曽我城館に建つ曽我神社
所在地:滋賀県犬上郡木曽字曽我 map:http://yahoo.jp/XCjWaS
築城期:文明17~18(1484~85)年頃
築城者:曽我兵庫允師助
城 主:赤田(曾我)次郎
遺 構::曲輪、墓地、墓碑、慰霊碑
目 標:曽我神社・開蓮寺
訪城日:2014.5.27
お城の概要
曽我城は、木曽集落北側上方にある開蓮寺北西の山中にあったとされる。同じ木曽地区に所在する小林城とは東方山続きで、所在地の北側には芹川ダム湖がある。
木曽地区は旧道がすぐ山麓を走り、山と旧道の狭い場所に集落が建つ。現在は民家のすぐ裏に堤防とフェンスが建設され、フェンスを越えたところに開蓮寺が建っている。この開蓮寺は城主赤田氏の菩提寺だというが、無人化し荒廃している。
遺跡地図では山腹の急斜面が示されている。開蓮寺の東側山中に「赤田家遺蹟之碑」が建っているが、急斜面で狭い山腹のこの付近に城の施設と思える遺構は見当たらず。開蓮寺北西山中も同様に、急斜面で平削地すらないが、開蓮寺西隣・後方尾根の北の谷筋には平坦地がある。
曽我神社には曽我祐重と師助を祀る曽我神社が建てられている。
境内には曽我兵庫允の碑があり、隣接する旧永晶庵の墓地には曽我氏代々の墓石がある。
曽我氏代々の墓石
また集落内に鎮座する曽我神社付近に曽我城があったという説もあるが、こちらも非常に狭い場所である。
曽我神社の東隣の墓地には、城主曽我氏の墓が建つ。末裔がお住まいなのだ。
歴 史
曽我城は、文明17~18(1484~85)年頃に曽我兵庫允師助が久徳郷の背後の山裾に築いたものとされる。
曽我氏は恒武平氏の嫡流である平良文の曽孫・千葉介常将の子・常信が相模国足柄郡曽我郷に移り住んだことに始まる。
常信の孫・祐信の子が“曽我の仇討ち”で有名な十郎祐成、五郎時致(ときむね)兄弟である。
時致(ときむね)の孫に当たる祐重が承久の乱の際、北条義時に属して宇治川の合戦で討死にした功により、子祐盛に犬上郡久徳郷曽我の地頭職が与えられた。
応永年間(1393~1427)多賀庄に京極道誉の勢力が伸びるおよんで曽我氏は衰退し、替わって赤田信濃守高が越後から赴任して曽我城を本拠とした。
赤田家遺跡の碑
また、近隣の開蓮寺は赤田氏の菩提寺で、境内には赤田家遺跡之碑が建てられている。
この碑は讃岐丸亀藩最後の藩主・京極朗徹の孫である京極高修子爵によって書かれたとある。赤田家と京極家の繋がりは相当に深いものがあったということか。
多賀氏が勢力を拡大すると赤田氏は河瀬庄八丁村の八丁城(八町城)に移り、曽我城は廃城となった。
その後、久徳郷に城を構えたのが久徳城主・多賀二郎定高である。
応永年間(1393~1427)多賀庄に京極道誉の勢力が伸びるおよんで曽我氏は衰退し、替わって赤田信濃守高が越後から赴任して曽我城を本拠とした。
赤田氏の菩提寺「開蓮寺」の後方の山は中腹(現在は、曽我集落の墓地)まで、曽我城(曽我氏・赤田氏)の詰め城であった。か?
開蓮寺は城主赤田氏の菩提寺だというが、無人化し荒廃している。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城
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