比定地旧道添い
お城のデータ
所在地:近江八幡市船木町 http://yahoo.jp/6OrhcE
区 分:平城
現 状:宅地
築城期:室町期
築城者:舟木氏
遺 構:不明
目標地:西願寺
駐車場:西願寺駐車場利用
訪城日:2016.2.18
お城の概要
- 近江八幡市の中央部に船木があり、北側に長命寺山、鶴翼山が琵琶湖と隔てています。市の名にもなった日牟礼八幡宮が鎮座、琵琶湖には大島(沖ノ島)があります。大國主命と奧津嶋比賣命を祭る 大島奥津島神社も有名な神社です。
船木町には青根天満宮が鎮座、菅公以外に訶志古泥命を祭神としています。神社名の青根の「青」に、「多」を感じます。
小船木町には諏訪神社。 加茂町には加茂神社、山城の上賀茂神社とのかかわりが深い土地柄です。
船木湊は琵琶湖東岸の要港の一、用材を積み出す湊だった。舟木:昔船の用材を集散したところからその名が出たといわれる。鍛冶屋町が隣接しています。造船も行われていたのかも。
八幡神社の多くは山城、石清水八幡宮の勢力の浸透によるもの。 近江商人産出の地。
縄文時代には湖底だった地域、旧石器遺物や丸木船が出土しています。『滋賀県の地名』によりますと、「湖東は渡来系氏族の本拠地とも言うべき地」としています。朝鮮人街道があり、小船木はこの街道沿いに集落が出来ています。
お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』に「神崎郡(蒲生郡か?) 舟木 住 佐々木末 舟木重兵衛氏信・間宮若狭守信参」と記す。
『䕃涼軒日録』に、船木陣所 明応元年10月22日条 「此日在江州舟来之陣所」と記す。
応仁の乱が始まると、六角政尭は還俗して、京極持清の招きによって東軍に加わった事から、政尭に六角宗家を奪われていた高頼は西軍につく事になり、また政信は、高頼と宗家を争った間でありながら、政尭が父の仇であると憎む気持ちから、政尭に抗して、山名党に与するという事になった。しかし、高頼と政信は、もともと宗家を争う関係であったから、やがて政信は高頼とも袂を分かって、のちには、東軍に転ずるようになっていく。明応元年10月17日 六角高頼、六角政尭と馬淵で戦う。
六角高頼討伐に従軍して近江に在陣していた明応元年(1492)3月、およそ4000人といわれる六角氏の牢人衆との愛智河原における大合戦に、元信の命で安富筑後守元家の軍に加勢として加わりながら、友軍の織田敏定・浦上則宗らがわずか7800人の軍勢で力戦するのを、なぜか山上に陣取ったまま見物していたと伝えられる逸見弾正の名がみえ(『蔭凉軒日録』同年四月朔日条)、同年9月初めには彼は草津の武田軍陣中でおこった青地某との争闘で手傷を負い、まさに討たれようとしたところを助けられたという(同 同年9月5日条、『後法興院記』同年9月8日条)。これは宗見亡きあとの逸見氏を率いた人物とみられ、おそらく三郎国清その人であろう。
『蔭涼軒日録』(いんりょうけんにちろく)(おんりょうけんにちろく)ともいう。京都相国寺鹿苑院 (ろくおんいん) 内の蔭涼軒主の日記。 61冊。季瓊真蘂 (きけいしんずい) ,益之宗箴 (えきしそうしん) ,亀泉集証 (きせんしゅうしょう) ら3代にわたる公用日記。
西願寺西願寺はヨシぶき屋根が象徴ですが、理由があると伝わります。それは、豊臣秀次公がご失脚の折、本堂が取り壊されないよう豪華な屋根瓦にせず、仮本堂という名目で(ヨシぶき屋根のまま)保存され、災難をまぬがれたと云われます。先人の知恵で現在の美しい景観が残されています。
比定地付近【宅地化で遺構消失か!
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西願寺はヨシぶき屋根が象徴ですが、理由があると伝わります。それは、豊臣秀次公がご失脚の折、本堂が取り壊されないよう豪華な屋根瓦にせず、仮本堂という名目で(ヨシぶき屋根のまま)保存され、災難をまぬがれたと云われます。先人の知恵で現在の美しい景観が残されています。
平成20年 ヨシ変えの風景
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仏さまの眉間にあるホクロのようなものは白毫(びゃくごう)と呼ばれ、慈悲を表す毛の塊(かたまり)です。通常、 白毫の部分には専用の水晶玉が用いられますが、西願寺のご本尊は、訳あって透明の数珠玉がはめ込まれています。数珠糸を通す筋を見ることができます。
本尊の白毫
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本尊・阿弥陀如来像
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お骨仏の壁画は、二十五菩薩が描かれています。これは、念仏を唱えた者は臨終において25の菩薩によりお迎えを受けるとの故事からなります。しかし、当山の菩薩さまは24名しかいらっしゃいません。この意図は、お参りをされる方が菩薩のお1人と数えるのだと云います。あなたが菩薩様の一員として、故人にお祈りを捧げてください。 |
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西願寺からみた高野山
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毘沙門天発遣(はっけん)図(刺繍)
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元文年間(江戸時代)に、この地方で疫病が大流行し、多くの住民が亡くなりまし た。当時の住職・薫譽(くんよ)上人は、地蔵菩薩から夢のお告げで、利剣名号(筆先が剣文字の南無阿弥陀仏)の軸と、寺内の木で百万遍数珠を作り、念仏を唱えよと賜りました。この功徳により、病魔を退治したという霊験あらたかな念仏具です。後に、利剣名号の周りには、黒い地蔵菩薩が浮かびあがったと云われ、現在でも見ることができます。今も病気平癒や心願成就の為、数珠繰りをする風習が残っており、天上から吊り下げられた百万遍数珠を心を込めてお回し下さい。ご祈祷も受付ています。 夢に出てこられた地蔵菩薩
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利剣名号 百万遍数珠 |
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祈祷風景
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薫譽上人
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涅槃図はお釈迦様がお亡くなりになった場面を表します。十二支にも猫がいないように、通常、涅槃図にもネコを描く風習はありません。一説によると、沙羅双樹にかかる薬をお釈迦様に渡そうとしたネズミを猫が食べてしまったからだと云われます。ネコが描かれる涅槃図は大変珍しく、西願寺涅槃図の猫は心なしか反省しているようにも見えます。 |
大涅槃図
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反省ネコ |
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薬師堂の開山は不明ですが、延寶4年(1676)正月7日に草譽(そうよ)上人によって再建されたと伝わります。廃仏毀釈で薬師堂は取り壊され、薬師三尊と十二神将は本堂に仮安置されますが、二十九世徹譽(てつよ)上人代に再々興されます。二十九世内室が往生の際、薬師堂より火の玉が飛び出し、西の方角に飛んでいったと近所の方が発見。見ると、金箔の薬師如来は黒くなり、西の方角にある樹木もその部分だけ枯れていたと伝わります。 薬師堂内から見た樹のトンネル ※現在は焦げたと云われる部分は刈り取られています。 |
薬師如来像 |
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刈り取る前の樹木(奥は薬師堂)
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刈り取り後の樹木(奥は薬師堂)
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その昔、西願寺には近江一といわれた松がありました。これは江戸時代、病魔退散の記念に薫譽上人が植えられた樹齢300年の松だったと伝わります。〔※七不思議の(5)参照〕 現在は跡地に長寿観音(ちょうじゅかんのん)が祀られ、生物の大切さを観音さまの形に変えて教えて下さっています。主に動植物の生命に関わるお仕事の方(獣医、狩猟、漁業等)や、最近ではペットの供養をされる方から厚く信仰されています。ペット供養も受付けています。
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長寿観音 |
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往年の松 |
現在の風景 |
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江戸時代、この集落のお寺が火災により消失してしまいました。寺院は再建されますが、寛文2年(1662)、 そのお寺の住職・慶良聖人が「御本尊を西願寺から迎えよ」と夢のお告げを受け、当山の檀家・和泉重藏宅を宿として渡されたと伝わります。 その仏像は、西願寺の前身・満願寺時代から伝わる聖徳太子御作の阿弥陀如来立像(御丈(みたけ)2尺4寸)で あったと記録に残っています。 西願寺は拝観寺院ではありませんが、日時が合えば応対させていただきます。ご参詣希望の場合は、必ずご一報下さい。 合掌 |
近くの八幡堀最西端部・・・舟木港はこの近くか?
八幡堀
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参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー、淡海の城、近江八幡の城、西願寺HP
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!