後藤賢豊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| |
---|---|
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 永禄6年(1563年) |
別名 | 重左衛門尉 |
官位 | 但馬守 |
主君 | 六角氏 |
氏族 | 後藤氏 |
父母 | 不明 |
兄弟 | 賢豊、妹(蒲生賢秀室) |
子 | 後藤壱岐守、後藤高治 |
後藤 賢豊(ごとう かたとよ)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。
生涯
賢豊の後藤氏と進藤貞治の進藤氏は「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老であり、賢豊は智勇に優れた武将で、六角義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。
永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務める。永禄5年(1562年)、義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。
永禄6年(1563年)、義賢の子・六角義治の起こした観音寺騒動により観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。後藤氏の家督は賢豊の次男・後藤高治が継いだ。
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!