伏見城の採石場跡か 「甫庵太閤記」記述裏付け、山科
京都市山科区大塚葭ケ谷の山中で、豊臣秀吉が築き、徳川家康が再建した伏見城の石垣普請に使われたとみられる採石場跡が17日までに見つかった。「一に○」など記号が刻まれた大名の刻印石や採石の跡を示す石が多数残っており、京都府教育委員会や京都市が調査に乗り出す。伏見城建設時に山科の山中で石を採った記述が残る「甫庵(ほあん)太閤記」をあらためて裏付ける貴重な遺構となりそうだ。
採石場跡と刻印石は、山科区東部の標高約300メートルの山中で、住民団体「ふるさとの会」の会員中川亀造さん(81)が確認した。採石場跡には、くさびを打ち込んで石を割るため、のみで穴を列状に彫り込んだ「矢穴」の入った石が24個あった。穴の幅は8~12センチが多く、伏見城から見つかった石の矢穴と酷似している。
刻印石は、石垣普請をした大名が採石範囲や採石者を示すために記号を刻んだとされる。矢穴石の周辺で、毛利家とみられる「一に○」の石が三つ見つかった。過去に、少し離れた場所で京極家とされる「四つ目」の石二つが確認されており、採石を各大名が分担した「割普請」の様子がうかがえる。
秀吉の伝記「甫庵太閤記」には「文禄三年二月初比より、廿五万人之着到にて醍醐、山科、比叡山、雲母坂より大石を引き出す事夥(おびただ)し…」と記されていた。
城の採石場に詳しい森岡秀人・日本考古学協会理事は「石垣に自然石を使った秀吉の時代にも採石した場所だろう。矢穴の形状から、1605(慶長10)年以降に手を加えたとみられ、採石場に残っている石は徳川時代の伏見城で使われる予定だったと考えられる」と分析している。
伏見区HPより
大名岩(伏見城採石場跡)
妙見寺より東,東養護学校の南の谷を入った山の中腹に、「大名岩」といわれる巨岩二個が発見されている。急斜面に位置し、危険で近寄り難い場所であるが、高さ3メートル程の巨岩に1辺12センチメートル程の4つ目結の刻印が彫られている。
大名岩の刻印
『甫庵太閤記』(1661年)には、「文録三年初比より二十五万人の着到にて醍醐山科比叡山雲母坂より大石を引出す事夥(おびたた)し」とあり、伏見城築城時の採石場跡の1つと考えられる。