NPO自然と歴史ロマンの会 主催 「佐々木導譽と勝楽寺城」・樽崎古墳
集合場所の多賀神社駐車場で、
参加メンバーのTシャツに、織田(柴田派)VS織田(豊臣派)=織田信長の跡目争い(賤ヶ岳の合戦構図?)
山門の瓦・本堂に見える、佐々木・京極家の「四つ目結」
佐々木導譽の勝楽寺城跡探訪 20120916
勝楽寺本堂&墓所 http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/40b8f0c49ba72cfb2aec28490f401d1e
勝楽寺城(遠景)
別 名:勝楽寺山城
所在地:犬上郡甲良町正楽寺
区 分:山城
遺 構:石垣、郭、土塁
築城期:南北期
築城者:高築豊後守
城 主:佐々木高氏(導譽)
目 標:勝楽寺
訪城日:2012.9.16
お城の概要
麓の勝楽寺は、佐々木道誉が晩年を過ごした寺で、お墓もあるが赤報隊に燃やされた歴史がある。
また石田三成に使えた横関三河守の墓も今に伝わっている。
佐々木導誉の屋敷は麓に広がり、その跡地には、御舘、舞台などの石碑が建っている。
城は、寺の裏山に高築豊後守が築いたもので、湖東平野を一望できる要地。
登城途中にお稲荷さまがあるが、謡曲『狐釣』の舞台として、お稲荷さまが祀られています。
お城の歴史
『嶋記録』には、勝楽寺城(甲良町)
今井一門連書之写シ「豊洲城、古ハヤツオ(八尾)又セイラクジ(勝楽寺)ナド(等)にもありしよし申伝候」と掲載あり。
()内は、管理人が、解釈を漢字に・・滋賀県中世城郭分布調査5「旧犬上郡・愛知郡の城」49頁
勝楽寺城は、京極道誉(佐々木道誉)が館と領地を守護するために、応安元年(1368」高築豊後守に命じて築城したものである。(高築豊後守 - 南朝時代の武士、勝楽寺城を築城したとされる。『ウィキペディア(Wikipedia)』)
この頃の江北の京極氏と江南の六角氏の国境は愛知川を境としていたが、六角定頼の代には六角氏の勢力が拡大し、国境は佐和山城、太尾山城、地頭山城辺りまで北上し、勝楽寺城も六角氏の支配下におかれた。
永禄3年(1560)野良田の戦いで六角義賢に勝利した浅井長政は、永禄6年(1563)観音寺騒動に乗じて愛知川以北を浅井領とし、勝楽寺城も浅井氏の支配下におかれた。
永禄11年(1568)には、足利義昭を奉じて上洛する織田信長によって落城し、麓の勝楽寺と共に炎上したとされ、当時勝楽寺城が六角氏の支配下であったことが窺える。
京極氏は江南・六角氏の観音寺城のように歴代城主が居城とした城はなく、太平寺城・柏原城・勝楽寺城・上平寺城・河内城と転々と居城を変る。
勝楽寺城址へ道横の石仏群
仕置き場の地蔵郡
お経塚へ・・・!お経塚で説明中の丸山講師
狐塚へ
ビューポイントです。正面に荒神山・野良田の戦い(六角軍vs京極・浅井軍)で「水攻め」
土橋の上で説明中の長谷川講師
石積(算木積)
勝楽寺跡(本丸・物見櫓)
佐々木(京極)導譽・佐々木家の墓所(勝楽寺横)佐々木道誉の墓。道誉の墓は勝楽寺のほかに、京極家の菩提寺・清滝寺徳源院(米原市清滝)にも存在する。
勝楽寺から、古社寺街道を通り古墳探訪へ
佐々木 導誉/京極 導誉
または佐々木 高氏/京極 高氏は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。導誉は法名で、諱は高氏。一般的に「佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)」や「佐々木道誉」の名で知られる。
鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれ、執権北条高時に御相供衆として仕える。後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所執事や6ヶ国の守護を兼ねた。
ばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られ、『太平記』には謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う導誉の逸話を多く記している。
参考資料:滋賀県中世城郭分布・見学会資料・現地説明板・『嶋記録』『太平記』『ウィキペディア』