築城年代は定かではないが建久年間(1190年~1199年)に伊庭高実によって築かれたと云われる。 伊庭氏は観音寺城の佐々木行実の四男高実が、伊庭の領地を治めて伊庭氏を名乗った事に始まるという。
観音寺城の佐々木行実の四男高実が伊庭の領地を治めて伊庭氏を名乗った。伊庭城址には、明治時代に伊庭小学校に、昭和23年小学校後に現在勤節館が建てられているが保存されています。
伊庭城石垣(現在は大中湖・須田沼も干拓され、伊庭川を半分に埋め立て生活道路に!
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伊庭貞隆の時代になると主家佐々木六角氏に匹敵する勢力を持つようになり、文亀二年(1502年)佐々木六角高頼は伊庭貞隆を排除するべく立ちあがる。貞隆は湖西へ逃れると管領家細川氏の援助を受けて攻勢に転じ、高頼は観音寺城を捨てて音羽(日野町)の蒲生氏を頼った。その後さらに足利将軍を巡る争いがおこり、伊庭氏は岡山城が落城して没落した。
元禄11年(1697年)旗本三枝氏が領主となって陣屋が築かれ明治に至る。
現在勤節館が建てられている、明治29年の大洪水碑が120cm位も!
現在勤節館が建てられている付近が城址で、
近くの水路に架かる橋は「陣屋橋」と名付けられ、付近の水路は堀跡で石垣は当時のものだという。
水茎岡山城の遠景(八幡山城址より)
佐々木定綱以来、約300年にわたって近江を支配してきた近江守護職・佐々木六角氏は応仁・文明の乱以降、近江における支配を磐石にした。こうして、六角氏が守護職として確固たろ地位築けた背景には、寺社・将軍の奉公衆等の領地を押領する形で、近江における領地支配の強化あげられる。 この領地押領が原因で長享元年(1487)足利義尚による第一次六角征伐、および、延徳3年(1491)の足利義材による第二次六角征伐と、二度にわたって近江親征がおこなわれた。
六角氏は近江新征の難局を家臣団とともに乗り越えたが、この近江新征によって、守護代の伊庭氏の発言権がますことに。
文亀二年(1502)10月、伊庭氏の勢力拡大に危機感を覚えた六角氏高瀬は伊庭貞隆の排除に動き、高瀬は一時勝利するが、官領細川政元の支援を得た、伊庭貞隆によって、青地城・馬渕城・永原城を落とされ、高瀬は観音寺城を捨てて音羽(日野町)の蒲生氏を頼った落ち延びた。(第一次伊庭の乱)
こうして主家・六角氏との戦いに勝利した伊庭氏は六角氏を凌ぐ権力を持つようになる。
永正四年(1507)官領細川氏の家督争いがもとで、官領細川政元が家臣に暗殺されると、政元の庇護のもとで第11代将軍足利義澄は、大内氏の援護を受け上洛した前将軍足利義材によって将軍職を追われる。
都落ちした足利義澄は伊庭貞隆によって伊庭氏の家臣・九里備前守の水茎岡山城で保護されたが、義材派であった六角高瀬との対立が再燃。永正8年(1511)足利義澄が水茎岡山城で没すると、六角高瀬は好機到来と水茎岡山城を攻め九里美髯守を討った。
この水茎岡山城の戦いを契機に、六角氏と伊庭氏との戦い永正11年(1514)から6年の長きわたって続くが、永正17年(1520)水茎岡山が陥落して内乱は終結し、伊庭氏は没落した(第二次伊庭の乱)
水茎岡山城遠景【八幡山より】
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