淡海観光ボランティアカイド交流研修会 第一部(甲賀市立 忍の里 プララ)
・文化鑑賞・・・・「鈴鹿馬子唄」
開会式・・・・来賓祝辞・主催者挨拶
講演・・・・「甲賀の歴史的風土と甲賀らしさの魅力」 講師 米田 実(甲賀市史編さん室長)
・・・・午後は、
続いて、現地検証へ
淡海観光ボランティアカイド交流研修会 第一部(甲賀市立 忍の里 プララ)
・文化鑑賞・・・・「鈴鹿馬子唄」
開会式・・・・来賓祝辞・主催者挨拶
講演・・・・「甲賀の歴史的風土と甲賀らしさの魅力」 講師 米田 実(甲賀市史編さん室長)
・・・・午後は、
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信長公記
5、遭難行路 千草峠にて鉄砲打ち申すの事
5月19日、浅井長政は鯰江城①に軍勢を入れ、同時に市原②に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑③の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え④に変更した。
そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、その中の信長公が十二、三間の距離⑤まで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。
①現滋賀県愛東村 ②現永源寺町市原野 ③現永源寺町甲津畑 ④前出。近江から伊勢へ抜ける経路。 ⑤約22~24mほど
勘六左衛門の松。信長公記事にもしばしばでてくる、速水勘六左衛門は、郷士で戦国時代に最も活躍した。織田信長が近江路入るに際しその召に応じ、数々の武勲を立てている。信長はそのため近江と美濃尾張を往復のとき、たびたびこの千種街道を利用。その際、杉峠より布施(八日市)まで警護したのが勘六左衛門であった。途中の信長は速水家で休憩していた。この見事な松は信長が愛した木で、馬をつないだことから、別名「信長馬しなぎの松」とも呼ばれている。