城郭探訪

yamaziro

向山砦(浅井の本陣)  近江国(米原)

2012年05月25日 | 陣城

箕浦城の戦い・・・・浅井の本陣(向山砦)

所在地:米原市顔戸町     (旧坂田群近江町顔戸) map:http://yahoo.jp/5wJZCG

区 分:陣城・砦(浅井軍)

現 状:丘(小山)、雑木林

遺 構:土塁

築城期:織豊期(元亀2年1571年)

築城者:浅井七朗井規

目標地:双葉中学校

標 高:125m 比高差:20m

訪城日:2012.5.25

砦跡(南側の土塁)・・・・箕浦河原合戦の浅井京亮政の本陣跡

北側には顔戸山砦も遠望

信長公記 巻四 元亀二年

2、藤吉郎奮戦  箕浦合戦の事

 5月6日、浅井勢が動いた。この日浅井長政は軍勢を率いて姉川まで進出し、木下藤吉郎固める横山城へ向かって陣を立て備えた。そして先手足軽大将の浅井七郎に命じ、兵五千をもって箕浦①の堀秀村居城近くまで寄せさせ、在所在所に放火してまわらせた。
 この様を見た木下藤吉郎は、横山城に十分な兵を残した上でみずから百騎余りを引き連れて密かに城を出た。そして敵方に見つからぬよう山裏を密行して箕浦へ入り、堀秀村・樋口直房と合流した。しかしそれでも総勢はわずかに五、六百に過ぎず、その人数で敵勢五千②と対峙しなければならなかった。

 木下勢は寡兵の足軽をもって敵勢に立ち向かい、下長沢③で一戦に及んだ。この戦で樋口直房配下の侍多羅尾相模守が討死したが、そのことを知った多羅尾家来の土川平左衛門という者は主人の後を追おうと敵中に突入し、見事討死を遂げた。比類なき働きであった。
 このように苦戦した木下勢であったが、敵が一揆の集まりだったこともあり、なんとか突き崩して数十人を討ち取ることに成功した。さらに木下勢は下坂④のさいかち浜でも戦い、ここでも勝って敵を八幡下坂⑤まで追い崩した。味方の敗軍のさまを見た浅井長政は、得るところなく小谷へ軍勢を返した。

 ①現滋賀県近江町箕浦 ②原文には五千ばかりの一揆と記されている。おそらくは誇張 ③同近江町内 ④現長浜市下坂浜町 ⑤現長浜市神前町八幡神社

箕浦城の戦い(Wikipedia)

1571(元亀2)年じっくり作戦を練った信長は雪解けを待ち動き出す。信長は調略による浅井軍の切り崩し。

1571(元亀2)年2月24日、前年6月下旬に包囲していた佐和山城の城主磯野員昌が降伏、包囲軍の大将であった丹羽長秀が佐和山城の城守に。
  磯野員昌はそのまま織田家の家臣となり、織田方に寝返った。 これにより小谷城の南方の主要な城が織田方の手に渡る。

この状況を打破するべく浅井氏が動き出す。
狙うは小谷城から一番近くにある秀吉(当時、木下藤吉郎)が守る横山城です。
浅井長政は、横山城近くに陣を張り、城守の秀吉を出すためか、横山城を孤立させるためか、城の南方にある鎌刃城を家臣の浅井七郎井規に攻めさる。

鎌刃城を守るのは堀秀村と樋口直房以下500足らずの兵

一方の浅井井規が率いる軍勢には一向一揆も加わり5000に膨れ上がっていた。
横山城の秀吉はこの報を受け出陣を決意するも目の前には浅井長政の本隊が陣を張っていて動けない状況。
秀吉は、城兵のほとんどを城に残し、精鋭100騎のみを率いて出陣
 (この時、城代を任されたのは竹中半兵衛重治)

秀吉は浅井勢に気づかれないよう山の裏道を進み、堀・樋口軍と合流。
それでも依然10倍近い兵力差がありましたが、浅井井規が率いる兵の多くが一揆勢で、組織もまとまっていなかった、秀吉は積極的に攻める。

箕浦の下長沢で激しい戦闘になり、戦いで樋口の家臣多羅尾相模守や土川平左衛門が討ち死に。

浅井・一揆勢は秀吉軍の猛攻の前に北方の本隊へ向け敗走。しかし、下坂のさいかち浜で体勢を立て直し反撃に出るが結局、抗しきれず八幡神社下まで押し込まれ、兵を撤収した。

横山城も浅井本隊の攻撃を受けていましたが、秀吉の留守を任されていたのは「知将・竹中半兵衛」はみごとに守りきった。

箕浦の一戦。秀吉はなぜ危険を犯してまで出陣したのか、鎌刃を居城とする堀氏はこの地域(坂田郡)の有力国衆で堀氏を見殺しにすれば織田家に従っている江南の他の諸勢力が浅井氏に寝返る可能性もあった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、Wikipedia 

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