城郭探訪

yamaziro

西村館 近江国(浅井)

2016年02月15日 | 居館

西村館の門

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡浅井町西村町 map

現 状:屋敷跡残存

区 分:居館

築城期:

築城者:

遺 構:屋敷門・曲廓・土塁・石碑

目標地:天満宮・西村バス停

駐車場:天満宮

訪城日:2016.2.11

 

お城の概要

草野川西岸に営まれた集落で、背後には急峻な山が控えている。

山麓に西光寺

 集落内は三段に削平して住居が建ち並び、このうち天満宮・公会堂。現西村家を含む一帯が本郭であったと思われる。

 特に現西村家は門のみ屋敷地の東側は約1,5mを測る比高差をもって落ち込み、その下に水路で遮断している。また、南には幅約1,5m、高さ約1mを測る土塁が設けられている。

西村哲男翁之碑居館の南東隅部

 

 一方、天満宮、公会堂の位置する地区も。傾高地の張り出し部と思われるが、東側は、約2mの落ち込みを見せている。

 集落の北側は河川で遮断された防禦の構えをみせており、堀跡に間違いないであろう。

背後の山尾根には一部切り岸が伴う削平地や土橋状地形が存在するが、西村集落の砦の可能性もある。

天満宮の境内に西村公会堂

 

お城の歴史

中世の城館遺跡であるが、詳細は不明である。

伊香荘(古代〜中世)西村哲尾氏所蔵文書) 

 平安期から見える荘園名伊香【いかご】郡のうち余呉【よごの】荘の南、富永荘の北に位置する現在の伊香【いか】郡木之本【きのもと】町西山・大音【おおと】・黒田・木之本・千田・古橋・川合・大見・杉野あたりに比定されている延久2年「弘福寺領近江国荘田注進」(平遺1044)によれば大宝年間以前に斉明天皇の勅施入で成立したものとされているこの注進には荘田として18条4里・5里に10町2反236歩とある弘福寺領伊香荘と連続するかどうかは不明であるが、13世紀から14世紀にかけては皇室御領伊香荘が存在し、一方では六条院領として室町院に相伝され、持明院統の伏見院・花園院に伝領され、一方では浄金剛院領として後嵯峨院―大宮院―亀山院―昭訓門院―昭慶門院と相伝され大覚寺統の所領ともなっていたようである(室町院御領目録・昭慶門院御領目録など)一方、暦仁元年「四条天皇宣旨案」、建治2年「後宇多天皇宣旨案」によると天台座主の相伝の所領のなかに「近江国伊香勅旨」なるものが見えている(鎌遺5346・勝尾寺文書)また、正中2年の「承鎮法親王付属状」には五仏院領として「近江国伊香荘,妙臨寺」が記録されている(三千院文書)さらに南北朝期の文和2年近江北郡に散在する梶井宮門跡領が、山内定詮によって違乱をうけたが、この中にも「伊香庄号五位庄 妙臨寺」の名が見える(菅浦文書771)あるいは建長2年「九条道家惣処分状」には「近江国伊香古庄」とある(鎌遺7250)「荘園志料」は伊香荘を「イカゴ」と記し、「伊香古に作る」としているそこでこれらの諸史料を伊香郡伊香荘であるとすると、鎌倉期には皇室御領として存在するとともに、その間に一部は摂関家領、延暦寺領として相伝されることもあったようであるその後康永元年花園院は伝領した室町院遺領を直仁親王に相伝したが、直仁親王は近江国伊香荘内黒田郷・古橋郷・石作郷等を妙心寺に寄進している妙心寺は応永の乱により寺領を没収されたが、黒田郷等は南禅寺領となった文安元年妙心寺は再興し、黒田郷等は返付されたが、このとき黒田郷等をめぐって南禅寺徳雲院末寺竜雲寺と相論を展開している(妙心寺文書)また黒田郷・古橋郷については「伊香荘内」とある場合と、「近江国中荘内」と記されている場合があり(妙心寺文書)、嘉暦4年「公文、実験使等連署状」には「中庄椙野郷」と見え(横山神社文書)、応永5年「足利義満御判御教書案」には「近江国伊香中庄」とある(佐々木文書)これらを勘案すると伊香荘は伊香中荘・中荘ともいったようである15世紀から16世紀には京極氏の支配するところとなり、続いて国人・土豪勢力の拮抗する状態が続き、

やがて浅井氏の支配下に入るに至ったそしてこの頃には「伊香荘」「中荘」なる文言はあまり見られなくなり,地域を示すにはもっぱら「古橋郷」などという「郷」名が多く用いられており,荘園としての歴史は終焉したようである天正元年浅井氏滅亡後は江北一帯は羽柴秀吉の領するところとなったが,天正13年山内一豊が近江長浜に入り,旧伊香荘の地域では大音33石・黒田130石・古橋440石等々を知行した(山内文書/東浅井郡志4)天正18年には石田三成が佐和山城に入り、以後江北を領したが,この地域はその配下に属したようである(高橋末治郎氏所蔵文書・西村哲尾氏所蔵文書)関ケ原合戦後、慶長7年この地域一帯に小堀新介の検地が実施され、近世の徳川氏の支配体制に組み込まれていった慶長7年検地帳は西山・大音・木之本・千田の地に現存している。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


本能寺の変~山崎の戦い

2016年02月15日 | 古戦場

4月3日辛卯(1582年4月25日)

  • 信長、六角次郎を匿ったとして恵林寺を焼き、国師快川和尚を焚殺する。

4月24日壬子(1582年5月16日)

  • 信長、細川藤孝らに備中高山に楯籠る小早川隆景の討伐出勢を命じる。光秀、その旨を伝達する。【明智光秀のすべて】

5月4日辛酉(1582年5月25日)

  • 正親町天皇、勅使を遣わして信長に将軍任官・幕府開設を勧めるが、信長応えず。

5月7日甲子(1582年5月28日)

  • 秀吉、毛利方の清水宗治を高松城に囲む。
  • 信長、神戸信孝に四国出陣を命じ、信孝に讃岐、三好康長に阿波を与えることを約す。

5月14日辛未(1582年6月4日)

  • 先の甲斐征討の論功行賞で家康は駿河を、穴山梅雪は旧領を安堵されたが、その礼を述べるために近江に入った。惟住五郎左衛門(丹羽長秀)が宿舎を準備し接待した。【信長公記(桑田)】(家康の安土伺候は、自らの積極的な意志ではなく、信長の懇請によるものであったとされる
  • 織田信忠が上洛の途中、ばんばに立ち寄り暫く休息した。惟住五郎左衛門が酒肴の接待をする。信忠はその日の内に安土へ出発。【信長公記(桑田)】(信忠は、四国の長宗我部元親討伐のため、大阪に向かう途中)

5月15日壬申(1582年6月5日)

  • 家康一行は安土に到着。【信長公記(桑田)】
  • 信長の指示で、宿舎は大宝坊とし接待のことは惟任日向守(光秀)に仰せつけられた。光秀は京都・堺から珍しい物を取り寄せるなどして、15日から17日までの3日間、非常に念の入った接待であった。【信長公記(桑田)】(主要な家臣が各地に敵を抱えて不在であったため、休暇中の光秀が饗応役を命じられた一説には、家康が光秀を所望したとするが、不明
  • 秀吉は毛利方の将清水宗治の守る備中高松城を囲み、足守川を堰止めて水攻めすることにした。そこへ毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の軍勢が高松城援護に駆けつけるという情報がもたらされた。
    信長は「この度、毛利方は間近にまで陣を進めるということである。これは天の計らいであるから、自ら出陣して中国の歴々を討ち果たし、一挙に九州までも平らげる、またとない機会となるであろう」と述べて、堀久太郎を御使として羽柴筑前方へその旨を伝ると共に、惟任日向守・長岡与一郎(細川藤孝)・池田勝三郎・塩河吉大夫・高山右近・中川瀬兵衛は先陣として出勢するよう指示し、すぐさま御暇(現在担当している任務を解くこと)を下された。【信長公記(桑田)】 

5月17日甲戌(1582年6月7日)

  • 光秀は安土より坂本に帰城し、それ以外の面々も帰国して、出陣の用意に取り掛かった。【信長公記(桑田)】(光秀の家康饗応が何日までの予定であったのかが不明で、そのため、「役を終えてから帰城した」「途中で役を免じられた」、という二つの解釈がある。後者は、それが光秀の面目を潰す結果となり、決起の原因となったという説の根拠に挙げられている

5月18日乙亥(1582年6月8日)

  • 光秀、信長から家康供応の内容を叱責され、森乱丸ら小姓に打擲される。【明智軍記】【明智光秀のすべて

5月19日丙子(1582年6月9日)

  • 信長は、家康一行の道中の労をねぎらうために、安土山惣見寺において幸若八郎九郎大夫の舞や丹波猿楽・梅若大夫の能を舞わせることにした。桟敷では近衛・信長・家康・穴山梅雪・長安(楠木政虎)・長雲・友閑・夕庵(武井爾云)、土間では御小姓衆・御馬廻・御年寄衆・家康公の御家臣衆などが見物した。【信長公記(桑田)】
  • 光秀、家康供応役を罷免される。【明智軍記】【明智光秀のすべて】

5月20日丁丑(1582年6月10日)

  • 惟住五郎左衛門・堀久太郎・長谷川竹・菅谷玖右衛門の四人に家康接待の用意を命じた。高雲寺御殿で、家康・穴山梅雪・石河伯耆・酒井左衛門尉、その外家老の衆に食事を出し、忝けないことに信長自らも膳を共にして、敬意を表した。食事が済むと家康と供の人達を残らず安土城に案内して、帷を贈るなど、大変心の籠った接待であった。【信長公記(桑田)】

5月21日戊寅(1582年6月11日)

  • 家康一行、上洛。
  • 信長は、家康が上洛し京都・大阪・奈良・堺をゆっくりと見物できるようにと、長谷川竹を案内役に、大阪での接待を織田七兵衛信澄・惟住五郎左衛門に命じた。このため二人は大阪に到着した。【信長公記(桑田)】(二人はすでに四国出陣のため大阪にあった)
  • 信忠は上洛し、妙覚寺を宿所とした。

     

5月26日癸未(1582年6月16日)

  • 惟任日向守は中国出陣のため坂本城を発ち、丹波亀山城の居城に入った。【信長公記(桑田)】(坂本に入ったのは17日で、この日までの10日間の消息がまったく不明)

5月27日甲申(1582年6月17日)

  • 光秀、愛宕山に参詣し籤を引く。【信長公記(桑田)】 

5月28日乙酉(1582年6月18日)

  • 光秀は西坊で里村紹巴・西坊行祐らと連歌を興行した。発句は惟任日向守。
    【日本古典集成】に依れば、([愛宕百韻])
      ときは今天(あめ)が下しる五月哉 光秀
      水上まさる庭の夏山 西坊
      花落つる池の流れをせきとめて 紹巴
    【信長公記(桑田)】では、
      ときは今あめが下(した)知る五月哉 光秀
      水上まさる庭のまつ山 西坊
      花落つる流れの末を関とめて 紹巴
    であったという。
  • 百韻を神前に納め、光秀は亀山城に帰城。【信長公記(桑田)】

5月29日丙戌(1582年6月19日)

  • 信長が上洛、安土本城の留守番は、津田源十郎・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・遠山新九郎・世木弥左衛門・市橋源八・櫛田中兵衛、二の丸の御番衆は、蒲生右兵衛大輔・木村次郎左衛門・雲林院出羽守・鳴海助右衛門・祖父江五郎右衛門・佐久間与六郎・蓑浦次郎右衛門・福田三河守・千福遠江守・松本為足・丸毛兵庫頭・鵜飼・前波弥五郎・山岡対馬守らに命じ、小姓衆二三十人(百五六十騎【当代記】)を召し列れての上洛であった。「直ちに中国へ向かえるよう用意をして、連絡があり次第出陣せよ」との命令で、そのため今回は供が(小姓衆を除いては)いなかった。【信長公記(桑田)】
  • 吉田神社の神主吉田兼和は信長上洛の迎えに山科まで出向いて数時間待った。午の刻(正午ごろ)から雨が降り出した。そこに森長定が出迎えは無用である旨を知らせて来たので急いで帰った。【信長襲殺】
  • 公家の勧修寺晴豊は信長上洛の迎えに粟田口まで迎えに出たが、出迎えは無用との知らせが入ったので帰った。【信長襲殺】
  • 信長は申の刻上洛した。【信長襲殺】
  • 長谷川秀一は家康一行の堺遊覧に同行していた。
  • 松井友閑が堺での家康一行接待の分担を決め手配した。家康一行は津田宗及宅で昼茶席の接待を受け、松井友閑宅に泊った。【宗及】【信長襲殺】 

6月1日丁亥(1582年6月20日)

  • 権大納言甘露寺経元・勧修寺晴豊は、正親町天皇と皇太子誠仁親王の勅使として、信長の上洛を賀すために本能寺に出かける。その他の公家衆も各自挨拶に出向き村井貞勝を通じて信長に対面するが、進物は受け取らないということで出さなかった。【信長襲殺】(この日、40人ほどの公家・僧侶が揃って本能寺を訪れている。そこで、信長秘蔵の茶器が披露されたという)(名物茶器を京都まで運んだのは、・・・家康をはじめ諸大や公卿を対象とした大茶会を催し、その場で名物茶器を披露せんとしたと考えざるをえない。【信長安土】)
  • 夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調議を究め、亀山から中国へは三草(山)越えを仕り候ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者ども(明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐)に先手を申しつく。【信長公記(桑田)】

6月2日戊子(1582年6月21日)

    (本能寺の変)
  • 老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、攝津国の皆道(街道)なり。左へ下れば、京へ出ずる道なり。爰(ここ)を左へ下り、桂川打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。既に、信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。【信長公記(桑田)】
  • 信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者ども仕出し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄砲を打ち(撃ち)入れ候。【信長公記(桑田)】
  • 是は謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところ、森乱(森長定)申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。【信長公記(桑田)】
  • 隙もなく直ちに御殿へ乗り入れ御面堂の御番衆も御殿へ一手になられ候て御馬屋より、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五が切って出て討死。【信長公記(桑田)】
  • 小河愛平、高松虎松、金森義入、魚住藤七、武田喜太郎、大塚又一郎、菅屋角蔵、狩野又九郎、蒲田余五郎、今川孫二郎、落合小八郎、伊藤彦作、久々利亀、種田亀、針阿弥、飯河宮松、山口弥太郎、祖父江孫、柏原鍋兄弟、平尾久助、大塚孫三、湯浅甚介、小倉松壽らの御小姓衆掛かり合い、懸かり合い討死候なり。この外、厩仲間衆の藤九郎・藤八・岩新六・彦一・弥六・熊・小駒若・虎若・その倅の小虎若を初めとし二十四人が揃って御馬屋にて討死した。【信長公記(桑田)】
  • 御殿の内にて討死された衆、森乱丸、力丸、坊丸の三兄弟。【信長公記(桑田)】
  • 織田信忠、一旦は妙覚寺を出て本能寺に向かうが、下御所(二条城)に移り討死。【信長公記(桑田)】
  • 朝、家康一行は信長に合うため堺を出たが、「変」を知らせるため堺に向かった京の豪商茶屋四郎次郎と遭い、一旦帰国することを決意。宇治田原に向かう。
  • 午後4時、瀬田城主山岡景隆は、光秀の安土進軍を阻止しようとして、瀬田の大橋を焼き払う。【明智光秀(高柳)】
  • 夕、光秀は坂本城に入った。【明智光秀(高柳)】
  • 備中に向かっていた細川藤孝・忠興父子は、但馬竹田(兵庫県朝来郡和田山町)で変報に接し、すぐに引き返した

6月3日己丑(1582年6月22日)

  • 光秀は近江・美濃の諸将に降誘を勧める。【明智光秀(高柳)】
  • 細川父子は丹後に戻り、忠興の妻であり、光秀の娘であった玉を、丹波三戸野の茶屋に移した。(既にこの時、細川父子は秀吉に対して、光秀の求めには応じないことを伝えていたようである)
  • 安土城の守将蒲生賢秀は、変報を聞き、信長の側室らを日野に移す。
  • 信楽で一宿した家康一行は、伊賀越えで伊勢に向かった。同行していた穴山梅雪は、家康一行に遅れて出発、途中、伊賀の一揆に殺される。
  • 柴田勝家、上杉方の魚津城を落とす。
  • 夜、光秀から小早川隆景に宛てた密書が奪われ、秀吉は、本能寺で信長が倒れたことを知る。(【武功夜話】には、細川藤孝からの密書によって、秀吉が「変」を知ったとある)
  • 深夜、秀吉、安国寺恵瓊を呼び、高松城主清水宗治の切腹と毛利領備中・美作・伯耆の譲渡を和睦の条件として提示し、信長の死を秘しながら、和睦を急ぐよう指示する。 

6月4日庚寅(1582年6月23日)

  • 光秀、近江・美濃の大半を平定する。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 大和筒井順慶、光秀の援軍を山城に派遣する。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】
  • 高松城主清水宗治が切腹、秀吉と毛利の和睦が成る。【明智光秀(高柳)】
  • 柴田勝家、「変」を知る。
  • 家康、伊勢の白子から船で三河大浜に上陸し岡崎城に入る。【明智光秀(高柳)】
  • 上杉景勝、「変」の報を聞き、退却する柴田・佐々・森らの手から川中島や魚津城を取り返し、信長に応じた新発田重家を攻める。
  • 筒井順慶、光秀に援軍を送る

6月5日辛卯(1582年6月24日)

  • 光秀、安土城を占領し、財宝を部下や新たに従属した諸将に分け与る。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 更に、阿閉貞征に長浜を、武田元明に佐和山城を攻略させ、占領する。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀の軍に筒井順慶の援軍が合流する。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】
  • 織田信澄は織田信孝・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻められ自殺する。
  • 2:00pm、秀吉は暴風雨の中東上を開始。

6月6日壬辰(1582年6月25日)

  • 吉、備中高松から姫路城に到着(7日未明或いは8日早朝の誤りか)。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀、安土城に入り、上杉景勝に使者を送って後援を依頼する。 

6月7日癸巳(1582年6月26日)

  • 光秀、安土に勅使吉田兼見と面会する。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、摂津河辺郡開連寺に禁制を出す。【渡辺重雄文書】【明智光秀のすべて】
  • 秀吉、未明に姫路城に到着(或いは8日早朝)。 

6月8日甲午(1582年6月27日)

  • 光秀、安土より坂本に入る。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀、摂津攻略のため安土を出発。先勢大津・山科に着陣。また、禁裏の使者派遣を受ける。【兼見卿記】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、上京し、銀子を禁中・諸寺に献ず。次いで、鳥羽に出陣する。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀、細川藤孝・忠興父子に書を与えて参加を望むが、父子応ぜず。【明智光秀(高柳)】 

6月9日乙未(1582年6月28日)

  • 光秀、未(2:00pm)に上洛し、使者派遣の礼として、銀子を禁中及び諸寺に献じ、京都市中の地子免除を布告する。【兼見卿記】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、配備の手配後、夕方、下鳥羽に出陣する。【明智光秀のすべて】
  • 光秀、丹後国宮津城にいた細川藤孝・忠興父子に手紙を送り、改めて助勢を依頼する。【細川文書】
    「御父子もとゆい御払候よし、もっとも余儀なく候。一旦我らも腹立ち候へども、思案候ほど、かようにあるべきと存じ候。然りといへども、此の上は大身を出だされ候て、御入魂希ふところに候事(一部)」【明智光秀(高柳)】
  • 筒井順慶は、秀吉上洛の情報を得て、河内出陣を中止し、居城大和郡山城に米・塩を入れ、籠城の準備を始めた。
  • 秀吉、浅井長吉を留守居役とし、一部を淡路洲本攻略に向かわせ、姫路を発し播磨明石に着陣する。

6月10日丙申(1582年6月29日)

  • 光秀、河内に出兵す。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、藤田伝五を筒井順慶のもとに派遣する。洞が峠に陣し順慶の参会を待つが、順慶は、同心できない旨を伝え、引き上げてしまった。【多聞院日記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】 

6月11日丁酉(1582年6月30日)

  • 光秀、下鳥羽に移る。筒井順慶の説得を諦める。急遽、淀城の修理・普請に掛かった。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 筒井順慶は、秀吉に応じることを使者を以って伝える。
  • 秀吉、摂津尼ケ崎に到着。大坂にあった織田信孝・丹羽長秀や、光秀の寄騎伊丹城主池田恒興・茨木城主中川清秀・高槻城主高山右近らに参陣を求める
  • 秀吉軍の一部は、山崎付近にまで出ており、勝竜寺で足軽同士が衝突、鉄砲の打ち合いがあった。
  • 岡崎の家康は、大雨のため出陣を延期する

6月12日戊戌(1582年7月1日)

  • 秀吉は池田恒興らと協議し、高山重友・中川清秀を先鋒とし、使者を大阪城に遣わして織田信孝・丹羽長秀の参陣を求める。秀吉、摂津富田に着陣。
  • 秀吉、摂津に攻め上り山崎付近に兵を出し、勝竜寺付近を焼き払う。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】
  • 光秀は、秀吉の東上を知り、急ぎ山崎に集結し、天王山を占領しようとするが、既に、秀吉方の先鋒中川隊によって占拠されていた。止むなく、勝竜寺城に入り、守備を固める
  • 光秀、八幡・山崎より淀に引き退く。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】

6月13日己亥(1582年7月2日)(山崎の戦い)

  • 光秀軍は勝竜寺城を出、桂川支流の円明寺川に沿って布陣。総勢1万6千。
  • 秀吉軍に、昼頃、織田信孝らがに合流。山手(天王山側)を羽柴秀長・黒田孝高らの主力部隊、街道筋を高山重友・中川清秀・堀秀政ら、河手(桂川沿い)を池田恒興ら、予備(中央後詰め)は秀吉・信孝を配する。総勢3万5千から4万。
  • 申(4:00pm)頃、光秀軍山手先鋒の並河・松田隊が、天王山麓の先鋒中川隊を攻撃、戦端は開かれた。中川隊が防戦する間に、羽柴秀長・黒田孝高らが援護、並河・松田隊は敗れた。
  • 中央の高山隊に光秀軍の斉藤利三・阿閉貞征隊が猛攻をかける。このため高山隊は窮地に立たされるが、中川・堀隊が左翼から池田隊が右翼から明智軍の戦闘部隊を攻撃、斉藤・阿閉隊は後退する
  • 光秀軍予備の伊勢貞興・藤田伝五隊が右翼から、津田・村上隊が左翼から秀吉軍中央に向かい、一進一退の激しい攻防戦となった
  • 羽柴軍の後続部隊が戦闘に加入し、次第に戦力的な差が生まれ光秀軍は壊滅状態となり、7:00pm頃、光秀は退却を決意。光秀は勝龍寺城に兵7百余を引き連れ退いた。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 秀吉軍は敗走する明智勢を追撃・掃蕩し、大軍を以って勝龍寺城を包囲。
  • 光秀は、再起を図るべく溝尾勝兵衛ら少数の近臣と共に勝龍寺城を抜け出し、坂本城に戻る途中、小栗栖(醍醐)で土民に襲われ自殺する。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】

6月

  • 細川藤孝、剃髪し名を幽斎に改める。

6月14日庚子(1582年7月3日)

  • 勝龍寺城は秀吉軍の攻撃を支えられず落城。
  • 明智秀満は、山崎の敗報を聞いて安土城を放棄、坂本城に移る
  • 秀吉軍の先鋒は丹波亀山に入り、亀山城を落とした。
  • 秀吉本隊は、光秀を追って近江に入り三井寺に陣取る
  • 家康、尾張鳴海に到着。先鋒の酒井忠次は津島に到着。

6月15日辛丑(1582年7月4日)

  • 秀吉軍の堀隊が明智秀満の入った坂本城を包囲。
  • 秀満は、国行の刀・吉光の脇差・虚堂の墨跡を蒲団に包み、目録を添えて寄手に呼びかけ、「此道具は私ならぬ事、天下の道具なれば、是にて滅し候事は、弥兵次傍若無人と思召すべく候間、相渡し申候」とて、送り届けさせたという。(名茶器平蜘蛛を壊して自殺した松永久秀とは全く反対のしわざである。【日本の歴史】)
  • その後秀満は、光秀の妻子及び妻(光秀の娘)を刺殺し、城に火を掛けて自殺する。

6月16日壬寅(1582年7月5日)

  • 秀吉・織田信孝らが安土に着陣。安土城は何者かの手によって焼け落ちていた。次いで秀吉は長浜に入る。丹羽長秀が佐和山城を陥れる。
  • 光秀の屍、本能寺に晒される。【兼見卿記】【明智光秀のすべて】

6月17日癸卯(1582年7月6日)

  • 秀吉ら、光秀の首を本能寺に梟す

6月19日乙巳(1582年7月8日)

  • 家康は、秀吉の使者から叛乱軍平定の報告を受け、岡崎に戻る。

6月27日癸丑(1582年7月16日)

  • 柴田勝家・秀吉ら織田の宿老が尾張清洲城に会し、後継を秀吉の推す三法師(秀信)と定める。

7月11日丁卯(1582年7月30日)

  • 秀吉、細川幽斎に宛て「変」の際の態度を誉め、丹後国内の旧明智領を細川忠興に与える。

7月17日癸酉(1582年8月5日)

  • 秀吉、毛利輝元に山城山崎の築城のため、信長の葬儀を延引する旨報ずる。

9月12日丁卯(1582年9月28日)

  • 羽柴秀勝、信長の百日忌法会を山城大徳寺に行う。

10月3日戊子(1582年10月29日)

  • 正親町天皇、秀吉に綸旨を与え従五位下・左近衛権少将に叙任する。

10月15日庚子(1582年11月10日)

  • 秀吉、於次丸(信長の四男で秀吉の猶子)を喪主として山城大徳寺に信長の葬儀を行う。

11月2日丁巳(1582年11月27日)

  • 柴田勝家、前田利家を山崎城に派遣し、秀吉と講和する。

参考資料:【本能寺の変】年表 「天正十年~天正二十年」


馬淵城 近江国(近江八幡)

2016年02月15日 | 居館

京都新聞2016.2.14より

お城のデータ

所在地:近江八幡市馬淵 マップ:http://yahoo.jp/0G7nMp

区 分:居館

築城期:鎌倉時代中期

築城者:佐々木広定

遺 構:なし・・・真光寺に墓碑

訪城日:2014.1.2

お城の概要

 馬淵城の詳細は不明であるが、近くを流れる白鳥川を何らかの形で利用していたであろうことは容易に想像される。
 白鳥川に関しては、現在馬淵地区の東を流れているが、これは昭和40年頃の圃場整備に伴って川筋が変えられたもので、当初は馬淵地区の西を流れていた。
 この川筋の名残が現在も馬淵地区を流れる細い水路と考えられ、馬淵城は白鳥川が大きく蛇行し、三方を白鳥川で囲まれた地形に築城されていたと推定される。

 馬淵地区にある真光寺は馬淵氏の菩提寺で、墓地には馬淵一族の墓とされる五輪石塔群がある。
また、馬淵は岩倉山から良石を産出することもあって、馬淵衆や岩倉衆などの石工集団の発祥の地としても知られている。

集落には城屋敷・一ッ堀・蔵の町・籔雨田(流鏑馬田か)の地名という字名が残っていて、城は集落の北東部にあったと推察されているようです。ただ、城を示すような遺構は何も残っていないようで、真光寺に馬淵氏の墓はある。法要のときに子孫が集まるのみだとの事。

歴 史

『日本城郭体系 11』によりますと、「建保六年(1218)に佐々木弘綱が将軍実朝より賞賜された馬淵庄を、その弟広定が受け継いで馬淵氏の祖とし居館をおいた。

永禄・元亀年間(1558-73)の間、佐々木氏の没落後もここにその居を置いていたものと思われ、同町真光寺墓地に左記の銘を有する五輪石塔(市指定物件)があって、そのことを裏付けているのではなかろうか。

真光寺

馬真光寺は馬淵氏の菩提寺で、墓地には馬淵一族の墓とされる五輪石塔群がある。

東に観音寺城

まぶちうじ【馬淵氏】 

中世の武家。近江国蒲生郡馬淵(滋賀県近江八幡市)より起こる。佐々木氏一族。佐々木氏系図によれば定綱の後裔である広定が初めて馬淵氏を称した。

代々近江の守護・戦国大名六角氏の有力家臣で、南北朝時代の初めから室町時代前半にかけては,守護六角氏の守護代として活躍した。とくに広定の曾孫にあたる義綱は、延文・貞治年間(1356‐68)に活躍の跡が顕著であり、六角氏の領国政治を支えた重臣であったことがうかがえる。

 馬淵広定は佐々木定綱の五男で、蒲生郡馬淵庄を領して馬淵を称したのに始まる。この広定の四男基綱が青地右馬助の養子となり、青地氏を継いだという。その時期は鎌倉時代の中ごろと考えられている。青地庄は経済的にも交通的にも重要な位置を占めており、江南地方に勢力の拡張を目指す馬淵氏や、その背後にある佐々木氏にとって青地庄に一族の者を配置することは有効であったために、基綱を青地氏の養子として青地氏を佐々木氏の一族化したものだろう。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、武家家伝、日本城郭体系、淡海の城、京都新聞

        本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


近江 旗本札

2016年02月15日 | 番外編

旗本札(はたもとさつ)は、

    江戸時代に知行地を持つ旗本が自領内において独自に発行した紙幣である。

近江国

近江国における旗本札発行旗本の特徴としては、交代寄合または寄合といった大身旗本が発行元となっている点が挙げられる。

高島郡朽木(現・滋賀県高島市朽木野尻)の朽木氏(交代寄合表御礼衆)は福知山藩朽木家の本家筋で、足利将軍家が有事の際にしばしば頼った名家である。

蒲生郡大森(現・東近江市大森町)の最上氏は、出羽国の名族で山形城主であった最上氏が御家騒動により減知のうえ転封し、のち更に減知により国主格のままで交代寄合表御礼衆となった。

神崎郡伊庭(現・東近江市伊庭町)の三枝氏は、甲斐国の名族で武田氏の重臣であった家である。

蒲生郡中山(現・蒲生郡日野町中山)の関氏は、伊勢国亀山城主や伯耆国黒坂城主を歴任した大名であったが、御家騒動により領地を没収され、養子が改めて旗本として取り立てられて成立した家である。

蒲生郡老蘇(現・近江八幡市安土町東老蘇)の根来氏は、紀伊国の根来寺に所属して豊臣秀吉の根来寺攻撃に抵抗し、のちに徳川家に属した成真院盛重の後裔である。

 近江国の旗本札の特徴としては、銀建て、銭建ての札で、紙幣として使用されることが前提のものでありながら、朽木氏の炭切手伊庭三枝氏の種切手中山関氏の豆切手老蘇根来氏の豆手形大森最上氏の茶切手というように、いずれも商品切手(商品券)の名目をとっている点がある。

近江国では、彦根藩、、膳所藩、水口藩、大溝藩など、江戸期に発行された同国諸藩の藩札も同様の特徴を有している場合が多い。

老蘇根来氏は、陣屋を構えていた老蘇のほかに、大和国宇智郡の知行地においても札面が類似した様式の紙幣を発行した。

参考資料:ウィキペディア

        本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


新海道(杣海道)とも。

2016年02月15日 | 山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

杣街道(そまかいどう)は、江戸時代に滋賀県(近江国)甲賀郡に存在した街道。杣海道、新海道とも

歴史

杣川沿いのこのルートは近江朝時代の東海道で「倉歴(くらぶ)道」ともいう。壬申の乱後に一旦廃れたが、平安時代にも886年(仁和2年)に鈴鹿峠経由で関に至る「阿須波(あすは)越」に変更されるまで東海道として利用された。

その後も、湖南から伊賀に抜ける「伊賀道」として、伊勢参宮の間道として、山伏の道として、杣谷の人々にとっての主要道として重要な道であった。

 江戸時代に入って17世紀には三雲から東海道と分れて伊賀へ至る現在のルートの大要が確認でき、1742年(寛保2年)の資料には「杣海道」の名称が確認できる。現在のルートが整えられたのは明治20年代のことで、当時これを「新海道」と称した。1889年、沿線に関西鉄道が開通。1907年に国有化され、現在のJR草津線となっている。

経路

三雲(滋賀県湖南市三雲) → 三本柳(滋賀県甲賀市水口町) → 深川市場(甲賀市甲南町深川市場) → 寺庄(甲賀市甲南町寺庄) → 大原市場(甲賀市甲賀町大原市場) → 上野(甲賀市甲賀町上野) → 柘植(三重県伊賀市柘植町)<大和街道に合流> → 加太市場(亀山市) → 関(亀山市関地区)


今郷城(おばん城)    近江国(水口)

2016年02月15日 | 丘陵城

踏査図・・・中井 均氏

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)水口町今郷町 map:http://yahoo.jp/fMlJzn

目標地:丘陵下の新道・・御城山の土山マラソン標識・甲賀市土山 オー・デュ・プール

別 称:おばん城

区 分:丘城 

標 高:215m  比高差:10m 

現 状:山林

遺 構:郭・土塁・堀・土橋

築城期:室町期

築城者:嶬峨氏・大野氏か?

駐車場:丘陵にため池の手前に駐車可

訪城日:2016.2.3

中世城館 おばん城址(今郷城)

お城の概要

東海道土山宿と水口宿の中間【現在では、土山町と水口町の境】の丘陵、城はあった。丘陵の森の中に鉄塔が建つ、北から鉄塔で東に送電線がⅬ字敷かれている。この鉄塔が主郭に建つ!

 丘陵下の県道182号線添い。国道1号線と平行道、水口町今郷と土山町大野の境に丘陵に鉄塔が見えます。この鉄塔が主郭、貯水池の東側が城跡です。

地元の有志が整備しているが、東側の一部が未整備

甲賀郡今郷村地券総絵図(明治12年)今在家村と小里村が合併して今郷村に

お城の歴史

  • 近江興地史略(享保19年3月15日(1734))に、「今郷城 水口地帯となる。井戸、濠残る」とある。
  • 甲賀郡志・・大正15年(1926)6月10日に「城址 大野村大字今郷、大字大野元標より12町を距つる北方字「おばん」の高地にあり。東方なるは東西30間南北25間を有し築堤尚在し高1間半乃至り2間、南隅に2個の古井あり、雑草汚水の中に生じ深さ2尺余あり。北方に濠跡、1間半乃至2間を在す。また西方に方20間の城址あり出丸の如し。その西は断崖にして高さ18間余その下は即ち周濠にして今は耕地となる。南方は総て断崖を削るが如く濠跡は現時溝と相連り田用水となる。東跡は雑樹灌奔業生し西跡は開墾して畑地となす。」と記す。
  • 私たちの今郷・・・昭和55年(1980)9月 今郷の北のおばん、小字の名、姥が淵の高台に東西2地区に分かれて城址があって、東の方は面積二反、高さ2間の築堤がり、西方は一反の広さでありました。だれの城か不明です。元弘・建武(1331~1336)のころ、嶬峨氏の城か、または甲賀武士大野中務入道が永享年間(1429~1441)大野城へ移る前に住んでいた城とも言われています。
  •  甲賀市史【第七巻】甲賀の城(P475)に、188今郷城(今郷小字崩谷) 丘陵・曲廓・土塁・堀 良好 山林 「城址」(郡志)。今郷集落の北方丘陵上にあり。3方土塁で囲まれた方形城館・・・とある

 

現地解説の安土城考古博物館の細川学芸課長

鉄塔のヘンスの中にも土塁

未整備の空堀

中世の城館跡みつかる 城密集地、専門家驚き「まだあった」 産経新聞 2014.4.18

 中世(16世紀頃)の城館跡とみられる土塁や堀が、甲賀市水口町今郷(いまごう)の小高い山の中でみつかった。地元で郷土史の研究やまちおこしを手がけるグループ「今郷好日会」が発見し、方形の土塁などの特徴から、中世城郭に詳しい中井均・県立大人間文化学部教授は「今郷城」跡とみる。戦国時代の甲賀市域は全国屈指の城密集地域で、メンバーらは「地域活性化につながる観光資源として生かしたい」と話している。

 中世の近江国は1300の城があったとされる。このうち甲賀市では約200の城跡が確認され、今郷地区にも、中世の城館「今郷城」があったと言い伝えられるが、どこに誰が造ったかなどは分かっていない。推定地はあったが場所の特定には至っていない。

 このため、同会が昨年2月、推定地周辺の丘陵地を調べたところ、人工的に掘られた溝や土塁のようなものを発見した。

 そして今月3日、中井教授とともに現地を調査。この結果、高さ6メートルの土塁が1辺30メートルの長さで方形に巡らされ、その周囲には幅2~3メートルの堀が築かれていたことが分かった。一部は、送電線の鉄塔が建ち、破壊されていた。

 中井教授によると、方形に巡らされた土塁の形は「単郭方形」と呼ばれ、甲賀地域で多くみられる中世城館の構造。土塁の内側には、集落を治めた地侍(甲賀衆)らの居館が建ち、有事の際は住民を避難させる場所として使われたとみられる。

 中井教授は「市内の城館跡は調査し尽くされたと考えていたので、『まだあったのか』と驚いた。元々は集落を守るために築かれた城。今度は地域の人々の手で大切に守ってほしい」と話している。

 今郷好日会は、平成22年に今郷地区の住民らで結成。市の補助を受け、現在21人が史跡調査をはじめ、地区を通る旧東海道の案内板設置や景観美化などの活動を手がけている。今郷城跡についても、今後周辺の樹木を伐採したり案内板を設置したりして、観光スポットとして整備する。同会の福野憲二事務局長(59)は「地域の誇りとして史跡を守り、魅力発信に結びつけたい」と話している。

 

facebook【今郷好日会(いまごうこうじつかい)】に「緊急告知です!「おんば城(今郷城)見学会」 参加者募集中」1月16日
安土城考古博物館でのおんば城(今郷城)整備活動紹介パネルの展示を記念して来る2/14(日)城址の見学会と整備体験会を実施します。安土城考古博物館の学芸課長さまの解説もあります。興味をお持ちのみなさま是非ご一報ください。

今郷好日会(いまごうこうじつかい)さんの写真
 現地集合ですが駐車場は農免道路沿いの圃場の道路です。当日はスタッフが案内しますのでご安心ください。
甲賀市水口町今郷字山ノ中1663番で検索してください。
城跡は向いの丘陵地にあります。雨天の場合も現地見学と細川さまの解説はあります。また、豚汁のサービスもありますので是非ご参加ください。お待ちしております。
 

参考資料:甲賀郡志、甲賀市史(甲賀の城)、見学会レジュメ、今郷好日会(facebook)

        本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!