完成の大宮殿(後宮)
      項羽が火を放ったが、三か月燃え続けた
      使用、利用することなく廃塵に帰し
      名称がなかったので世人が
      地名(阿房)にちなんで
      阿房宮と呼んだ
      ・・・「項羽によって焼かれたのは
          咸陽宮(カンヨウキュウ=寛容扱?)
      であり、阿房宮は焼かれていない」・・・?
      バカな中国官僚のタワゴト・・・?
      「阿=近い意・阿=広がる意とするなど諸説」?
      「阿⇔阿倍・阿部・阿邉・安倍・安部・安陪」
      「阿=おもねる・へつらう・まがる・くま(隅)
       ・・・阿諛(アユ)追従・阿諛曲従
       ・・・阿諛迎合・阿諛傾奪
       ・・・曲学阿世
       ・・・よる・よりかかる・のき・ひさし」
      「阿諛=アユ=鮎・香魚・年魚・亜由」?

      「阿毎=アマイ・アバ・アビ・アブ・アベ・アボ」
              阿波・阿鼻・阿武・阿部・阿保
                          安保
      日本の食用
      菊の品種
      黄花八重大輪に
     「阿房宮」と名付けられたモノがある・・・
      ↓↑
      中国江南地方の方言
     「ばか」の意味の
     「阿呆(アータイ)」が日本に伝わった・・・
      アホ(Ajo)=スペイン語でニンニク(大蒜)
ーー↓↑ーー 
 「朩=朮-丶=十+ノ+乚-丶」
    朮の異体字、秫・术・・・朩+丶
      声 符、「朮」・・・述・術
ーー↓↑ーー
 龴(マ)
 予(マ+ア)
 三(ミ)
 厶(ム)
 弁(ム+サ)
 厸(ム+ム)
 厽(ム+ム+ム)
 允(ム+ル)
 台(ム+ロ)
 台ニ(ム+ー+ロ+ー)
 乂(メ)
 㐅(メ)
 爻(メ+メ)
 㸚(メ+メ+メ+メ)
 刈(メ+リ)
 メロ(メ+ロ)・㐅ロ
 乇(モ)
 ↓↑
 彐(ヨ)
 夛(ヨ+タ)
 ↓↑
 刂(リ)
 归(リ+ヨ)
 儿(ル)
 乚(レ)
 口(ロ)クチ=〇
 囗(ロ)クニ=国・國・圀
 吪(ロ+イ+ヒ)
 叿(ロ+エ)
 ロオ(ロ+オ)
 囙(ロ+コ)
 吀(ロ+チ)
 卟(ロ+ト)
 呫(ロ+ト+ロ)
 ロニ(ロ+ニ)
 叹(ロ+ヌ)
 只(ロ+ハ)
 叱(ロ+ヒ)
 吡(ロ+ヒ+ヒ)
 吒(ロ+モ)
 ロリ(ロ+リ)
 四(ロ+ル)
 兄(ロ+ル)
 吅(ロ+ロ)
 回(ロロ)
 噐(ロ+ロ+エ+ロ+ロ)
 品(ロ+ロ+ロ)
 㗊(ロ+ロ+ロ+ロ)
 ↓↑
 冖(ワ)
 㓁(ワル)
 㐄(ヰ)
 ア-(ヱ)
 ↓↑
 ン(ん・・・辶・運)
 冫(ン・・・氷)
 冫了(ン+ア)
 冮(ン+エ)
 冫多(ン+タ+タ)
 冶(ン+ム+ロ)
 冫乚(ン+レ)
ーーーーー
 ・・・???・・・

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もはや、おわったコトだ・・・、イザ、はや・・・

2018-01-14 23:49:34 | 古事記字源

 ・・・前回も書き込んだが「義」の数多くの「概念規定」は「我意念規定」に「曖昧」をもたらす・・・ボクにとっては「義=羊+我」は「字義=漢字字形の意味内容」であるが、字形が何故、「羊+我」の構成になっているんだか?・・・「犠牲の犠」は「牛+羊+我」で「牛(牡・牝・犍)」も加わった・・・「女媧(じょか、拼音: Nüwa→ナワ?=縄=名葉・名把=藁(わら)を撚(よ)って、あるモノを縛る、束ねる、繋ぐ、吊るす、引っ張る物)は古代中国神話に登場する人類を創造した女神・三皇の一人・姓は風・人首蛇体・伏羲(フッキ)と夫婦、or 兄妹・人類の創造主・土と縄で人類を創造した女神」、「道教では縄(なわ・ジョウ)は伏羲(フッキ)が編み出したモノ」らしいが・・・「三皇(伏羲、女媧、or 黄帝、神農)の一人・女媧は伏羲のあと王になった」・・・「女の神」が「王」になったとは?・・・神をやめて「泥で捏(こ)ねて造り出した人間の王」になった、と云うコトか?・・・捏(こ・扌日十一)ねて練(ね・煉・錬)る・・・なんでネルが「α+東」なんだか?・・・「練や錬の東(ひがし・トウ)」は、多分、元々は「煉瓦(レンガ)・煉炭(レンタン)・煉獄(レンゴク)」の「火+柬」で、「柬(えらぶ・カン・ケン)」だったんだろう・・・「修練(糸柬)・錬(鍊・金柬)金・鍛練(糸柬)・錬(鍊・金柬)丹」・・・「柬=えらぶ・えりわける・揀(カン)=手紙・書柬・札(ふだ)・名札(なふだ)・荷札(にふだ)・書簡」だから・・・で、「殉死」は「諫死」ではないし、虐(苛)めでの「自殺」は「諫死」でもない・・・
 「諫め・諫む・諫める・幾諫・諫鼓・諫止・諫死・諫臣・諫早・諫争・諫諍・諷諫・箴諫・諫言・苦諫・強諫・極諫・切諫・忠諫・直諫・痛諫・死諫・屍諫・尸諫・諫議」、「諫早市・諫早湾」、「往者諫むべからず」は判るが、「三度諫めて身を退く」って、辞めてどうするんだか、コレって「病(ヤ)めて」か?・・・諫めてもらって、ヤめてイイコトは高年齢の自動車運転だろう・・・
 「規諫(キカン)・強諫(キョウカン)・極諫(キョッカン)・苦諫(クカン)・至諫(シカン)・正諫( セイカン)・切諫(セッカン)・忠諫(チュウカン)・直諫(チョッカン)・諷諫(フウカン)・諫める(いさめる) ・諫言(カンゲン)・諫止(カンシ)・諫死(カンシ) ・諫臣( カンシン)・諫争・諫諍(カンソウ)」・・・
 それにしても「諫早湾」の地名由来が「?」で、調べてみても「中世の荘園名、「伊佐早荘」に由来し、近世、領主・龍造寺氏が諫早に改姓し、地名も「諫早」になった、とか・・・「肥前国-高来郡-伊佐早庄が起源」・・・高麗移民の定住地だろう・・・有明海、島原周辺の事件を見れば、「諫めは早い方がイイ」である・・・「諫早」の苗字が「新潟県-南魚沼郡-塩沢町-天野沢に集中」に集中って?・・・水俣、新潟の水銀被害・・・「イザ、はや」・・・「アズマ、はや」の用法ならば、「イザは、もはや存在しない」だろう・・・伊座・委邪・夷邪・・・委(イ)奴(ヌ)の横島(邪馬台国の居座)かもだが、古事記は「伊邪-那岐(なき)・伊邪-那美(なみ)」で、日本書紀は「伊弉諾・伊弉冉」の兄妹であり、夫婦(めおと)で、イザ-ナミの別名は「黄泉津大神、道敷大神」であった・・・


 ↓↑
 「弉諾(ざなき)」=弉=さかん・ゾウ・ソウ・ジョウ(ジャゥ)
           壯(爿十一)+廾(こまねく・キョウ・ク)
           諾=言+若=承諾
 「弉冉(ざなみ)」=弉=さかん・ゾウ・ソウ・ジョウ(ジャゥ)
           壯(爿十一)+廾(こまねく・キョウ・ク)
           冉=冂+土=しなやか・あやうい・ゼン・ネン
 ↓↑

 諫早湾
 諫早・・・北緯32度50分 東経130度3分
 「長崎県南東部、島原半島の北側に有明海(島原湾)から湾入した支湾。諫早湾は、有明海の中央部西岸からさらに南西側に入りこんだ湾を指す呼称・泉水海とも呼ばれる」・・・
ーーーーー
 「伏羲(フッキ)」の「羲(キ)=羊+禾+丂(万)+戈」の漢字は「義(ギ)=羊+我」とは異なる部品構成である・・・「羲和(ギカ・ギワ)」は古代中国の伝説上の人物・太陽の御者とか太陽を生んだ母・後、東南西北の、それぞれの地の天文に関する任務を担当する羲仲 (ギチュウ)、羲叔(ギシュク)、和仲(カチュウ・ワチュウ)、和叔(カシュク・ワシュク)の四人兄弟の総称」が「羲」・・・「王羲之」の「羲」でもあるが・・・
 「𢐱(キ)=艹+土+我+弓・芏+我+弓」
 「𦏁(き)=羊+秀(禾乃)+戈」
 は
 「羲」の異字である・・・
 「義=羲=𢐱=𦏁」・・・
 ならば
 「我=禾の丂(万)=艹の弓(芎)=秀の戈」
      丂=曲(枉)がったモノ・・・枉=木(十八)+王
        曲げさせたモノ
        曲げたモノ
 ・・・技術(わざ)で巧妙、たくみに湾(彎)曲させたモノ
 だろう・・・その道具は「手にする刃物・石器・木器」である・・・だが、調べた字典には「義」が「羲=𢐱=𦏁」の「同義」との説明はなく(?)、「ヒトの姓名」に使用とのみ記されている・・・
   ↓↑
 「王羲之(オウギシ)
   羲和(ギカ・ギワ)
  伏羲 (フッキ)」
   ↓↑
  羊(ヨウ)+α
  意符は羊(ヨウ)
  義・羲・𢐱・𦏁
  羯・羚・羌・群・羔・羹
  羞・羨・羶・着・羝・美
  羸」
 「声符はギ
  義・・・羛=羊+弗・・・?・・・「¥+$=円+弗」?
  儀=儀式・儀礼
  䣡=義+邑(村)
  䧧=義+阜(丘)=岌䧧
  檥=木+義=艤=舟+義=艤装
  議=言+義=議会・議事
  㕒=厂+義=「崖+義」?・・・崖っぷちに立つ義?
   =嶬=山+義=険しい・嶮しい
  艤=舟+義=艤装
  鸃=鳥+義=鵔䴊(シュンギ)・錦鶏(キンケイ)・雉科の鳥
  䴊=義+鳥
  礒=石+義=磯・石生
  轙=車+義=𨏢、所以縛銜者也=くつわ(轡)・くつばみ
       馬の口に含ませ、手綱をつける金具
       銜勒(カンロク・ガンロク
       ふくむ・物を口に入れる
  嶬=山+義=険しい・嶮しい・阢
  蟻=虫+義=黒色・蟻酸・浮蟻(フギ)=酒に浮く泡滓・酒
  䲑=魚+義・・・魚の義体(擬態)?・・・木魚?
  㬢=日+義=曦=日+羲=日光・旭日
   ↓↑
 「王羲之(オウギシ)」
 「303年~361年
  中国東晋の政治家・書家
  字は逸少
   ↓↑
  太安二(303)年頃~升平五(361)年頃
  東晋の書家
  瑯や臨沂(リンギ・山東省) の人
  字は逸少
  官は右軍将軍・王右軍
  会稽内史
  初め
  衛夫人の書風を習い、後、
  漢、魏の碑文を研究し
  「楷、行、草」の
  各書体を完成・・・現代書体の創始者?
  「義」が「角張った意味」なら、
  碁盤の升目(桝目)、都市の碁盤目の条理、道筋
  そして、「字義」とは
  方形に納められた
 「楷書体の漢字」である・・・   
   ↓↑
  王羲之(オウギシ)の
  本籍は
  琅邪(ロウヤ・ラウヤ)郡
   ↓↑
  臨沂(リンギ)県(山東省-臨沂市)
  瑯邪=瑯琊=琅玡・・・
        琅→狼→中山狼⇒黄鼠狼・・・おおかみ=大神
        娘・浪・稂・觔・朗・䀶・蜋・㝗
        筤・鋃・桹・𥍫・踉・𣂞・莨・閬
      琊→揶→からかうからかう・はぐらかす・ヤ
        揶揄(ヤユ)
  春秋時代
  越王
  句践(コウセン・クセン)が
  山東省膠南県南西の地に
  黄海を望む台館を起こし
  諸侯と会盟を行った
  秦の始皇帝は
  治所に琅邪郡を置き
  二十八年(前219)
  泰山封禅の後
  琅邪台を設けた・・・琅=美石、真珠の玉
              玉や金属の鳴る音
           琺瑯の「瑯」?
           金属の錆止めや装飾のため
           表面に焼き付ける
           不透明なガラス質の釉 (うわぐすり)
           それを焼きつけた金属器
           エナメル(enamel)製品
           装飾品の七宝焼き
            邪=よこしま・邪悪
              瑯琊(ロウヤ・ラウヤ)は
              山東省にある山名
  王羲之(オウギシ)は
  魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族
  琅邪王氏の出身
  曾祖父は王覧(王祥の弟)
  祖父は王正
  父は王曠」
 ・・・日本に「千字文」を招来させた人物は
 「王仁(わに)=辰孫王と共に百済から日本に渡来
         千字文と論語を伝えた
         王仁(日本書紀)
         和邇吉師(わにきし・古事記)
         百済に渡来した中国人・・・?
         姓である王氏から楽浪郡の王氏・・・?」
 王仁=わに・オウジン・ワンジン=和邇=わに=鰐
    和邇(カジ・わに・あに?・おに?)・・・
          ワジン         
          和人・阿邇 ・鬼
ーーーーー
 ・・・「義=羊は我」・・・「未(ひつじ)は羊」で「未艷(未艶)」は「マリア(Maria)=ミリアム(Miryam)=瑪利亞」だった・・・弥師訶(メシア)=基督(キリスト)・・・
 「僧伽=ソグド語の sang(石)」で、
 「岑穏僧伽(シモン・ペテロ)」
  岑=山+今=みね・シン・ジン
  穏=禾+爫+彐(ヨ)+心=おだやか・オン・・・隠
   =禾+刀+彐(ヨ)+心
   =禾+刍+心
   =禾+急=禾+㤂
  僧=イ+曽(曾)=ソウ・・・坊主
  伽=イ+力+口=とぎ・カ・キャ
 ↓↑
 聖母マリア(Miryām・Maryām・Μαρία・María・アヴェ-マリア・ Ave Maria・ミレアム)・・・
 「ナザレのイエスの母・・・「序聴=イエス」?・・・「移鼠」
              「序でに聴く=序を読ませて聴く
                     序を読んで聴かせる」
  ナザレのヨセフの妻・・・・ヨセフ=若瑟(ジャクヒツ)?
  ヨアキムとアンナの娘・・・義なる神の祖父母
               イオアキムとアンナ
              (生神女マリヤの両親)
  処女マリア
  童貞-瑪利亞・・・「未艷(未艶)」・・・豊+色
            未だエン(つや)ならず・・・?
            イスラエル=Israel=以色列・伊色剌
 ↓↑
  大秦景教-大聖通-真帰法讃(開元五年・717年の筆写)
  大秦景教-宣元至-本経(開元八年・720年の筆写)
 ↓↑
  大秦景教-宣元至-本経
  大秦景教-宣元至-本経-幢記・・・経幢=石柱
 ↓↑
  義なる預言者モイセイ(モーゼ)
 ↓↑
 「義(ギ)」
 日本語で漢字を用いる際の
 「意味=意義」
 を表す
 漢字の三要素は
 字形
 音
 字義
 ↓↑
 「己の威儀なり・我+羊の会意」
 「羊+我声」・・・?
 「羊」を含む漢字は
 「祥・善 に羊を含むのと同じく
  ヒツジ(羊)を神に捧げる
  ギセイ(犠牲)に常用した習慣に基づく
 ・・・「十二支」の「動物名」は、その一年間の各月に「犠牲にされた動物の名」か?・・・「龍」は存在しないが・・・?・・・代用の犠牲動物はナニ?・・・
 ↓↑
 もともと「宜」と同じく神への供物が
 くっきりと角張って美しく揃っていること・・・
 切り揃えた犠牲の肉の形が
 方形、長方形に揃っているコト・・・
 「書経・文侯之命」の「父義和の鄭注」に
 「義とは匹(そろう)なり」
 とある・・・らしい・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

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