西側の土塁
お城のデータ
所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町神山字城山 mao:http://yahoo.jp/rEdi2l
別 称:甲山城
現 状:グランド
区 分:丘陵城
築城期:南北朝期
築城者:神山氏
標 高:310m 比高差20m
目標地:県道422号線の神山信号・神山会館
駐車場:グランド横空地
お城の概要
神山城は神山会館の東側にある通称「城山」と呼ばれる丘陵の北西端に築かれている。大戸川と南川は合流する。神山集落を見下ろす小高い丘に築かれ、現在はグランドとなっている。比高20m程の丘陵で、南西側にL字に土塁が残っている。以外はグラウンドの造成により破壊された。
付近には『木戸口』『城山』の城郭関連地名が残る。
この土塁から推測するに、伊賀・甲賀で多く見られる単郭方形の縄張りを城であった思われるが、南土塁の下に1段低くなった副曲廓はある。東側の括れは堀か?北側は南川を堀に切岸状である。
西麓の県道側から車道が山上まで通じている。
歴 史
甲山(こうやま)城(信楽町神山)=神山城
建武4年(1334)4月「小佐治右衛門三郎基氏軍忠状」「佐治文書」には、
「近江国御家人小佐治右衛門三郎基氏・同孫九郎頼氏申候、信楽依蜂起馳参之処、13日、於杣野河宮付御手、自伊賀槙山路責人之処、自信楽東山相向御敵大勢之間、自同晩□(影)到終夜合戦、及太刀打之間、凡捨身命責戦、家人源三郎討死仕華、同14日、信楽上郷自甲山東口始、切破数十ヶ所木戸逆木、焼払城郭華」とある
築城年代は定かではないが神山氏によって築かれた
南北朝の動乱
元弘の変に際して、上洛してきた幕府軍は鈴鹿を避けて美濃を通って京に入っている。このことから、山中氏が反幕府的であったことをうかがわれ、建武の新政がなると後醍醐天皇から鈴鹿警固役を沙汰する旨の綸旨を賜っている。しかし、足利尊氏の謀反によって新政が崩壊すると、山中氏は美濃部氏、小佐治氏らとともに守護佐々木氏に属して尊氏に味方した。
建武四年(1337)、甲賀の南朝方頓宮氏が五辻宮を奉じて信楽で挙兵、飯道寺城と勅使の岩倉城に立て籠った。
これに対して中山四郎右衛門尉、小佐治基氏らが、信楽に攻め込み、夜を徹して激戦がおこなわれた。翌年、五辻宮を奉じた南朝軍が蜂起、北朝方の山中道俊・頼俊および小佐治基氏は激戦のすえに南朝方を伊勢に奔らせている。
その後、山中氏は観応の擾乱に際して南朝方に転じたこともあったが、南北朝の動乱期を北朝方として行動した。やがて動乱は北朝方の優勢となり、明徳三年(1392)、足利義満によって南北朝の合一がなった。かくして、足利将軍を頂点とする中央集権体制=足利(室町)幕府が確立されたのである。そして、近江国の北守護は佐々木京極氏、南守護は佐々木六角氏が任じられた。
足利義満は室町幕府全盛時代を現出したが、義満の死後、幕府政治は次第に衰退兆候をみせるようになった。嘉吉元年(1441)、足利義教が赤松満祐に殺害されると、幕府の権威を大きく揺らいだ。以後、幕府政治は混乱の度を深め、将軍家、有力守護家の家督争いが引き金となって、応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発した。乱に際して、江北の京極氏は東軍に、江南の六角氏は西軍に属して対立した。文明年間になると六角と京極の抗争が激化し、文明二年(1470)、蒲生郡黒橋で激戦が行われ甲賀武士は六角方として奮戦した。
主郭部のグランド
南西の土塁
土塁下の曲廓
主郭部の南東部も削平されクランドとなり、その先の尾根続きに林・竹林があるが、・・・約100m先南東に削平地と堀状遺構があるが、城郭遺構では無いようだ。
が、林・竹林も有事の砦として温存していたか?
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史 甲賀の城
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