大名刻印石、山科で続々確認 毛利家と京極家
京都市山科区大塚の山中で見つかった採石場跡で新たな大名刻印石が続々と確認されている。同じ大名家の石で従来と異なった刻印があり、山中でグループ分けしていた可能性がある。石垣の専門家は、伏見城や大坂城の石垣のために時代を経て採石してきた石切り場とみている。
地元住民らによる調査グループが、毛利家を示す「一に◯」の右横に「二」の数字が刻まれた石を初めて発見した。また京極家とみられる「四つ目」の石も新たに2個見つかった。そのうち一つの刻印には四つの菱の中に「◯」が入っていた。石を搬出したとみられる谷筋では、石を割る際に入れる「矢穴」が残った石がいくつも見つかった。
新たな刻印石の発見によって、毛利家と京極家の採石範囲が特定された。現地で調査した森岡秀人・日本考古学協会理事によると、自家の採石範囲を示す刻印石で、「一に◯」の「二」は毛利家の中で4組あったうちの1グループを示しているという。新たな「四つ目」も京極家の別グループの採石範囲とみられる。
採石した時代については、古い文献に山科で石垣に自然石を使った豊臣秀吉の時代の伏見城のため採石したとの記録があり、桃山期から活用されていたことは知られていた。
さらに、矢穴の形状などから江戸期に及ぶことが分かった。1600年前後の石が残っている地帯では、関ケ原合戦後に徳川家が再建した時期の伏見城に使われたとみる。徳川家が再建した伏見城の石は23年の廃城後、淀城や徳川期の大坂城の石垣に使われた。さらに、19年ごろの採石跡もあり、徳川家が再建した大坂城にも使用された可能性が高い。
森岡理事は「徳川大坂城に使われた石切り場は六甲や九州にあるが、山科は新たな発見となる。豊臣期から徳川期に至る複雑な変遷の中で、複合的に継続して使われたのだろう。今後、淀城や大坂城の石材とのさらなる比較検討などが必要だ」と話している。