城郭探訪

yamaziro

金剛寺城 近江国(安土)

2013年07月18日 | 居城

 金剛寺遺跡遠景

近江守護佐々木六角氏の本拠地は、小脇館・金剛寺城(金田館)・観音寺城と変遷しましたが、3ヵ所はもっとも離れた小脇館と金剛寺城でも5㎞あまりしか離れていません。

 六角氏の祖泰綱の子である頼綱は、晩年に別館を金田の館に住まいを移したことから「金田殿」と称され、その館は「金田館」と呼ばれました。その孫の氏頼が同じ金田に創建した金剛寺は金田館に近接していたか、これを元に建立した寺院と考えられます。

 仁の乱の余波で勃発した六角氏と京極氏の争いに金剛寺も巻き込まれ、文明元年(1469)の合戦で焼失しましたが、同18年(1486)には再興されます。延徳3年(1491)には第二次六角征伐で将軍足利義材の陣所をおくため、近隣諸郡から人夫を徴発して金剛寺城へと造り替えられました。

 

 『近江蒲生郡志』では文明18年に再興された金剛寺の位置を、安土町慈恩寺の浄厳院から南西へ100mあまり離れた「金剛寺」と呼ばれる畑地と推定しています。

近江八幡市金剛寺町は「こんごうじ」と読むのに対して、安土町慈恩寺の「金剛寺」は「こんごうでら」と呼ばれます。

この畑地の周囲には「北堀」「東堀」「南堀」と呼ばれる水田がめぐり、発掘調査でも15世紀末から16世紀代の堀・石積み・ピット群が見つかっており、全体像は判明しないものの城館跡に間違いありません。これが再興金剛寺だとすると、将軍が着陣したのはこちらということになります。

 

 金剛寺城跡には地名のみ、安土の金剛寺遺跡には一段高い畑地が残っているほかは寺・城の名残りは残されていません。しかし、観音寺城以前の六角氏守護所を明らかにするうえで鍵となる遺跡です。今年一月には近江八幡市により金剛寺城遺跡の一部が発掘調査され、建物跡と磚(せん)が出土して注目を集めました。

 


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