城郭探訪

yamaziro

谷出城   近江国(甲賀・下馬杉)

2016年02月02日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲南町下馬杉字谷出 map:http://yahoo.jp/d72g1V

区 分:丘城

現 状:竹林・森林

築城年:室町期

築城者:馬杉丹後守か?

遺 構:土塁・曲郭・堀切

目標地:下馬杉バス停

訪城日:2014.12.5・2016.1.31

お城の概要

 谷出城は、甲南町下馬杉集落の東側に迫る丘陵縁辺部に立地し、北から西出城、谷出城、小池城が尾根尾根続きに位置している。

西へ張出す丘陵先端部の背後に南から一つ、北から二つの谷が食い込み、取り残されるように南北に細長いY字状の丘陵が形成されている。

 谷出城は、その軸部の南端に南西以外の三方を土塁囲みとした約25m四方の主郭を置き、北東側の尾根筋に対して堀切を設けている。土塁は北隅が最も高く、郭面から3mを超えているが、南東面の土塁は約50cmと低く、堀切底面と地続き状態である。

この堀切北側の尾根筋にも小さな平坦地が約150mに亘り連旦し、中間には堀切状の地形も見られるが、後世の墓地利用が進んでおり、城郭遺構か判定が難しいようである。

 

歴 史

 在地土豪の馬杉氏に関係する城。

下馬杉・島神社・・・社伝によれば当神社は延徳二年四月に安芸の厳島神社の御分霊を勧請し時の領主馬杉丹後守が氏神として奉祀す。安永八年正月災害に依り破損甚しく同年六月改築し現在に至っている。

 水口町新城の永福寺の境内に子孫が建立した新庄兼重君記念碑(明治35年2月)があります。そこには新庄伊勢守宗重が康永年間(1342年~)に軍功を建て新庄と馬杉を領有し・・と記されていて新庄と名乗ったとされています。新庄家はその後、廃されますが、嘉吉年間(1441年~)に三木又右衛門が城を築き村名を新城と改めたと

駐車位置

谷出城・・・遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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磯尾城 近江国(甲南)

2016年02月02日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲南町磯尾字東側map:http://yahoo.jp/W9_dGG

区分 : 丘陵城

築城期:

築城者:

遺  構 :曲郭(削平地)、土塁、虎口状開口

標 高:230m  比高差:15m

目標地:上磯尾バス停

駐車場:上磯尾バス停

訪城日:2016.131

お城の概要

伊賀国阿山郡(現三重県伊賀市)と境界を接する、甲南町上磯尾集落の東側を遮る南北に細い丘陵端部に立地している。

 構造は、南から北に向かって緩やかに傾斜する丘陵の先端を削平して平坦面を造っている。南端が頂部で墓地と畑に造成されている。その北側が最大の平坦地で、北西隅の下部に虎口状の開口部があり、北側が土塁にでなっ

ているが、南側は通路状の帯郭になっている。また、北側の土塁は、北へ行けば通路となり、北端の平坦地につながっている。開口部の内は約10m四方の平坦地で南北よりは一段低くなっており、上方からの攻撃を意識した造りと思われる。しかし、池に向かって開口しているため、池に関わる施設であった可能性も指摘されている。

 全体として削平が甘く、切岸は低く、丘陵続きを遮断する堀切等の施設も無く、城郭遺構と断定できていない。構造も甲賀にはあまり見られないものである。

歴 史

「江戸名所図会」巻之一(天枢之部)愛宕山権現社

同(真福寺)南に並ぶ。 世俗、城州愛宕山に同じといへども、おのづから別なり。 本地仏は勝軍地蔵尊にて、行基大士の作なり。 永く、火災を退けたまふの守護神なり。
[中略]

【家康公伊賀越え】 しかるに、天正十年壬午の夏、台旗泉州を発したまひ、大和路より宇治を経て、江州信楽に入らせたまふ。 このとき多羅尾四郎右衛門といへる者の宅に、舍らせられける頃、あるじこの像を献ず。 その節、同国磯尾村の沙門神証といふを供せられ、この霊像を持して東国に赴きたまふ。 しかりしより御出陣ごとに、神証をしてこの勝軍地蔵尊を祈念せしめらる。 つひに、慶長八年癸卯の夏、台命によつて同庚子年、石川六郎左衛門尉、当山を闢き、仮に堂宇を造建したまひ、その後、同十五年庚戌、本社を始めことごとく御建立あり。・・・云々」

 地元に何らの伝承もなく、ほとんど削平されておらず、城郭遺構か不明である。

 磯尾城

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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