お城のデータ
現 状:神社・宅地
区 分:平城
築城期:南北朝期:文明17~18年(1484~1486)
築城者:久徳氏
城 主:久徳次郎定高(二郎定高)
城 域:200m×300m
遺 構:空堀・石碑
戦 い:●久徳氏(六角氏) VS ○磯野氏・高宮氏(京極氏)
駐車場:路上駐車
訪城日:2014.9.8
お城の概要
久徳地区の氏神市杵島姫神社の境内と南側の遊園地一帯が久徳城址で、遊園地東側には土塁が現存する。
また、市杵島姫神社周囲には幅5m、深さ1m~2mの空堀が残存する。
久徳城の大手門は現在の市杵島姫神社の入り口とは違い、南側に位置していたという。大手門から南の延びた大手道の先の芹川には大手橋が掛かり、この芹川が外堀の役目を果たしていたと考えられている。
久徳城の搦手側(北)、住宅の中に久徳氏代々の墓石が建てられている。この地は久徳氏の菩提所赤田山霊山寺のあった場所で、幾つかの墓石があるが、中央の高さ2mほどの墓石がそれだという。
歴 史
久徳城は多賀神社の神官である多賀氏の一族、多賀豊後守高忠の弟・多賀二郎定高によって文明17~18(1484~85)年頃に築かれたとされる。
久徳氏は天文年間には京極氏、浅井氏に従っていたが、後に六角義賢に従い、永禄2年(1559)六角軍と共に高宮城を攻めた。
翌、永禄3年(1560)3月、久徳城は佐和山城の磯野丹波守員昌や高宮城の高宮三河守頼勝を率いる浅井長政の攻撃を受けて落城し、久徳左近太夫実時以下、200余名は悉く戦死した。
この後、犬上郡一帯は浅井氏の領域となり、佐和山城主・磯野員昌の支配下に入り、六角氏の勢力は愛知川以南へと後退を余儀なくされた。
久徳氏の居城久徳城は、京極氏と六角氏の境目に位置し、その去就は困難を極めた。実時は娘を高宮城主の高宮氏、敏満寺の坊官新谷氏、多賀大社の神官犬上氏に嫁がせ、勢力の安泰を図っていた。
京極氏の内紛によって北近江は混乱を続け、そのようななかから浅井亮政が台頭、ついには京極氏をしのぐ存在に成長した。浅井氏の勢力拡大を苦々しく思う六角氏は、北近江に兵を進め、浅井氏を追い詰めたが息の根を止めるまでには至らなかった。亮政のあとを継いだ浅井久政は六角氏に従ったが、久政の嫡男長政は六角氏への対立姿勢を見せた。浅井長政の奮戦によって六角氏はおされ気味となり、久徳実時は母を人質に出して浅井氏に属した。巻き返しを狙う六角義賢(承禎)は久徳氏、高宮氏、新庄氏らに調略の手を伸ばし、実時は六角氏に転じたのである。
実時が六角氏に通じたことを知った高宮氏は、ただちに浅井氏にその旨を報じた。長政は実時の母を処刑すると、新庄・磯野氏らに命じて久徳城を攻撃した。久徳城は六角氏の援軍を待つ間に、多勢に無勢、久徳城は城主左近太夫はじめ城兵ことごとく討死して落城した。
その後、久徳一族は六角氏の庇護を受けたが、永禄十一年(1568)、織田信長の上洛に抵抗して六角氏が没落すると、織田氏に属するようになった。元亀元年(1757)、浅井長政が織田信長と対立するようになり、姉川の合戦が起ると宗重・宗頼・郷時・秀政ら実時の弟たちは織田方として浅井勢と戦った。宗重の活躍は素晴らしかったようで、信長から三千石の黒印状を賜っている。こうして、久徳氏は久徳城に復帰したようで、翌元亀二年、浅井氏の命を受けた高宮三河守の攻撃を撃退している。
近世に生きる
浅井氏が滅亡したのちは、豊臣氏に仕えたようで、三千石の黒印状を賜っている。しかし、関が原の合戦に際して西軍に加担したことから、所領を没収され没落の憂き目となった。かくして、久徳一族は四散したが、大名に仕えて武家として久徳氏、帰農して大百姓として続いた久徳氏など、文字通り人生いろいろとなった。現在、久徳の集落に久徳城址が残り、市杵島姫神社の境内として過ぎし昔を偲ばせている。
【参考資料:多賀町史/久徳九代記/湖国と文化・第52号 ほか】
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、 日本城郭大系、
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