城郭探訪

yamaziro

信長公記 巻十四 11~15

2013年03月03日 | 番外編

信長公記

巻十四

天正九年

 

11、伊賀下向  伊賀国信長御発向の事

 10月9日、信長公は中将信忠殿と織田信澄を同道させ、伊賀国の検分に向かった。そしてその日は飯道寺①の山に上り、そこから国内の様子を一望したのち同地に宿泊した。

 翌10日には一宮に入ったが、信長公は一時も休息することなく一宮の上にある国見山という高山に登り、山上から伊賀国内の様子を検分することに時を使ったのだった。

 この一宮では信長公の座所となる御殿が滝川一益の手によって結構に作り上げられ、また信忠殿をはじめとする諸勢の逗留所も余すところなく建造されていた。座所には珍物をそろえた食膳が並び、この上もない饗応ぶりであった。
 一方、信雄殿・堀秀政・丹羽長秀らの諸将もこれに負けじと信長公の逗留先となる座所・御殿には綺羅を飾り、普請・食膳の用意に労力を注ぎ込んだ。路次すがら一献を捧げるべし、と諸将が謁見にあらわれ、信長公を崇敬しつつ畏怖するさまは、筆にも言葉にも表しがたいものがあった。

 翌11日は雨が降ったため同地に滞在し、12日になって信雄殿および丹羽長秀・筒井順慶が陣所を構える奥郡の小波多②という地へ家老衆十名余りを伴い見舞いに訪れた。そして要所々々の要害を固めるよう指示を下したのち、翌13日に伊賀一宮から安土へと帰城したのだった。

 その後17日になり、信長公は長光寺山で鷹狩を行った。一方伊賀では国内の制圧が完了し、諸卒が帰陣を終えていた。

 10月20日、信長公は南北二つの通りの間、新町・鳥打③の区画にまたがる伴天連屋敷を建てるよう指示を下し④、小姓衆・馬廻へ命じて泥沼を埋めさせ、町屋敷を築かせる普請を行った。

①現滋賀県水口町内 ②現三重県名張市内 ③安土城下 ④セミナリヨの建造を指すか

 

12、鳥取渇殺し  因幡国取鳥果口の事

 因幡国鳥取では、一郡の男女ことごとくが城中へ逃げ入って籠城を続けていた。しかし百姓をはじめとする下々の者たちには長陣の準備がなかったため、城内はまたたくまに飢餓に瀕した。

 城側でははじめ五日に一度、三日に一度と鐘を鳴らし、それを合図に雑兵たちが塀際まで出てきて草木の葉を刈って食糧としていた。次いで籠城も中ほどになると稲株を上々の食物としたが、やがてはそれも尽き、牛馬をも喰らいはじめた。しかし飢餓は進み、弱い者は霜露に打たれながら際限もなく餓死していったのだった。

 餓鬼のごとく痩せ衰えた男女は柵際へ取り付き、「ここから出し候え、助け候え」と嘆き叫んで哀願した。その様子は目も当てられぬ哀れさであった。しかもそうした者を鉄砲をもって打ち倒すと、まだ息のあるその者のまわりへ人々が群れ集まり、刃物を手に節々を切り離って肉を取ってゆくという惨状まで繰り広げられた。とりわけ身体の中でも頭には滋養があると見え、死者の首をあちらこちらで奪い合い逃げまどう姿も見られた。まことに人間の生命ほど強靭かつ惨めなものはなかった。

 しかしながら、そのような中にあってこそ「義ニ依リテ命ヲ失フ」行いが輝くものといえた。城中からは降伏の申し出があり、その内容は吉川経家・森下道与・奈佐日本介の三将の首と引き換えに城中の者たちの助命を乞うといったものだったのである。

 この申し出を聞いた羽柴秀吉が信長公の意向を伺ったところ、信長公からは別段の異議なしとの返答が返ってきた。そこで秀吉は同条件での降伏を認める旨を城内へ返事した。すると城内では時日を移さず三大将が腹を切り、その首が秀吉のもとへ運ばれてきたのだった。

 そして10月25日になり、鳥取に籠城していた男女は解放された。攻城の者達はあまりの不憫さに彼らへ食物をふるまったが、過半は食物を食いくだす力もなく頓死してしまう有様であった。その姿はまさに餓鬼のごとく痩せ衰え、この上ない哀れさであった。

 かくして鳥取城は落ちた。秀吉は城中の普請と清掃を指示したのち、城代として宮部継潤を入れ置いた。

 

13、攻防相睨  伯耆国南条表発向の事

 伯耆国では南条勘兵衛元続・小鴨左衛門尉元清の兄弟が織田方として居城を構えていたが、10月26日、その南条表へ吉川勢が来襲して両者を攻囲したとの急報がとどいた。

 これに対し、羽柴秀吉は「眼前に攻殺させ、市中の口難を浴びるは無念」として後詰に立つことを決め、東西両軍肉迫して一戦を遂げるべく準備を進めた。そして同日26日に先手を進発させた上、28日になってみずからも出陣したのだった。

 因幡・伯耆の国境には山中鹿之介の弟①で織田方の亀井新十郎茲矩の居城があり、秀吉はここまで参陣してきた。その先伯耆までは山間渓谷が続いて一方ならぬ節所となっていたが、秀吉はすぐさま南条表へ軍勢を展開させていった。

 伯耆では羽衣石②という城を織田方の南条元続が固め、同じく弟の元清が岩倉③という地に居城を構えていた。両名とも織田方への忠節を明らかにしていたところへ吉川元春が来襲し、両城へ差し向かって三十町ほど隔てた馬の山④という場所に布陣した、というのが今回の戦況であった。

 そのような中の10月29日、安土では佐々成政が当歳・二歳馬をはじめとする黒部産の馬十九頭を越中より引きのぼらせて進上してきた。また11月1日には関東より下野国皆川④の長沼山城守が、これも名馬三頭を進上してきた。なお根来寺の智積院玄宥は長沼山城守の伯父に当たり、今回長沼の使者に同道して安土を訪れたため、堀秀政がその取次に当たることとなった。

 長沼に対し、信長公は返書と音物を遣わした。その内容は、

 縮羅  百反
 紅    五十斤
 虎皮  五枚

以上であった。また使者をつとめた関口石見という人にも黄金一枚を与えたのだった。

 一方伯耆では羽柴秀吉が羽衣石城近くに七ヶ日間在陣し、その間国中に軍兵を走らせて兵粮を取り集めていた。そして蜂須賀小六・木下平大夫を押さえの将に任じて馬の山に差し向かわせ、羽衣石・岩倉の両城に連なって段々に軍勢を配置し、それぞれに兵粮を・弾薬を十分に備えさせていった。そうして来春にも作戦を開始する旨を申し合わせた上で、みずからは11月8日に播州姫路へと帰陣したのだった。この秀吉勢の行動の前に、吉川元春はやむなく軍を退かざるを得なかった。

①亀井氏・山中氏には親族関係があったとみられるが、亀井茲矩と山中鹿之介(鹿介)の具体的な続柄は不詳。 ②現鳥取県東郷町内 ③現倉吉市内 ④原文「蜷川」。長沼山城守は下野国長沼城主皆川広照の別称であるので、蜷川は「皆川」を指すと思われる

 

14、淡路平定  淡路嶋申付けらるるの事

 11月17日、羽柴秀吉・池田元助はそれぞれ軍勢を率いて淡路島に上陸し①、岩屋城へと攻め寄った。すると島衆は降伏を決断して城を池田元助に明け渡し、ここに淡路全島は別条なく平定されたのであった。

 かくして11月20日、羽柴秀吉は姫路へ帰陣し、池田元助も同時に軍勢を納めた。淡路の領主はこの時点では定められずに置かれた②。

 そののちの11月24日、犬山の御坊殿が安土に入り、信長公へ初の御礼を果たした。
先年武田信玄との間に和議が結ばれようとしていた折、武田氏から信長公の末子を養子に受けたいとの申し出があり、この御坊殿が甲斐へ下っていた。が、結局和談は成らずに両者は決裂し、御坊殿も甲斐より送り返されてきた③。そこで信長公はこのたび御坊殿を犬山の城主としたのであった。

 御坊殿との対面に当たり、信長公は

 一、袖    一、御腰物
 一、御鷹   一、御馬
 一、御持鑓

その他様々を取りそろえて御坊殿へ与え、また伴衆にもそれぞれ品物を下されたのだった。

①安宅清康らを攻撃 ②のち仙石秀久が知行 ③御坊(元服して織田勝長)は美濃岩村の遠山氏の養子となっていたが、武田氏の手により岩村が落ちると甲斐に送られて武田氏の養子(人質)となっていた。それがこの年になって送還されてきたもの。

 

15、運命の年へ  悪党御成敗の事

 江州永原の近在にある野路の郷に、東善寺延念という富裕の僧があった。

 12月5日のこと、近郷の蜂屋①に住む八という者が、この延念に美人局をくわだてた。若い女を仕立てて雨の日の暮れどきに寺へ駆け込ませ、しばしの雨宿りを求めさせたのである。延念は困惑したが、女はかまわず庭の端で火を焚いて当たっていた。すると後から男共が押し入り、「坊主、若き女を止め置くとは出家の身で不届きぞ。目こぼしが欲しくば、礼銭を出し候え」と難儀を吹きかけ、「はや、覚悟すべし」と詰め寄ったのだった。

 この事件に対し、代官の野々村正成・長谷川秀一の両名は八らを捕縛して糾問にかけた。そしてその結果、犯人たちは女・男ともに成敗にかけられたのであった。まったくの自滅であり、悲惨なる末路というほかなかった。

 このころ、年末には隣国遠国の大名・小名・御一門衆がこぞって安土へ馳せ集まり、信長公へ歳末の祝いとして金銀・唐物・御服・御紋織付など絢爛きわまる品々を献上するのが常となっていた。かれらは我劣らじと門前に市をなして群れ集まり、進上される重宝は数をも知れなかった。信長公へ寄せられる礼賛と崇敬はひとかたならず、その尊さは本朝に並ぶものもないほどであった。信長公の威光は、もはや計りしれないものとなっていた。

 またこの年の末には羽柴秀吉が播州より上国し、暮れの御祝儀として信長公へ小袖二百枚を進上したほか、女房衆にも多数の品物を用意してきた。その贈物の数のおびただしさは古今に聞き及ばぬほどであり、上下とも耳目を驚かせたものであった。

 この秀吉に対し、信長公は「因幡国鳥取のこと、名城・大敵をものともせず身命をかけて一国を平定せし武功、前代未聞の栄誉である」として感状を下した。秀吉の面目のほどはいうまでもなかった。12月22日、秀吉は大いに満足した信長公より褒美として名物の茶道具十二種を拝領し、播磨へと帰国していった。

 ①現滋賀県栗東町蜂屋

 

転載 (ネット情報に感謝・感涙)

 

 

 


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