大地の遺産活用事業「戦国・武士と姫たちの遺跡」
探訪 坂本城と坂本の町をゆく
元亀2年(1571)9月の比叡山焼き討ち後、織田信長は明智光秀に坂本
城を築かせました。当時の坂本は巨大な荘園領主延暦寺の門前町であるとと
もに琵琶湖上交通の要港であり、北国や東国から集まった年貢等を京都へ運
ぶ物流拠点の一大経済都市でした。そうであったからこそ、信長は有能な光
秀を坂本城において支配させようとしたのです。
しかし、天正10年(1582)6月、光秀は本能寺の変で信長に反逆する
も、山崎合戦では羽柴秀吉に敗れ、坂本城は炎上しました。その後、坂本城
は復興されますが、秀吉が大坂城を築くと、琵琶湖の物流拠点も坂本から大
津に移り、天正14年頃に大津城が築かれると、坂本城は廃止されました。
探訪 坂本城と坂本の町をゆく
![]() この城は琵琶湖に臨む典型的な水城で、しかも築城に造詣の深い光秀だけに城は、豪壮華麗で、安土城に次ぐ名城といわれていた。ここで辺り滋賀郡を支配し、民政は行き届いていたという。 その後、光秀は丹波を平定し、天正五年ころから亀山城を築き、その城下町が現在の亀岡市の基礎となった。さらに同七年ごろ城の大改造を行い、明智にちなんで福智山となった。いまも福知山踊りには光秀を偲ぶ歌がうたわれている。 ◆明智光秀は、美濃国の名族、土岐氏一族の出身。永録十年(1567)四十歳ころ織田信長の家臣となる。 元亀二年(1571)山門焼き討ちのあと光秀は、湖岸に豪壮な坂本城を築城し、その初代城主となった。以後およそ十年間光秀は坂本城を本拠地として活躍した。光秀はすぐれた武将であっただけでなく当代一流の文化人と親交をもち茶の湯、連歌、詩歌などに造詣の深い文化人でもあった。 ![]() 築城の名手であった光秀は、翌元亀三年、本公園の北方300mの湖岸に、安土城に次いで日本第二の名城と謳われた坂本城を築城した。坂本城には、姫路城のように大天主と小天主があり、城郭の範囲は、日吉山王祭のよびものの一つ、船渡御の神事が行われるこの七本柳にまで及んでいたとされている。 なお、今も城、城畔、御馬ヤシキなどの字名が残っている。 『坂本城跡案内』より
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