城郭探訪

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講演 :安土城

2016年02月04日 | 講座

平成28年1月30日(土) 新春夢談義

【会場】安土コミュニティセンター:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦4660番地

【講演】「信長にとっての安土 そして安土城」

【講師】小和田哲男氏 (静岡大名誉教授) 公益財団法人日本城郭協会理事長

・無料 ・要予約 ・300人

主催:安土学区まちづくり協議会

  戦国史研究の第一人者で日本城郭協会理事長でもある小和田哲男静岡大学名誉教授を講師に招いた「新春夢談義」が1月30日、安土コミュニティセンター(近江八幡市安土町下豊浦)で開かれた。


「安土遷都」あったかもしれない

 全国に知られた安土城の歴史資産を有する地元の魅力を再発見し、まちづくりに活かそうと安土学区まちづくり協議会が催した。会場の大ホールには約二百五十人が訪れ、講演に耳を傾けた。

 講演の中で小和田氏は、安土は、びわ湖の湖上交通の要所で、京都とは日帰り圏の距離にあり、中京と京阪の両経済圏の中心に位置していたこと、また、信長にとっての勢力関係からもバランスの採れた地理関係だったことが、信長が安土に城を築く要因であったと説き、築城の際に運び込まれた「蛇石」と呼ばれる巨石を山頂へ運搬中、百五十人の人足が亡くなる大惨事があったことをルイス・フロイス(織田信長と親交のあった宣教師)が、手記で記述していることを紹介した。

 城下に家臣を集められたのは、安土城からであることや安土城が焼失した火種は、城下からの飛び火との説があるが、発掘調査で山頂の天主より下の建物や施設は燃えていないことがわかっており、火災の原因はそれではなく、信長の次男、織田信雄(のぶかつ)が火をつけたらしいとルイスの手記に記述があることから「信雄放火説」も考えられるとの見解を示した。

 また、伝二の丸は本丸ではなかったかや、伝本丸跡には、天皇の住まい「清涼殿」と同じ施設があったことから信長は、天皇を安土城に迎え、もしかすると「安土遷都」を考えていたのではないかと、最近の安土城を巡る研究の一端を紹介した。

 武将のうち信長だけは、天主で生活していたが、そうなると信長は天皇を見下すところに住まいすることになる。明智光秀はそうした振る舞いを許せない、強い不満から信長の命を狙ったのかも知れないとの推論も示した。

 最後に、安土はまさに戦国時代や信長を語る上で、象徴的なところであり、大切にしていただきたいと締めくくった。

参考資料:滋賀県城郭分布、講演会当日レジュメ、滋賀報知新聞

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!

 


多羅尾代官陣屋跡(信楽(しがらき)陣屋) 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月04日 | 陣屋

 

お城のデータ 

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町多羅尾小字古殿 map:http://yahoo.jp/58wuAU

別 称:多羅尾代官所・設楽(しがらき)陣屋・設楽役所

区 分:陣屋

築城期:江戸期…寛永15年(1638年)

築城者:多羅尾光好 多羅尾家1500石(天領世襲代官)

城 主:多羅尾光好・多羅尾光忠・多羅尾光頭・多羅尾光豊・多羅尾光雄・多羅尾光崇・多羅尾氏純・多羅尾純門・多羅尾光弼

遺 構:内桝形虎口、石垣、屋形跡、家臣屋敷跡・井戸・・・現地説明板

標 高:485m 比高差:5m

目標地:多羅尾小学校

駐車城:多羅尾陣屋跡駐車場

訪城日:2016.2.3

お城の概要

多羅尾代官陣屋は上出集落の川の西側にある高台に築かれている。現在の地元で整備中で、概況は非常把握易い。公開日があるようで、この日は勝手に見学させて頂いた、

「表門」と呼ばれる橋の入口に案内板が設置されている。天空の郷 多羅尾ガイドブックも準備されている。

当時の建物は現存していないが、石垣や庭園が残っている。

歴 史

 多羅尾家は天正10年(1582)の本能寺の変に際して堺から伊勢湾へ帰途を急いだ徳川家康の「伊賀越え命からがら本領の三河へ戻る家康を、多羅尾光俊・光太父子が守護した恩に報いたものといわれる。

 寛永15年(1638年)多羅尾光好によって築かれた。 多羅尾氏は近衛経平の庶子高山師俊を祖とし、小川城を居城として設楽(しがらき)一帯に勢力を持った一族である。

 

多羅尾光太の娘が豊臣秀次に嫁いでいたことから、文禄4年(1595年)に秀次に連座して改易された。その後に徳川家康に召し出されて旗本となった。

 

慶長元年(1596)多羅尾光太の時、1500石拝領。子の光好が寛永15年(1638)に代官を命じられた。そして屋敷内に「代官信楽御陣屋」を設け、天保10年(1839)の支配地と支配高は近江・伊勢・播磨で55千石であった。家臣は江戸詰9人、信楽詰22人、四日市出張陣屋詰2人。 

菩提寺の小川の大光寺 

 

 

多羅尾代官屋敷跡

 多羅尾に「多羅尾」氏が生まれたのは、正應4年(1291)当時、信楽が藤原氏の一族・近衛氏の荘園だったころに始まります。この地には信楽荘という藤原氏の一族の近衛氏の隠居所があり、当時、左大臣・近衛経平が病弱なため職を辞してこの地に住み、この近衛経平と多羅尾の地侍の娘との間に生まれた男の子・高山太郎が、嘉元元(1303)年、母の里である多羅尾の地名を姓として、多羅尾師俊として改名し武士となり多羅尾家が始まったのです。

その後、この多羅尾家で歴史上名を現したのが多羅尾家14代目の光俊です。光俊は永正11(1514)年多羅尾に生まれ、佐々木六角高頼の配下であったのですが、高頼が死んでからは織田信長に仕えました。
そして家康との出会いは、記載にある「泉州を発したまひ、大和路より宇治を経て、江州信楽に入らせたまふ。」という、いわゆる本能寺の変の際の家康が「伊賀越えの難」にあったときです。
家康は本能寺の変で自分の身が危ないと察し、堺から急遽三河に急ぎ戻ろうとしたところ、何度も山賊や野武士に襲われ、やっとのことで宇治田原(現在の京都府綴喜郡)までたどり着いたのです。
宇治田原城主であった山田甚助の養子・藤左衛門父子は家康一行を厚くもてなす一方、実家の父・多羅尾城主に連絡し、光俊は二男の光太、三男・光定を迎えに出し、藤左衛門とともに多羅尾城に出迎えたのでした。
その後家康は多羅尾家一行に守られ無事伊勢白子浜に到着し、三河に帰ったのでした。

こうして光俊は天正14年頃には8000石の大豪族となり、秀吉の姉「とも」の長男で、豊臣家の世継ぎになっていた関白大政大臣秀次に光俊の孫娘「お万」が見初められ、秀次に「お万」を側室として差し出したのでした。
こうした中、秀次の素行が荒れだし謀反との噂の中、秀吉はついに秀次に切腹を命じ、四人の若君と一人の姫君、それに側室として仕えていたお万の方を含む34人、計39人を処刑したのでした。
そして光俊はじめ多羅尾家一族は秀次との関係から、本領、領地すべてを没収され伊賀国に隠れるような生活を強いられたのでした。

秀吉が亡くなり家康の天下となると、家康は早速光俊をはじめ一族の者を信楽に呼び戻し、当座の手当てとしてニ百人扶持を与え、光太を徳川家の旗本として取り立て、関東・上杉討伐に参戦、関が原の合戦で戦功のあった光太に、かつての多羅尾家の領地信楽7000石余を与え、弟の光定、山口藤左衛門なども旗本に取り立て、さらに光俊には隠居料として小川の800石を与え、昔の伊賀越えの難での恩に報いたのでした。
そして時代は下って寛永15年、江戸幕府は多羅尾家16代光好を代官に任命し、信楽・多羅尾村にある光好の屋敷内に代官信楽御陣屋という近畿地方の天領を治める役所を設けさせ、これが明治まで続いた多羅尾代官所の始まりとなったのです。
こうして歴史を追ってみると、多羅尾家がそもそも朝廷に近い近衛家の親類だったことで、「勝軍地蔵尊」像が多羅尾家に存在し、「伊賀越えの難」の際に守り神として家康に渡ったものであろうということが理解できるわけです。

「勝軍地蔵尊」が解決した次の謎であった梅の由緒もわかりましたね。曲垣平九郎盛澄が手折った梅だったのですね。「出世の石段」については後ほど見た後にしておきましょう。

  甲賀(こうか)市の西南端・旧信楽町内の南端の山間を多羅尾地区。 南側は三重県上野市と同県阿山郡島ヶ原村に、西側は京都府相楽郡山城町に接する山また山に囲まれた山村の集落である。
 そんな山の中に、江戸幕府は寛永6年(1629)土地の豪族・多羅尾家の16代城主・光好に、近畿地方の天領を治める「代官信楽御陣屋」(直轄代官)を命じた。 以来、明治維新(1868)まで約240年、支配地を信楽のほか近江甲賀、神崎、蒲生三郡と美濃、山城、河内の国々の天領にも広げ、最盛期には11万石、全国42の代官所中の首席となった。 このため最初10人程度の役人の数が40人にも増え、これらの人々が代官所周辺に屋敷を建て、その家来達も近くに住むようになって村は年々家、屋敷が増え、 それに江戸をはじめ各地から来る人達の宿屋や雑貨屋、酒店、魚屋のほか多くの牛馬も飼われ、鍛冶屋も出来るなど城下町らしい賑わいをみせていた。 それが明治維新で代官所の取り壊しとともに、各種の建物も無くなり、昔の山村に戻ってしまった。
 古い歴史の村を訪れる人達の“呼び水”ともなっている。“幻の城下町”ともいわれる多羅尾地区。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー、甲賀の城

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