城郭探訪

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小脇山城   近江国(八日市)

2012年02月10日 | 戦国山城

 南郭 石垣群

お城のデータ

所在地:東近江市(旧:八日市市)小脇町    map:http://yahoo.jp/tgLmOC

築 城期:鎌倉期

築 城者:三井氏

初城主:初城主:三井新三郎・三井石見守時

区 分:山城

遺 構:石垣、郭、土塁、竪堀、説明板(縄張り付)

城域 : -

標 高:373m    比高差270m

目標地:箕作山ハイキングコースを利用 太郎坊参集殿or十三仏(安土・内野)

駐車場:箕作山ハイキングコースを利用 太郎坊参集殿or十三仏駐車場

無 料;箕作山ハイキングコースのmapは太郎坊宮駅トイレ横に在ります

訪城日:2012.2.10

南郭 石垣群

 

お城の概要

 八日市と安土にまたがる小脇山にある山城です。十三仏のある岩戸山とその奥に小脇山が見えています。十三仏登山口の駐車場に車を止め、まずは十三仏まで上がります。岩戸山山頂まで石段が続きますが、麓より十三仏まで7丁と記してありました。

 城跡には僅かではありますが石垣も残っています。石垣があると登ってきた。十三仏から尾根伝いに小脇山に行きます。十三仏より15分ほどで小脇山山頂に着きます。山頂手前に2カ所石垣が認められますが、山頂近くの石垣はもう一方のものより大きいものです。山頂はせまく、主郭ではなく狼煙台か物見櫓。

当時においては六角氏の家臣、三井氏の居城が伝わっている。

 近江地方には石垣を用いた城跡が数多く現存しているが、この山城も高所にありながらも相当多くの石垣が使用されており、地表に露見している部分は多くはないが、山上郭群の随所に石垣跡あるいは石列を窺う事が出来る。見学する分には石垣跡が一番目を楽しませてくれる遺構になるとは思われるが、斜面に眼を凝らせば縦堀などの遺構も充分確認する事が可能であり、地表風化は激しいが僅かながら北郭群に土塁の高まりも見て取る事が出来る。個人的には小規模で縄張り妙味(堀切を中央に挟んでほぼ尾根上に直線的に郭が配置)には少し欠けるが、これだけ当時の石垣跡が拝めるのであれば充分見学に値する山城とも見受けられるので、比高230mを上るきつい登山にはなるが、険峻さを誇る山城の好きな方、あるいは石垣跡に興味のある方には当然お薦めの城跡

現地城跡平面図

ちょっと休憩【マイ・ポールとマイ・ハット】

歴  史

 『佐々木南北諸士帳』には、「小脇城主三井新三郎安隆・同石見守時高」の名がみえ『大洞弁天当国古城主名札』にも「三井新三郎」の名がみえるとある。

 また、 『蒲生郡史』には、「三井氏は佐々木六角氏の京邸六角東洞院付近にあった祇園神社の領地を私占す、應永16年8月に社司神人等満高にその押防禁止を願う」とあり、佐々木六角氏との繋がりの深さを想像させる。

『佐々木南北諸士帳』には小脇城主三井新三郎安隆、三井石見守時高などが見え、後者は天文十二年(1543)頃に活動したのが平井系図に見えるとのことです(『姓氏家系大辞典』ミツイ条)。

 豪商三井家の家伝に江州鯰江から伊勢に移ったというのを、一応信拠して話を進めます。また、三井氏の先祖に関する系図では、管見に入った限り、鈴木真年編の『諸氏本系帳』四所収の「三井系図」が最も詳細。
  小脇山城は佐々木氏の家臣三井氏の居城とされ、三井氏は佐々木氏の流れを汲むといわれているが、詳細は不明である。
 なお、三井男爵家は三井氏の子孫といわれている。

小脇山 三角点

八日市市街、箕作小学校のグランドが・・・!

遠方は雪の比良、長命寺山・津田山・西の湖・瓢箪山古墳・・

赤神山(350m)とご神体の太郎坊山

茶の鉄塔の下が箕作り城跡・・・「織田信長は観音寺城は箕作城の戦いで」・・・。その向こうが和田山城跡。遠方が山崎城跡・荒神山城跡

考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『佐々木南北諸氏帳』『大洞弁天当国古城主名札』『蒲生郡史』

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 


小脇館  近江国(八日市)

2012年02月10日 | 居館

  箕作山に抱かれるような場所に位置する東近江市小脇の小脇館跡は、近江守護であった佐々木宗家の館跡と考えられている遺跡です。

「城」や「山城」とは性格の異なる遺跡ですが、近年注目を集めている守護館・守護所遺跡のひとつ。 

小脇館跡の推定範囲図 四角く囲んだ線に濠跡が確認されました 太郎坊本殿から眺めた小脇集落 白点線内が小脇館跡推定範囲

お城のデータ 

所在地:東近江市小脇町  (旧八日市市小脇町)  map:http://yahoo.jp/tgLmOC

築 城期:鎌倉期1185年(文治元)

築 城者:佐々木氏

初城主:佐々木定綱

区 分:居館

遺 構:現地説明板

城域 :100m×100m 

訪城日:2012.2.10

  説明板

 大将宮堀跡と考えられる水路堀跡?と考えられる水路・・・臣下屋敷跡カ?

 昭和54年(1979)に行われた発掘調査では、幅9.5m~11m、深さ2mの堀が発掘されるとともに、一辺が100m以上の方形館であることが判明している。
 またこの小脇町には掘田,惣田,御所,馬場,馬ヤケ,コチャ門(東門),岡門,蓬来門等の地名が残っている。(八日市史より)

小脇館の歴史

  吾妻鏡(あづまかがみ)』には、源頼朝が建久元年(1190)に京からの帰途に「小脇」へ投宿し、四代将軍藤原頼経が暦仁元年(1238)に「小脇」の「佐々木信綱御所」に宿泊したという記述が見えます。これらに出てくる「小脇」は佐々木宗家の館をさすと考えられていて、現在の小脇集落付近がその遺跡とされています。集落周辺には、御所・馬ヤケ・コチャ門(東門)・岡門・蓬莱門(南門)・馬場といった館跡らしい地名が残されていて、ここに館があったことをうかがわせます。また、地籍図に見える堀田・惣田という名の細長い田は、館にめぐらされた二町(約220m)四方の濠の名残りと考えられます。

、ここが佐々木氏の小脇館跡でほぼ間違いないと思われるのですが、その実態についてはまだよくわかっていません。1979年に実施された濠推定地の発掘結果では、地割りに残された濠跡が幅8~11m、深さ約2mの規模であったことがわかりました。また濠跡などから出土した土器類は16世紀のもので、観音寺城と石寺の御屋形跡が整備されるまで小脇館が機能していたことを予測させます。しかし、館の内部や周囲に予想される町や村の様子、小脇館跡の存続期間などはまったく未解明です。

 宇多天皇の血筋を引く佐々木氏は、平安時代中ごろに佐々木庄の荘官として近江に土着し、小脇館に居住したとされています。

  小脇館跡は一辺100m程度かそれ以上の規模を有する平地式方形館で。

 守護館が室町時代から戦国時代前半期に機能したもので、鎌倉時代は確認されていません。

小脇館が史料が示すように鎌倉時代初めに始まったとすると、全国的にきわめて貴重な例となります。

  六角氏は小脇に本拠を置いてきましたが、鎌倉末期に頼綱は金田に屋敷を構えました。金田館と呼ばれたこの屋敷に氏頼は金剛寺を建立し、この寺は戦国期にはしばしば城として機能しました。六角氏の本拠地は金田館あるいは金剛寺城へ移設された。

 その後、近江八幡市の金剛寺・安土町「金剛寺(こんごうでら)」・佐々木六角氏が観音寺城と石寺城下町の御屋形と、小脇館を廃して以降のことと考えられます。

 『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「八日市小脇町にあった近江守護佐々木六角氏の館。

すでに1185年(文治元)に守護職となった佐々木定綱の館は小脇にあり、以後、戦国時代に観音寺城が築城されるまで、佐々木氏代々の本拠地であった。

 1190年(建久元)に源頼朝が、1238年(嘉禎3)には将軍頼経(よりつね)が宿しており、将軍宿泊のときには、『吾妻鏡(あづまかがみ)』に「御儲結構無比類」と記録された。

小脇館は湖東平野の農業生産力という基盤にくわえ、近江から鈴鹿山脈をこえて伊勢国にいたる中世近江商人にさかんに利用された八風街道という交通の要衝に位置している。

  そのため、すでに鎌倉時代の『源平盛哀記』に「蒲生郡小脇の八日市」とみられるように、定期市場の中心となっていた。現在、「御所」「鳥門」「東風門」などの小字名がつたわる。(後略)(満田良順)」とあります。

なお、八日市小脇町は現在東近江市小脇町になっています。

<佐々木氏>

平安末期、平治の乱で破れ関東に落ち伸びていた佐々木秀義は、源頼朝の挙兵に従い平家との戦いに活躍しました。佐々木氏はその功績により近江に復帰しました。

佐々木惣領家は秀義の嫡男定綱に引き継がれ、定綱の後は嫡男広綱が継ぎますが、承久の乱<承久三年(1221年)>で宮側に付いた広綱は斬首され、惣領家は三男の信綱が継ぎます。

仁治三年(1242年)に信綱がなくなると、近江は四人の息子たちに分割されました。

長男の重綱は坂田郡大原荘(山東町)の地頭職を得て大原氏を名乗り、

次男高信は高島郡田中郷(安曇川町)・朽木荘(朽木村)の地頭となって高島氏を名乗りました。

三男泰綱が宗家を継いで近江南六郡(神崎、蒲生、野洲、栗太、甲賀、滋賀)を与えられて六角氏を名乗り

四男氏信は近江北六郡(高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智)を与えられて京極氏を名乗りました。

 

 小脇館

小脇館から小脇城(左山頂)     

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

       本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!