現在は公園として整備されて、頂上までの道は舗装されている。主郭は展望塔や休憩室が置かれている。
また、主郭部は(頂上)の、展望塔からは金ヶ崎や敦賀市内が見渡せる。山頂で【見張り台】であった。
・湾の奥まった所に、天然の防波堤のように東から西に突き出し岬がある。ここに金ケ崎城あり朝倉景恒が三千の兵と共に立て籠もっていた。
・金ケ崎城から東につづく尾根の先端の手筒山城があり、気比神宮の社家を中心とした国人衆千五百兵と共に立て籠もっていた。
現在は公園化されており、曲輪、櫓台跡などが残る。
主郭部のから南曲輪へ
南曲輪の案内状(織田軍は、南から攻めあがった)
お城の歴史
信長公記 巻三 元亀元年4、金ヶ崎 越前手筒山攻落されの事
25日、信長公は越前の地へ足を踏み入れた。敦賀まで進んだ信長公は馬を懸け回して付近の地勢を検分し、手筒山城を標的に定めるとすぐさま旗下の将士に攻撃を命じた。手筒山は金ヶ崎南東に屏風のごとくそびえ立つ高山であったが、将士たちは信長公の命が下るや一命を顧みずに坂を駆けのぼり、千三百あまりの首を挙げて一気に城を陥れた。
手筒山に近接する金ヶ崎城には朝倉中務大輔景恒が籠っていた。手筒山を落とした翌日、信長公はこの城にも攻撃の手を向けた。刃向かう敵は殲滅する勢いで攻め寄せた織田勢の前に城衆は戦意を失い、まもなくして降伏した。
つづいて疋田城も開城した。信長公は滝川彦右衛門・山田左衛門尉の両人を疋田に遣わし、塀を倒し櫓を降ろさせ、城を破却した。ここまではまさに破竹の勢いであった。
しかしそこから木芽峠を越え、あすには越前国内へなだれ込もうというとき、軍中に最悪の飛報が届いた。江北の浅井備前守長政が掌を返し、敵方についたという報であった。
信長公ははじめこの情報を信じなかった。浅井は歴とした織田家の縁者であり、さらには江北一円を申し付けてもいる。不足のあろうはずがなく、虚説に違いなし、というのである。しかし信長公のもとへはその後も諸方から続々と同様の注進が届き、もはや浅井離反が事実であることは疑いようがなくなった。
運命は、突如として変転した。信長公はただ一言、
「是非に及ばず」と、つぶやいた。
4月28日、信長公は撤退を開始した。木下藤吉郎を殿軍として金ヶ崎の城に残し、みずからは駆けに駆けて30日には近江に出、地元の豪族朽木信濃守元綱の先導で朽木越えをして京都への撤退に成功した。
越前撤退後、信長公は明智光秀と丹羽長秀を若狭に遣わし、武藤上野守友益に人質供出を要求させた⑤。交渉の末、武藤の母親が信長公のもとへ人質として差し出され、武藤の城は破却された。両名は5月6日針畑越えの道をとって京へ戻り、信長公へ復命した。
このとき稲葉一鉄親子と斎藤内蔵助利三は江州守山に駐屯し、近江路の警固にあたっていた。そこへ一揆がむらがり起こってへそ村⑥に火の手をあげ、守山にも焼き討ちをしかけてきた。しかし稲葉は町の諸口を支えて逆に敵を追い崩し、数多の敵を討ち取った。比類なき働きであった。
その後信長公は京表の諸大名から人質を取りかためて公方様へ進上し、大事出来の際には時日を移さず必ず入洛することを誓い、5月9日京を離れて岐阜へ下っていった。途中志賀⑦・宇佐山⑧の城に森可成を残し、12日⑨に永原まで出てこの地に佐久間信盛を置き、長光寺⑩には柴田勝家を入れた。安土にも中川八郎右衛門が残された。かくのごとく城塞ごとに兵が入り、近江回廊は厳戒態勢がしかれた。
④現滋賀県朽木村から京都北郊に出る道 ⑤武藤友益は若狭の将で、織田勢の若狭侵入に対抗していた。⑥現栗東市 ⑦⑧現大津市内 ⑨正しくは13日 ⑩現近江八幡市長光寺町 元亀元年4月25日、織田軍(10万人)に攻め込まれ、双方数千の戦死者が出る戦いとなったが陥落し、朝倉景恒は金ヶ崎城に陣を引くことになった。
お城の歴史
建武3年・延元元年(1336年)に金ケ崎城に籠った新田勢に対する足利勢の陣所となっていた。
元亀元年(1570年)越前に侵攻した織田信長によって金ケ崎城とともに落城した。
戦国時代
朝倉氏が越前を掌握した後は朝倉氏一族の敦賀郡司がここを守護していた。1570年(元亀元年4月26日)、援軍が遅れたため、郡司朝倉景恒は織田信長に対し開城する。しかし、浅井長政が離反して近江海津に進出し挟撃戦になったため、信長は木下藤吉郎らに殿(しんがり)を任せ、近江朽木越えで京に撤退する。
金ヶ崎の戦い
元亀元年(1570年)4月20日、織田信長・徳川家康連合軍は3万の軍(『言継卿記』)をもって京都を出陣諸将を集めて10万余の大軍となって西近江路を北上。九里半越えから若狭国に入り、熊川宿に一泊し、23日には朝倉氏の勢力と接する若狭三方郡の国吉城に入城した。24日も越前攻めに備え、、25日、織田徳川連合軍は、天筒山城を攻めむと、越前国敦賀に侵攻した。本陣を妙顕寺(敦賀市元町)とした。対して、朝倉側は朝倉景恒を総大将のもと金ヶ崎城に籠った。天筒山城には気比社の社家、嶋、宇野各氏や上田、中村、吉川、萩原入道など1500騎など立て篭もっていた。
天筒山城攻略10万余の信長軍は、信長自身が先頭に立って、天筒山城攻略を開始した。信長軍の編成は、先頭の信長に続いてその一族、そして柴田勝家、丹羽長秀などの重臣達、その後に松永久秀、池田経興、徳川家康などの諸大名が後詰した。足軽大将であった木下秀吉(後の豊臣秀吉)は遊軍となって天筒山、金ヶ崎城周辺の在所など放火して回った。天筒山の東側は急峻で、その下は池見の湿地帯であった。籠城軍はその方面への防御を比較的手薄にしていた。本来、天筒山城の弱点は、海岸に沿って東に延びる山地からの攻撃に対してであった。また、圧倒的な信長軍の包囲に対して、主力を西側からの攻撃に対陣せざるを得なかった。東南を天然の防禦線としてと頼んでいた。そこに、信長に攻撃の糸口を与えた織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻撃したところ、同盟関係にあった妹婿の小谷城の浅井家の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎と信長の同盟軍の徳川家康が後衛(家康の後衛に疑問をもつ向きもある)となって、信長本隊が信長勢力地まで帰還するのを援護した戦い。
南曲輪へ
天筒山城遠望
信長はここ妙顕寺に本陣
25日、敦賀に入った信長はここ妙顕寺に本陣を構え(国吉籠城記)、自ら敵情視察した上で手筒山砦攻撃を決めます。
妙顕寺本堂
妙顕寺からの手筒山
参考資料:Wikipedia・敦賀観光案内サイト 漫遊敦賀/金ヶ崎城跡】敦賀戦国浪漫パンフレット金ヶ崎の退き口 - 敦賀の歴史