探訪 膳所城と城下町をゆく
膳所城は、関ヶ原合戦の翌年、東海道・瀬田橋・琵琶湖水運などをおさえる要衝として徳川氏が築かせた城です。城下町は東海道沿いに形成され、寺社や土塀、移築された城門、公園となった本丸跡など、今も城の痕跡が各所に残ります。今回の探訪では、膳所歴史資料室運営協議会のみなさんや大津市歴史博物館の学芸員、県の文化財専門職員の同行案内で膳所城と城下町を詳しく訪ねます。 チラシはこちら
日時:平成23年11月19日(土) 10:00~16:00頃
集合:JR膳所駅北口(南北連絡歩道橋のぼり口付近) 9:30~10:00受付
定員:50名(事前申込 先着順)
○探訪 膳所城と城下町をゆく 2011119
お城のデータ
所在地:滋賀県大津市本丸町
別 称:石鹿城
築城期:織豊期 慶長6年(1601)
築城者:徳川家康
区 分:平城(水城)
遺 構:石垣、移築城門、模擬城門・城土壁・城跡碑・説明板
目標地:膳所城
駐車場:膳所城駐車城
訪城日:2011.11.19
お城の概要
現在は膳所城公園となっており城門、堀、石垣などが模擬復元されている。ただし城門は近くの膳所神社に移築され現存している。
膳所城は湖中に石垣を築いて本丸をせり出させ、二の丸とは廊下橋で結んだ水城であった。本丸には四層四階の天守が築かれ、天守や白壁・塀・櫓などが湖面に映える姿は実に美しかったという。
現在、本丸跡は膳所城跡公園として整備され、公園の入口には城門と城壁が復元されている。膳所城址の石碑が建っているところが天守跡で、石垣は北側にわずかに残るのみ。
石垣に打ち寄せる波に耳を傾けながら散策し、在りし日の壮大な水城に思いを馳せたい。園内には野外劇場などの施設もあり、琵琶湖の風景とあいまって市民の憩いの場所でもある。なお、二の丸跡は浄水場となっている。
膳所城の建造物は明治になってすべて取り壊されたが、3棟の城門が膳所神社、篠津神社、鞭崎神社にそれぞれ移築され、貴重な遺構としていずれも国の重要文化財に指定されているので、膳所城跡を訪れれば是非見学したい。
お城の歴史
膳所城は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康が、翌慶長6年(1601)京都背後の守りと、豊臣秀頼が居城する大坂城への備えの城として、東海・中山・北陸三道と琵琶湖に臨む要衝の地に築いた城である。
縄張りは築城の名手といわれた藤堂高虎が行い、8人の普請奉行の下、諸国の大名を動員するという天下普請の第一号の城である。
同年、大津城主の戸田一西(かずあき)が10万石で初代膳所城主となり城下町の整備に努めた。元和3年(1617)一西の子戸田氏鉄(うじかね)が摂津尼崎に転封された後、本多氏、菅沼氏、石川氏と城主は替わるが、慶安4年(1651)本多俊次が伊勢亀山より7万石(後に6万石)で入封。
以後、膳所城は本多氏13代の居城として明治維新を迎える。膳所藩は代々徳川幕府に忠勤を励んだが、幕末になって勤皇派が台頭し、戊辰戦争の口火を切った鳥羽・伏見の戦いでは桑名城攻めに参陣した。
慶長6年(1601)徳川家康によって築かれた。 築城においては藤堂高虎が縄張を行い天下普請で行われ完成後は戸田一西が三万石で入城した。
元和2年(1616)戸田氏鉄は大坂夏の陣の功により摂津国尼崎に移封となり替わって三河国西尾から本多康俊が入封する。 元和7年(1621)本多康俊になると旧領三河国西尾に移封され替わって伊勢長島から菅沼定好が入封する。
寛永11年(1634)定好は丹波国亀山に移封となり替わって下総国佐倉から石川忠総が入封するが慶安4年(1651年)石川氏もまた伊勢国亀山に移封となる。
最後に以前三河国西尾に移封になって伊勢国亀山に移封されていた本多俊次が再入封し以後明治に至る。
本多公浜御殿
本日の訪問ありがとうございす!!