京極氏菩提寺「清滝寺」
京極氏詰め城上平寺城跡
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/91645b723c73be1e2c6c67884d3594a6
城塞化された山寺・・・弥高寺跡
竜王山の城と山寺
京極氏菩提寺「清滝寺」
京極氏詰め城上平寺城跡
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城塞化された山寺・・・弥高寺跡
竜王山の城と山寺
座学
大森城 所在地:東近江市(旧八日市市)上大森町 map:http://yahoo.jp/qaxVJr
大森陣屋 所在地:東近江市(旧八日市市)大森町 map:http://yahoo.jp/-gciOT
大森城址や大森陣屋 研修・見学会 2012.11.25
最上氏 大森陣屋
大森藩
大森藩は、近江国蒲生郡大森(滋賀県東近江市)に陣屋を構え、江戸時代前期に存在した外様大名の藩。
元和8年(1622年)お家騒動により改易された最上義俊が蒲生郡・愛知郡・甲賀郡、三河国内に1万石を与えられ立藩した。義俊は寛永8年11月22日(1632年1月13日)に27歳(数え年)で没した。 翌、寛永9年(1632年)家督を継いだ嗣子・義智は僅か1歳であったため知行地を蒲生郡周辺に半減され、5千石の交代寄合となったため廃藩となった。その後、最上家はこの地で交代寄合として明治維新まで存続した。
山形盆地周辺の地を治める程度にすぎなかった最上家を、出羽山形57万石の近世大々名にまで引き上げた戦国の驍雄・最上義光(よしあき)の孫・義俊が、1617(元和3)年、幼少で家督を継ぐに及んで“最上騒動”を起こし、元和8年に最上氏は所領没収となった。
幕府はこの地に新たに1万石を与えて最上家の家名存続を許し、義俊は、出羽から遠く離れた近江の新領地に陣屋を構えた。それが大森陣屋である。
1631(寛永8)年、最上義智が継承する際、幼少を理由にさらに5千石を削られ、以後、5千石の交替寄合(旗本)として、この地で命脈を保ち明治まで続いた。
現在、陣屋が構えられた大森の地には、遺構は何も残されていない。大森町交差点の南側を旧道に入った玉緒小学校の反対側に、最上氏「大森陣屋跡」の石碑が置かれているだけです。
しかし、大森から一山越えた車で10分程度にある石塔寺の山門に陣屋の高麗門が移築されて残っています。移築 城門
石塔寺に移築されている表掲の高麗門
寺内(裏)側からみたところ
最上おどりもhttp://www.higashiomi.net/db/?action_detail=true&sid=101
大森城跡見学に
布施淡路守の子の布施藤十郎公保の居城と伝えられます。
布施氏は六角氏の重臣の一族であり、東近江市(八日市市)布勢町の布施館及び布施山城が本家筋で、
大森布施氏は分家と考えられます。
この大森城と布施山城及び観音寺城の淡路丸が布施氏の城郭と言えます。コイワカガミが咲いていた!
大森城の主郭・曲輪・土塁・虎口の配置
信長公記に、布施氏が記録され著名な武将「布施藤九郎」の城ならば、永源寺八風街道から織田信長の侵功に備えて城郭の東部の増設や補強をしている事も!
大森城の東部15m下に。東部郭郡、外水堀(今は灌漑用水に)の散在を確認、面積も2倍(2万㎡)もの堅固な山城と言える。
檜の植栽林で、全く整備・手入れされていないが、
消費カロリー 363.0kcal 脂肪消費量 51.8g
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。