城郭探訪

yamaziro

甘呂城(甘露城) 近江国(彦根)

2014年08月19日 | 居城

河瀬大和守の碑甘呂神社の石碑の向こう側河瀬大和守の碑

お城のデータ

所在地:彦根市甘呂町 map:http://yahoo.jp/LiyM80

別 名:甘露城

現 状:集落

遺 構:城主石碑・池跡碑(甘呂神社内)、水堀痕、天九郎井戸

区 分:居館(平城)

築城期:南北期

築城者:河瀬大和守高秀

城 主:河瀬大和守高秀

廃 城:江戸期(一国一城令)

(一国一城令は慶長20年(1615)閏6月13日(1615)に江戸幕府が制定した法令である。土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令したが、法令の立案者は大御所徳川家康であった。その内容は、一国(この場合の「国」は令制国でもあり、大名の領国(後の藩)のことでもある)に大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残してその他の城はすべて廃城にするというものである。

目標地:甘呂神社・甘呂公民館、願宗寺

城 域:願宗寺の南側集落一帯

駐車場: 甘呂神社前に駐車場

訪城日:2014.8.12

お城の概要

甘露庄
 甘呂は犬上川の下流に位置し、西は野田沼に接しています。甘呂は古くは甘露とも書きました。

京都の三千院に伝わる古文書には、正中2年(1325)の西南院新御堂領の1つとして「近江国甘露庄」と記されています。西南院は高野山の別格本山西南院のこと。当時、甘呂は西南院の新御堂の荘園でした。その後、甘呂の地は梶井門跡領の荘園として維持されたようです。

▲甘呂地図が、この辺りに町屋が形成されていた可能性が考えられます。

 城 域:願宗寺の南側集落一帯(遠望)

歴 史

河瀬氏、この甘呂城の築城期は不明だが、南北朝期か。

『江州佐々木南北諸士帳』に「甘呂住佐々木随兵 河瀬大和守秀宗」と見ゆ。

河瀬氏が築城。河瀬氏は、荘園の現地管理を委だねられた荘官であった。しだいに甘呂の地を本拠に築城し武士化した。
『江州佐々木南北諸士帳』を見ると、河瀬氏の名は甘呂のほか北河瀬や多賀の地にも認めることができ、一族とあろう。

江戸時代の地誌である『淡海木間攫』には、河瀬氏・蓮台寺・大宇の3家が「犬上衆」と呼ば 浅井氏に従って姉川合戦で活躍したこと織田信長に よる小谷城総攻撃では浅井氏一族ともに討死したことなど が 記されています。 (彦根市教育委員会 文化財部文化財課)

地図を概観して最初に気づくのが、整然と碁盤の目に区画された土地です。この区画は、古代の土地区画制度である条里制地割で、1町(約109m)四方を基本単位としており、これを「坪」と称しました。坪には、それぞれ小字名が与えられていますが、小字名にはその土地の歴史を秘めたものが少なくありません。

甘呂城では、甘呂のどの辺りに城が存在したか?小字名に留意しながら甘呂集落の南端に「城畑」「城田」「城南」「城ノ西」といった小字名が集中しています。「城畑」「城田」の辺りを中心に、かつて河瀬氏ゆかりの平地城館と推測されます。

 さらに、現在の集落の中心付近は坪の地割をさらに南北に二分するように走る直線的な道路や水路が設けられ、間口を等しくする計画的な屋敷割となっています。規模はそれほど大きくありません。

集落の周囲には現存する甘呂神社のほか、「雪待寺」「善福寺」「大地庵」「光勝寺」「一町寺」「朱雀院」など社寺にちなんだ小字名が存在する。

 甘呂神社の南方に存在した細長い藪は、城を取り囲んでいた土塁の一部であり、甘呂神社の北方に現在も流れを刻む水路は、堀の役割を担っていた。
 甘呂集落の南端付近に城館を構え、その北に町屋を形成し、周囲には社寺を点在させ土塁や堀で囲った城。

 甘呂の地は、すぐ東南側を直進する下し も街道(古代の巡礼街道)が走っており、戦国時代には下街道に面して佐和山城や安土城・八幡山城など
の城が築かれ、幾多の武将が往来しました。

甘呂城も規模は小さいですが、下街道沿いの重要な位置に築かれた城。

願宗寺・・・願宗寺前を南に100m集落端に「天九郎井戸」

なお、小字「城南」の地には天九郎井戸と呼ばれる井戸が残っています。甘呂に住んだ刀工の天九郎俊と し長ゆかりの井戸と伝えています。

甘呂神社

 

甘呂神社の南側藪地・蓮池跡蓮池跡の碑

集落の西に竹藪残存、土塁痕・堀痕が確認できる。

集落の北側の水掘(犬上川~野田沼へ)、現状は灌漑水路、排水路。

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

            本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!


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