城郭探訪

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清水山城(日高山城・比叡谷城・佐々木城)    近江国(新旭)

2011年05月02日 | 平山城

 

清水山城とミツバツツジ 春のピクニック

 

お城のデータ

別 称:日高山城・比叡谷城・佐々木城

所在地:高島市(高島郡)新旭町熊野本 map:http://yahoo.jp/2shUsW
区 分:山城  ⑤比高:100m 
現 状:山林

遺 構:郭・土塁・堀・堀切・竪堀・碑・説明板
築城期:室町期

築城者:佐々木信高・・高島氏(佐々木氏)
目標地:新旭森林スポーツ公園

駐車場:新旭森林スポーツ公園
訪城日:2011.4.29


             

お城の概要

 清水山城は琵琶湖の西岸、安曇川左岸の饗庭野丘陵の南東ピーク(標高210m 比高110m)に築かれた山城です。

城域は東西450m×南北700m、城縄張りはピークに構築された主郭を中心に逆Y字状の三方向の稜線に展開され、また南・東側の緩斜面を取り込んだ壮大な巨大城郭です。主郭の規模は東西55m×南北60mほど、郭は北西から南東側にL字状に郭が削平され、内部からは建物礎石(建物の規模・東西5間×南北6間)が確認されています。

主郭の南東側斜面には南側斜面に設けられた坂虎口を防御するように畝状竪堀が敷設され、この畝状竪堀の上段部分には10m四方の「佐々木の天守」と呼ばれる櫓台が構えられていました。主郭から南東・南西側に馬蹄状に延びた稜線には段差と堀で区画された段郭群が構築され、このうち南東側の尾根が大手筋と想定されます。主郭の北側は清水山城の弱点である饗庭野丘陵から南側に延びた尾根筋を防御するため、北郭と多重堀切で遮断。北郭は主郭と堀切で分断された東西に細長い段郭群で、規模は東西70m×南北30mほど。内部は頂部に構築された郭を中心に東・西の緩斜面を低い段差で階段状の郭に加工し、北側縁部に土塁が築かれています。また北・西側下段には武者隠しが敷設されています。さらに北郭北側の尾根筋は堀切を基本とした厳重な遮断ラインが構築され、1条目の堀切は幅15-20m・深さ10m以上の巨大な堀切で、堀底は畝状竪堀である。

 本城域の南側緩斜面には「西屋敷」・「加賀殿」・「越中殿」等の地名が残り、高島氏の家臣居住地と推測される、有事の際の外郭線として機能したと推測されます。さらに南東側の段丘縁部には「御屋敷」・「犬の馬場」の地名が残り城主居館(方形館)が想定され、清水山城はこれらを含む複合城郭だった。


お城の歴史

 嘉禎元年(1235)、高島郡田中郷の地頭職高島高信により築かれたとも。高信は承久3年(1221)の「承久の乱」後、近江守護職佐々木氏の嫡流になった信綱の次男で、高島郡田中郷・朽木荘を分知され高島氏を称します。その後、高島氏は湖西各地に庶子家(朽木・永田・平井・横山・田中・山崎氏)を分知して高島氏を中心とした「高島七頭」と呼ばれる武士団に成長しました。

 室町期の高島氏は文安年間(1444~49)の『文安年中御番帳』に名が見られるなど、外様として幕府奉公衆を勤め、湖西に一定の勢力を保持していたと推測されます。長享元年(1487)に勃発した「長享の乱」で、高島氏は六角高頼に与して将軍足利義尚率いる幕府軍と対峙し、以後 六角氏と行動をともにします。

 永禄6年(1563)の「観音寺騒動」、同11年(1568)の織田信長の近江侵攻で六角氏が没落すると、小谷城主浅井氏・越前一条谷朝倉氏と結んで織田氏と対峙しました。

 元亀4年(1573)、織田軍の高島侵攻により清水山城は陥落し高島氏は没落しました。城跡は、2004年(平成16年)2月27日、「清水山城館跡」として、国の史跡に指定された。

   

 

  

 

 

 

  

   

 

高島氏

四つ目結(宇多源氏佐々木氏流)
 高島氏は近江源氏として知られる佐々木氏の一族である。佐々木氏は、宇多天皇の皇子敦実親王が子の源雅信の子扶義を養子とし、その扶義の子成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住し、佐々木氏を称したのがはじまりといわれる。平安末期の秀義は平治の乱に源義朝に属し、以来、源氏とのつながりを密接にしている。しかし、平治の乱で源氏が没落すると、秀義は世を隠れて関東の地に雌伏した。やがて、源頼朝の旗揚げに際して息子たちとともに参加し、平氏との合戦において、佐々木一族は大活躍をして、鎌倉幕府成立後には、各地の守護職に補されて一大勢力を築くことになった。
 承久三年(1221)、後鳥羽上皇の討幕行動である承久の乱が起ると、惣領の広綱をはじめとした佐々木一族の多くは上皇方に味方して没落した。そのなかで、幕府方に着いた信綱の流れが佐々木氏の主流となったのである。

歴史への登場

 承久の乱後、佐々木惣領家と近江守護職を継いだ佐々木信綱は近江守に任じられ、また評定衆にも選ばれて有力御家人としての地位を固めた。
 信綱には四人の息子がおり、仁治三年(1242)に信綱が死没するとその所領は四人に分割された。長男の重綱は坂田郡大原荘の地頭職を得て大原氏を名乗り、次男高信は高島郡田中郷・朽木荘の地頭となって高島氏を名乗った。そして三男泰綱が宗家を継いで近江南六郡を与えられて六角氏を名乗り、四男氏信は近江北六郡を与えられて京極氏を名乗ることになったのである。
 三男の泰綱が長兄・次兄をさしおいて家督に選ばれたのは、母が執権北条泰時の妹であったことと、近江国に強大な勢力を持つ佐々木氏を牽制しようという幕府の狙いがあったと言われている。
 高信には数人の男子があり、長男泰信は佐々木四郎信綱の孫の四郎左衛門尉を意味する「佐々木孫四郎左衛門尉」の名で『吾妻鏡』に登場する。次男頼綱は弘安八年(1285)の霜月騒動における活躍で出羽守を受領した。この頼綱の子孫が朽木氏であり、以後朽木氏は出羽守を世襲官途にした。こうして高島七頭は、有力御家人の仲間入りを果たしたのである。泰信の長男泰氏は左衛門尉に任官し、のちに従五位下越中守に補任されて受領。以後、高島氏は越中守を世襲官途として越中家とも呼ばれた。
 いずれにしろ、高信の子孫は西近江に地盤を築き、嫡流高島氏を中心とする朽木・永田・平井・横山・田中の高島一族、そして狭々貴系山崎氏を含めて「高島七頭」と呼ばれる武士団に成長することになる。  かくして高島七頭は、有力在京御家人として重視され、室町時代にも幕府奉公衆として勢力を維持した。しかし、戦国末期に滅亡の悲運にあったことで史料が失われ、その系譜・歴史に関しては不明な点が多い。

●居城 - 清水山城

 さて、高島七頭の総領家である高島氏の居城とされるのが清水(せいすい)山城で、戦国時代の幕開けとなった応仁年間(1467-69)頃に築城を開始し、織田信長が高島に侵攻するまでのおおよそ百年間存続したものとされている。その規模は、家臣団の住居跡等と目される範囲を加え、1km四方にも及ぶ広大なものである。
 主郭を中心に、南東、南西、北西の三方の尾根上に曲輪を配置した典型的な放射状連郭プランで、「畝状竪堀」や「武者隠し」などが遺り、主郭部には書院造り風の礎石配置を持つ大型建物が確認されている。その典型的な中世山城の形態と、特徴的な曲輪群等の配置が観察できることなどから、国指定の重要史跡となっている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城、

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