城郭探訪

yamaziro

矢野屋敷   近江国(日野)

2016年05月08日 | 居館

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町北脇   map:http://yahoo.jp/X9nPdN

現 状:田地・林

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:矢野氏

遺 構:林に土塁・空堀・廓に一部

目標地:桜谷幼稚園西分園

駐車場:農道に路上駐車

訪城日:2016.5.8

お城の概要

 日野町の東部の国道307号線沿いの北脇集落北部の山麓に位置するが、圃場整備で遺構は水田となり消失したが、比定地のに東端山麓に林内に土塁・空掘(井戸?)が残る。またその南側は廓跡と思われる。土壁の倒壊寸前の倉庫が建っている。

 

お城の歴史

 滋賀県中世城郭分布調査4の解説では

 室木氏の支流「矢野氏」の屋敷といわれるが、9m×25mの楕円形平坦地と古井戸が残るのみである。平坦地の西側に野谷家墓地、住居をはさんで小さな祠がる。平坦地のある南側、北脇への道を「馬場」と呼んでいる。が圃場整備で消滅した。

『近江国興地志略』にも、記録が残っているようだ。詳細後日。

          竹の子もテントで真っ直ぐ伸びられず!   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡の城)

  本日の訪問ありがとうございす!!

 


木村城  近江国(蒲生)

2016年05月08日 | 平城

  

木村城

お城のデータ
所在地:東近江市(旧蒲生郡蒲生町)木村町  map: http://yahoo.jp/Kcpiuh
現 状:神社・宅地
区 分:平城
築城期:室町期
築城者:木村次郎左衛門重光
遺 構:柳宮神社の鎮守の森に遺構か?
目標地:木村公民館
駐車場:木村公民館前に駐車
訪城日:2016.5.7
 お城の概要
 蒲生木村城は、布施山城の西、雪野山城の東、後藤氏館の南約2kmに位置する平城で、現状は名神高速道路で寸断され、圃場整備された田園集落、近くには、木村古墳の復元され往古からの集落地でもある。
 本佐々木(佐々貴)氏の一族の木村氏の本幹地と考えられるが、未詳(滋賀県中世城郭分布調査4)
お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』には、「蒲生郡 木村城主 佐々木末 木村次郎左衛門重光・同 木村筑前守重高・同 木村肥後守貞兼・木村佐渡守・木村小隼人」の名を記す
木村公民舘前に駐車
遺跡ウォーカーの比定地は

近江の木村氏  (Wikipedia)

近江国蒲生郡木村(のちの滋賀県蒲生郡蒲生町木村、現在の同県東近江市木村町)が発祥。

12世紀末、『源平盛衰記』巻37で平通盛を討ち取る①木村茂綱は紀成高の四代の孫とされ、『姓氏家系大辞典』でも紀姓説を採っている。一方、『佐々木系図』(『続群書類従』所収)で成綱を佐々木経方の後裔②とし、かつ、経方の次男行定の母を紀盛衆の娘としていることから、

『近江輿地志略』では、行定の子定道が祖母の姓である紀姓を仮冒して称したのであり、本来は佐々木氏の一族とする。

後世、その子孫は宇多源氏佐々木氏流を称し、江戸時代の幕臣として9家が『寛政重修諸家譜』に掲載されている。家紋は四目結、あるいは釘貫。安土桃山時代に豊臣氏の家臣となった、木村定重・重慈・重成らもこの流の後裔と考えられている③。

近江国滋賀郡堅田(現在の滋賀県大津市堅田地区)の人に、弓術出雲派の吉田重綱の弟子で、寿徳派の創始者木村寿徳がいる。元は猪飼氏を称していたとされる。

『佐々木系図』では平通盛を討ち取ったのは、成綱の弟(木村源三)俊綱とする。また『吾妻鏡』では俊綱を成綱の子とする。

『尊卑文脈』も同様

太田亮著『新編 姓氏家系辞書』角川書店,1974年,484頁

鎮守の森
30m東に祠が
 
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡の城」、遺跡ウォーカー 、佐々木南北諸氏帳、Wikipedia
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横山館(横山氏館)     近江国(蒲生)

2016年05月08日 | 居館

横山館

お城のデータ
別 称:横山氏館
所在地:東近江市(旧:蒲生郡蒲生町)横山町   map:http://yahoo.jp/W6yXhL
現 状:神社・宅地
区 分:平城
築城期:室町期
築城者:横山太郎左衛門
遺 構:櫟神社の鎮守の森に遺構か?
目標地:横山公民館・櫟神社
駐車場:永福寺駐車場に駐車
訪城日:2016.5.7

お城の概要
横山氏の居城は横山にあったと考えられるが、遺構・伝承とも不明で、ただじ、現在も集落内に横山姓を名乗る家が3軒あり、そこに近世には大庄屋の大きな屋敷あったという。史跡ウォーカーの比定地の櫟(くぬぎ)神社の、となり大きな屋敷跡が残存する、館跡か?・・・(滋賀県中世城郭分布調査4)
お城の歴史
横山太郎左衛門は六角氏の旗頭で、子孫の横山将監は蒲生氏に従ったこと『近江名跡案内記』にある。

 横山喜内。備中守。六角家臣。
後に蒲生氏郷に仕える。永禄十二年、蒲生氏郷の初陣である伊勢攻めに従う。天正十五年、九州征伐に出陣。厳石城攻めで軍奉行。抜け駆けにより処分されかかるが許される。戦後、蒲生姓と一字を賜る。蒲生頼郷と改名。蒲生十八将が蒲生姓を称するのは、全て九州征伐の軍功によるものである。天正十八年十月、塩川城六千石。文禄四年、豊臣秀吉から蒲生秀行の補佐を命じられる。氏郷没後、石田三成に仕えて蒲生真令と改名。関ヶ原合戦で嶋清興らと共に奮戦。討死した 
綺麗手入れされた【鎮守の森】は、大きく改変されているが、城郭遺構か?
櫟神社の隣の【大きな屋敷跡】
近くに永福寺:滋賀県蒲生郡蒲生町横山435
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡の城」、遺跡ウォーカー 、近江名跡案内記、蒲生家家臣団 
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