お城のデータ
所在地:米原市柏原 (旧:坂田郡山東町柏原)
別 名:御茶屋御殿
区 分:居館(御茶屋御殿)
標 高:150m 比高:0m
現 状:公園
遺 構:井戸・城跡碑・現地説明板
築城期:江戸期元和9年(1623)
築城者:徳川幕府 二代将軍秀忠
廃 城:元禄2年(1689)
城 主:徳川幕府
駐車場:路上駐車
目標地:
訪城日:2015.5.15
お城の概要
現在も国道21号線から北へ一本道を入った所には江戸時代の柏原宿の町並みを色濃く残している。 御殿跡は小公園となっており、石碑と案内板が建てられている。
柏原御殿は旧中山道・柏原宿の町並みの南外れに位置し、現在では小公園に整備され井戸が残る。
近くには京極氏の菩提寺である清滝寺徳源院がある。また、後醍醐天皇の側近で、鎌倉幕府討伐の中心人物であった北畠具行が、京極道誉の助命嘆願にも及ばすこの地で処刑され、墓が建てられている。
現地案内板より
歴 史
柏原御殿は江戸時代の初め、将軍上洛下向(京都・江戸間の通行)の際の宿泊・休息を目的として、街道の各所に設けられた館である。
近江では、こうした御殿が柏原御殿のほかに、野洲の永原御殿、水口の水口御殿(水口城)があり、これらを「近江三大御殿」と称された。
天正16年(1588)徳川家康が上洛の際、統治の西村家で休息。以後中山道通過の際の恒例となっていたが、通過が頻繁になったため、元和9年(1623)二代将軍秀忠が殿舎を新築。以後、御殿番をおいて守備してきた。
その後、徳川幕府の勢力増大につれて将軍上洛は減少、元禄2年(1689)ついに当地御茶屋御殿は廃止された。
家康の頃から約百年の間に、記録にあるだけのものを合わせて14回使用されている。元禄4年(1691)の記録では総敷地壱町九畝余、その他御守殿跡一畝八歩とある。
勝専寺の門が御殿の門と伝えられている。(現地案内板を編集)
柏原宿の地は交通の要衝でもあったため、古くは豊臣秀吉の蔵入地、その後は徳川幕府の直轄地であったが、享保9年には大和郡山藩領となり明治に至った。
道路脇には案内板と石碑があり、その背後に御殿の井戸だけが残っている。
御殿跡は、これと云って見るべきものはないが、柏原宿は江戸時代に約500軒もの店や宿がひしめく中山道の中で大規模な宿場町であった。 旧中山道に面した通りは、宿場町の風情を今でも堪能することが出来る。
柏原宿は、柏原駅から西側の旧中山道沿いに江戸時代の面影を残す町並みが続き、歴史資料館もある。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・Wikipedia
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