城郭探訪

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織田(柴田派)VS織田(豊臣派)=織田信長の跡目争い(賤ヶ岳の合戦構図?)

2012年09月17日 | 番外編

NPO自然と歴史ロマンの会 主催

「佐々木導譽と勝楽寺城」・樽崎古墳

集合場所の多賀神社駐車場で、

参加メンバーのTシャツに、織田(柴田派)VS織田(豊臣派)=織田信長の跡目争い(賤ヶ岳の合戦構図?)

家紋

 

 

 

左:立ち葵紋

  葵紋が武家などの家紋となったのはかなり古い。『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・島田氏らが戦国時代前期ころから用いていたとある。このなかで、本多氏の場合「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」と『本多家譜』にある。このことから、本多氏の祖先が賀茂神社の神官の出であることにちなんだことが知られる。

木瓜/揚羽蝶(平氏の子孫か?)

 織田氏は各種系図によれば、平重盛の子・親実に始まるとされる。すなわち桓武平氏である。しかし、信長以前の織田氏はもちろん、信長自身も初期のころは藤原氏で通していた。足利氏に代わり天下を取ることを内外に宣言するころから平姓を名乗るようになったものである。つまり源平交代思想に規定されて、先祖を平氏の落胤に仕立て上げたものと考えられる。やはり越前織田庄に住む庄官織田氏の末裔が、守護斯波氏の被官となって成長していったものとみるのが自然であろう。

四つ目結(宇多源氏佐々木氏流)

 京極氏は近江源氏として知られる佐々木氏の一族で、戦国時代、嫡流の佐々木六角氏と並んで近江を二分する勢力があった。そもそも佐々木氏は、宇多天皇の皇子敦実親王が子の源雅信の子扶義を養子とし、扶義の子成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住して佐々木氏を称したのが始まりといわれる。
 平安末期の秀義は平治の乱に源義朝に属し、以来、源氏とのつながりを密接にした。しかし、平治の乱で源氏が没落すると、秀義は世を隠れて関東の地に雌伏し、伊豆に流された源頼朝のもとに出仕していたようだ。やがて、源頼朝が平家打倒の兵を挙げると息子たちとともに参陣、その後の源平合戦において佐々木一族は大活躍を演じた。鎌倉幕が府成立すると、各地の守護職に補されて一大勢力を築きあげたのであった。承久三年(1221)、承久の乱が起ると、惣領の広綱をはじめとした佐々木一族の多くは後鳥羽上皇方に味方して没落した。そのなかで、幕府方に付いた信綱の流れが佐々木氏の主流となったのである。

 二つ雁金(清和源氏足利氏流斯波氏族)

 柴田氏は清和源氏より出た斯波氏の一族といわれている。越後国柴田城に居城したことから柴田氏を称するようになったというが確証はない。
 そもそも柴田氏は勝家から名が知られるようになったわけで、それ以前についてはほとんど不明である。異説に勝家の父は土佐守を称していたと伝えられるが、明かではない。
 勝家は尾張国愛知郡の出身で、織田信長の弟信行に仕えていたが、のち信長に仕えるようになった。すなわち、弘治二年(1556)、織田家の老臣林佐渡守信勝とはかり、信長をたおして信行を家督にしようとして失敗し、信長にゆるされてその家臣となったのである。
 その後、信行が離反したときには、信長についてその信頼を得、各地の戦いにめざましい働きをし、信長の勢力が拡大されていくにつれて、その宿老としての立場を確固としたものにしていった。
 天正三年九月、越前平定がなると北陸支配を任され、北庄城に入った。信長の宿老として、佐々成政・佐久間盛政・前田利家といった錚々たる武将を与力として従えていた。しかし、信長が本能寺の変に倒れたとき、越後の上杉景勝に対峙していたため、兵を引き返して明智光秀と戦うことができず、時日を費やすうちに秀吉に先を越されてしまった。
 その後の織田家の家督を決める清洲会議で、秀吉と意見の対立をみ、勝家は信長の三男信孝を擁し、秀吉は信忠の子三法師を推した。

三つ巴(藤原氏秀郷流)

 近江国蒲生郡には、古代蒲生稲置がおり、相当の名族で、蒲生郡開拓の主体であったとみなされている。蒲生氏は、この蒲生稲置の後裔と考えられる。が、一般には秀郷流藤原氏、すなわち俵藤太秀郷の後裔とされている。おそらく、いつの時代にか蒲生稲置の後裔が、藤原姓を名乗るようになったのだろう。
 いずれにせよ、藤原秀郷が、はじめ近江国田原に住んで田原藤太と称し、秀郷の次男千晴より六代の子孫惟俊が蒲生郡を賜わり、蒲生太郎を称したのが始まりといわれる。その子俊賢は源頼朝に仕え、俊賢から六代の孫秀朝が、建武年中(1334-1338)足利尊氏に従って軍功があった。

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