城郭探訪

yamaziro

多賀・若宮・上坂・下坂の諸氏が京極家臣として活躍している。

2012年08月21日 | 武将

今井氏

三つ巴(藤原氏秀郷流)

 応仁の乱(1467)後、近江国の湖北地方は近江半国守護京極氏の内紛、六角氏との抗争、浅井氏の勃興などによって、戦火は絶える暇もなく続き、まさに戦国乱世の様相を呈していた。そのようななかで、戦陣に身を挺して活躍したのは、国人・土豪と呼ばれる武士たちであった。

守護や戦国大名の有力家臣は、国人領主である場合が多く、土豪たちはその下の家臣であった。戦国期京極氏の変遷を記した『江北記』には、京極氏の根本被官、つまり京極氏に初めから従っていた家臣たちとして、「今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・浅井・弓削・河瀬・二階堂」が挙げられている。これらの武士は、主として湖北各地に割拠する国人である、このほかに、多賀・若宮・上坂・下坂の諸氏が京極家臣として活躍している。

 今井氏は、藤原秀郷の後裔と伝えられ、承久の乱のとき院方に加わって、勢多橋で熊谷小次郎と戦った九郎進士俊綱を祖とする。美濃守高遠の代になって、応仁の乱が起きると、高遠は京極持清に属して各所に出陣した。『今井軍記』によれば、応仁元年(1467)には犬上郡の下安食に布陣じて高野瀬城を攻略した。翌応仁二年には甲賀郡の小佐治で合戦し、文明元年(1469)の七月には愛知郡の押立城を攻撃して、敵将の目賀田藤左衛門を斬った。翌文明二年の黒橋の合戦では、息郷・望月・村島・大原・服部らの諸将を討ちとり、その軍功により佐々木本郷の代官職を命じられたとある。

応仁の乱から戦国時代へ

 高遠の子備中守秀遠も持清に従って細川方に属し、京都にあって、五月には大宮の戦い、応仁元年の六月には芝薬師堂、七月にが獄門で戦い、それぞれの戦いに殊勲を立て、細川勝元より感状を与えられている。文明二年京極持清が卒去すると、重臣の多賀高忠と同清直の同族が相争った。秀遠は高忠を援け、翌三年米原の太尾山の合戦では一族の岩脇近俊ら多くの戦死者を出した。文明十八年、多賀宗直が専横をふるい、京極秀綱を追放するという反乱を起こした。このとき、秀遠は秀綱に従って、宗直に与する堀氏成を攻め、翌十九年には、国友河原で宗直と戦い、宗直側の赤尾・箱根らを討ちとった。その後、宗直は月ヶ瀬の城館で自殺した。
 明応四年(1495)、美濃守護土岐氏に内訌が生じ、六角高頼はそれに関与して湖北へ兵を進めて浅井郡宮部に布陣した。これに対し、京極秀綱改め高清は六角高頼を攻撃した。秀遠は子の清遠らと高清に従って奮戦した。
 翌年、土岐氏の家臣石丸利光が反逆したため、土岐氏の重臣斎藤利国は京極高清に援助を求め、高清はそれに応じて浅井直種・三田村らを遣わし、自らは弥高山に布陣した。六角高頼は石丸救援の兵を起こし、京極高清を討とうと、伊吹山麓に兵をすすめ、高清の軍と戦った。しかし、石丸利光が敗れて自殺したとの報に、兵を引こうとする六角軍を今井秀遠が追撃し、醒井・番場で六角軍の首四十余を得たという。
 清遠の代には、京極高清と京極材宗との合戦が繰り広げられ、多賀経忠が材宗方に付いたことから、清遠は高清方に加わり、伊庭氏の軍勢と戦い、戦功をあげたという。

時代に翻弄される

 このように、今井氏は室町時代を通じて京極氏に仕えて数々の合戦に参加し、功名をあげて所領安堵を受けた。そして、一族のほかに家子郎党として、土豪層をも組織し、京極氏の重臣としての地位を確立した。そして、箕浦城に拠って、戦国時代になると、京極氏の勢力下から自立して、ときには国人連合のなかに身を置きつつ、独自の領主制を形成する基盤づくりをも行っていった。
 ところが、秀俊の代になると、主家京極氏の家督争いの深刻化と、同じ京極氏根本被官家のひとつである浅井氏が威勢をふるうようになり、さらに、湖東の六角氏との抗争が激化。そのようななかで、湖北と湖東の境界となる天野川流域に拠点を有する今井氏は、時代の激流に翻弄されることになる。

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箕浦城址

箕浦字殿にわずかな土盛りを残すばかりの箕浦城は、往時、北は通船川あたりまで、南は天野川から水路をひき防御の堀を設けいていたという。しかし、いまその面影はまったく失われている。今井氏が本拠としていた箕浦には、箕浦市場があり、秀吉が長浜に市を開くまでは物流・交通の要衝として栄えていた。それを裏付けるかのように、市場近くに八幡神社には、上洛途上の源頼朝が休んだという腰掛石が遺されている。

http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/160f45b15e2bac600ea6d703d3e9e89b

 享禄四年(1531)、今井氏の居館のある箕浦で浅井氏と六角定頼との合戦があり、六角氏が勝利した。

この戦いは享禄元年の内保河原の戦い以後も対立し続けていた京極氏の内紛が、高清・高延を擁立する浅井氏と、高慶を推す六角氏の争いへと発展したものである。今井氏は内保河原の戦いでは六角側であったが、その後、浅井氏側に付いたため攻撃を受けたという。しかし、当初は六角氏側であり、浅井氏と戦って敗れたことで浅井氏に従ったため、進退を疑われた秀俊は神照寺へ呼び出されて切腹させられてしまった。

かつては今井氏と浅井氏とは、ともに京極氏の重臣であったが、浅井氏は着々と勢力を拡大し戦国大名としての実質を持つようになった。一方、その波に乗り遅れた今井氏は、やがて浅井氏の家臣となることに活路を見い出すことになるのである。

秀俊自刃後、残された尺夜刃丸(のちの定清)は六角定頼を頼り、定頼も尺夜刃丸を庇護した。以後、今井氏は六角氏に従ってしばしばの出陣命令を受けている。そして、浅井亮政が死去したあとを継いだ久政は京極氏に攻められて、ついに天文十八年(1549)ごろに京極高広に降伏し、浅井氏はふたたび京極氏に従うことになった。このころ、尺夜刃丸も成人して定清と名乗っていた。


佐々木六角氏の宿老の一人として知られる三雲氏は、武蔵七党の一

2012年08月21日 | 武将
三雲氏
●軍配団扇に一文字
●武蔵七党児玉氏後裔 
図柄は「寛政重修諸家譜-家紋」から作成。  



 戦国時代、江南の戦国大名であった佐々木六角氏の宿老の一人として知られる三雲氏は、武蔵七党の一、児玉党の分かれと伝えられている。

玉党は藤原内大臣伊周の子伊行が児玉を称したことに始まるといい、児玉家弘はのちに庄を称し、その子弘方は浅見(阿佐見)氏を称した。その子浅見太郎実高は源頼朝に仕えて奥州征伐に従い勲功を挙げ、建保四年(1216)十二月左兵衛尉に任じた。


 浅見氏は武蔵国児玉庄をはじめ、上野国高山庄、吾妻郡中山村、越後国荏保等の地を領した。その後、実高六代の孫家実は関東より越後国に赴いた。おりしも一揆が起こり、家実は守護に属して一揆討伐に功を挙げたと伝えられる。家実は応永四年(1397)に死去したとあることから、南北朝時代を生きた人物であった。

三雲氏の登場

 家実ののち三雲氏の動向は知れないが、寛政重修諸家譜によれば明応年中(1492~1501)、新左衛門実乃(さねのり)が甲賀郡下甲賀を領して三雲に住した。そして、地名にちなんではじめて三雲を称した。その子源内左衛門行定は下甲賀ならびに野洲・栗太両郡を領して、三雲に築城してそこに拠ったという。かくして、近江国甲賀郡に土着した三雲氏は、甲賀五十三家の一つに数えられ、その領地の高は実に九万石であったという。


 とはいえ、寛永系図に記された三雲氏の伝承はそのままには受け取れないものである。郷土誌などによれば、三城雲は長享元年(1487)、足利義尚に攻められた六角高頼が、三雲新左衛門典膳実乃に命じて築かせたとある。

府軍との直接対決を避けて甲賀に逃れた高頼は、本城観音寺城の詰めの城として三雲典膳に城を築かせたのであった。義尚の六角攻めは鈎の陣と呼ばれ、三雲氏ら甲賀五十三家の武士たちは、六角氏に属して鈎の陣を夜襲するなどして散々に幕府軍を悩ました。


 近江国甲賀郡の各地に割拠して甲賀五十三家と呼ばれた武士たちは、勢力をたくわえ地縁、血縁で結ばれ、戦国期には六角氏の麾下に属して活躍した。とくに青木・山中・隠岐・池田・和田、そして三雲の六家は大身で甲賀六家と呼ばれた。また、先述の鈎の陣に殊勲のあった二十一武士は、甲賀二十一家と称され三雲新蔵人がその一に数えられた。

このように三雲氏は、甲賀武士の一として相応の地歩を築き、典膳実乃のころには六角氏から厚い信頼を受ける存在となっていた。

しかし、九万石という所領高は破天荒に多過ぎるものといえよう。

三雲城 縄張り

典膳実乃の築いた城ははじめ吉永城と呼ばれ、実乃のあとを継いだ行定がさらに整備し三雲城と呼ばれるようになったらしい。

 ●三雲城遠望 ●三雲城への道標・虎口の石組・あちこちに土塁が確認できる・古井戸の跡、底には落ち葉が。


行定の名乗りは六角定頼(1495~1552)の一字を賜ったと推測され、六角氏家中に重きをなしていたことがうかがわれる。