お城のデータ
所在地 長浜市(東浅井郡浅井町)太田町 map: http://yahoo.jp/4E8NaA
別 称:赤田氏草野谷館(所有者:個人)
区 分:居館
築城者:江戸初期
築城者:赤田氏
遺 構:櫓台、土塁、切岸、横矢掛かり
目標地:大田バス停
駐車場:路上駐車(空地)
訪城日:2016.2.11
お城の概要
旧浅井町の東部に位置し、草野川西岸に営まれた集落で、背後には急峻な山地が迫っている。その山地から張出した微高傾斜地を整形し、住居が建ち並び、通路や切岸などで三区に区分されている
光信寺敷地や中段は切岸が発達し、下段の外縁は堀跡と思われる水路が囲繞している。下段の東面中央には両横矢のように西へ半月状に入り込んでいる。中段の北西隅には山地から南東方向に舌状高台が張出し、上部は三段に削平され、最上段の東側には山地から坂土塁が伸び、その外側は急斜面となる。この高台は櫓台で、中段が主郭、下段が外郭の砦と見ることができ、ほぼ集落と重なり「里城」のようである。
地籍図によると、高台に「西屋敷」、中段中央部に南屋敷、中段東側の一画に「中屋敷」の地名が残る。
お城の歴史
赤田氏の家伝や近江の地誌類から、赤田家はもともと犬上郡曽我村(現在の多賀町木曽)の土豪で、戦国中期に犬上郡八町(現在の豊郷町八町)に移ったと考えられています。
『嶋記録』や『山中文書』によれば、赤田氏は戦国大名浅井氏の家臣として、永禄九年(1566)の六角氏との合戦で活躍しました。
その時代の当主は信濃守「興」でしたが永禄十一年(1568)に戦死し、その子信濃守「賢」は姉川合戦で活躍しています。浅井氏滅亡後、「賢」の次男に当たる勘兵衛は、八島にあった赤田氏「出張り屋敷」(小谷城下の屋敷)から、領地があった草野田村(現在の太田町)へ移住しましたが、この家系が赤田氏庭園の所在する草野赤田氏の始祖と言われています。
庭園は西から東へと緩く傾斜する地形に随って造形され、中央に広く池を穿ち、池の西と南に築山を配しています。築山は、西側は切土による法面を利用して山並みをうねらせ、南側は盛土で築き東西の隅をとくに高くしています。家屋側から見た池は、手前が広く左奧に深く続くが、中程右手側に岬状の突出部を設け、その右奧に入江状の部分を設けるなど、構成に工夫を凝らしています。全体に石組を主体とする池泉で、池中には中島と浮石を配し、庭の南西隅より引かれた水が池右奧に滝となって落ちています。現在は庭に落とす水はこの一箇所だけですが、池の北西隅にも導水路があり、以前はここからも水を注いでいたと言われています。池の水は東南隅の築山と石垣の下を潜る水路から表門側の水路へと排水していますが、この葦葺の表門が庭園に趣を添えています。そして、池に対する母屋前には、露石敷を配し右手には手水鉢を設けています。
庭園の奧に向かって次第に広がる空間構成や、敷地が奧側で狭小な印象となることを回避し、庭園としての広がりを意識させる工夫を見ることができます。
作庭時期及び作庭者は不明ですが(小堀遠州が若い頃作庭を学んだと)、江戸初期に赤田氏が社会的に地位が高く、経済的にも裕であったこと、また、江戸初期の庭園の特徴である石組を主体とする構成で、要所に立石を配し、全体のバランスも程良く造作されていることなどから、江戸時代前期の作庭と考えられています。
名勝庭園の多くが寺院の庭であるのに対し、在家の庭として大変貴重です。
表門(南側から望む)※表門の左に見える林が庭園
庭園(家屋側(北側)から望む)※庭園の左奥に表門がある。
中段の東面切岸
赤田氏 草野谷館
下段の南部に所在する草野谷館(犬上郡八町城主赤田氏の浅井領出張屋敷)永禄~天正年間の門
MAP
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、(『広報ながはま』平成27年2月1日号より
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!