奥石神社の駐車場の一角に建っている
現地説明板
来陣屋跡は奥石神社周辺(碑文) 根来氏は鉄砲で有名な根来衆の一末裔、根来盛重が大和・近江・関東に知行所を拝領し、3450石となる。内、寛永10年(1633)の近江の知行所は699石であった。元禄11年(1698)の領地替えで知行所が近江に統合された。この時期に陣屋が設置され代官所を置いた。根来陣屋の代官は代々、坪田恒右衛門家が郷代官を勤めた。 福生寺本堂に陣屋書院を移したといわれている。
道路古図(根来陣屋が記載)
移築の根来陣屋書院(改築)の福生寺金堂
<沿革>
旗本根来家の在地代官所跡である。現地の説明板にしたがえば、根来氏は和泉国熊取谷の出で、初代盛重は元根来寺の僧であった。秀吉と根来衆との戦いの後、家康に仕え戦功をあげた。
根来家は、幕府成立後3450石の大身旗本に出世した。元禄十一年(1698)に、領地替えで近江に所領を得たことから、老蘇(おいそ)に陣屋を構えた。老蘇は中山道の立場で、江戸時代の絵図には根来陣屋が描かれている。
根来衆
概要
根来衆を構成した主な一族としては、根来寺の僧坊の一つである杉の坊を拠点とした津田監物をはじめとする津田氏や泉州熊取谷の豪士霜氏などが知られている。 門徒では織田信長を狙撃した杉谷善住坊が有名である。
小牧・長久手の戦いでは雑賀衆と共に大坂城を攻め豊臣秀吉の心胆を寒からしめた。戦後は秀吉による紀州征伐(千石堀城の戦い)が起こり、根来大善(霜盛重)を中心に抵抗した。
雑賀衆の鈴木佐大夫が藤堂高虎に謀殺されると、伊勢に逃れ、徳川家康に従い、成瀬正成を組頭とする根来組同心として内藤新宿に配置される。関ヶ原の戦いの際は正成の組下として活躍する。
根来陣屋:滋賀県近江八幡市安土町東老蘇(奥石神社) 旗本根来氏3450石