城郭探訪

yamaziro

九居瀬城 近江国(神崎郡・永源寺)

2014年05月06日 | 平山城

 九居瀬城二の郭(最頂部487m)で訪城記念撮影

別名 久居瀬城

所在地:東近江市永源寺九居瀬町 map:http://yahoo.jp/9Cc_E6
   旧:神崎郡永源寺町

目標地点:永源寺ダム

形式:山城  

標 高:487m 比高差:200m 

現 状:山林

遺 構:郭・石垣・堀切・竪堀

築城期:室町期

築城者:小倉氏

永源寺ダム公園の観音像から主郭:30分

訪城日:2014.5.4

 

南西…出丸・副郭北東峰…主郭滋賀県中世城郭調査より

白の観音像・・・上に主郭部(487m)下流部(発電所)永源寺ダム・・・遠望に「日本コバ」

観音像の後のハキングコースを登ります(ジクザグ急坂)

 炭窯のようですが、石積の立派なここから50m登ると南北の尾根に至ります。北尾根に!…ここから城域です

南へ…北郭の出丸へ

北の出丸この出丸から八風街道・ダム湖、対岸の鈴鹿の山々が一望。

出丸の石垣跡

戻り更に頂部へ

北郭

北に登ります西側の土塁471m北尾根頂部=見張り櫓カこの手前を⇒右へ少し下る!左にダム湖の上流部

郭の石垣

主郭手前の石垣

石垣と確認できる石垣と確認できる

主要部は尾根を右手方向に少し下り、比高50mほど登ると城跡です。尾根を左に行くとすぐに支尾根があり、ここは出丸的な存在であったようです。さらに尾根を下りて行くと鉄塔が立っていますが、この鞍部も堀切の遺構かもね。さて、主要部ですが、最後の登りを登りきると大石が散乱しています。斜面には僅かですが石垣も残存していて驚きです。

二の丸の石垣この先は東側尾根は、さらに大きな石垣が散見、郭跡。

三角点487m訪城記念撮影

 二の郭まで登る道も崩落はしていますが、なんとなく石段のような感じです。主要部は二の郭と主郭があり、南側に腰郭が三日月状にあり、さらに、南斜面に2段ほどの段郭があります。この南側にも大石が散乱していて、主郭・二の郭の斜面は石垣が巡っていたと想像します。二の郭と主郭、主郭と東側尾根に浅い堀切があり。

この城、出丸と合わせて馬蹄形の城郭と言えなくはないですが、土塁は殆どなく、主郭・二の郭も、詰め城・監視の城。石垣は孕みと500年をへて、相当に崩壊してます。石垣と確認できる物も。

 

下山です北峰頂部より、永源寺ダム・日本コバ

北峰の尾根坂でダム湖碑と日本コバ

第岸の相谷城・・・(遠望、ダムより)

歴 史
小倉城に発した小倉氏の系統です。小倉氏は室町中期に分裂し、南家は小倉氏中興の祖である小倉実澄が有名で、宗家として佐久良城を本拠としました。東家が小倉城にあり、西家が山上城を本拠とし、和南城、九居瀬城などを支城として築きました。西家は小倉実治、小倉左近大夫という名が史料にあるようです。戦国期に入り、小倉氏一族は宗家を中心とした連合的形から各家が対立していったようです。永禄七年(1564年)頃、左近大夫が兵を挙げ、小倉一族が内紛となり、小倉城十七代の良秀が破れ離散し、宗家が乱を鎮圧したものの小倉氏は急速に力を失ったようで、この頃に九居瀬城も廃城になったと思われます。

 識盧の滝 小倉実澄の塔小倉実澄の供養塔

この格調高い名を持つ滝は、文武両道にすぐれた武将小倉実澄が建てた庵にその名が由来。実澄は、応仁の乱によって荒れ果てた京都の相国寺の学僧をむかえ、永源寺の地に庵を設けた。その庵の名前が「識盧庵」であり、近くに落ちる滝を識盧の滝と名付けたそう。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 


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