城郭探訪

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信長公記 巻三(一部) 太田牛一著

2012年11月12日 | 武将

 四月廿日 信長公京都より直ちに越前へ御進発。坂本を打ち越え、其の日、和邇に御陣取。

廿一日高島の内、田中が城に御泊。

廿二日若州熊河、松宮玄蕃所に御陣宿。

廿三日佐柿、栗屋越中が所に至りて御着陣。

翌日 御逗留。

廿五日越前の内敦賀表へ御人数を出ださる。信長公懸けまはし御覧じ、即ち手筒山へ御取り懸け候。彼の城、高山にて、東南峨々と聳えたり。然りと雖も、頻に攻め入るべきの旨、御下知の間、既に一命を軽んじ粉骨の御忠節を励まれ、程なく攻め入り、頸数千参百七十討ち捕り、並びに金ケ崎の城に、朝倉中務大輔楯籠り候。

翌日、又、取り懸け、攻め干さるべきのところ、色々降参致し、退出候。引壇の城、是れ又、明け退き候。即ち、滝川喜右衛門、山田左衛門尉両人差し遣はされ、塀・矢蔵引き下ろし、破却させ、木目峠打ち越え、国中御乱入なすべきのところ、江北浅井備前、手の反覆の由、追々、其の注進候。然れども、浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべしと、おぼしめし候ところ、方々より事実の注進候。是非に及ばざるの由にて、金ヶ崎の城には、木下藤吉郎残しをかせられ、

 四月朔日 朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に至って御人数打ち納められ、是れより、明智十兵衛、丹羽五郎左衛門両人、若州へ差し遣はされ、武藤上野人質執り候て参るべきの旨、御諚候。即ち、武藤上野守母儀を人質として召し置き、其の上、武藤構へ破却させ、

 五月六日 はりはた越えにて罷り上り、右の様子言上候。然る間、江州路次通りの御警固として、稲葉伊予父子三人、斎藤内蔵之佐、江州守山の町に置かれ候ところ、既に一揆蜂起せしめ、へそ村に煙あがり、守山の町南の口より焼き入りしこと、稲葉諸口を支え、追ひ崩し、数多切り捨て、手前の働き比類なし。さて、京表面々等の人質執り固め、公方様へ御進上なされ、天下御大事これあるに於いては、時日を移さず御入洛あるねきの旨、仰せ上げらる。

五月九日御下、志賀の城・宇佐山拵へ、森三左衛門をかせられ、

 十二日に永原に、佐久間右衛門置かれ、長光寺に、柴田修理亮在城。安土城に、中川八郎右衛門楯籠る。此の如く塞々に御人数残しをかせられ、

千草峠にて鉄砲打ち申すの事

 五月十九日御下のところ、浅井備前、鯰江の城へ人数を入れ、市原の郷一揆を催し、通路を止むべき行仕候。然れども、日野蒲生右兵衛門大輔、布施藤九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千草越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善住坊と申す者、佐々木左京大夫承禎に憑まれ、千草・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく、

十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道昭覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく

五月廿一日濃州岐阜御帰陣。

たけくらべ・かりやす取出の事
 さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべ・かりやす、両所に要害を構へ候。信長公御調略を以って、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。
 

六月十九日 信長公御馬を出だされ、堀・樋口謀叛の由承り、たけくらべ、かりやす、取る物も取り敢えず退散なり。たけくらべに一両日御逗留なさる。

 六月廿一日、浅井居城小谷へ取り寄せ、森三左衛門、坂井右近、斎藤薪五、市橋九郎右衛門、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破河内、丸毛兵庫頭、雲雀山へ取り上げ、町を焼き払ふ。信長公は、諸勢を召し列れられ、虎御前山へ御上りなされ、一夜御陣を居えさせられ、柴田修理、佐久間右衛門、蜂屋兵庫頭、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、江州衆に仰せ付けられ、在々所々、谷々入々まで放火候なり。