大津城は、琵琶湖に通じる堀で囲まれた三の丸、二の丸、奥二の丸と、琵琶湖に突き出した伊予丸と本丸からなる、水城である。
京極高次が、関ヶ原の前哨戦となる籠城戦では、西軍の大軍を10日以上釘付けにし、関ヶ原での勝敗の帰趨を左右したといわれる。
大津城の天守は、五層四重であったが、三層三重に変更して彦根城に移築され、現存している。
大津城の城域は、市街地として再開発されることによって、完全に消失している。
石碑が空しく建てられているのみ。
昭和55年駒札・・・資料【佐々木源氏】より
天正14年(1586)、羽柴秀吉の命により、浅野長政が坂本城を移築して築城する。
天正19年(1591)、新庄直頼が城主となる。
文禄3年(1594)、増田長盛が城主となる。
文禄4年(1595)、京極高次が近江八幡城より移封され、城主となる。
慶長6年(1600)、関ヶ原の合戦の前哨戦として、城主・京極高次は大津城に籠城して西軍と戦う。9月8日から攻撃を受け、14日に開城する。
慶長7年(1601)、戸田一西が城主となるが、膳所に築城して移り、大津城は廃城となる。本丸跡は、以後、大津代官所・幕府蔵となる。
歴 代 城 主
浅野長政、新庄直頼、増田長盛、京極高次、戸田一西
大津城跡碑
豊臣秀吉は、近江国の情勢が安定し、比叡山を保護するようになり、また大坂城を拠点にしたので、軍事面で、また北国からの物資の流通の中継地としての「大津」の重要性が高まったことから、再建した坂本城を廃城して、大津へ城を移しました。
京都吉田社の神官、吉田兼見(かねみ)の日記「兼見日記」によると天正十四年(1586)2月に秀吉は、大津に頻繁に下向していたと記されているので、このあたりだと推測されます。
初代城主は、坂本城の第4代目の浅野長吉がそのまま就任しました。長吉は交通の要所である大津には船が少なかったので、もろもろの浦から船を集めさせ「大津百艘船」(おおつひゃくそうせん)という船持仲間ができました。この大津百艘船にはすべての課役を免除し、大津の浦から出る荷物や旅人はほかの浦の船に乗せないという特権を認める制札を発行しました。これが、大津の浦が物資の集散地として基盤を築くことになりました。浅野長吉のあとの城主、増田長盛そして新庄直頼も大津百艘船の制札を発行しています。
直頼が摂津の高槻城に移ったあと、城主となったのが近江佐々木の血を受け継ぐ京極高次でした。高次も歴代城主と同様、大津百艘船の制札の発行を出しています。
大津城籠城【1】
大津城の攻防は、戦国時代の終わりを告げる「関ヶ原の合戦」の前哨戦でした。秀吉が慶長三年(1598)、伏見城で死去すると、五大老の一人、徳川家康が台頭してきました。その翌年、秀吉の後継者秀頼を補佐していた前田利家が病死すると、勢力の均衡が一挙にくずれていきました。
そこで、家康は、前田利家の子、加賀の前田利長や丹後の細川忠興を押さえ、会津の上杉景勝の征伐を企てました。この動きに石田三成の呼びかけで、五大老の毛利輝元、宇喜多秀家をはじめとする旧豊臣方の恩顧の諸大名が大坂城に集結しました。
家康はこの動きに対し、慶長四年6月18日、大津城の京極高次と会い密談を交わしていたと言われています。家康が上杉討伐のため、会津に出発すると西軍は伏見城に総攻撃を駆けて10日目に陥落させて、大津へと兵を進めました。
京極高次は、豊臣方の恩顧の大名であり、妻の「お初」は、秀吉の側室「淀殿」の妹であり、高次の妹(姉とも言われます)「松の丸」も秀吉の側室でありました。一方、妻「お初」の妹は、徳川家康の次男、二代将軍「徳川秀忠」の妻となっていましたので、西軍につくのか、東軍につくのか苦しい立場でありました。ただ、高次は、すでに家康から、大津城の修繕費として白銀三十貫文を受けるなどすでに深い関係でした。
高次は、とりあえず西軍に応じて、加賀の前田征伐に従いましたが、兵千人を大津城に残して、二千の兵を率いて出発しましたが、一向に進まず、20日目でやっと余呉に着きました。この動きに西軍が疑問を持ち出すと、急転し、海津から船で、9月3日に大津城へ帰還しました。この時、高次は籠城を決心していたと考えられます。
大津城籠城【2】
大津籠城は慶長五年(1600)9月4日から始まり、家臣の妻子をよんで兵糧米の確保や、塩や味噌、醤油も城内の蔵に入れ、防御を堅固にするため城のまわりを14時間もかけて焼き払いました。
この籠城に対して、西軍、立花宗茂と毛利軍の率いる一万五千の大軍は大津城を包囲し、大津城が非常に見やすい、城の南西にある長等山(ながらさん)の山腹に陣をはりました。西軍の総攻撃は9月6日からはじまり、城外の前線陣地は全滅となりましたが、城内の守りは堅く、一進一退の攻防が続きました。そこで西軍は、長等山に大砲を据えて、城内に向かって砲撃を開始いたしました。この攻撃ぶりを京の町衆も手弁当をもって見物にきていたといわれています。城内はこの攻撃にも開門の様子なく、6日目を迎えましたが、西軍の外堀を埋める戦略により、より激しい攻撃が行われ、9月14日、秀吉と親しかった高野山の僧、木喰応其(もくじきおうご)と新庄直忠が本丸に入り、和睦開城を申し入れました。
当然、高次はこれを拒否しましたが、家臣の強い諫言(かんげん)によってついに、開城することとなり、11日間の大津籠城はおわり、9月15日早朝、高次は兵士、老人、女子供およそ二、三百人を引き連れて高野山を目指しました。高次が高野山を目指した、ちょうどその日の朝から、天下分け目の合戦「関ヶ原の合戦」の幕が切っておとされましたが、大津籠城で足止めされた大軍が、この合戦に間に合っていたとしたら、歴史が塗り代わっていたかもしれません。
高次は、妹松の丸が秀吉の側室になっていたことから、秀吉配下の武将となりましたが、大津城攻防戦では東軍方として籠城し、西軍を大津に足止めしたことは有名です。
関ヶ原合戦のあと、徳川家康は、大津城主に徳川家譜代の戸田一西(とだかずあき)を据えましたが、9ヶ月のちに大津城を廃城し、新たに膳所(ぜぜ)が崎に、膳所城を築きました。
廃城の際、大津城は落城はしていなかったということから、天守閣は、井伊家の彦根城の天守閣として今も残っています。
大津城の戦い
大津城の戦い(おおつじょうのたたかい)は、慶長5年9月7日(1600年10月13日))から同年9月15日(10月21日)まで、近江国大津城を巡って行なわれた戦い。関ヶ原の戦いの前哨戦と位置付けられる。
経緯
豊臣秀吉の死後、天下人の座を狙う徳川家康と、豊臣氏擁護の立場から家康と対立する石田三成ら反家康派の対立は、慶長5年の会津征伐を契機として表面化する。三成は家康が会津攻めに赴いたことを好機として、大谷吉継や毛利輝元ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵した。そして、家康が畿内を留守にしている隙をついて伏見城を落とし、次いで北陸や伊勢方面の平定に乗り出していた。
北陸方面の平定には、越前敦賀の大名である大谷吉継が担当することとなった。そして、この北陸方面軍の一員として、近江大津城の城主・京極高次が加わっていた。ところが高次は、吉継が北陸から美濃へと転進する最中に突如東軍に寝返り、手勢3000名を率いて大津城に籠城し、防備を固め始めた。この出来事に大坂城の淀殿は驚き、城中にあった高次正室の初(常高院、淀殿の妹)に使者を遣わして停戦・降伏を求めるが、大津側は断固として拒否した(高次の姉妹で淀殿と同じく秀吉の側室であった松の丸殿(京極竜子)も、共に城中にあったと言われている)。
これに対して西軍側は、高次の裏切りに対する報復として、毛利元康を大将とし、それに立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら九州方面の諸大名の軍勢を中心とした総勢1万5000人の軍勢をもって、慶長5年9月7日より大津城に対して包囲攻撃を開始した。しかし高次は城を死守し、容易に城攻めは捗らなかった。中でも赤尾伊豆守・山田大炊の活躍はめざましく、精兵500を率いて城外の大軍へ討って出て、存分に暴れ回ったという。攻めあぐねた寄せ手は、13日には大砲を城内に撃ち込んだ。砲弾は天守にも命中、城内は大混乱となる。高次も必死に防戦するが、ここに立花勢の先鋒大将・立花吉右衛門が一隊を率いて城壁に取り付いた。
高次をはじめとする京極勢は奮戦したが、遂に力尽き、9月15日に降伏して大津城を開城する。高次は一命を助けられ、高野山に上って出家することとなった。
なお、高次の正室である初にとって、落城の憂き目にあったのはこれが3度目である。
影響
この大津城攻防戦は西軍の勝利に終わったが、大局的には西軍の敗北につながることになった。なぜなら、大津城が開城した9月15日は、関ヶ原の戦いのまさに当日だったからである。つまり西軍は、本来なら関ヶ原にあったはずの1万5000人の兵力を欠いたまま東軍と戦う、という不利な状況を自ら招いたのである。特に、家康がその武勇を恐れていた立花宗茂が関ヶ原の本戦に参加できなかったことは、家康にとっては幸運であり、西軍にとっては不運であった。もし宗茂が1万を超える大軍と共に本戦に参加できていたなら、東西両軍の勝敗は変わっていた、という可能性さえ指摘されているのである。結果として、西軍は大津城を陥落せしめたものの、同じ日のうちにその局地的勝利は意味を失った。
立花宗茂は大津城を開城させた後、軍勢を率いて草津まで進出したが、そこで西軍の壊滅を知って大坂城への退却を余儀なくされ、戦後に改易されてしまった。
一方、敗軍の将である京極高次に対して家康は、関ヶ原戦後に高次の弟・京極高知(関ヶ原で東軍の将として功を挙げた)を使者として高野山に派遣し、大名としての復帰を許しただけではなく、若狭一国・9万2000石を与えて功に報いた。家康は、宗茂を大津城に引き付けたことを大いに賞賛したという。
関連項目
田辺城の戦い - 西軍側が城を落としたものの、関ヶ原本戦に間に合わなかった。
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