城郭探訪

yamaziro

新庄城(大善寺遺構)   近江国(高島)

2015年12月29日 | 平城

磯野員昌が高島郡支配の拠点としたお城。

お城のデータ

別名 大善寺遺跡

所在地:高島市(旧:高島郡)新旭町新庄    map:http://yahoo.jp/z7uNc6

区 分:平城

比 高:-m 

現 状:工場・学校・宅地・畑地

遺 構:土塁、駒札=現地説明板

築城期;室町期

改築期:織豊期

築城者:新庄氏

改築者:磯野氏

城 主:浅見俊孝、多胡久秀・定信、磯野員昌、織田(津田)信澄

標地:大善寺・新旭南小学校

駐車場:路上駐車

訪問日:2015.12.23

お城の概要 

  新庄城の主郭は国道161号線の右手の綾羽工業の工場周辺と推定されます。主要部も国道161号線上、新旭南小学校一帯と考えられ、(発掘調査では土塁・石列・井戸が検出されたようです)小学校西側の集落にある大善寺境内から東側の水田を囲む様に土塁の遺構が残る。「大善寺の遺構」この遺構も新庄城の一部であると寺の山門前にある案内板に記載されていた。

磯野員昌が在城していた新庄城について、明治時代の新庄村の絵図には、大善寺の東・西・北の3方に土塁(土手)や堀の痕跡と考えられる「コの字」に囲む土地割が見られ、現在も土塁が残っています。この囲まれた空間が、新庄城の中心部と推定されています。 この方形の区画を中心として、「西手」「東町」の小字名が残るまでの間と、「二ノ丸」「三ノ丸」の地名が残るエリアが、新庄城の範囲とされています。 国道161号線バイパスに伴う「二ノ丸」「城ノ内」の発掘調査では、堀や土塁、石敷、井戸などが発見され、城下であった。

 また、大善寺の北側の東西に伸びる道沿いには、新庄城下の町場、東側の南北に伸びる道沿いには、武家屋敷があったことが想定され、員昌によって城下町整備計画がすすめられたと推測されています。大善寺周辺は重臣屋敷址ではないかと推測され、寺と隣の水田を囲むようにコの字状に土塁が巡ります。

歴 史 

 元々は清水山城の出城として築城されたようですが、築城時期などは定かではない。高島氏一族の新庄実秀が居城した。永正年間には浅見俊孝、永禄年間には多胡久秀・定信が城主であった。元亀四年(1573年)に織田信長は多胡宗右衛門に本知を安堵したとあるようです。 新庄城は、佐々木越中氏が城主であった清水山城の出城と伝えられ、戦国時代には浅見氏や多胡氏が城主であったと伝えられています。

新旭町新庄に所在する新庄城は、天正元(1573)年7月の織田信長の高島郡攻略後、磯野員昌が高島郡の支配の拠点とした城郭。

 員昌は浅井長政につかえ、六角氏に対して最前線となる佐和山城の城主でした。元亀元(1570)年6月の姉川の合戦では、浅井軍の先鋒として出陣し、織田軍の十三段の備えのうち、十一段まで撃破する猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」の逸話として残っています。

 姉川の合戦後、包囲された佐和山城に7か月間籠城しましたが、やむなく信長に降りました。員昌とろう城兵は、船で高島まで移送されました。信長は員昌に対し、高島郡内の支配を命じます。この時の拠点となった城が新庄城です。

 員昌は、善積荘(よしづみのしょう)と木津荘(こつしょう)の境界争いの裁定など、郡内の民政にあたるほか、元亀元年5月に千草越を通過していた信長を鉄砲で狙撃し、逃亡していた杉谷善住坊を、天正元年9月に高島郡堀川村の阿弥陀寺で捕らえ、岐阜に送っています。びわ湖の源流.comより(杉谷善住坊が、天正元年9月に高島郡堀川村の阿弥陀寺で捕らえた。)

天正年間の初め頃に、信長の甥の織田(津田)信澄を養子にし、天正4(1576)年には「今津より北」を員昌が、「今津より南」は、信澄が統治したとされています。しかし、磯野員昌は天正6(1578)年2月、信長の怒りを買ったため、高野山に入りました。

 信長は、信澄に高島郡の一郡支配を命じ、高島郡支配の拠点も新庄城から大溝城に移ります。大溝城下町の建設にあたり、新庄城下から町場の移転も行われました。

 織田信澄は、大溝城を新たに築いて移り、新庄城は廃城となった。

『滋賀県百科事典』によりますと、

大善寺の概要は「高島郡新旭町大字新庄字東町にあり、放光山大善寺と称し、天台真盛宗。本尊大日如来(木造坐像)は伝教大師作とつたえられ、重要文化財(藤原期)に指定されている。べつに伝恵心作観音立像があり、この像は口碑に旧弥勒寺の本尊であったが、堂塔が破壊し、安曇川の洪水のときひろいあげて大善寺におさめたという。

 (中略)大善寺の創立は延暦年間(782~806)で、最初熊野山の堂立山にあったのを寛平年間(889~98)に東河原村(現、大字新庄)の現在地にうつった。延暦寺の飛地境内の一区で当時は七堂伽藍がそなわっていたが、

 1571年(元亀2)織田信長に焼打ちされ衰退した。1578年(天正6)織田信澄が新庄城から大溝城へうつったとき、大溝城下に大善寺の別院を建立した。1582年(天正10)6月丹羽長秀は新庄、万木、三重生に26石余を寄進した。延宝年間(1673~81)火災にかかり諸堂什器はすべて焼失した。本尊はさいわい難をのがれた。(河原喜久男)」とあります。なお、高島郡新旭町大字新庄字東町は現在高島市新旭町新庄になっています。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査報告、淡海の城、びわ湖の源流.com

     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!