嶋左近=有能な官僚 書状2通発見、新人物像浮かぶ 滋賀・長浜
- 石田三成の重臣嶋左近の書状を調べる太田館長(左)と村井助教。左近の署名や花押が記されている=長浜城歴史博物館
戦国武将、石田三成の重臣、嶋左近の書状2通が見つかったと、東京大史料編纂(へんさん)所(東京都文京区)と長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市公園町)が1日、発表した。左近の書状が完全な形で見つかるのは初めて。検地の方法を指示するなどの内容で、同博物館などは「猛将とされる左近だが、官僚としての能力もあったことが裏付けられた」としている。
同編纂所の村井祐樹助教が昨年11月、大阪府内の民家で発見し、同博物館の太田浩司館長と調査していた。
1通は豊臣秀吉が北条氏の小田原城(神奈川県)を開城した直後の1590(天正18)年7月19日付で、縦33・6センチ、横46・5センチ。常陸国(現在の茨城県)の武将佐竹義宣の家臣小貫頼久に宛て、常陸の大名の大掾(だいじょう)氏が秀吉の命である人質の差し出しを渋ったことについて照会した内容。
もう1通は6日後の25日付で、義宣の一族に検地の方法や兵糧米の徴収などを指示する内容。縦32・7センチ、横45・2センチ。2通とも左近の実名の「清興」と花押が記されていることなどから、左近の書状と確認した。
左近は関ケ原合戦で勇猛に戦ったとされ、武闘派のイメージが色濃い。江戸期の俗謡では「三成に 過ぎたるものが二つあり 嶋の左近と 佐和山の城」ともうたわれた。
左近のものとされる書状は国立国会図書館(東京都千代田区)所蔵の断片があるが、信ぴょう性は低いとされる。2008年には左近の名前が記された三成の書状が長浜市高月町で見つかっている。
太田館長は「伝説と思われていた人物の実像に迫る発見。猛将だけでなく能吏であることが分かった」と説明。村井助教は「小田原攻め後の秀吉の東国支配について分かる貴重な資料」としている。書状は23日から8月31日まで同博物館で開く特別展で展示する。
■嶋左近 大和国(現在の奈良県)の出身とされ、1590(天正18)年の小田原攻めの際には石田三成の家臣となっていた。関ケ原合戦で西軍の武将として討ち死にしたとされる。
京都新聞【 2016年07月01日 23時30分 】