城郭探訪

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小松城(伊藤氏城・北小松城)      近江国(志賀・北小松)

2015年12月26日 | 平城

 

お城のデータ

在地:大津市(旧志賀郡)志賀町北小松) 旧小松郵便局map:http://yahoo.jp/r--5Pl

    吉兵衛屋敷 :大津市(旧志賀郡)志賀町北小松 徳善寺の西(個人宅)http://yahoo.jp/pnu0xU

別 称:伊藤氏城・北小松城

区 分:平城

現 状:宅地・旧郵便局

築城期:室町期

築城者:伊藤氏

城 主:小松内膳(江州佐々木南北諸士帳)、伊藤氏

遺 構:屋敷跡

目標地:志賀小松局、JR北小松駅

訪城日:2015.11.7・2015.12.23

資料文献

名古屋女子大学 丸山竜平教授は、

  滋賀県中世城郭分布調査委員会の委員(滋賀県教育委員会事務局 文化部 文化財保護課考古員)

KJ00000179240.pdf - 名古屋女子大学リポジトリ の10ページです

名古屋女子大学 丸山竜平教授

  信長の近江侵攻以前に属するところの佐々木六角氏や京極氏、 あるいは浅井氏 の頃に. 築かれた中世戦国期の山城から柴田 ..... 小松城の背後は、 比良の山麓が真 近に迫り、 落下距離がおよそー42mにもぉよぶ楊梅滝を生み出すほどの難所である。

g.小松城(伊藤氏城)ー平地城館と詰め城ー

北小松はもともと比良山麓と湖岸が交わる平地のないところであったが、そこへの流域の短い滝川が埋め残した内湖が良港を形成したに違ない。比良山麓の港では数少ない船留まりであったと思われる。

 このような港を掌握によって富と権力を蓄えた地侍層として伊藤一族が知れる。                                             伊藤一族の城館は、現在の北小松の集落内に重なっており、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」の伝承が館の構造を伝えている。それぞれの屋敷は元来濠と土塁で囲郭されていいたらしく、小松郵便局前(東側)の道は、堀を埋めたものであり、その向かいの「吉兵衛屋敷」(30×50m)の道沿いには土塁が認められ、その上には欅が6~7本あったいう。

 現在も伊藤氏の子孫の屋敷地をする「民部屋敷」(半町四方)では、土塁がわずかにに残存し、モチの木が植わっている。また、土塁には門があり、夜には跳ね橋を上げていたと伝える。ということはこの屋敷でも濠が土塁の外側を巡っていたことを物語る。「斎兵衛屋敷」(25m四方)は低地囲まれた一段高い地形あったことから、やはり濠を巡らしたいたことになる。

伝承と地形の名残から、濠をそれぞれ屋敷地が共有して連結式城館(150m×100m 15,000㎡)の可能性がある。

ダンダ坊600㎡、歓喜寺城3,800㎡、長法寺城1,2000㎡と比較しても、平地城館とはいえ規模の大きさ伺える。

お城の概要

北小松はもともと比良山麓と湖岸が交わる平地のないところであったが、そこへの流域の短い滝川が埋め残した内湖が良港を形成したに違ない。比良山麓の港では数少ない船留まりであったと思われる。

 このような港を掌握によって富と権力を蓄えた地侍層として伊藤一族が知れる。                                             伊藤一族の城館は、現在の北小松の集落内に重なっており、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」の伝承が館の構造を伝えている。それぞれの屋敷は元来濠と土塁で囲郭されていいたらしく、北小松の駅前の志賀小松局から国道161号を超えた旧小松郵便局の前(北側)の道は、堀を埋めたものであり、その向かいの「吉兵衛屋敷」(30×50m)の道沿いには土塁が認められ、その上には欅が6~7本あったいう。

歴 史

「江州佐々木南北諸士帳」には、小松城主 小松内膳の名を記す。

「滋賀県遺跡目録」では、伊藤氏の城としている伊藤氏(佐々木流六角氏の被官)の居城とされいるが、詳細不明であるが、地元の伝承では、伊藤氏の居館とされ、民部屋敷、吉兵衛屋敷、斎兵衛屋敷などの地名が残る。

従って小松庄は佐々木氏の湖西における拠点であったと考えられる。

『浅井三代記』は、永正15年(1518)浅井亮政が赤尾駿河守に3,500余騎を与えて、8月15日に高島玄蕃の大溝城を攻略させ、さらに伊黒城、深溝城、小松城、真野城を降伏させて、8月26日小谷に帰陣させたと記すが、浅井氏が高島郡を征服したのは、朽木氏が浅井氏と和した永禄11年(1568)とすべきと指摘している。 浅井氏の高島郡支配時には、家臣の海津氏や林氏が城主であったが、その期間は織田信長が高島郡を攻略する天正年間初頭までの5~6年であった。


  • 下神社

社家は伊藤氏。伊藤氏は佐々木流六角氏の被官であり、伝えによると寛喜2年(1230年)に神官になったという。また、祭祀は中世より、神官と宮座12座により執り行われている。 

中世末織田信長による元亀の変等によって、祭礼や宮座十二座も大きく衰退したが、滅亡を免れ、母雲天正年間には再建され、これが近世小松庄鎮守社の神事運営の出発点となった。

 樹下神社の北200mの竹藪は「屋敷跡」???伊藤一族の屋敷跡?

在地:大津市志賀町北小松 (旧志賀郡志賀町北小松) map:http://yahoo.jp/KCbLHd

現 状:竹林

樹下神社からの遠景 

 樹下神社 

鳥居の東は、すぐ琵琶湖

 

http://yahoo.jp/Khm59Q

現 状:樹下神社(じゅげじんじゃ) 

樹下神社 

社家は伊藤氏。伊藤氏は佐々木流六角氏の被官であり、伝えによると寛喜2年(1230年)に神官になったという。また、祭祀は中世より、神官と宮座12座により執り行われている。

 

 

御由緒
創立年代は不詳であるが、佐々木兵庫佐成瀬が蒲生郡佐々木庄に移り近江を領した当時、岡島の渡合と称する処に妖怪が出没し旅人を害したので、成瀬はこれを憂い坂本村日吉十禅師を深く祈念してこの妖怪を退治した。
この縁由により天元五年当北小松に日吉十禅師を分祭したと伝えられる。
 
 このように当社は近江国守護職佐々木氏と深い関係にあり、神社に伝わる宝物大般若経と十六善神画像は佐々木六角氏の寄進と伝えられ、また境内に佐々木氏の祈願寺があったとも伝えられる。
従って小松庄は佐々木氏の湖西における拠点であったと考えられる。
 
佐々木氏が当社に大きな影響を持っていたことは、社家である伊藤氏が佐々木六角氏の被官であり、また中世からの宮座十二座も六角氏と密接な関係があったことからも明白である。
 
小松村役場古社寺取調(明治28年)によると、寛喜二年に伊藤丹後守祐治が、伊豆国より近江国に移り、仁治二年小松庄を草創の時、不測の神感を蒙り日吉十禅師権現と天満宮の両社を最造す、とある。
 
 
 
 中世末織田信長による元亀の変等によって、祭礼や宮座十二座も大きく衰退したが、滅亡を免れ、母雲天正年間には再建され、これが近世小松庄鎮守社の神事運営の出発点となった。明治三年十禅師社を樹下神社と改称、同九年村社に加列、同四十一年神饌幣帛料供進指定。尚境内には樹下神社古墳群がある。
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、名古屋女子大学 丸山竜平教授は、KJ00000179240.pdf - 名古屋女子大学リポジトリ の10頁 丸山竜平氏は滋賀県中世城郭分布調査委員会の事務局(滋賀県教育委員会事務局 文化財保護課考古員)

      本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!      


比良城 近江国(大津)

2015年12月26日 | 平城

比良城跡(樹下神社の南に)藩主:明智一族の比良太郎兵衛の石塔ある。

比良太郎兵衛は、松江藩士の中に本国・生国共に近江という比良太郎兵衛なる人物がいたが、これは霜の兄弟である比良内蔵助の子、比良太郎兵衛と同一人物であろうか。検索すると、比良太郎兵衛は堀秀重の女婿であり、「堀家大系図」には実名だか号だか分からないが「玄賀」とある。霜の父は真賀法印という人物のようなので、つながりが感じられる。

DSCF4590坂本の西教寺にも、出雲国松平出羽府中 比良太郎兵衛の墓

お城のデータ

在地:大津市北比良町 (旧志賀郡志賀北南比良町) map:http://yahoo.jp/k2uO6z

区 分:平城

現 状:宅地・社地

築城期:室町期

築城者:

城 主:比良太郎兵衛

遺 構:神社土塁

目標地:樹下神社・天満宮・湖西自動車

駐車場:樹下神社前の駐車スペース

訪城日:2015.12.23

お城の概要

 志賀町大字北比良小字森前に位置した。地籍図によると湖西路を南北に走る西北国海(街)道は、この地区から琵琶湖へ折れ曲がっている。樹下神社・天満天神社が隣接している。集落の古老にも、この場所に城があったと伝承されているが、それ以前のことは不明である。

 樹下神社は、神社土塁で囲われ、」周辺は圃場整備や国道161号線等大きく改変されているが、樹下神社・天満神社の社の背後は自然のまま、鎮守の森に土塁・石垣・虎口に似た構造をしている部分が残存しています。 現在この場所は自動車整備会社の一角に墓碑がある。一部北国街道、国道161号線は城址の上を通すルートとなり情景が変化してしまった。

歴 史

 旧志賀町域には、北小松・南比良・木戸の3ケ所に樹下神社があり、樹下神社は日吉大社山王二十一社の上七社のひとつで、祭神として玉依姫命がお祀りされています。このうち南比良の樹下神社の境内には天満神社が並立し、同じ境内内でまったく別の神社として社殿や鳥居もすべて2つ存在しています。

 これは南北朝期に比良庄にあった比良村が分村し、元和8年(1622)には南比良村と北比良村の別々の村となり、明治5年(1872)に樹下神社を南比良村の、天満神社を北比良村の氏神と定めて境内を両分されたことによります。

 境内の一角には、樹下神社や天満神社が祀られる以前の、土着の神として祀られていた比良神社のお堂や、南北朝期から室町時代初期の作とされる宝塔も残されています。 

 文献資料にも、この城に関する記載は無く

「北比良村誌」によると「・・略・・元亀二辛末年九月織田信長公延暦寺ヲ焼減ノ攀本村ノ山上山下ニ之アル全寺ノ別院ヨり兵火蔓延セテ・・略・・」とあり、この時期やはり他の城郭と同様壊減ものと思われる。また、隣接する樹下神社も同時に兵火にかかったと伝わる。

元亀2年9月織田信長比叡山焼き討ちに関連して、同月ここも信長の手にかかり、天正12年から丹羽長秀がおさめることなったと伝える。其の後明智光秀の所領に。

両本殿の背後にある花崗岩製の宝塔。

南北朝から室町初期の作。円仁の徒である湛慶が修法をおこなった折に、慣れ来ていた白鹿の墓であると伝える。 他に、銘文入りの燈籠も見かける。

 

天満神社

琵琶湖岸の天満神社の鳥居

 

御霊社『天満宮』
この社には幾つかの説があります。
・菅原道真公の御霊社
道真公は仏生寺野北のヤブの近くに住んでいたとも言われ、その死後一族が御霊社として祀った。無実の罪で太宰府へ左遷された道真公は、それでも天皇への敬愛と京への強い想いを抱きながら失意と困窮の中、死去しました。
その死後、道真公の霊が怨霊となり、その一つが比良の地まで飛来し、それを祀ったのがこの社であると言われています。
・堪慶阿じゃりの御霊
比良には、古来より比良の神が存在し、天智天皇(668~671)時代には、比良の神を守護する寺として景勝、妙法、仏性の三箇精舎が創設されました。
これらの比良の山寺を舞台に活躍した慈覚大師の弟子堪慶阿じゃりの御霊を比良に祀った。これが南は景勝寺勝野の還来神、北は仏生寺の御霊神と言われています。弘安3年(1280)に作られた比良荘絵図に描かれている
御霊神は現在の今在家辺りと見られるが,尺度の精度も不明であり、また久安4年(1148)、御霊社は比良郷柊原に戻されたとの記述もあり、正確な位置は不明です。北比良の船橋家には御霊社の掛け軸が残されており、毎年天満宮の例大祭の日には掛け軸が出されます。当日の朝には当主が神供物を供え、紋付に紙草履で御霊社へ参拝するが、その場所は秘密にされています。御霊社への参拝が済んだ後、宮司以下祭りに関係するモノはすべて船橋家で御神酒を頂いて御輿渡御が行われます。

 

琵琶湖岸の天満神社のお旅所

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査報告9(旧滋賀郡の城)、北比良村誌、淡海の城、

     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!  


北比良城(田中氏城) 近江国(大津)

2015年12月26日 | 平城

 

 

お城のデータ

所在地:大津市北比良(旧滋賀郡志賀町北比良) map:http://yahoo.jp/e6-P_S

別 称:田中氏城

区 分:平城

現 状:寺院(福田寺)

築城期:室町期

築城者:田中氏

初城主:田中左衛門尉

遺 構:城跡碑・石垣(明治期の修築時)

目標地:福田寺

訪城日:2015.12.23

石垣【明治】の文字が!

お城の概要

比良城は、北比良集落のほぼ中央で、現在の福田寺の境内一帯とされる。現在は琵琶湖から少し離れているが、かつては湖岸線が入りこんでいたようだ。の境内には北比良城の石碑が建てられている。

 山門前面の石積みは横目地が通った積み方で、年代を感じさせるが、近世「明治元年」のと刻印された石垣の石あり修築のもの。

お寺の方の話では、「先代住職が他界され詳しいことはわからないが、佐々木源氏の出で、出家し仏門に入ったと聞いています」と

、また部屋には立派な槍が二振あり、昔は音のお殿様が乗られるような駕籠も残っていたようです。

福田寺の北側石積み柵

 庭園

歴 史

現在は浄土真宗本願寺派に属する福田寺だが、多例のようにここも天台宗あったものを改宗したものである。

 『由緒書』によると、この地は元亀の頃まで比叡山の一派田中坊・西道坊・禅可坊等が各々領していたものを、元亀2年9月織田信長比叡山焼き討ちに関連して、同月ここも信長の手にかかり、天正12年から丹羽長秀がおさめることなったと伝える。

 福田寺は、檀佗(檀多・檀他・旦多)坊の里防と言われている。「平時の城(居館)」と「有事の城」は、古老の聞き取りで調査をしたが発見出来なかった。が

「由緒書」よると「本村ノ北側檀佗山の東ノ半腹にニアリ稍平担ノ地アリ、古事延暦寺ノ一派檀他坊ノ廃跡ト云」とある。 

大津市北比良の北比良城は、天正10年(1582)田中左衛門尉定光が在城したが、織田信長を裏切ったため、落城した。

 『当代記』には、木戸城(志賀町) 

  元亀3年3月11日条 「十一日、滋賀郡へ出給、木戸・田中(北比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)両城取出を被取、明智十兵衛光秀、中川八郎右衛門、丹羽五郎左衛門被置」

 元亀4年7月26日条 「江州田中(北比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)・木戸両城被取懸所」と記す。

『近江輿地志略』の木戸村の「木戸古城跡」荒川木戸村の間、西の山にあり。今其名を城の尾(木戸山城)といふ。里民傳云。十乗坊といふ者在城すと。木戸十乗坊が事は『武家中興盛衰記補』のもあり。或云ふ木戸越前守在城せしと。信長と朝倉戦争の時は、朝倉方田子左近兵衛氏久といふ者居住す。」と記す。

信長公記 巻五 元亀三年   建設と政略と  むしやの小路御普請の事

 信長公は木戸・田中(北比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の攻囲を明智ら三将にまかせ、みずからは3月12日京へのぼった。宿は二条妙覚寺に定めた。-----

信長公記 巻六 元亀四年   湖上疾る  大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事

 7月26日、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中(北比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。


福田寺駐車場

隣の西福寺

湖岸の天満宮の鳥居

御霊社『天満宮』
この社には幾つかの説があります。
・菅原道真公の御霊社
道真公は仏生寺野北のヤブの近くに住んでいたとも言われ、その死後一族が御霊社として祀った。無実の罪で太宰府へ左遷された道真公は、それでも天皇への敬愛と京への強い想いを抱きながら失意と困窮の中、死去しました。
その死後、道真公の霊が怨霊となり、その一つが比良の地まで飛来し、それを祀ったのがこの社であると言われています。
・堪慶阿じゃりの御霊
比良には、古来より比良の神が存在し、天智天皇(668~671)時代には、比良の神を守護する寺として景勝、妙法、仏性の三箇精舎が創設されました。
これらの比良の山寺を舞台に活躍した慈覚大師の弟子堪慶阿じゃりの御霊を比良に祀った。これが南は景勝寺勝野の還来神、北は仏生寺の御霊神と言われています。弘安3年(1280)に作られた比良荘絵図に描かれている
御霊神は現在の今在家辺りと見られるが,尺度の精度も不明であり、また久安4年(1148)、御霊社は比良郷柊原に戻されたとの記述もあり、正確な位置は不明です。北比良の船橋家には御霊社の掛け軸が残されており、毎年天満宮の例大祭の日には掛け軸が出されます。当日の朝には当主が神供物を供え、紋付に紙草履で御霊社へ参拝するが、その場所は秘密にされています。御霊社への参拝が済んだ後、宮司以下祭りに関係するモノはすべて船橋家で御神酒を頂いて御輿渡御が行われます。

『比良の歴史』より

 

1280年の「比良荘絵図」(北比良区蔵)

比良とは滋賀県大津市、JR蓬莱駅近くの天川から以北、高島市鵜川近辺までの比良山麗一帯を指す古い呼称をいう。

 古代海族とされる比良一族の居住地としてひらかれ、平安時代に隆盛となり、比良三千坊と称する寺院群があったという。古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも従事。中世には比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心であった。1280年の「比良荘絵図」(※上記、画像:北比良区蔵)は有名である。この地を南北に西近江路が開通、1926年に江若鉄道が開通したが、現在では湖西道路、国道161号、JR湖西線にかわっている。

 

1376年 比良庄絵図(部分)

 

地名は古語およびアイヌ語で急傾斜の地の意味で、比良の断層崖よりおしだされる砂礫からなる扇状地性の急勾配の土地に由来する説がある。またこの地は、比較的水田に恵まれず、水利の便もあまり良くなかったので、田地をめぐる争いや水論がしばしば発生した。幕末期1734年の木戸村と荒川村の間に生じた大谷川の分水をめぐる紛争や、1810年には大物村と南比良村での四ツ子川筋の分水に関する争論などである

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査報告 9 滋賀郡の城、淡海の城、城・湖国百選

          本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!