城郭探訪

yamaziro

小田城(高畠氏館) 近江国(近江八幡)

2013年06月22日 | 居城

小田城跡と推定される場所(愛宕社)

お城のデータ

所在地:近江八幡市小田町   map:http://yahoo.jp/o2nOWw

別 名:高畠氏館

区 分:居館

遺 構:堀痕

初城主:高畠氏

目標地;小田神社、北里コミセン

訪城日:2013.6.21

堀を利用した~水路へ堀痕?・・・愛宕社横は暗渠

お城の概要

 小田城は、かつては土塁と堀に囲まれていたのであろうが、現在は小田地区にある愛宕神社から南側一帯が城域で、民家に囲まれた畑地が「たかはたけ」と呼ばれ屋敷跡であったと云われている。

 小田城(高畠氏館)は小田神社から北へ約200m、愛宕山を祀ったお堂の建っている一帯だとされ、高畠氏の末裔の方の話では、堀なども残っていたようであるが、今では城郭遺構らしきものは残されていない。
 地図からお堂の建つ一帯の地形を観てみると、 お堂の建つ位置を南端として道路が約1町(約100m)四方の方形をなしている。
これが当時の地籍そのままだとすると、小田城は1町四方の方形館であった可能性がある。

歴 史
 

小田城は織田信長の側室・お鍋の方の生家ということもあって、小田町にはお鍋の方にまつわる話が残されている。(小田町に伝わるお話)

 お鍋の方は小田城主高畑源十郎の四女として生まれ、八尾城主・小倉右京亮実房に嫁ぐが、実房が越前・金ケ崎城攻めで浅井長政の離反にあった織田信長を近江から美濃へ抜ける千種越えを案内したことから、六角承禎に攻められ実房は戦死。

 この後、お鍋の方は信長の側室となるまで、遺児を抱え姉の住む小田の三崎家を仮住まいとしていた。小田町には、お鍋の方の菩提を弔った「お鍋塚」が残されている。

 また、お鍋の方にまつわる話題としては、2002年に滋賀県安土城郭調査研究所が、東近江市永源寺高野町のお鍋屋敷との伝承のある一帯を調査し、高野城ではないかとの結論を出している。

 小田町には高畠氏の子孫の方が今でも多くお住まいで、何時の頃か姓は高畠から高畑に改姓されたという。 小田城は、築城年代は定かではないが戦国時代には高畠源兵衛が居城した。 織田信長の側室お鍋の方が、高畠源兵衛の娘である。

小田神社

 織田信長と小田神社

 小田神社には現在、国の重要文化財として指定されている大変立派な楼門があります。
安土城を築いた織田信長は、たびたびこの地に訪れてこの楼門の美しさに惹かれました。そして、この楼門を安土に移そうと考えました。
当時の楼門は、お祭りの神輿を担いで楽に通過できるほどの高さがあり、大変大きく立派なものでした。
信長の話を知った当時の氏子たちは、「これはたいへん」とばかりに、どうすれば信長の怒りに触れぬようそれを中止させられるか悩みました。
そこである夜、ひそかに暗がりの中で楼門の柱を三尺(約1メートル)ばかり切り縮めたといわれます。
翌日訪れた信長は、昨日までの雄大な楼門が一夜にして縮小されている姿を見て、「これこそまさしく、神のなすところならん」と、大いに恐れてこれをあきらめたといわれています。
このため、お祭りの太鼓や神輿も今では腰をかがめて楼門をくぐって渡御しています。

近江八幡市教育委員会発行「近江八幡ふるさとの昔ばなし」より

字「たかばたけ」

 小田神社、右手が小田公民館のところで駐車し、小田公民館側に逆Vに曲がり、すぐを左折し、100mほど行った右手前方が城址です。集落の真ん中にL字の水田があります。この辺が「たかはたけ」という地名になるようです。集落の少し小高い感じのところが屋敷址との事で、左の写真の水田の向側くらいがそれで、この水田は掘跡の名残であるかも。屋敷址には「おなべの松」と「おなべ塚」が、松は枯れ、その後植栽されてます。 

お鍋塚

北里コミセンで、

 2013.6.21撮影

おなべ松

  「小田は良いとこ お鍋の方が 殿をまねいたこともある」

 今も子守唄に唄われるお鍋の方は、一代の英傑”織田信長”の愛妾であった。
小田の東北に小高い土地があって、ここがお鍋さんの屋敷跡と伝えられ、その昔はまわりに堀がめぐらされて、満々とたたえた水の上には屋形船さえ浮かび、善美を極めた邸宅からは時々弦歌のさんざめきが漏れたと言われ、英雄信長は天下統一の大事業にいたく疲労した心身をここに養って、静かな夢を幾日か結んだのであろう。
 愛妾お鍋の方として栄華な日を送る今日までにも数奇な運命があった。

 お鍋の方は、もと小倉右京亮(おぐらうきょうのすけ)の妻であった。小倉右京亮と信長とは早くから親交の間となっていたので、信長が近江に入って佐々木氏と対抗するや、佐々木承禎(ささきしょうてい)は、蒲生定秀(がもうさだひで)に命じてこれを攻めさせたので右京亮は遂に八尾城中で切腹し、甚五郎(じんごろう)、秀千代(ひでちよ)の二児は人質としてとられてしまった。
 やむなくお鍋の方は、信長に援護せられて岐阜に赴いたのであるが、やがて安土城ができあがるのに際してここに移り、信長に侍(はべ)る身となったもので、やがてお鍋の方は二男一女をあげ、返り咲く身の栄耀を羨まれたのであったが、満つれば缺(か)くる世の習い、ある日悲しい報せが小田に届いた。
それは、主の織田信長と愛児松千代(まつちよ)は本能寺の変に遭ったのである。
そうして不幸は次々に降って湧くように起こった。
 長子の甚五郎の狂死につづいて、信長との間にもうけた信高(のぶたか)、信吉(のぶよし)の兄弟は関ヶ原の一戦に石田三成(いしだみつなり)にくみして破れ、遂に領地を没収せられて浪々の身となり、いくばくもなくして信高に先立たれ信吉は高野村に蟄居(ちっきょ)する身となってしまう等、それから後のお鍋さんは惨めであった。
 寂しい後半生を京都に移り住んで、追憶の涙にかきくれながらも、信長を殺害した仇を恨み、有爲轉變(うるてんぺん)の世をはかなみながら、数奇な運命にもてあそばれ、一生を呪いつつこの世を去ってしまった。
 里人は佳人の最後をいたみ、屋敷の近くにこれを葬って塚をたて、その上には一本の松を植えてやった。
この塚の松は後に「おなべ松」と呼ばれるようになった。
ところが、殿を暗殺した仇を憎むお鍋さんの妄念は消えようとしても消えず、いつしかそれが「白い蛇」となって住んでいるそうで、この堀を掘ったり、松を切ろうとすると発熱したりしびれたりするといって、今でも里人たちは白蛇のたたり、お鍋さんの妄念を恐れている。

  樋上亮一著「伝説と秘史湖国夜話」より

おなべ松は、残念ながら松食い虫のおかげで枯れてしまい、現在ではおなべの塚のみ残っています。
上の写真がその塚とされていますが、枯れた跡には縁者の手によって植えられた背丈ほどの松がいくつも塚を護るように生えていました。

 

 

 

お鍋の方

 お鍋の方は、数多い信長の妻妾のなかで、唯一実名の判明している女性である。中世、小田には、小田城(高畠氏館)があり、高畠源兵衛が居城(佐々木家臣)し、娘2人がいた。姉は現在の三崎家に嫁し、妹のお鍋は幼少より文筆の才あり、賢い気丈高な美人であったという。嫁入りした小倉家は愛知郡小倉村を本館地とする小倉城主(佐々木家家臣)で、同族に永源寺で有名な学者小倉実證がおり、代々学識を以て佐々木家に仕えた家柄である。
 信長が近江へ進攻、浅井長政、佐々木六角との合戦時、高畠氏、小倉氏共に滅亡、お鍋の方は一時的に遺児2人を抱え小田の姉の住む三崎家に寄寓されたという。

 高畠家との血縁にあたる家には、信長が先祖に宛てた文献があり、内容は
「ご無沙汰を謝し、米百俵送って貰ったお礼、今は東征中で、近く上洛(京都)の節お出会いする
                                  四月 信長 江州、野洲郡○○○○殿」

とあり、まさしくあの有名な天下布武の刻印が押してある。この米百俵を送った理由は、お鍋の方への賄料として田地を信長が与え、その収穫米をそのご先祖が岐阜城へ送ったのではなかろうか。当時北里は信長領下であり、年貢米としては信長名では出していない。
 天正十年(1582年)六月二日 信長は本能寺で自刃、四九歳 同十五日 安土城炎上、側室お鍋の方は、ともかく囚人にならぬよう蒲生賢秀(日野城主 蒲生氏郷の父)が我が城へ迎え入れた。
 岐阜市、崇福寺は織田家の位牌所であり、お鍋の方の直筆で「違乱」を申しかけることがあってはならない旨、伝達している。その筆跡から彼女の教養の高さが十分に伺える。(参考文献 信長公記、安土日記、太閤記)
  慶長十七年六月二十五日没
  京都大徳寺中惣見院内信長の墓側に葬り、興雲院同憐宗大姉と諡す(愛知郡志)

信長の側室

鍋は、織田信長の側室の一人として有名な女性である。土豪の高畑源十郎の娘と云われているが確証はない。また、嫁ぎ先においても、八尾城(東近江市)の城主である小倉左近将監実澄とする説や高野城(東近江市)の城主である小倉右京亮実治とする説等がある。また、実治を実房とする説やおのおのの持ち城が八尾城や高野城、小倉城(東近江市)、佐久良城(日野町)と入れ替わって説明されている場合もあり諸説ある。これらは愛知郡小椋庄を領地として高野城と小倉城を居城とする東家と、神崎郡御園庄を領地として山上城を本城を構え、和南城、山田城、相谷城,九居瀬城、八尾山城等を一族の支城とする西家とが混同されているからと考えられる。いずれにしても、鍋には甚五郎と松千代(松寿)の二人の子供があったことは事実のようである。

さて、小倉氏は、永禄2年(1559)に京都から帰途につく織田信長を、八風街道越えで伊賀に抜ける手引きをしたことを理由に六角承禎の怒りを買い、殺されてしまう(和南山の合戦)。鍋は2人の子供を抱え小田(近江八幡)に住む姉の家に身を寄せたといわれている。その後、鍋は信長の側室となり、その後を岐阜で暮らすこととなった。岐阜では七男信高、八男信吉と、後に水野忠胤・佐治一成の室となる於振を生んでいる。また、先夫の子二人は信長により庇護されたが、松千代は本能寺の変で森蘭丸らと共に討ち死にした。

天正10年(1582)に本能寺の変で信長が死去した後の鍋は、信長の菩提を弔うことに尽力したといわれ、それを見た羽柴秀吉は近江愛知郡内に182石を与えた。天正11年(1583)にさらに400石が加増された。また、長男の甚五郎が加賀松任城主に任じられたという話もあるが定かではない。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦で信長との子の信吉が西軍についたため、鍋の領地も召し上げられた。しかし、その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した。墓所は信長と同じ京都の大徳寺塔頭総見院にある。

鍋の足跡を訪ねて

鍋と鍋の夫小倉氏をめぐる遺跡が近江には残されている。

八尾城の詳細は明らかではないが、佐久良城、小倉城は現地でも遺構を見ることができる。また、佐久良城の近くの曹洞宗神護山仲明寺は小倉実澄の菩提寺として有名である。特に高野城については、平成14年度に高野館遺跡で永源寺町教育委員会が団体営圃場整備に伴う事前発掘調査を実施し、16世紀末から17世紀にかけての土器類と共に石垣が発見されたことで知られている。また、近くには秀吉が没してから、隠栖した場所として「お鍋屋敷」と称される伝承地もいまに伝えているが、高野に居住した確証は得られておらず詳細は明らかではない。

また、一時を過ごした小田には「小田は良いとこ お鍋の方が 殿をまねいたこともある」と地元の子守唄(『近江八幡ふるさと昔はなし』)とともに、「お鍋さんの屋敷跡」という伝承が残されており、かつては、お鍋の弔いのために一本松が植えられ、「おなべ松」と呼ばれていた松があったという。現在、屋敷の伝承地の松は枯れ、かつて松が生えていた塚とその後に植えられた3本の松が残されている。信長を暗殺した敵を憎むお鍋の妄念は消えようとしても消えず、いつしか「白蛇」のたたりとなって、この堀を掘ったり、松を切ろうとすると発熱させたりしびれさせたりするという言い伝えも、今に伝えられている。  (滋賀県教育委員会文化財保護課 木戸雅寿)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


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