布施山城 現地見学会
日 時 2014年10月26日(日)受付9:30 見学10:00〜13:00
内 容 「布施三河守居城遺構見学会」 講 師 長谷川博美氏 (米原文化協会教養部会部長)
集合場所 滋賀県東近江市布施町 布施公園 観知溜館(みちるかん)
参加費 1000円 資料・図面付き
定 員 約20名(要申込)
主 催 城歩会
参加者受付
布施山城・新しく確認された「山麓屋敷」の登城前に、大型踏査概要図で説明
お城のデータ
現 状:森林
区 分:平山城
築城期:南北朝期
築城者:布施氏
城 主:布施三河守
標高241m 比高差130mの里山は、城郭調査委員の再踏査で堅牢な城郭であった!
遺 構:土塁・竪堀・畝状竪堀・埋め門の石、
新確認:西曲郭、山麓館(30間×7間・石垣 高さ1.5間×幅3間・庭石)
戦 い: 三雲氏(六角氏) VS 布施氏・大塚氏・(京極氏)
〇 柴田氏(織田軍) VS ● 布施氏
目標地:布施山・布施ため池・布施公園・布施公園観知瑠館
駐車場:布施公園観知瑠館駐車場
訪城日:2014.10.26
お城の概要
布施山城は、¬字状の小さな独立山系の布施山山頂に築かれた城です。城のある峰は見事な円錐形をしており、よく目立ちます。城跡へは、布施溜池西岸付近から登ることができます。登山口を入ってまもなく、立派な石祠のある大きな塚山に出くわします。城へは塚山南側を登るのですが、その道は、塚山と布施山の山裾に挟まれた堀底道のようになっています。ここに城戸などを設け、塚山に番所や櫓などを構えれば、城の第一の防衛ラインとなるように思われます。また、塚山の下を回るように堀底道が延びており、北側の布施池から流れ出る小沢へと続いています。この沢を渡って直進すると、布施氏の平時の居館があったとされる布施集落に行きつくため、こちらが大手道だったのではないかと推測されます。
塚山(古墳)を越えてからは、2014年市辺コミティセンターの里山整備で城道の解り易くなり、主城域直下の二の曲郭まで大手道主城域は、大きく主郭と副郭の2つの曲輪から成っていました。いずれも、周りを囲む土塁が残っています。主郭虎口はくぐり門の大石材が散乱しています。
かつては帆立貝式古墳で石囲いの埋門だった。虎口下に転がっている最も大きな平たい石は、その埋門の天板に使われていたもの。主郭の副郭側以外の斜面には多数の竪堀が残存。全体として、規模は大きくはないが、堅牢構造をもつ城。淡路守家の布施公雄の子公保の妻は蒲生賢秀の娘といわれ、観音寺騒動の発端となった後藤氏の居館は布施山城の西2㎞弱のところにあります。布施氏も、六角家中においてはこの両家に勝るとも劣らない勢力をもっていた。
歴 史
六角家臣布施氏の居城とされる。布施氏の出自は詳らかでないが、戦国期には三河守家と淡路守家の2家に分かれ、前者は布施山城を、後者は大森城を居城としていたとされる。布施の地を領していた三河守家が本家で、布施氏の勢力拡大とともに淡路守家が分かれたものと推測されている。
永禄六年(1563)、後藤賢豊・壱岐守父子が観音寺城内で主君六角義治に殺害されると、家臣の間で六角氏に対する不満が噴出し、六角義賢・義治父子は観音寺城を追われた。
布施淡路守公雄も浅井氏と通じ、布施山城に籠城した。布施山城主である布施三河守も同調した。布施山城は三雲賢持らに攻められたが、 六角父子は蒲生定秀・賢秀父子の調停により観音寺城へ復帰することができたが、代償として六角氏の権限を大きく制限する「六角氏式目」が制定された。
永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の軍を興すと、三河守は布施山城に籠城したとされる。観音寺城や長光寺城が落城と、く布施山城も攻め落とされた。
三河守は、『信長公記』に六角家の「真鳥羽根付き節無しの矢軸」という名宝を探し出して信長に献上したとする記述があることから、落城後は織田家に仕えた。布施山城は、落城によって廃城となった。
永禄6年(1563年)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺された。
世にいう観音寺騒動である。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になった。同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破した。殿(しんがり)を守らせた赤尾清綱は、わずか500の兵で見事な働きを見せた。
新しく確認された「山麓館」へ
今回は布施山城の、新しく確認された「石垣」&「山麓館」を先に見学。
登山道を入り、すぐに左に道を進むと、苔の覆われた石垣があり、幅3間×高さ1.5間。その上は平内屋敷。石垣は、自然石を積み重ねたようで、布施山城が作事当時のもの。石垣の下には、水吐け溝もあり。
新規に、宮本女史(城郭探訪家)に発見された石垣(踏査補助)新発見の石垣前一枚!
そこから更に左へ行くと、石が幾つも転がった平坦なところがあります。長谷川講師の話では、「山麓居館」では!
そして、その石は庭石でと推測されてます。
「信長、秀吉、光秀」とも交流のあった連歌師:里村紹巴の文献資料『紹巴富士見道記』に永禄10年2月19日「布施山の城の麓にて」と書かれていると。
その場所が「山麓館」の可能性あり、450年もの昔、布施出羽守が有名な歌人と布施の池を眺めながら、楽しんだ山麓館。
石垣と布施の池が、布施出羽守の栄華を知っている!
ルート図:「近江ノ国_米ちゃん」の拝借
http://84630803.at.webry.info/201410/article_12.html
【近江にをかしき歌枕 老曾 轟 蒲生野布施の池・・・新羅が建てたり持仏堂の金柱宮】map:http://yahoo.jp/llZyIf
小脇山城の直下の山麓の「金柱宮跡説明板」map:http://yahoo.jp/llZyIf
山麓館へ
城守も山麓館をしっかり監視!
山麓館の庭石
安井平内屋敷(最初の削平地)
近世の西山麓の砂防石垣近世の砂防石垣二ノ曲郭大手虎口主郭へ主郭の西側土塁主郭で「曲郭の基壇」をしゃがんで確認
主郭南側土塁と南虎口
南虎口には、蔀池(敵が城へ入ってきたの落とし穴)がある。
二等三角点から、講師の再踏査確認された「西曲郭」へ講師の再踏査で、確認された「西曲郭尾根(土橋状)の左右に大きな竪堀、東側の竪堀は厳しく。
主郭の搦め手下の畝状竪堀へ
二の曲郭へ戻り、虎口から下山していきました。
下城途中には、道からはずれて竪堀を確認。又、幾つもの曲郭あり、多くの家臣(城守)たちの屋敷跡カ?
ノミ跡の残る、大手道の最初大石。に下城!
登城口の城守様のお邪魔・下山の拝礼して・・・
観知瑠館で記念撮影
右端が踏査補助・城郭探訪家宮本女史。
その後、昼食・・・午後の講座へ
布施山城見学会と講座風景。
本日の感想
講師長谷川氏の城郭見学は、自ら踏査をしているから、城郭内を登ったり、下ったり!
参加者:20を越える見学会に参加しての変化。参加者は資料と現地の確認・撮影に夢中、見て学ぶ!
本日の歩行距離 4.0km 歩数 5338歩 実歩行時間 1:08
消費カロリー 17.7kcal 脂肪燃焼量 2.5g
本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝