○観音寺城の縄張再考
1.キーポイントその1「挟み撃ち」
平成21年度に佐和山城の史跡案内をした時のことです。4個連隊に分かれて出発したのですが、殿(しんがり)の仲川隊は、途中説明で時間を費やしている内に、前方3番隊の谷口(彦根市教委)隊を見失ってしまいました。実は、1番・2番の松下隊・上垣隊は事前に下見をしているのですが、私、仲川は下見に参加していないのです。3番隊率いる谷口氏は彦根市教育委員会の技師なので佐和山城は庭みたいなものです。地図はあれども、はたして今歩いている道で間違いないか不安にかられ、しかも時雨も加わって率いる30人ともども、どうしようという顔になりました。約45分遅れで本丸跡に着いたものの、合戦ならば確実に討ち死にしていたところです。そこで得た教訓です。城攻めの時は絶対に事前に間者(スパイ)を送り込んで、城の進入経路とか武者隠しや櫓の場所をチェックしないと、闇雲に突入すると武田晴信の「戸石くずれ」みたいなへまをやるということを身にしみて感じました。
さて、織田信長が3年がかりでやっと落とした難攻不落といわれた小谷城があります。その中心部分は本丸大広間にあたりますが、その後ろには京極丸・山王丸があり、さらに馬蹄形状に連なる尾根の対面には最高所にある大嶽や山崎丸といった単独の郭があります。実はこの馬蹄形がミソなのです。登城路の尾根道は狭く、長いため攻撃方は多人数を一気に繰り出せないためどうしても尾根道は避けます。必然的に馬蹄形の尾根に挟まれた谷から這い上がる形で攻撃せざるをえません。ところが、小谷城では、援軍の朝倉勢が馬蹄形の一画である山崎丸・大嶽に本隊を送れなかったことが発端で落城してしまいました。いわゆる挟み撃ちのセオリーができなくなったのです。信長は朝倉勢を追撃し、一乗谷を落とした、その足で小谷城を再攻撃し、秀吉が清水谷から京極丸を攻めて、久政・長政父子を分断孤立させ浅井氏を滅亡させています。朝倉追撃の時に浅井が後ろから突く、「金ヶ崎退き口」と同様の挟み撃ち攻撃を浅井がとっていれば事態が変わっていたかもしれませんが、浅井には追撃できる兵力がなかったのでしょう。
一方今回取り上げる山城では最も防御面で評価の低い観音寺城はどうでしょうか。縄張り全図を見て惑わされている方が多いと思いますが、最高所の三国間を中心に池田丸までの尾根と東はずれにある布施淡路丸・目加田丸までの尾根筋の郭を取ると馬蹄形状になり、小谷城の裏返しの形になります。女郎岩大石垣・池田丸ルートの追手道(表坂)、目加田・布施淡路丸ルートの川並道を搦め手道とみれば挟み撃ちのセオリーは踏襲しているではないですか。信長は近江侵攻の時、観音寺城に上洛に従うよう彦根の高宮から使者を送っています。再三送っていますので、使者が観音寺城の下見をしているのは間違いないでしょう。闇雲に突撃していたらどこが本城なのか分からないのが観音寺城なのです。
2.キーポイントその2「本城はどこか」
三国間周辺では、先端に延びる小尾根に石垣造りの櫓台があり、さらに先には堀切を設けています。現在三国間には伝伊庭邸・三井邸北側の大土塁から急坂を登るようになっていますが、本来はその北東側にある高石垣の斜面を上がり、先述の櫓台に続く小尾根筋に虎口らしきものがあり、ここに入るものと見られます。高石垣の北には土塁が平行して設けられ、さらに土塁の北には竪堀が設けられ、観音寺城では最大の防御施設を集約した場所となっています。三国間の西続きは伝澤田邸となっていますが、この北側は、安土山に続く尾根が延びています。伝澤田邸から尾根筋までの高低差はほぼ先述の三国間東側と同じく急坂で、その先は東西に竪堀を設けて土橋となっています。三国間・伝澤田邸の南下は伝楢崎邸・伝永原邸で、この両郭の間に虎口があります。伝楢崎邸の南面は高石垣となっています。伝楢崎邸の西側は石塁虎口になっており、さらに西側下の伝小梅(小倉)邸・伝伊藤邸両郭北側の二段石垣の武者走りと伝小梅邸北側の下段郭(無名)に連絡する虎口へ繋がる登坂路になっています。伝小梅・伝伊藤邸は北側に武者走りと石塁が着く二段になる石垣で繋がっていますが、両郭は土塁で遮断されています。伝伊藤邸は伝小梅邸より一段低く、両郭の形状は安土城の馬場平の構造と極めて似ています。伝伊藤邸の西虎口・伝小梅邸に向かう二段石垣の虎口は薬師口見付と称されている通路に繋がっています。伝伊藤邸下段の郭から本丸に降りる石段がありますが、極めて急峻で元々有った物とは思えません。薬師口見付から桑実寺に繋がる登城路に一度出てから本丸北西にある虎口に入ると考えられます。同じように三国間の東下段には伝馬淵邸がありますが、これも大土塁から幅1mほどの石段を下りて入るようになっています。この三国間を中心とした一画は他の郭から独立したもので、いわゆる石段を登る縦経路の導線は見あたらないというのが特徴です。東西南北の随所に防御施設が見られる三国間周辺が本城であるというのが概ね研究者の一致する意見です。
3.キーポイントその3「見付に惑わされるな」
観音寺城には「大見付」「閼迦坂見付」「権現見付」「裏見付」「薬師口見付」「宮津口見付」と名の付く城門があります。このうち「大見付」は城門というより郭です。また「閼迦坂見付」「権現見付」はその立地から現在の観音正寺の山門のようなもので、城の遺構ではないのではないかという見解が当調査事務所職員の一致する見解です。「薬師口見付」も連絡通路のような構造で、城門とはほど遠く、むしろ「裏見付」の方が防御性の観点からみても城門に近いとみられます。「宮津口見付」は平井丸と伝落合丸の間にある虎口では無く、それより下った所にある郭にはさまれた部分を指しています。平井丸と落合丸の間の空間には門礎石が残っているため、これを「宮津口見付」と呼ぶべきでしょう。また、本来の大手道にあたる表坂道の着く池田丸やその下にある女郎岩大石垣の虎口、あるいは布施淡路丸に着く川並口道には「見付」と名の付く城門はありません。これら尾根筋を登城路としていた時代には「見付」というような呼称は無かったと見るべきです。従って、これらの見付は近世観音正寺の四囲を画する旁示の入り口と見なすべきで、観音寺城に伴う物ではないと見なすべきです。ちなみに、池田丸と大手道の接続部ですが、虎口にしては貧相であると以前から思っていたのですが、よく観察すると両脇石塁は外へ3尺ほど出っ張った石垣が5mほどあることが分かりました。この虎口には櫓が載っていた可能性があります。
4・キーポイントその4「家臣の屋敷」
ここでは、相国寺鹿苑院主梅叔法霖の日記『日録』『日用三昧』が所収された『鹿苑日録』の中で天文8年2月9日から12日の条を見てみましょう。
天文8年2月9日の条
「圓福寺齋了。登観音寺城。午時神左之宅仁落付。晩炊。(殿原衆中へ扇十。)本膳追膳共三菜汁三。中酒了。屋形仁罷赴。霜臺。四郎殿出迎。(引合香合。引合下緒三筋。)三献晩羹。座敷霜臺・四郎殿・慈雲庵・長田刑部大輔殿。(上紅帯十。杉原。中納言殿へ帯び三筋。)酒了帰。赴大原殿。扇・杉原献之。水原仁二百銭・杉原・清心圓二貝贈。進藤清心圓三貝贈。種村三河指樽一荷・食籠恵之。」
天文8年2月10日の条
「於神左齋。馬淵源右衛門相伴慈雲・饗太。午時於屋形二階五献。雑羹・湯漬・吸物・晩羹・吸物・食籠二三有之。相伴霜臺・萠庵・梅甫・小林・慈雲・虎上司・奈良崎。五献目仁小田宗彌来。杉原□(以下欠損)御喝食。」
天文8年2月11日の条
「早天霜臺御出。恵折帋三緡也。自四郎殿杉原・綿壱也。馬淵源右衛門杉原一束。進藤美濃紙二束・小刀二。齋種々結構。有三膳。馬淵源。片岡相伴。中酒二返。齋了烏飩・吸物酒数返。了帰。深谷より徒歩而各見送也。與太郎自坂中返之。殿原衆至坂下。皆々返之。乗輿。邇保江可来云々。腹立(ママ)而持飯酒。於途中供衆仁喫之。此浜より乗舟。至坂本。初夜時分二寄宿四屋。喫飯寐。」
9日邇保圓福寺(圓満寺)で「齋」を取り、観音寺城に登城し「神左之宅」に到着しています。「神左」は「神崎左京亮」で山上の郭の一画に「神崎邸」があったことを示しています。「屋形仁罷赴、霜臺、四郎殿出迎」とあり六角定頼・義賢父子が屋形に居ることを示すものです。そのあと「大原殿」「水原」「進藤」「種村」に赴くとあるのでこれらの屋敷も山上にあったことがわかります。10日には「神左」で「齋」とあり「神崎邸」で一泊して朝の食事をして、昼には「屋形二階五献」とあり屋形は二階建ての建物がありそこで五献の饗応を受けています。
11日には帰路につき、「深谷」より「徒歩」、「坂中返」「至坂下」とあり深い谷筋を下っていることが分かります。この深い谷道は、観音寺城の数ある谷道の内、おそらく本谷にあたるものと考えられます。「坂中」とはおそらく現在の閼迦坂道分岐点あたりにある伝久保邸・宇野邸付近と思われ、「坂下」は「犬馬場」あたりでしょう。
神崎邸跡は、観音寺城の古絵図にもその位置が記されていないので分かりませんが、絵図に載っていない家臣の屋敷が他にもあったということが分かる資料です。
5.キーポイントその5「石垣が違う」
天文5年(1536)湖東三山で有名な金剛輪寺に石垣普請の技術提供を依頼したとみられる『金剛輪寺文書下倉米銭下用帳』があります。
八斗 御屋形様人所下石垣打可申之由被仰出谷十介殿方被来候上下一宿飲酒
六斗 同石垣之事に談合會衆
二斗八升 同石垣之事に三上宗左衛門殿へ樽一荷遣候了
一斗 同持行食
三升 恒例銭不成候間右に遣候時承仕酒
二斗四升 恒例銭利弁相果候間中村殿へ樽一つ
八斗 御屋形様石垣打申に付て西座より賄之事御訴訟申上之由候て谷十介方被来候上下飲酒
(中略)
一斗六升 上之御石垣之事に三上殿使者十介方賄之事西座申通被仰候て御出之時上下両度飲酒
安土城が天正4年(1576)に築城開始ですから実に40年前に観音寺城では石垣造りをしていたことになります。観音寺城の石垣の特徴は、安土城と同じく湖東流紋岩の野面積みですが、石積み職人がタブーとしている積み方が随所で見られます。筆者は「重箱積み」と称していますが、いわゆる重箱を重ねるように上下の石が縦に積み重ねられ、縦目地が通る部分が多く見受けられます。石が一つ抜けるとだるま落としのように全部崩れるという危うい積み方です。特に隅角部分においても、「算木積み」といわれる横長石を井桁状に重ねて角を造るのでは無く、重箱を重ねた形態です。これら「重箱積み」は先述の三国間周辺から本丸・平井丸・池田丸と布施淡路丸に見られ、一方、「算木積み」は後藤・進藤邸周辺で、しかもこの谷筋に展開される郭では同じ湖東流紋岩でも割石が多用されています。重箱積みが先行すると思えますが、一方で算木積みにする長方形の長い石が得られないという要因も考えられます。一応、石垣研究者の間では、算木積みの方が新しい技術であるということになっています。従って、伝後藤・進藤邸付近の石積みは天文5年よりは新しいということになります。
6.キーポイントその6「観音寺はどこにあった」
最後に今、熱く語られている山寺と山城の話をします。近江の中世城郭は天台寺院の僧坊などが利用されて発展していくというのですが、観音寺城も先行して観音正寺(当時は観音寺)があり、その僧坊を郭に改変していくという見解です。最近では栗東市の藤岡英礼氏や滋賀県文化財保護協会の伊庭功氏が、観音寺城の縄張りや古絵図から、元観音寺の場所を比定しています。藤岡・伊庭両氏とも観音寺は先述の三国間東下の伝馬淵邸隣の伝三井邸にあったとしています。その南に展開する伝進藤・後藤邸周辺を僧坊跡とし、先の相国寺鹿苑院の一行が下った本谷が観音寺の坊跡・本堂に繋がる参道であったということです。伝三井邸跡の発掘調査をしていないので確たる証拠はありません。むしろ、観音寺城の郭群をいくつかグルーピングしていくと、現在の観音正寺の東南方向にのびる小尾根に展開する郭群が城の郭からは独立しており、こちらの方が僧坊跡で、元観音寺も現在の境内地にあったとみた方が良いのではないかと思います。さらに、現在観音正寺の奥院が「権現見付」の北東にありますが、伝三井邸ですと奥院の位置関係がおかしいのではないかと思われるのです。一度麓に下ろされた観音寺が元の位置(三井邸)に戻らなかった理由を藤岡・伊庭両氏は述べていません。寺地をそうコロコロ変えるものではないと思うのですが如何でしょうか。(仲川)
資料:史跡観音寺城跡縄張図はこちら