城郭探訪

yamaziro

塩津城(大平山城・山麓遺構)  近江国(西浅井)

2015年12月07日 | 居城

大平山と森の中に塩津浜五城 郭群

 お城のデータ

所在地:長浜市西浅井町塩津浜(旧・伊香郡) map:http://yahoo.jp/DgXxhs

現 状:森林

区 分:居館

築城期:南北朝期

築城者:熊谷氏

標 高:95m   比高差:5~10m

遺 構:曲郭、土段(基壇)、石垣、虎口、土塁、水の手

訪城日 :2015.12.6

お城の概要

塩津城郭群の、塩津浜集落の中心部(公民館)の北方裏山に残存している、仮称)大平山城(山麓屋形)の簡易調査!

城郭遺構が曲郭、土段(基壇)、石垣、虎口、土塁、水の手・石仏多く残存する。

 ”殿谷形縄張り”(丘陵に挟まれて館があり、その背後丘陵が城になっている)をなしており、県下及び関東一円に見られる特有な地名であり、関東は武蔵・熊谷から当地塩津に地頭として来任の熊谷氏の関わりの城館であるが故と言えるであろう。

琵琶湖の最北端の港で、古来より今津、海津とともに「湖北三津」と称せられ、かつては敦賀と大津その他琵琶湖の諸港を結んだ要港として栄えた。
城跡は、琵琶湖や塩津港、常に港に出入りする諸船の動きを監視していた。諸船荷役料・通行料徴収や関所の役割を担っていたのであろう。

歴 史

塩津浜は関東・武蔵の熊谷から地頭として永仁の頃(1293~99)に補任してきた熊谷氏に関わりのある城郭と考えられているが、城歴の詳細は不明である。
この熊谷氏は、熊谷直実の兄直正系の支流で、直正より五代目の直朝の時に「江州塩津熊谷衆、此筋也」と『熊谷系図』に注記されているようである。

 「淡海温故」に「此コト所記ニ出ヅ其後京極ノ屋形道清撛愍アリテ召抱ラレ本領ヲ安堵シ代々京極家ニアリ後ハ浅井に属ス明徳ノ比ハ備中守直鎮ト云天下ニ三熊谷ト云ハ安芸ノ熊谷若狭ノ熊谷当国塩津ノ熊谷也其中塩津ヲ嫡トス又当国ニテ三熊谷ト云ハ今西ノ熊谷南濱ノ熊谷塩津ノ熊谷是也塩津ノ兵庫介直昌息主殿介今西ノ弥次郎直光(後改内蔵介)息忠兵衛南濱の連大坊息新次郎信直(後改志摩守)此三家の内何カレ熊谷大膳ト云モノは秀吉公ニ出テ立身シ関白秀次公ニ附けラレ切腹ス塩津外記三代ハ同名ニシテ続ケリコレモ熊谷氏ナルヤ或人曰代々塩津ニ住スル故ニ塩津トモ云ト也天正ノ始メ此塩津外記信長公ヘ出テ安土ニテ病死スルカ桑実寺正覚院に墓誌石塔アリ此流京極丹後守高国ノ家老ナリシガ郎人ノ後知レス」とある。

沢田氏の墓所

塩津城・山麓館(大平山城・山麓遺構)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、大平山城:(山麓遺構簡易調査)

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塩津浜城(塩津浜山城) 近江国(西浅井)

2015年12月07日 | 丘陵城

 

 

 お城のデータ

所在地:長浜市西浅井町塩津浜(旧・伊香郡) map:http://yahoo.jp/cl_pF1

別 称:塩津浜山城

現 状:森林

区 分:山城

築城期:南北朝期

築城者:熊谷氏

標 高:212.5m   比高差:128m

遺 構:三曲郭、土塁、堀切・二重堀切、犬走り、竪堀、土橋、

訪城日 :2015.12.6

お城の概要

 塩津浜山城は、塩津浜集落の塩津神社および真宗大谷派の浄光寺の北方裏山に所在している。
琵琶湖の最北端の港で、古来より今津、海津とともに「湖北三津」と称せられ、かつては敦賀と大津その他琵琶湖の諸港を結んだ要港として栄えた。
城跡は、琵琶湖や塩津港を眺望できる絶好の高台に立地しており、常に港に出入りする諸船の動きを監視していた。
 縄張りは、尾根筋の標高212.5mから154.3mの間に三ヶ所の堀切を穿ち、各堀切に接した下方に土塁や郭、犬走り等を築いている。特に中央部の段郭や帯郭は良く削平され、切岸が鋭く、本城の中枢部と考えられる。
最高所の二重堀切は、大平山の上部より遮断。堀切が異様に目立つ、主郭部(旧愛宕社址)の曲郭から琵琶湖への眺望が印象的である。

歴 史

塩津浜は関東・武蔵の熊谷から地頭として永仁の頃(1293~99)に補任してきた熊谷氏に関わりのある城郭と考えられているが、城歴の詳細は不明である。
この熊谷氏は、熊谷直実の兄直正系の支流で、直正より五代目の直朝の時に「江州塩津熊谷衆、此筋也」と『熊谷系図』に注記されているようである。

 「淡海温故」に「此コト所記ニ出ヅ其後京極ノ屋形道清撛愍アリテ召抱ラレ本領ヲ安堵シ代々京極家ニアリ後ハ浅井に属ス明徳ノ比ハ備中守直鎮ト云天下ニ三熊谷ト云ハ安芸ノ熊谷若狭ノ熊谷当国塩津ノ熊谷也其中塩津ヲ嫡トス又当国ニテ三熊谷ト云ハ今西ノ熊谷南濱ノ熊谷塩津ノ熊谷是也塩津ノ兵庫介直昌息主殿介今西ノ弥次郎直光(後改内蔵介)息忠兵衛南濱の連大坊息新次郎信直(後改志摩守)此三家の内何カレ熊谷大膳ト云モノは秀吉公ニ出テ立身シ関白秀次公ニ附けラレ切腹ス塩津外記三代ハ同名ニシテ続ケリコレモ熊谷氏ナルヤ或人曰代々塩津ニ住スル故ニ塩津トモ云ト也天正ノ始メ此塩津外記信長公ヘ出テ安土ニテ病死スルカ桑実寺正覚院に墓誌石塔アリ此流京極丹後守高国ノ家老ナリシガ郎人ノ後知レス」とある。

 

 旧塩津海道より遠景

近江熊谷氏

熊谷直貞の長男・直正が、近江国浅井郡塩津郷に住んだことに始まる。熊谷氏惣領を称した。室町時代には足利家奉公衆として室町幕府に仕えている。「塩津熊谷衆」はその筋にあたる。 近江国で地頭職を与えられ、赴任して以後、湖北地方一帯に勢力を延ばした。

系譜

『系図纂要』や『姓氏家系大辞典』(太田亮著)によれば、直正以下に4代みえている。熊谷直正━忠直━景貞━直綱━直朝と続いている。また一説によれば、直実━直方━忠通と続き、孫の直綱、その子・直朝とする説もあるという(『姓氏家系大辞典』)。

一族

  • 熊谷直鎮:備中守。六波羅退治「勇傑十六将」の一人として随一の奉公をし軍功を得る。
  • 熊谷直純:室町幕府奉公衆。将軍足利義政の政務に関して目安の手紙を送ったところ追放させられる。その後、高野山で出家。
  • 鳩居堂:近江国今西熊谷氏系統。 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、見学会の資料

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126日 城歩会 無料見学城跡めぐり、城跡トレール調査

 �     長谷川博美Eメール  wwmy29831@maia.eonet.ne.jp

�    『城歩会』事務局 ●宮本まさこ 携帯 090-1583-9033

126() 講師長谷川博美 塩津城&塩津浜城『城歩会』無料見学会

集合場所 長浜市西浅井町 道の駅無料駐車場10時講師長谷川博美事務局宮本
 1 10時 道の駅駐車場(北端の観光案内展示場)受付
  • 塩津城祝山出丸
  • 塩津城東出丸
  • 塩津城本丸
 
  • 塩津浜城第一堀切郭
  • 塩津浜城第二堀切郭(本丸相当)旧愛宕神社址/奥琵琶湖展望
  • 塩津浜城第三堀切(二重堀切)

 

  • 大平山城候補地簡易測量調査
9 16時 道の駅駐車場帰着解
 

塩津城山城(塩津城)  近江国(西浅井)

2015年12月07日 | 平山城

北からの塩津城山城(遠景)

お城のデータ

所在地:長浜市西浅井町塩津浜(旧・伊香郡) map:http://yahoo.jp/Pswb_U

別 名:塩津城

区 分:平山城

標 高:108.5m   比交差30m

築城年:鎌倉期

築城者:熊谷兵庫直高 

城 主: 熊谷兵庫直高が居城きた

遺  構 : 土塁、堀、二重堀切、曲郭、櫓台

目標地:「道の駅 塩津海道 あぢかまの里」の東、小丘陵

訪城日:2015.6.27・2015.12.6

 

 

お城のデータ

琵琶湖では古代から湖上交通が盛んに利用 され、湖北三湊といわれた塩津・大浦・海津の湊が発達していた。

このうち塩津と敦賀を 結ぶ深坂越えの塩津道が最も古い陸路であったと考えられており、塩津浜は水陸交通の要所の地であった。

塩津城山城は、塩津浜の集落と北隣の集落の祝山(ほおりやま)との間にあり、東から西へ突き出した尾根の先端部を掘り切って独立した山塊とし、その山上に築かれたのが塩津城山城である。

東側は堀切、大きく掘り下げられて塩津浜と祝山を結ぶ、旧塩津街道(城坂道)が通されている。

 その堀切は外堀切と箱堀(内堀)の二重堀切。この間が東郭で郭内は二段に築成されている。

箱堀の西側が主郭で、箱堀沿いには多聞櫓が構えられるような幅の広い土塁が築かれている。主郭の西側に急な切岸の二段の段郭が続いている。主郭と箱堀の南側と北側に跨って帯郭が設けられている。城の周囲は、急斜面の高低差の大きい切岸となっている。

 登城口が旧塩津街道から、堀切の南端から獣除けフェンスを越えて城跡に入ったが、城正面(西側)に作業小屋があり、登り口がある。が当時は、湿地・湿田であったようである

登城口が旧塩津街道から、堀切の南端から獣除けフェンスを越えて城跡に入ったが

副曲郭の石垣カ?

箱堀へ

箱掘りから、主郭へ

櫓台

北側の腰曲郭(周囲には腰郭が配されている。

歴 史

琵琶湖では古代から湖上交通が盛んに利用 され、湖北三湊といわれた塩津・大浦・海津の湊が発達していた。このうち塩津と敦賀を 結ぶ深坂越えの塩津道が最も古い陸路であったと考えられており、塩津浜は水陸交通の要所の地であった。

塩津街道と塩津港の警護の役割を担っていたのか!

平安時代末期(12世紀)の塩津港

関東・武蔵の熊谷から地頭として永仁の頃(鎌倉期)に補任してきた熊谷氏の居城と云われるが、城歴の詳細は不明である。

この熊谷氏は、熊谷直実の兄直正系の支流で、直正より五代目の直朝の時に「江州塩津熊谷衆、此筋也」と『熊谷系図』に注記されているようである。

追記

「淡海温故」に「此コト所記ニ出ヅ其後京極ノ屋形道清撛愍アリテ召抱ラレ本領ヲ安堵シ代々京極家ニアリ後ハ浅井に属ス明徳ノ比ハ備中守直鎮ト云天下ニ三熊谷ト云ハ安芸ノ熊谷若狭ノ熊谷当国塩津ノ熊谷也其中塩津ヲ嫡トス又当国ニテ三熊谷ト云ハ今西ノ熊谷南濱ノ熊谷塩津ノ熊谷是也塩津ノ兵庫介直昌息主殿介今西ノ弥次郎直光(後改内蔵介)息忠兵衛南濱の連大坊息新次郎信直(後改志摩守)此三家の内何カレ熊谷大膳ト云モノは秀吉公ニ出テ立身シ関白秀次公ニ附けラレ切腹ス塩津外記三代ハ同名ニシテ続ケリコレモ熊谷氏ナルヤ或人曰代々塩津ニ住スル故ニ塩津トモ云ト也天正ノ始メ此塩津外記信長公ヘ出テ安土ニテ病死スルカ桑実寺正覚院に墓誌石塔アリ此流京極丹後守高国ノ家老ナリシガ郎人ノ後知レス」とある。

マムシ草の実

 

 

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査・ウィキペディア(Wikipedia)、淡海の城

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追記

 

  参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、見学会の資料

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塩津城東出丸 近江国(塩津)

2015年12月07日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地: 長浜市西浅井町塩津浜(旧伊香郡) map:http://yahoo.jp/t1FdvI

築城年:南北朝期

築城者:熊谷氏

区 分:丘陵城

標 高:155m  比高差:50m

遺  構 : 土塁、曲郭、切岸

駐車場:道の駅 塩津海道あぢかまの里駐車場

訪城日 :2015.12.6

お城の概要

 琵琶湖では古代から湖上交通が盛んに利用 され、湖北三湊といわれた塩津・大浦・海津の湊が発達していた。このうち塩津と敦賀を 結ぶ深坂越えの塩津道が最も古い陸路であったと考えられており、塩津浜は水陸交通の要所の地であった。

 塩津城山は、塩津浜の集落と北隣の集落の祝山(ほおりやま)との間にあり、東から西へ突き出した尾根の先端部を掘り切って独立した山塊とし、その山上に築かれたのが塩津城山城である。

 東背後の堀切は、大きく掘り下げられて塩津浜と祝山を結ぶ道路が通されている。その堀切と箱堀の間が東郭で郭内は二段に築成されている。箱堀の西側が主郭で、箱堀沿いには多聞櫓が構えられるような幅の広い土塁が築かれている。主郭の西側に急な切岸の二段の段郭が続いている。主郭と箱堀の南側と北側に跨って帯郭が設けられている。城の周囲は、急斜面の高低差の大きい切岸となっている。

塩津城東出丸は、城山城の東背後の丘陵にある、堀切で大きく掘り下げられて塩津浜と祝山を結ぶ道路が通されている。曲郭や土塁、

 

歴 史

 東・武蔵の熊谷から地頭として永仁の頃に補任してきた熊谷氏の居城と云われる。
この熊谷氏は、熊谷直実の兄直正系の支流で、直正より五代目の直朝の時に「江州塩津熊谷衆、此筋也」と『熊谷系図』に注記されているようである。

 「淡海温故」に「此コト所記ニ出ヅ其後京極ノ屋形道清撛愍アリテ召抱ラレ本領ヲ安堵シ代々京極家ニアリ後ハ浅井に属ス明徳ノ比ハ備中守直鎮ト云天下ニ三熊谷ト云ハ安芸ノ熊谷若狭ノ熊谷当国塩津ノ熊谷也其中塩津ヲ嫡トス又当国ニテ三熊谷ト云ハ今西ノ熊谷南濱ノ熊谷塩津ノ熊谷是也塩津ノ兵庫介直昌息主殿介今西ノ弥次郎直光(後改内蔵介)息忠兵衛南濱の連大坊息新次郎信直(後改志摩守)此三家の内何カレ熊谷大膳ト云モノは秀吉公ニ出テ立身シ関白秀次公ニ附けラレ切腹ス塩津外記三代ハ同名ニシテ続ケリコレモ熊谷氏ナルヤ或人曰代々塩津ニ住スル故ニ塩津トモ云ト也天正ノ始メ此塩津外記信長公ヘ出テ安土ニテ病死スルカ桑実寺正覚院に墓誌石塔アリ此流京極丹後守高国ノ家老ナリシガ郎人ノ後知レス」とある。

新しい熊の爪跡

  参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、見学会の資料

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塩津城出丸(祝山(ほおりやま)城) 近江国(塩津)

2015年12月07日 | 丘陵城

 

お城のデータ

別 名:祝山(ほおりやま)城

所在地: 長浜市西浅井町祝山(旧伊香郡) map:http://yahoo.jp/2b7l3j

築城年:南北朝期

築城者:熊谷氏

区 分:丘陵城

標 高:170m  比高差:85m

遺  構 : 土塁、枡形虎口、曲郭、切岸

駐車場:道の駅 塩津海道あぢかまの里駐車場

訪城日 :2015.12.6

お城の概要

 琵琶湖では古代から湖上交通が盛んに利用 され、湖北三湊といわれた塩津・大浦・海津の湊が発達していた。このうち塩津と敦賀を 結ぶ深坂越えの塩津海道が最も古い陸路であったと考えられており、塩津浜は水陸交通の要所の地であった。

 塩津城山城は、塩津浜の集落と北隣の集落の祝山(ほおりやま)との間にあり、東から西へ突き出した尾根の先端部を掘り切って独立した山塊とし、その山上に築かれたのが塩津城山城である。

 東背後の堀切は、大きく掘り下げられて塩津浜と祝山を結ぶ道路が通されている。その堀切と箱堀の間が東郭で郭内は二段に築成されている。箱堀の西側が主郭で、箱堀沿いには多聞櫓が構えられるような幅の広い土塁が築かれている。主郭の西側に急な切岸の二段の段郭が続いている。主郭と箱堀の南側と北側に跨って帯郭が設けられている。城の周囲は、急斜面の高低差の大きい切岸となっている。
登り口が何処か分からなかったので、背後堀切の南端から獣除けフェンスを越えて城跡に入ったが、城正面(西側)に作業小屋があり、その手前の作業小屋の右手奥に登り口があるようである。

塩津城山城出丸(祝山(ほおりやま)城) 

祝山地区への城坂道を下りると墓地がある、墓地への参道10m程登って、西側の林に入ると段築の遺構(旧段々畑のように)が標高170m位まで続くが、西側の谷側に土塁や横矢・枡形虎口の城郭遺構が観察出来る。

祝山城中腹から「塩津城山城」

歴 史

 東・武蔵の熊谷から地頭として永仁の頃に補任してきた熊谷氏の居城と云われる。
この熊谷氏は、熊谷直実の兄直正系の支流で、直正より五代目の直朝の時に「江州塩津熊谷衆、此筋也」と『熊谷系図』に注記されているようである。

「淡海温故」に「此コト所記ニ出ヅ其後京極ノ屋形道清撛愍アリテ召抱ラレ本領ヲ安堵シ代々京極家ニアリ後ハ浅井に属ス明徳ノ比ハ備中守直鎮ト云天下ニ三熊谷ト云ハ安芸ノ熊谷若狭ノ熊谷当国塩津ノ熊谷也其中塩津ヲ嫡トス又当国ニテ三熊谷ト云ハ今西ノ熊谷南濱ノ熊谷塩津ノ熊谷是也塩津ノ兵庫介直昌息主殿介今西ノ弥次郎直光(後改内蔵介)息忠兵衛南濱の連大坊息新次郎信直(後改志摩守)此三家の内何カレ熊谷大膳ト云モノは秀吉公ニ出テ立身シ関白秀次公ニ附けラレ切腹ス塩津外記三代ハ同名ニシテ続ケリコレモ熊谷氏ナルヤ或人曰代々塩津ニ住スル故ニ塩津トモ云ト也天正ノ始メ此塩津外記信長公ヘ出テ安土ニテ病死スルカ桑実寺正覚院に墓誌石塔アリ此流京極丹後守高国ノ家老ナリシガ郎人ノ後知レス」とある。

  参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、見学会の資料

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小清水城 近江国(野洲)

2015年12月07日 | 居城

お城のデータ

所在地:野洲市妙光寺町(旧野洲郡野洲町) map:http://yahoo.jp/7MSMLJ

http://yahoo.jp/m5IHP0

区 分:平城

現 状:寺地・森林

遺 構:土塁・堀・曲郭址

築城期:

築城者:三上氏カ?

目 標:妙光寺公民館

駐車場:空き地

訪城日:2015.12.5

お城の概要

三上氏館の南西500mに位置し、三上山を背後に城郭遺構が残る。

堀は用水路の改変され、左側の溜池の方から迂回して城内に入った、西側の住宅の間に土塁が綺麗に残る(宅地の方が管理しているようだ)。

 この橋の正面の林の中に城址遺構が残る

歴 史

詳細不明である。

堀(用水路)

城郭内

土塁

三上山

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、史跡ウォーカー

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